10 きみを形作るすべて
「フィオナちゃん、婚約したんだ?」
セザールさんの一言に、廊下を歩いていたわたしは、その場にずっこけそうになった。思わず床に座りこんでしまったが、顔が熱くなるのを感じながらもわたしは彼に振りかえる。
「な、ななな……ッ!」
「なんでそんなことを、って言うのなら昨日君が思いっきり叫んでたと思うけど」
「……そうだったわね」
昨夜、衝撃な事実を知ったわたしは人目も気にせず叫んだのだった。でもあっさり返されると、なんだか力が抜ける。
わたしはこちらに差しのべられたセザールさんの手を取り、立ち上がった。ああ、年ごろの乙女がはしたないところを見せてしまった。ワンピースのしわを伸ばしていると、セザールさんは穏やかな顔でわたしを見おろした。
「ちゃんと彼と話してきたかい?」
「それは微妙なところだわ。あんまり詳しく話してくれなかったもの」
結局またうまくはぐらかされてしまったと思う。
彼がどうして魔術が使えないのかは分からずじまい。
はっきり分かったことと言えば、彼が以前、泉の底までわたしを助けに来たときにわたしと契約を――水精霊との婚約を結んでしまったことだけだ。
せめて責任を取ろう、とヴェイドさんは言った。
だから先日の彼は、わたしの身の安全がどうこう、やたらと口うるさかったのだ。
そして人間だと言い張るわたしをこんな形で縛ることになったのを、彼はずっと気にやんでいたのだろう。でも、それ以外になす術はなかった。昨夜はつい怒ってしまったが、ヴェイドさんと契約を結ぶ以外に、わたしが人間の世界で、望むように生きられる道はなかったように思う。
でもだからって、勝手に自分の婚約者にしちゃうのはあんまりだとも思っていた。わたしだって、ちゃんと愛してくれる人にもらわれたかったと思うのだし。それがかの魔術師だったらと思わなかったわけじゃない。
わたしは、あの銀色の青年を思い浮かべる。ぼくもきみが好きだと言った、嘘つきな魔術師。
彼は人間に優しい。
だから自分の気持ちを無視するぐらい、わけがない。今までそうやって心を殺しながら、三百年も生きてきたのだ。自分がなにを大切にすればいいのか分からないまま。
わたしはどうして昨夜、あんなに彼に腹を立てたのか分かっていた。もう自分をないがしろにしないでと、彼に言いたかったのだ。あなたは偉大で万能な魔術師ではなく、他の人と同じように笑い、傷つき、悲しむ普通の人間なのだと。
「フィオナちゃんはヴェイドのことが本当に好きなんだね」
セザールさんの声に、はっと意識が引き戻される。思ったよりも自分が思いつめていたことに気づき、わたしは小さくかぶりを振った。
「なんでそれを知ってるの?」
「だって君いつもヴェイドを目で追っているから、わかりやすいよね」
「それは」
わたしは目を伏せる。そんなに彼のこと見ていただろうか。考えこんだわたしに、セザールさんは続けた。
「今まで何人か、彼のこと好きだ紹介しろって押しかけてきたヒト居たんだけど」
「えっ、そんな人いたの!?」
顔をあげたわたしに、セザールさんは面食らったように後ずさる。
「え、だってあの人、見た目だけは身分高そうだし、そりゃ居たよ。……でもヴェイドには言ってないよ。外見で想われたって嬉しいわけないじゃないか」
わたしはヴェイドさんそっくりの、セザールさんの青紫の瞳を見あげた。
まったく同じ色をしているのに、わたしはセザールさんの瞳には飲みこまれそうな魅力を感じない。“彼じゃない”と、わたしの心のどこかがそっぽを向く。その事実に気づきながら、わたしは口を開く。
「わたしだって、彼の見た目に惹かれたのよ」
正しくはあの魔術師の気配に。
最初から彼の内面に惹かれたわけじゃない、それだけは分かる。彼が好きだという今のわたしがいるのは、彼と長くかかわり、彼の弱さを知ったからだ。
わたしの言葉を聞いて、セザールさんは苦笑した。
「君たちは、どうして自分をいじめるのが好きなのかな?」
「え?」
「君たちは才能に恵まれているし僕なんかより何でもできるのに、ときどき僕より何もできない生き物に見えるよ」
彼の真意をはかりかね、わたしは黙って彼を見あげた。
「魔術師は変人だって、君言ったよね。だから素直になることを忘れちゃうのかな」
「よく分からないわ」
そう言うと、セザールさんは困ったように首をかしげる。
「つまりだね、神様じゃあるまいし、言葉にしないと他人にはどうしたって伝わらないのに、自分の事情を察してよってなっちゃってる」
わたしも、ヴェイドさんも。
「君は確かに彼の見た目に惹かれたのかもしれない。でも、昨日の君はそんなふうに見えなかったよ」
「セザールさん」
「昨日、ちゃんとどんなふうに彼が好きなのか、言ったのかい。どうして彼が心配なのか、ちゃんと言ったの? でないと彼は何も言わないよ」
そう言うと、彼は優しくわたしの頭を撫でた。
「彼は誰からも愛されていないって思いこんでいるからね。全部自分で解決しようと思う人だから、他人につけこまれる弱みは見せないのさ」
彼に理解してもらうには、しつこいほど食い下がらなければ。
凍って鈍くなった心に分からせるには、痛いほど真っ直ぐに彼にぶつからなければいけない。そうして氷の壁を砕いていくしか。
「セザールさんは、よく彼のことが分かるわね……」
嫉妬もなにも含まず、ただ思ったことを口にすると、セザールさんは苦笑した。
「ちなみにこれ、年下が年上を落とすときのコツだからね」
「素直にまっすぐぶつかることが?」
「そうだよ」
わたしは小さく息をついて、それから微笑んだ。
「……セザールさんって、やっぱり大人なのね」
穏やかに確信をつく姿はさすがシャメルディ卿、……と言っていいのか分からないけれど、この地を護り続けているだけはあると思った。この地方の山のように穏やかなセザールさんに、リフレイアさんが惹かれたのも理解できる。きっと彼女も長い年月のなかで揺れることがあったのだろうから。
見あげるわたしに、彼は言った。
「でも君も、来年は僕の仲間入りだ」
十五歳から、十六歳へ。
「そんな大人になれるかしら」
「まさか。フィオナちゃん、その歳で僕に追いつこうなんて気が早いね。だって僕もう四十路もいいとこだよ」
「え、ええ?」
本当の意味でいい大人なんだよ、と冗談ぽく言ったセザールさんに、わたしは目を瞬いた。そ、そんなに年上だったの?
どう見ても青年にしか見えないセザールさんは、わたしの内心を見透かしたように苦笑した。
「フロディス家の血は童顔なんだよ。屋敷の記録にも、彼の姉はいつまでも美しい姿だったって書いてあったしね」
さすがに普通に老いて亡くなったけど、と彼は付け加えた。
なるほど、ヴェイドさんが若く見えるのは成長が止まっているだけじゃなくて、もともとの血筋というのもあったわけね。
わたしはちょっと複雑な気分だった。うーん、フロディス家……謎だわ。
しかめ顔のわたしに、セザールさんは言う。
「今度こそ負けないでね、フィオナちゃん。思ったこと全部聞いて来るんだよ」
彼の言葉に、わたしは小さくうなずいた。
◆・◆・◆
いい大人代表のセザールさんに『まっすぐぶつかる』という作戦を教えられたわたしは、それから屋敷の前に立っていた。
案の定、それを発見したヴェイドさんは嫌な顔をわたしに向けた。彼は今日も採掘場に出かけていたようだが、昨日と違うところは手に麻袋を持っているところだった。ごつごつと角がある様子から、たぶん中身は石だろう。
「……なんで待ち構えてるの、フィオナ?」
昨日の仕返しか、と小さくつぶやいたヴェイドさんに、わたしは目を細めた。
「ちょっとこっちに来て、ヴェイドさん」
「あ、こら、いきなり何だっていうんだ」
わたしは彼に構わず、その手をつかむと屋敷の裏へと引っ張っていった。屋敷の裏は崖っぷちだ。ひと気がなく、はるか遠い場所に山だけが見える。
わたしはその場に立ち止まると、若干とまどった様子のヴェイドさんから麻袋をひったくった。そのまま迷いなく袋の口を足もとに向けると、ぼとぼとと研磨前の原石の塊が落ちていく。
ヴェイドさんはそれを見て、一瞬だけキレたようにこめかみ辺りをひくつかせたが、怒りの言葉は口にしない。だってあなた、わたしを罵倒できないものね。
わたしは彼を冷静に見つめ返しながら、口を開いた。
「石を探しに行ってたのね」
「そうだよ」
知ってたくせに、と言いたげな顔をされた。
「違うわヴェイドさん。あなた、時の石を探しに行っていたのね」
彼はあいづちすら返さなかった。ただ無表情にわたしを見おろすだけ。
「あなた、実験だなんて嘘。あなたのお師匠様が石を駄目にしたことと、あなたが時の石を持っていること、それからここに来たこと。全部繋がっているのね?」
わたしは彼の、青紫の瞳を見やる。
彼をこうして見るたびにわたしは思う。心から引きずりこまれそうになって、足もとがおぼつかない錯覚を覚える。どうして彼は――彼の瞳は、こんなにわたしを惹きつけるのだろう。
それが水精霊にとっての愛の重さなのだと、わたしは知らない。それが契約の罪深さなのだと、わたしは知りえない。
ただ、彼の瞳をずっと見ていたい。その瞳が悲しみを帯びるのをくいとめたい。
「昨日みたいに誤魔化さないでね」
「なんだ、バレてたわけだ」
しれっとした顔で言ったヴェイドさんに、わたしは内心苛立った。
あなたやっぱり誤魔化そうとしていたのね? 婚約しただなんて言われて、確かにわたしはそれで頭がいっぱいになってしまったことを悔しく思う。
「わたし、あなたの傍にずっと居たいのよ。あなたと一緒に、今度こそ幸せになろうと思ってるの」
「小さい体で言ってくれるよ……」
困った顔で彼が言う。しゃがみこんだ魔術師にそのままそっと抱き寄せられながら、わたしは彼にかみついた。
「馬鹿にしないで。わたしはあなたなんかよりずっと年下だけど」
恋をしている。
「――あなたを幸せにしてあげる。わたしと契約を結んだこと、せいぜい後悔しなさい。ずっとあなたに付きまとってやるんだから」
「それじゃ色気もなにもないじゃないか、フィオナ」
彼はあきれたように返したが、わたしにまわした腕はゆるめなかった。
「フィオナ、ぼくのことが知りたい?」
ずいぶんともったいぶった言い方だった。まるで知ったら戻れないとでも言いたげな声音に、すこしだけわたしはためらった。
「教えて、ヴェイドさん」
戻れなくてもべつにいい。わたしが彼の傍に居たいという気持ちは変わらない。
でも、わたしは彼の次の言葉を聞いて泣きそうになった。
「ぼくはね、人間じゃないんだよ」
無感情に告げた声に、ああやっぱり、とわたしは思った。
――きみが何者なのか、それを決めるのはぼくじゃない。
――自分とどう向き合うのか、それがきみを形作るすべてになる。
今から少し前、瓦礫のなかで聞いた言葉。
あれは彼のことだったのだ。心に強く、人間だと自分に言い聞かせていたのは、他の誰でもない彼の話だったのだ。
「大丈夫、わたしはあなたを見捨てない」
わたしの頭の上で魔術師が小さくうなずいた。
あのときの彼と同じことを口にしても、わたしは泣くことだけは止められなかった。
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