15 帰還
しかし、どうやってもとの世界に戻ればいいのだろう。
わたしは歩き続けながら、周りの景色をちらりと見やった。墓場である。それもかなり薄暗く、辺りは生い茂る蔦や野草にかこまれている。
うっすらと霧が立ち込めるなかに、もとの教会墓地と混ざり合っているのか、墓石の十字架が一定の間隔で浮かび上がっていた。
そんな光景を見て、わたしは小さくのどを鳴らした。まるで今にも、死者がよみがえってきそうな場面じゃないの。
精霊界に来るのはこれで二度目だったが、一度目のときは自分から足を踏み入れたのだし、今回みたく“うっかり来ちゃいました”という状況とはほど遠い。それにたどり着いた場所も、こんなオドロオドロしい場所なんかでは無かった。
やや途方に暮れたわたしは、隣を歩くヴェイドさんをじっと見あげた。
「ねえ、ヴェイドさん。このまま歩いていたら人間界に戻れるのかしら?」
やや遅れ気味に手をつないで歩く彼は、いつもよりどこかぼんやりとして、足取りも安定しない。まるで、酒か何かに酔っているかのようにも見える。精霊界に何の準備もしないで来てしまったせいで、魔元素の多すぎる空気にあてられているのだと、先ほど歩く途中で彼は話していた。
彼は気分が悪いです、と言わんばかりの顔でわたしを見やった。
「ばかだなあ。そんなことで戻れたら、もういまごろ屋敷についてるにきまってるよ」
「あっそう」
当然のことを聞くなと言わんばかりの言葉に、わたしは内心イラッとしながら返した。
「じゃあ、歩いている意味なんて無いんじゃないかしら」
「いや、ちゃんといみはあるよ」
ヴェイドさんはふらつきながら言った。
「墓あらしが、魔術関連だとぼくはいったね。あれはおそらく、死人使いとよばれるものの仕業なんだ」
「死人、使い?」
耳慣れない言葉に、わたしは目を瞬いた。
だが意味はなんとなく分かる。それは死者の眠りをさまたげるという、本来あってはいけないことを為す者のことではないの。
言葉を失ったわたしに、ヴェイドさんは「闇の魔術師の配下だといわれている」と、付け加えた。
闇の魔術師。その言葉にわたしの背筋がぞっと凍りつく。
「じゃあ、あの魔術師がシャメルディのどこかに?」
「それはわからない。ただ、ぼくはほんとうにやつらの仕業なのか、たしかめるために墓をしらべてたんだ」
だからあなた独断で先走ったのね。
過去に闇の魔術師を取り逃がしたことを、彼はずっと気にやんでいたのだ。でも向こうも大魔術師なのだし、そう簡単につかまるわけがないわ。
「あなたの責任じゃないのよ」
悪いのは向こうのほうなのに。
わたしはいま無性に、彼を撫でてあげたいと思った。いまこうして歩いていなければ、きっとそうしただろう。魔元素酔いした魔術師が、頼りない小さな子どものように見えたのだ。
そうする代わりに、わたしは会話を続ける。
「調べた結果はどうだったの?」
「くろだった」
彼はそう告げた。
「ただ、いまぼくたちがいるのは、やつらの領域だ。たちどまるとやつらに感づかれる危険があってだね……ほらほら、こんなふうに」
こんなふうに?
わたしは彼の話をそこまで聞いて、はたと立ち止まった。嫌な予感を覚えてつと視線をあげて、
「――ちょ、ちょっともう追いつかれてるじゃないッ!」
わたしは絶叫した。
彼の後頭部や肩や顔といったそこらじゅうに、カタカタと笑うように鳴る骸骨や、半透明の幽霊、あと蝙蝠や蜘蛛みたいなものがまとわりついて居たのだ。
相当すごい格好をしているヴェイドさんだったが、彼は気にした様子もみせず「ほらいったじゃないか」と楽しそうに笑った。ちょっとあなた酔っぱらってる場合かッ!
慌ててそれらを片手で追い払うと、わたしはぐいっと魔術師の腕をひっぱった。
「あなたもう少し早く歩けないの!?」
「むりむり、なんだかすごく気分がいいからね」
ふらふらとわたしに後続する様は、完全にただの酔っ払いだった。わたしは彼に近づいてこようとする骸骨を押しやって、声をあげた。
「じゃあどうやって帰ればいいのよ!」
「きみがにんげんの世界をつよくおもってくれれば……」
「思ってるわよ! 帰りたいって、戻りたいって……!」
強く思うことが帰りの鍵となる。以前、王宮にいるある魔術師の知人に言われた言葉だった。
だからわたしは“帰りたい”と思っているのに、わたしの意思に反して精霊界の出口は開かれない。わたし達はこの世界に閉じ込められたまま。いったいどうなっているの?
わたしは薄暗い景色を足ばやに歩きながら、しばらく考えた後、ぽつりと口にした。
「ねえ、もしかして帰りたいと思っていないの、あなたのほうじゃないの?」
「は?」
ヴェイドさんは怪訝な顔になった。
「だって今のあなた、わたしの体の一部なんでしょう? あなたが人間界に戻りたいって思わないのなら、それはわたしが思ってないっていうことになるんじゃないかしら」
「まさかそんな」
わたしの考えに、彼は殊のほか慌てたようだった。
「まさか、帰りたくないって思ったの?」
そう訊ねるわたしに、彼はなにも言わなかった。図星をさされたのだと分かるには、それで十分だった。
どうして彼が帰りたくないのか、それはすごく簡単なことだ。
彼は魔王になりたくないのだし、死にたくもない。それでいて、水の大精霊になりかけたわたしと婚約を結んでいる事実からも目を背けたいのだ。ついでに言うと、人間の感情を思い出すことも嫌がっているのかもしれない。
「信じられない!」
わたしはつい、声を荒げた。
「あなた三百年も生きたわりには、とっても意気地なしだわ」
「だから、ぼくはだめ魔術師だっていったじゃないか」
「ここに来てまだそんなこと言ってるわけ?」
そんな都合のいい言葉で片付けていいわけないでしょう。
だって、わたし達はいま追われている。
精霊じゃないと、この世界の生き物に感づかれてしまっている。それにおそらく、彼らの目的はわたしじゃなくてヴェイドさんなのだろう。わたしに骸骨や蝙蝠なんかが寄ってこないのが、良い例だった。わたしは彼の胸もとをはいあがろうとする蜘蛛を放りなげて、また叫ぶ。
「あなた、わたしなんかよりもよっぽど子どもじゃないの。これがリスタシアの偉大なる大魔術師だなんて知られたら、笑いものよ!」
王宮の人どころか、国民みんなが卒倒するわ。
だが本当は、そんなことを言いたいのではないとわたしは分かっていた。
自分と向き合うことが、どれほどの強い意思を要するのか、知らないわけじゃない。自分と向き合うのは、自分の嫌なところを目の当たりにしていく作業なのだ。自分は良い人間なのだという前提をくつがえして、現実の姿を自分に叩きつける苦行だ。
それが分かっていてなお、彼に自分自身を見つめてほしいと思うのは勝手なのだろうか。彼が背負うものは、わたしが半精霊だと言うよりも、とうてい重い現実なのだ。
「フィオナ、おこらないでおくれ」
「うるさいわね、なら怒らせないでちょうだい」
ほら、やっぱり喧嘩しない毎日なんて無理じゃない。
もう喧嘩はしないでおこう、と言ったいつかの彼。そんなのわたし達には無理だったのだ。彼はわたしが気に入らないし、わたしだって彼が気に入らない。反発し合うしかないのに、婚約なんて馬鹿げてる。
「きみはやっぱり、ふしぎな子だ」
か細い声が耳をかすめ、気持ちだけ先を歩いていたわたしは振りかえる。ヴェイドさんが今にも泣き出しそうな顔でわたしを見ていたものだから、わたしは言葉を失った。
「ぼくを怒鳴るひとなんて、きみがはじめてだ」
彼は言った。
「どうしてきみには勝てないんだろう? きみに会いさえしなければ、ぼくはあのままずっと、つらい現実から逃げながら生きていられたのに」
――きみといると、ぼくは本当に生きているような錯覚を覚えるんだよ。
ああ、わたしの、水の魔術師。
あなたは弱い。ふつうに生きているわたしよりも、ずっとずっと心が弱い。
「……あなたの手、ずっと離さないわ」
わたしは彼に言った。
「あなたは今も生きているの、わたしと一緒に生きるのよ。あなたは人間で、そしてわたしも人間なの」
それがたとえ、詭弁だったとしても。
でも言い続ければ、いつかそれが本当になるかもしれない。だって、心に強く思うことは魔術の基本だって、あなたが言ったのだから。あなたを作るのは、他の誰でもないあなたなのよ。
「あなたの辛いっていう気持ちは、わたしが半分もらってあげる。だから一緒に幸せになるのよ。いつまでも幸せに暮らしましたって、最期死ぬときに笑って言うのよ」
ヴェイドさんは目を見ひらいてわたしを見ていた。青紫の瞳が淡くきらめく。
がし、っと彼の首に背後から腕が伸びた。
それがわたし達に追いついてきた“死人使い”だったのかは分からない。だって、ヴェイドさんが静かに泣いていたから、わたしは彼の顔に目を奪われていたのだ。
「フィオナ、現実にもどったら、必ずぼくのそばにいてくれるかい?」
「い、いきなりどうしたの?」
急に白んできた景色のまぶしさに、わたしは目をすがめた。
「いいから、いるっていってくれ」
「い、居てあげるわよ!」
薄れる視界のなかで、彼の銀色の髪がきらきらと瞬く。彼の首もとに伸びた腕をはらいのけて、わたしは彼に抱きついた。
世界が壊れる。
ふいに足もとの道が消えて、わたしはぎょっとしながら下を見やった。ぶわりと風がまきおこり、わたし達の髪をばたばたと流していく。わたしは慌てて、彼にしがみついていないほうの手でワンピースのすそを押さえた。
「か、帰れるの……?」
だがわたしのつぶやきに、魔術師は応えない。彼は茫洋としながら、視線をどこかに彷徨わせている。
ガラガラと景色が崩れる。
その様子は、過去にわたしが屋敷を崩壊させたときのことを思い出したが、あのときよりもずっと静かに、そして辺りがまぶしい。
「たぶん現実じゃとても言えないから、今のうちに言っておく」
ぽつりと、魔術師が言った。
「え?」
なにを。
「ぼくは魔王になんてなりたくないし、死ぬなんてもっと嫌だ」
心の毒を吐き出すように、彼は言う。
彼はどこか、夢うつつのようだった。半精霊のわたしにとっては、今も確かに現実だったが、人の身である彼はこれが現実だとは思っていないのだろう。その目のはじに浮かんだ水滴をぬぐってやると、彼はその青紫の優しい瞳でわたしを見おろす。
「ヴェイドさん」
「ぼくは契約したこと、未だに後悔してるんだ。きみをぼくみたいに、人間か人間かじゃないなんて悩ませたくなんてなかった」
やっぱりそう思っていたのね。
「馬鹿ね」
わたしは彼の胸に、そっと顔を押しつけた。彼の鼓動が聞こえてくる。ここに、生きている。
そうしていると、ヴェイドさんがそっとわたしを抱き寄せ、言った。
「でも、手放したくなかったんだ」
そして、わたしは次の彼の言葉に目をむいた。
「ぼくはやっぱりきみを愛してるんだよフィオレンティーナ。傲慢だって分かってるのに、きみが好きで好きで仕方がないんだ。だからここまで苦しんでるっていうのに、いったいどうしたら」
「ええッ!? ちょっと、いきなり何言い出すのよ!」
予想もしなかった言葉に、わたしは固まる。あなた嘘でわたしを好きって言ってたんじゃなかったの!? ちょっとちょっと待って、人間界に戻ってる場合じゃないってば! ちょ、ちょっと!?
だが硬直したわたしをよそに、景色は消える。消える、消えていく――…
「――はっ……」
がばっと起きあがると、そこはやっぱり墓地だった。
わたしは一瞬だけ面食らったが、慌てて辺りを見わたした。鬱蒼と生い茂る木々は同じだったが、先ほど見ていた景色とはうって変わり、穏やかにたたずむ墓石がわたしを見返す。
人間界に戻ってこられたのだ。
でも、あれからどれだけ時間が経ったのだろう?
ぼんやりと景色をながめていると、すぐ近くにヴェイドさんが倒れていることに気づいた。駆け寄って体をゆすってみるが、彼は深く昏倒しており、目を覚ます気配はない。
「もう、のんきなんだから」
そうつぶやいたわたしは、次に彼が気を失う前に言った言葉を思い出して、思わず焦った。
――ぼくはやっぱりきみを愛してるんだよフィオレンティーナ。傲慢だって分かってるのに、きみが好きで好きで仕方がないんだ。だからここまで苦しんでるっていうのに、いったいどうしたら……
ど、どうしたらいいのかは、こっちの台詞よ!
いま彼が気を失っていて本当に良かったとわたしは思った。でないと、動揺のあまり彼をひっぱたいてしまいそうだ。
でも、あれって彼の本音なのかしら?
まさかあんな場面でしれっと嘘をつくとは思えないが、彼がわたしにあんなことを言うのも意外すぎた。魔術師ヴェイドはもっと飄々とした人物じゃなかったかしら。そう思っているのはわたしだけ?
混乱する頭に置いていかれそうになっていると、ざく、と背後で芝生がふみ鳴らされる音を聞いた。
「あら、お嬢さん。こんな所でどうしちゃったの?」
女の人だ。
わたしは掛けられた声に、ほんの少し安堵を覚えながら振りかえった。そこに居たのは、濃灰色の長い髪を持った、若い女の人だった。藍色の素朴な色合いのドレスを見につけている。たぶん、ミニャールの町に住んでいる人なのだろう。
彼女はきれいな薔薇色の瞳を優しげに細めて、わたしに笑いかけた。
「お連れさん、倒れちゃったの?」
「そ、そうなんです」
そうそれは大変ね、と彼女はこちらに近づいた。
「私、ここの教会に住んでいるのよ。お連れのお兄さんが気がつくまで、休んでいったらどうかしら」
「ありがとうございます」
藍色の服は、修道女の服だったらしい。ここは彼女にあまえよう。彼女の申し出に反射的に頭をさげると、彼女はわたしの前にひざをおって微笑んだ。
「ねえお嬢さん、あなたお名前なんて言うのかしら」
「フィオナです」
彼女は、フィオナ、と小さく反芻した。
「いい名前ね」
「お姉さんはなんていう名前なんですか?」
「私? 私はね――…」
彼女は意味ありげに微笑み、そして立ちあがった。そして横に倒れている魔術師をちらりと見やる。どうしてかわたしは、その光景を見て心の奥がざわついた。助けてもらえるのだと思うのに、なぜか無性に不安を覚えて、でもその意味が分からない。
頭のなかで警鐘が鳴っている。
――墓あらしが、魔術関連だとぼくはいったね。
あれはおそらく、死人使いとよばれるものの仕業なんだ。
――ね、ねえ、セザールさん……あれって誰のお墓なの?
――セザールの家令に呼び止められたんだ。
主人の代わりに墓荒らしの調査をしてくれって。
そして彼女はとても優しい声で、その名を告げた。
ティシェと言うの、と。
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