18 魔術師
◆・◆・◆
「うーん、もう半分の自分を見るっていうのも興味深い話だなあ」
翌朝、ヴェイドさんが考えこむ姿を見て、わたしはほっとしていた。ひと晩眠る間に、ぼんやり状態から少しは回復したようだ。
でも教会で墓石をずらした後のことは、全然覚えていないらしい。
彼は自分がなにを言ったかも、そしてうっかり泣いてしまったということも忘れている。まあ、忘れて良かったのかもしれない。下手に覚えていられたら、わたしが気まずい思いをしたもの。
わたしはベッドから起き上がる彼を見ながら、「確かそういう魔物も居たわね」と、昔読んだ本を思い出した。確か“彷徨う影”という魔物だったと言ってみると、ヴェイドさんは微妙な顔つきになる。
「ぼくは魔物かい」
「たいして違わないじゃん」
リュカがあきれた顔で、ヴェイドさんのすぐ脇からつぶやいた。彼も昨日、セザールさんの屋敷に泊まったのだ。
わたしは、じとっとした目で見つめあう彼らを眺めながら、「それで」と切りだした。
「今日は例の教会に戻ってみようと思うの。もしかしたら、その場でもとに戻せるかもしれないから、ヴェイドさんも一緒に来てね。ふたりとも……それでいい?」
反対の声はあがらなかった。
そのためにひと晩待ったのだから、当然である。
ヴェイドさんのほうも、自分が“たぶん半分にされている”という事実はひどく衝撃的なことだったのか、何も言わなかった。
朝と言っても、まだ早朝とも呼べる時刻だった。
藍色に白んだ空にかすかに瞬く星が見え、吸い込む息もとても冷えている。辺りにはうっすらと霧が立ちこめており、シャメルディのほとんどを占める山々も、いまは見ることができなかった。
歩くわたし達の足もとを、薄い影が三つ並んでのびていく。
ゆるい風を頬に感じながら、わたしは隣のヴェイドさんが「しかし……」と、小さくつぶやくのを聞いた。
「まさか両手に子どもとは」
そう言った彼は、とても打ちひしがれた様子だった。
両手に子ども。
その言い方には腹が立つが、まあ間違っているわけでもない。ヴェイドさんは今現在、わたしとリュカにしっかりと手を繋がれながら歩いていたのだから。
「仕方がないじゃん」と、リュカもまた嫌そうな顔で言った。「今のあんた魔力がからっぽなんだから」
実を言うと昨日の夜からこうだった。
手を繋ぐことで、わたしとヴェイドさんは魔力を分け与えることができる。その底上げになるかもと思い、リュカにもそうするように頼んで今に至る。その甲斐あってか、こうして普通の会話ができるぐらいには元気になった魔術師だった。
でも、両脇をかためられて歩くヴェイドさんは、少しだけ歩きにくそうにしていた。
「こりゃ師匠が見たら爆笑だね」
わりと当事者だと思うのに、リュカはまるで他人事のように言った。師匠、という彼の言葉にヴェイドさんは露骨に嫌な顔になる。
「もしかしてヴェイドさんのこと、リフレイアさんに知らせたの?」と、彼に訊いたのはわたしだった。
「当然知らせたに決まってるでしょ。ヴェイドが二人だなんて、俺の手に負えるわけないじゃないの」
「ああ、そうだとも……」
弱々しい声で、ヴェイドさんが言った。
その様子を見て、やっぱり彼は変だと、わたしは既に十数回目になりそうなことを思った。ここまであっさり受け入れられると、少し気持ちが悪い。
確かに魂がふたつになっているだなんて、わたしやリュカの手には負えないことだけれど……。言葉少なに歩くなか、わたしはとうとう我慢できなくなってつぶやいた。
「ヴェイドさんが静かなのって、なんだか不安ね」
「ぼくはきみと違うからね」
ヴェイドさんはそう嫌そうに言ったかと思うと、黙りこんだ。そっと彼の顔を見あげてみると、彼はなんだかばつの悪い顔をしていた。
「ごめん、そんなつもりじゃなかったんだ」
「えっと、べつに良いのよ」
わたしは首をかしげてみせた。
失言だったと思ったのだろう。ヴェイドさんは小さくかぶりを振った。
半精霊のわたしは、過去に魂を分断されても平気な顔で動いていた。彼はそのことを言ったのだと思うが、そんなこと全然気にしてないのに。
そんなことよりも、もっと気になることがわたしにはあった。
「あなた、こんなに感情豊かだったかしら」
うっかり失言をするだなんて、ヴェイドさんにしてはめずらしいことだった。それにとっても感情が分かりやすい。
そこまで考えて、わたしは彼が変な理由に思いあたった。彼はあっさり事実を受け入れているんじゃない。衝撃で頭がまっしろになっているだけなのだ。
要するに、今の彼はとっても落ち込んでいるのだった。
わたしが困った顔をしていると、ヴェイドさんがわたしを見た。その表情が、いつもよりずっと人間味を帯びて感じられるのは気のせいなの?
「たぶん、フィオナが一緒に居た“もう半分のぼく”というのは、魔術師のほうなんだ」
ヴェイドさんが言った。
「こんなに感覚がすっきりしているのは久しぶりだ」
すっきりという言葉とは裏腹に、ヴェイドさんはますます憂鬱そうだった。
彼の言葉から察するに、いまの彼はほぼ人間なのだろう。魔王の血を受ける前の、まだ人間だったときのヴェイド・フロディス。
「感覚がすっきりしているっていうのは?」
「言うなれば熱いスープ皿を持った状態から、直接その中身に手を突っこんだという状態だ。外界を隔てる壁がとれたって言ったほうがいいかな」
わたしの質問に、彼はそう答えた。
先日から魔術が使えないと言っていたヴェイドさんだが、やはり普通の人間とは違う感覚を持っていたようだ。以前の彼が人形のようだったという理由も、彼の話を聞いてなんとなく腑に落ちた。前の彼は周りを感じとる感覚が鈍かったのだろう。
「じゃあ、教会に置いてきたほうのヴェイドさんは、今ごろどうなっているのかしら」
まさか魔王になっていたりしないわよね?
もしかすると人間の気持ちを失くして、以前の彼のように冷淡な人になっているかもしれない。そうだとすれば、これ以上になく面倒なことになりそうな予感がした。
わたしの言葉に、ヴェイドさんは「知るものか」と、やけっぱちに言った。
「まったく最近ろくなことがない。人が生きるか死ぬかの瀬戸際だっていうのに、なんで体を真っ二つにされないといけないんだ?」
「そこでなんで、わたしを見るのよ。あなた、わたしのせいだって言いたいわけ?」
「べつに」
彼はなんだか苛々していた。いつもはもっと理性を持ちつつ怒る彼だったが、こうして八つ当たり気味にされるのはあまり無い。やはり彼は今、人間だけの体なのだ。そう思うと、なんだか不思議な気分だった。
「あんたら、痴話げんかは余所でやってよね」
犬も喰わないし、とリュカが迷惑そうに言ったものだから、わたしはしぶしぶ引きさがった。
「……ヴェイドさん、あなた教会墓地でのこと忘れてたんじゃなかったの?」
彼と言い争いを続ける代わりに、わたしはヴェイドさんにそう訊ねた。昨日わたしが、教会墓地にあった精霊界と人間界のほころびの場所に近づいてしまったことを、彼は覚えているような口ぶりだった。
案の定、ヴェイドさんは「だんだん思い出してきたんだ」と言う。
これは大変まずい事態。彼がどういうつもりで『愛している』とわたしに言ったのか、とても気になるところだったが、この“手を繋がなければいけない”状態で思い出してもらうのは、非情に困る。
「む、むりに思い出さなくてもいいのよ?」
ややうわずった声で返すと、彼は不思議そうにわたしを見た。
「どうして?」
「どうしてって、どうしてもよ」
「意味が分からない」
ヴェイドさんは不機嫌そうに言った。
「ぼくがこうなった原因を突き止めるには、そこを思い出すのが一番重要だろう? フィオナ、きみいったい何を隠してるんだい」
なにも隠してないわよ。変なこと言ったのはあなたのほうじゃない!
思わず反論しかけたわたしだったが、ぐっと堪えて「あなた精霊界で、後ろからのびてきた変な手に捕まったのよ」と言うことに成功した。
「たぶんそのときに、あなたの魔術師のほうの魂が取られちゃったんだわ」
「まあ、それ以外に考えられないし」
魔術師と手を繋ぎながら、リュカは退屈そうに言った。
見通しのいい丘をくだり、いまはミニャールの裏路地を抜けている。もうじき昨日の教会にたどり着くが、なんだかわたしは足取りが重かった。どう転んでも、大変なことになりそうなのは目に見えていたからだ。
わたし達ふたりの言葉を聞いて、ヴェイドさんはまた考えこんでいるようだった。そしてしばらくの間を置いて、彼は口を開いた。
「なるほど分かったよ。最初からそれがやつらの目的だったんだろう」
魔術師の魂を奪うことが?
「どういうこと?」と、わたしは首をかしげた。
「それが分かったら苦労はしない」ヴェイドさんが言い返した。
「でもぼくの魔力はぴかいちだからね。シェリ・カルートでも一、二を争うぐらいの実力だ。その力を欲しがったとしてもおかしくはない」
「あなたずいぶんと自信家なのね」
半ばあきれながら言うと、「魔王とほぼ一緒だからね」とヴェイドさんは寂しげに小さく言った。
「もともとのぼくが、そこまでの実力だとは言ってないだろう? 人間だったときは、普通よりちょっと魔力が強いぐらいの魔術師だった」
黒い髪をしていた頃の、ただの青年だったヴェイドさん。
そして二七歳のときに、魔王の血を受けたわけね。
でもそのとき何があったのかと、今ここで聞く気には到底なれなかった。
すぐ隣にリュカが居たこともあったし、これ以上、どうやら落ちこんでいるらしいヴェイドさんを追い詰めるのは、なんだか悪い気がした。
◆・◆・◆
教会に仕える修道女の朝は早いと聞く。彼女たちは夜明け前に起きだして、自分たちが信仰する神に祈りをささげるのだという。
だからわたしは、朝になるまでじれじれと待たずに、こうして早々と教会を訪れたのだった。
だが、いざ教会を目の前にして、わたしは二の足を踏んでいた。
「ねえ、なんて言ったらいいんだろう。変に思われないかしら」
もう半分のヴェイドさんを迎えに来ただなんて言って。
教会堂の扉を前に、わたしは少し途方に暮れながらリュカとヴェイドさんを振りかえった。リュカは「どうでもいいじゃん。いっそ双子なんだって言えば」と適当なことを言う。
ヴェイドさんのほうはというと、何かに気をとられるように、教会のひとつの窓のほうへと目を向けていた。
「なにか気になるの?」
「うーん」ヴェイドさんは低くうなった。「あっちにぼくの体があるな」
「まさか本当にあったんだ」と、リュカがうんざりした顔で言った。
ここに来てまだそんなこと言っていたの、と逆にあきれたわたしだったが、彼はいちおう信じようと頑張ってくれていたようだった。
「だって、こんなめちゃくちゃなのが、二人も居たら困るじゃん」
「悪かったね、めちゃくちゃで」
気分を害した様子のヴェイドさんだったが、リュカの言い分も分からなくもなかったわたしは、黙っていた。
「……まあ早いところ、もう半分を取り戻しましょ」
そう言って、わたしは扉を叩くためにヴェイドさんから手を離した。
だが、それがいけなかったらしい。ヴェイドさんは「あっ」と目を見開いたかと思うと、がくりと膝をついてしまった。
「ど、どうしたのヴェイドさん」
「こら、きみが手を離したらダメに決まってるじゃないか。どう考えても、リュカよりきみのほうが魔力が多いんだから」
「ああ、まあ俺ほとんど魔力を提供してないしね」
リュカとヴェイドさんとでは魔力の属性傾向が違うため、そもそもの魔力伝導率が低いようだ。その証拠に、リュカもまた手を離してみるが、ヴェイドさんの体にはあまり変化はみられない。
まったく仕方がない魔術師だった。わたしはひとつ息をつくと、うらめし気にこちらを見る魔術師にそっと手をのばす。
でも、手をつかむことはできなかった。
「あれ?」
くうを切った手に、わたしが思わず声をあげる。手をのばした矢先に、ヴェイドさんが後ずさったのだ。
いや、後ずさったのではなかった。
ヴェイドさんは誰かに体を引っ張られたのだ。そして、
「――まさか、もう半分がのこのこやって来るとはな」
冷たい声音に、わたしはびくりと体を揺らした。
その体に感じたのは、かすかに冷たく腐敗したような魔力の気配。さあっと、体から血の気が引く音を聞いた。
どうして、あいつがこんなところに?
目をみひらいて見たその先には、よく見知った、二度と見たくないと思っていた漆黒の男。
――あの男の屋敷に、魔術師が居たの。
思い出したくない記憶が、押し寄せる波のように蘇る。
わたしを実験体として扱った、残虐な男。わたしの顔を見て、黒いローブの向こうで男は口の端をつりあげる。
「お久しぶりですね、フィオナ」
「黒の魔術師……」
わたしの声は、か細くふるえた。
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