16 闇はすぐ傍
『ティシェ』
あのお墓の名前と一緒だわ。
わたしはふいに寒気を感じて、ぎゅっと自分の腕を抱きしめた。
不思議なことに、この教会に住んでいるという彼女の名前は、ヴェイドさんが調べていたお墓に刻まれた名前と同じだった。
もしかして彼女は死人なの?
そこまで考えて、まさかね、とわたしはかぶりを振った。ティシェなんて名前、このリスタシアではめずらしいわけじゃない。それにお墓にあった文字は名前じゃなくて姓かもしれない。
考えすぎよ。
精霊界から戻ったばかりだから、きっと気持ちが混乱しているのだ。ヴェイドさんが、墓荒らしの犯人が死人使いだなんて言うから……。わたしは丸椅子に座ったまま、寝台に横たえられた魔術師をそっと見やった。青紫の瞳はいまは閉じられ、穏やかな寝息をたてて眠っている。
教会堂のなかの使っていない部屋だと案内された場所は、木目ばりの素朴な造りの部屋だった。目につくものといえば、木製の寝台と、椅子と、テーブル。
さすがにセザールさんの屋敷のようにはいかないが、手ごろな大きさのこの部屋は、以前わたしが暮らしていた家とよく似ている。
そういえばもう長い間、あの家に足を踏み入れていないと思った。
いまはもう消えてしまった母親と暮らしていたあの家には、高価なものはなかったが、長く大切に使ってきたものがたくさん置いてある。言うなれば、母親の形見が。
どうして今まで忘れていたんだろうと、ここにきて逆に驚いたが、それはヴェイドさんが思い出させないようにしてくれていたのだとすぐに気づいた。
「結構、気を使ってくれてたのかしら」
屋敷の掃除や家事を押し付けられたとばかり思っていたけど。
小さくつぶやいたわたしの声は、辺りの静寂に溶けこんだ。窓のそとを見れば、空のはじが青味を帯びて、もうじき陽が傾こうとしている。
あのとき精霊界から戻ってきて、もしかして何日も経ってしまったのでは? と、心配したものだったが、実のところ数時間しか経っていないようだった。
ただ、墓地のどこにもセザールさんが居なかったから、きっと屋敷で心配して待っていることだろう。でもヴェイドさんを置いていく気にはなれなくて、わたしは身動きが取れないのだった。
「お連れさん、まだ目覚めそうにない?」
声に振りかえると、開けられた扉の前でティシェさんが立っていた。両手に水瓶とコップを持っている。わたしは彼女からそれを受け取ると、テーブルの上へと置いた。
「全然だわ。いったいどうしちゃったのかしら」
「持病持ちだったの?」
ティシェさんが首をかたむける。
「どうかしら」
彼の特殊な体質が、病気と言っていいのかもわからない。ヴェイドさんの体には、普通の人と違って魔力をためこむ器がないのだと聞いたのは、つい先日のことだ。時の石の作用が弱まって、徐々に彼の体から魔力が抜けてきているのだと聞いていたが……精霊界の空気が、彼の体になんらかの作用をもたらしたのだろうか。
しかし魔力の器がないということは、作られた魔力はどこにいくのかしら?
わたしはヴェイドさんの胸のあたりを見つめながら、考えこんだ。規則的に呼吸をくりかえす肺の、その奥に隠れた彼の心臓。
人は、大気中の魔元素から魔力をつくり、生命力として糧にする。その魔力は心臓で作られ、そして血脈にそって全身をめぐるのだと魔術書に書いてあった。そして生命活動に余る分は、器と呼ばれる場所におさまるのだと。
でもそう考えると、“器がない”と言ったヴェイドさんの魔力は、いったいどこに消えるのだろう。考えてみれば不思議な話だった。以前は左耳の時の石で、魔力が流れ出るのを防いでいたのだろうけれど、じゃあ今はどこに流れ出しているの?
彼の体が、魔力をまとっているというわけではない。もしそうなら、きっといまわたし達がいる空間は魔力の重さに歪んでしまっているはずだ。だとすれば、彼の魔力はきっと、こことは別の空間に――…
「困ったわね、フィオナさん」ティシェさんが言った。「あなた親御さんに連絡しなくても大丈夫なの?」
「え、あの、えっと」
わたしは言葉に困った。
親御さん居ないんですと思ったけど、説明するとややこしかった。
おまけに、ヴェイドさんとどういう関係だと聞かれても少し困ってしまう。
「わたし達、シャメルディ男爵の屋敷に滞在中なんです」
「あら、ブランシェ卿のご友人だったのね」
ティシェさんはわたしの顔をのぞきこんだ。
「ついさっき彼の使者だという人が訪ねてきたのだけど、もしかしてあなた達を探していたのかしら? あなた達の事情も分からないから返しちゃったけど、あなたと同い歳ぐらいの、えんじ色の髪の男の子だったわ」
リュカだ。
でも、セザールさんの使者?
なんで彼が使われてるのよと思ったが、とりあえず彼らに探されていることは分かる。わたしは彼女に訊ねた。
「あ、あの、彼なにか言ってました?」
「うーん、そこまではあまり……。でも、ブランシェ卿が心配していると言ってたわね」
やっぱり心配されている。
やはり一度戻るしかないのだろう。わたしは慌てて身支度を整えると、ティシェさんに向き直った。
「あ、あのとっても申し訳ないんですけど、しばらくこの人――ヴェイドさんを看ていてもらえませんか? いちど屋敷にもどって、大丈夫だってこと伝えたいの」
「構わないけど、ひとりで大丈夫? もう夕暮れどきよ」
「大丈夫よティシェさん。こう見えて、わたししっかりしてるんだから」
「そう」
明るく笑ってみせると、ティシェさんはまぶしそうに微笑んだ。
「でも気をつけてね。この辺り最近、怪しい人が出るみたいだから」
「墓荒らしのこと?」
「さあ、どうかしら」
彼女は含んだもの言いで、わたしの髪をそっと撫でた。花のかおりを思わせるような、やさしい彼女の魔力がわたしに伝わる。教会に仕える人のようだから、たぶん魔術師ではないんだろうけど。
彼女の魔力は好きだわ、とわたしは思った。きっと彼女の心も同じぐらい優しいだろう。彼女を死人じゃないかと思ったことが、まるで嘘みたいだ。
ティシェさんは薔薇色の瞳でわたしを見る。
「気をつけなさい、フィオナさん」
「え……?」
「闇はあなたのすぐ傍にある」
わたしは目を瞬いた。
それは言葉のあやではなく、忠告をはらんだ声音だった。闇? もうすぐ夜になるから? まさか黒髪のことを言ってるのではないのよね。
「わ、わかったわ」
とまどいがちに返事をして、わたしは少しだけ跳ねた鼓動を押さえながら、部屋を後にした。
そして意外とあっさり、リュカと合流することになった。
ひとりなのだし、なるべく人の多い場所に行こう、と思ったのが良かったのか、わたしはすぐに大通りを歩くリュカの後ろ姿を見つけた。えんじ色の髪を後ろでひとつくくりにした少年。
「リュカ!」
急いで駆けよって手をつかむと、彼はおもむろに振りかえった。リュカは外套を羽織っていたが、触れた手はとても冷たい。結構長い時間を探し歩いてくれていたのだろうと思うと、悪いことをした気分になる。
彼は不機嫌そうにわたしを見やると、わたしの体を上から下までながめまわした。
「フィオナ、あんた今までどこにいたのさ」
「えっと、教会だけど」
おずおずと答えると、リュカは「はあ?」と、顔をしかめた。そして、あの女やっぱり俺を騙しやがって、と小さく毒づく。
「さっき教会に来たって男の子、やっぱりリュカだったのね?」
「そうだよ。でもあの修道女に俺は追い返されたの」
「それは彼女がわたし達をかばってくれたからで……」
ティシェさんには何の悪気もなかったのだ。ただの行き違いだったのと説明しようとしたところで、わたしは彼が異様に訝しがっている様子に気づいた。
「わたし、達?」と、リュカが眉をひそめてわたしを見ていた。
「あんたひとりで居たわけじゃないの?」
「え?」
なに言ってるのよ、とわたしはつい、あっけにとられた。彼はわたしとヴェイドさんを探しに来たのだと思ったけど違うのかしら?
「えっと、ヴェイドさんとずっと一緒に居たんだけど」
彼も居なくなってるからわかるでしょう? だけど言われたリュカは、意外そうに片眉をあげた。それから彼はなにか考えこむように顎さきに手をやって、
「フィオナ、驚かないでね。あのさ」
そしてわたしは驚いた。
「ヴェイド、もうとっくに屋敷に戻ってるよ」
◆・◆・◆
ちょっといつの間に移動したのかしら、あの魔術師。
嘘でしょうと思いつつセザールさんの屋敷に戻ったところ、本当に嘘みたいにヴェイドさんが食堂に座っていた。
じゃあ、教会に置いてきた彼はなんなのよ、という話になるが、わたしは目の前の出来事に混乱しながら隣のリュカに振り向いた。
「いつから居るの?」
あのひと。
「俺が師匠に“フィオナを探しに行け”って言われたときから」
リュカはそう言って、慣れた所作で食堂のテーブル端に座りこむと、傍に居た女中に「俺にもお茶もってきて」と言った。
ここがシャメルディ領主の屋敷だということは、まったくお構いなしである。たぶん普段からもこんなふうに、リフレイアさんよろしく入り浸っているのだろう。連れ子じゃあるまいし、セザールさん人が良すぎだ。
わたしは彼の隣に腰かけると、すこし離れた場所にいるヴェイドさん? を見ながら口を開いた。
「でも、リュカ……何か、ヴェイドさん変じゃない?」
「さあ、こんなもんじゃない」
あの人普段から変じゃない、とリュカが面倒くさそうに言った。
でもやっぱり変だと思った。だって、ヴェイドさんは一度もわたしのほうを見ないのだ。彼は帰宅したわたしには目もくれず、ぼんやりした様子でお茶を飲んでいた。
まるで精霊界で魔元素酔いしていたときの彼を彷彿とさせる。そんな不思議な彼の様子をまじまじと観察していると、
――ぼくはやっぱりきみを愛してるんだよフィオレンティーナ。
ふいに精霊界での彼の発言や、抱き寄せられたときの感触だとか、泣いていた顔だとかを思い出して、わたしの顔からぼっと火が出た。
「ちょっといきなり何で赤面するの」
リュカが不審なものを見るような目でわたしを見やる。だ、だって。
俄然恥ずかしくなったわたしは、彼の視線からのがれるようにかぶりを振った。
「な、なんでもないのよ、なんでも」
「あんたヴェイドと何かあった?」
「だ、だだから何もないって言ってるでしょ!」
というか、仮にも本人の前でそれ聞かないでよ! わたしは“こちらに一切の関心を持たない”銀色の魔術師をちらりと見やる。だがリュカはそんなわたしの心境はお構いなしだった。
「そうやって大声出すあたり、何かあったんじゃないの」
「だから」
「もしかして本当にヴェイドと契約してたとか?」
「うっ……」
わたしは言葉に詰まった。どうやらその反応で納得したらしいリュカは、「あっそ」と退屈そうに椅子にふんぞり返った。
「まさか本当にそうなんだ。あんたと契約なんて、ヴェイドも物好きじゃない?」
それはあなたが言わないで欲しいわ、とわたしはあきれた。リュカだって、最初にわたしと会ったとき“契約して”だとか無茶苦茶なことを言ったのだ。
「でもそうするしか無かったっていうんだから、仕方ないじゃない」わたしは彼に言った。「わたしだって、そんな安易に婚約なんて結びたかったわけじゃないもの」
「なるほど、あんた達よりによって婚約したわけ」
「……他の方法があったっていうの?」
リュカの含んだもの言いに、思わずわたしは訊いていた。
「ひとつ、主従の契約を結ぶこと」と、リュカはお茶を飲みながらそらんじた。「ふたつ、召喚精霊としての契約を結ぶこと。みっつ、知友の絆を結ぶこと。よっつ、婚約を結ぶこと――ほら、よっつも方法がある」
わたしは目を瞬いた。
ヴェイドさんと一緒に居るためには、よっつも方法があっただなんて初耳だわ。ぼうぜんとしたわたしに、リュカは言った。
「あんたきっと苦労するね。最初っからあいつ、結婚しか頭になかったんだよ」
「そ、そう片づけるのもどうかしら……」
わたしはこの上なくうろたえた。ヴェイドさんが、最初からわたしと結婚を考えてた? うそでしょ。
「でもまあ、ヴェイドもどうせ無意識だったんだろうけど」
と、リュカは背後の魔術師をふりかえった。当のヴェイドさん? はというと、眠たかったのか長テーブルにつっぷして寝てしまっている。いい大人が、まるで幼い子どものようだ。
「あいつ、人間みたいだよね」
リュカがぽつりと言った。
「あいつのこと、俺ずっと嫌いだったんだよね。何考えてるのかわかんない顔して、人間っぽくなかったから。なのに久しぶりに指輪を作れだなんて言ってきて、なんでって思って訊いたら、それを大事な女の子にあげるって言うもんだから」
「それ、わたしのこと?」
リュカは何も答えなかった。その代わりに、彼は「セザール」と言いながら食堂から続く階段のうえへと目線を向けた。
「あ、フィオナちゃんおかえり。心配したよー」
わたしの姿を見たセザールさんが、ほっとしたように笑って軽く手をあげた。
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