チャイム
休日の朝9時きっかりに玄関のチャイムが鳴った。
始めは無視しようと思ったが、ネットで注文した物があったのを思い出し、ドアを開けた。
男が二人立っていた。二人とも体格がよく、威圧的な雰囲気を持っていた。
「哲也さんはいますか?」第一声。
瞬間的に、この人たちはやくざで、借金の取立てに来たのだと思った。
「いえ、今ここに住んでないんですけど」
「どこにいますか?」
「柏の方に」
僕がそう言うと、一人の方が黒い手帳を開き、それを見せながら言った。
「神奈川県警の者ですが」
また悪夢がよみがえってきた。遠い昔の記憶・・・。
弟のいる柏の住所を僕は知らなかった。母親なら知っているかもしれないけど、母親は仕事中で今は携帯が繋がらない。しばらく考えて、以前に弟の住まいに行った時のカーナビの履歴になら住所が残っているかもしれないと思い、二人を駐車場まで案内した。
「弟は何をしたんですか?」
「本人に会えてからでないと言えません」
でもおそらく・・・推測はついていた。
三人で車に乗り込む。エンジンをかけ、カーナビを起動する。
「新車ですね!」後部座席に乗った、部下らしき人が言う。僕は何も言葉が思いつかなかった。カーナビを見てみると、履歴は残ってなかった。ラーメン屋の履歴ばかりで少し恥ずかしくなる。僕はラーメンが好きなのだ。しかしそんなことは警察には関係ない。それから僕はカーナビでだいたいこの辺だ、という場所を教える。
「これからお兄さん、一緒に行けますか?」
「うーん、行けますけど、今免許証持ってきてないし・・・あ、パソコンのマップならもっと詳しくわかるかもしれません」
「じゃあそれで見てみましょう」
家に戻って、僕の部屋のパソコンのスイッチを入れる。お邪魔します、と警察があがってくる。googleマップを見ていると「サッカー好きなんだ」と言われ、しばらくなんのことかわからなかったが、壁にいくつも日本代表のユニフォームがかかってあることに気が付いた。
「ちょっと前に好きで・・・」と言いかけると、さえぎるように「これ本物?」と聞かれた。
「いや、本物じゃないかもしれないけど・・・」
このユニフォームは、弟がタイに行った時買ってきてくれたお土産だ。もちろん偽物。弟はいつもタイに行くとお土産を買ってきてくれるのだが、僕には趣味もないし、タイで買ってきて欲しいものも特にないので、そんなにサッカー好きでもない僕に本田や香川の偽造品ユニフォームを買ってくることになった。そしてなんとなく部屋に飾ってあるだけ。だから急に「サッカー好きなんだ」と言われてもピンと来なかったのだ。
googleマップを見ると、おそらくこのアパートだろうなというところまで調べることが出来た。そのアパート名を伝えると、警察は、これから向かうと言った。では、アパートに着いて写メしてくれたら、そのアパートかどうかわかります、と言うと、じゃあそうしましょう、ということになった。
「私どもが来たことは決して弟さんに連絡はしないように。もし連絡すると、お兄さんも共犯ですか、という話になります。いいですね?それではお休み中のところ、お騒がせしてすみません」と言い警察は帰っていった。最後に僕は「弟のことは、確実なことなんですか?」と聞いた。
「確実なことです」彼らはきっぱりと言った。
12年程前に、弟は一度大麻所持で捕まっている。
その時うちに激震が走ったわけだが、僕はそれほどは驚かなかった、少なくとも母よりは。
僕は弟が大麻をやっていたのは知っていた。というか、中学生の頃にもうやっていたのだ。その頃のことを振り返ると、遠い悪夢を思い出すかのような感じになる。今でも当時住んでた東京の下町に僕は行くことができない。人生で一番楽しいはずの10代を送ったその場所は、僕にとって深い暗闇であり、地獄だった。
母親とはその時期を一緒に過ごしていない。僕がちょうど10才の時、母親は姉を連れて家を出て行った。出て行かざるを得なかった理由についても、耳を疑いたくなるようなおぞましい出来事が絡んでいたのだが、その事実の片鱗を僕が知ったのは、つい何年か前のことだ。それについて―僕が知らなかった家族の闇について―は、今は語れない。
でも逆に、そこで起きた十年分の出来事を、母親は知らないし、知りたいという様子もない。その場所で起きていた悪夢のような毎日を知っているのは、僕と弟と、死んだ父親だけだ。僕ら三人は毎日を溺れるように必死に生きるのが精一杯だった。出て行った母と姉の生活がどのようなものだったのかは知らない。
一人、兄もいる。兄については家族の誰もよく知らない。兄と遊んだ記憶はまったくと言っていいほどなく、思い出もない。いつも勉強机に向かっている姿しか思い出せない。兄は偏差値の高い私立中学をトップの成績で入学し、高校の時には吹奏楽で関東大会か何かで優勝したりと、輝かしい成果を収めていたが、不思議と家族の中ではまるで近所の子の出来事のように扱われていて、その後も家族が共有する思い出として語られることは僕の知る限り一度もなかった。その兄とは去年、父親の所有していた土地の相続ことでもめて、関係が断絶した。話し合いの時に兄は「お兄ちゃんが良いことをしても誰も何も言わなかったのに、どうしてこうなるとみんなでなんだかんだ言ってくるの?」と真剣な顔で言っていた。確かにそのとおりだった。
あまりうちの家族に関わる話で心温まる話はない。
母親が仕事から帰るまで何をし、何を考えていたか、よく思い出せない。
そして母親は何も知らずにいつもの時間に仕事から帰ってきた。僕はテレビの方を向きながら「朝、警察が来た」と経緯を説明した。まるでどこかの国で起きたテロ事件の話をするように、淡々と。
もちろん母親は困惑した。おそらく母の頭の中にも12年前のことが浮かんでいた。
「なんでまた・・・もう結婚もするっていうのに・・・もうそんなことしてないと思ってたのに・・・」
母親は洗面所の方にふらふらと歩いて行って、そこで泣いた。「アーッ、アアアーッ!!」と叫びながら、どんどんと地団駄を踏んでいた。トイレの前で、電気もつけずに。
放っておくわけにいかなかった。僕は洗面所に向かった。臆病な飼い猫のビオレがびっくりしたように目を丸くして洗面所の方に耳を立てていた。
母親は顔を覆って泣いていた。僕は背中をさすりながら「大丈夫?落ち着いて」と声をかけた。
「なんでまた・・・やっと今が一番幸せだと思ってたのに」
つらいともらしながら仕事に行き、楽しみはテレビを見ることくらいしかなく、体のあちこちに不調を訴えつつ生活してる今が、母親にとって一番幸せな時だったのかと思うと悲しくなった。母にとって人生とはどんなものだったのだろうと思った。
母は泣き止み、僕の腰に手を回して「ありがとうね。何かの間違いだといいね」と言った。
この人を泣かせてはいけないと思った。でも僕にはいつか、この人にもっと辛い思いをさせてしまうかもしれない可能性があった。それについて今は考えないことにした。
それから二人でテレビのワイドショーを眺めていたが、心はそこになかった。当然のことながら。重い空気の中、僕はとりあえず外の空気を吸おうと、昼食がてらの散歩に母親を誘った。行くだけの気力があれば、と。「うん、行こう」と母が言った。
外に出た瞬間から、弟のこととはまったく関係のない話をした。たわいのないお喋り。そしてこんな状況で何が食べれるかわからなかったので、近くだけど入ったことのなかったファミレスに入った。母はスープスパゲティ、僕はドリアを注文した。ほうれん草とベーコンのソテーも頼んだ。お喋りは続いていた、いつもはそんなに喋らないけど、今は何かを話し続ける必要があった。出されてきたものを僕らは「おいしいね」と言いながら食べた。「おいしいね」という言葉の中にはどこか懐かしく、そして悲しくもある響きが含まれていた。僕らはお祈りの言葉を唱えるように、その言葉を何度も何度も繰り返した。
その夜にはほとんど食事が喉を通らなかった母が、そのスープスパゲティを完食できたことはよかったことだ。おいしくご飯を食べることは、多少の救いになるはずだった。
家に帰ると、さっきの重い空気はだいぶやわらいでいた。なるべく母親と一緒にいて時間を過ごした。警察は、弟が帰る夜遅くまで待って、弟を連れて行くはずだった。そうしたら、容疑など、詳しい状況がわかるだろう。
夜ご飯を一緒に作った。以前テレビの料理番組を見て作ってみようかと話し合った、初めてのメニューだった。鶏もつとセロリの炒め物。買い忘れた食材があったので、僕がスーパーまで買いに行き、ついでに母に缶チューハイを買った。普段母はお酒を飲まないが、おそらく今日は眠れないだろう。母は夕食時にそれを飲んだ。そのようにして長い一日が過ぎた。
その夜に夢を見た。
映画館の中で弟が映画を観ている。ホラー映画のようで、観客は脅えるような、それでいて楽しそうな叫び声をあげている。しかしいつの間にかスクリーンのこちら側とあちら側の境界線が破れ、観客たちはそのホラーの世界に巻き込まれてしまう。その世界で、弟が観客に向けて大きなガスバーナーで炎を放出している。観客は本当の恐怖の叫びをあげるが、一瞬のうちに焼き殺されてしまう。それから弟は座席の最後方にいる僕を見つけ、大きく目を見開いた笑顔を浮かべながらこちらに来て、僕にガスバーナーを向けた。そしてためらいなくトリガーをひく。しかしガス切れだったようで炎は僕を焼かなかった。でも、弟は本気で僕を殺そうとしたのだ。戦慄が走る。場面が変わり、僕の姪っ子の、双子の子供達がジグソーパズルをしている。「LOVE」という言葉を完成させなければいけないようだ。どこからかガスバーナーを持った弟がこちらに迫ってくる。早く完成させないと!子供たちは必死にパズルを埋めていく。でも完成はしなかった。タイムリミット。未完成のラブというピース。気がつくと誰もいない。焼け焦げた小さな死体が二体あるだけだ。弟がやったのだ。すると警察が来て僕を捕まえようとする。「やったのは僕じゃない」でも警察は「お前だ」と断定する。違う。そこに弟が現れる。それは僕だった。ひどく醜く変形した僕の顔だった。そうか、哲ちゃんは僕だったんだ。ガスバーナーでみんなを焼き殺したのも、僕を殺そうとしたのも、僕だったんだ。そしてまた僕は映画館のスクリーンの前にいる。観客はホラー映画を観ながら、安心した叫び声をあげている。違う、これは映画なんかじゃないんだよと僕は思う。僕は泣き出していた。涙が止めどもなく流れた。
?
夢から目覚め、しばらく茫然とする。ここは現実なのか。映画の中なのか。弟は誰なのか。僕は誰なのか。
そんな気持ちのままとにかく支度を済ませて仕事に出かける。車に乗り込むと、世界がいつもと違って感じられる。太陽はやけにまぶしく、街の騒音はうるさく、カーラジオから流れるお喋りはよそよそしく耳に届いた。
でも職場に着き仕事に没頭してるうちに徐々に世界に馴染んできた。それでも警官の姿を見かけるたびに緊張した。僕が何かしたわけではないのだが、警官を見るとびくっとした。そして今日に限って警官は、あちらこちらで僕を待ち受けてるかのように姿を現した。やったのはお前だ。
仕事をしながら、いろんなことが頭をよぎった。
僕の10代の地獄の何割かは、弟によってもたらされていた。弟は中学に入る前から「悪いグループ」と付き合っていた。そしてうちがそのたまり場になっていた。昼でも夜中でもかまいなく彼らは来た。それに対して僕と父親はまったくの無力だった。彼らの中にはうちの合鍵を持っている者までいた。弟は父親や僕の財布からお金を頻繁に抜き取った。そのうち父親は財布を夜の間どこかに隠すようになった。いろんな隠し場所ができた。でも酔っ払って隠すので、朝になって見つからないこともしょっちゅうあった。そんな時は僕も一緒になって探したが、そこに弟が加わることもあった。弟に取られないために隠した財布を、弟が父のために探していた。おかしな話だった。でも誰も笑うものはいなかった。むしろみんな真剣だった。夜には財布を隠し、朝には探した。まるでハムスターが回し車を回り続けるように、僕らはその出口のないサーキットを真剣に回り続けていた。
そのうち弟の「非行」もだんだんエスカレートしていき、何度か警察に相談に行ったが、結局なんの解決にもならなかった。弟さえいなければ、と何度も思った。でもそれは思ってはいけないことだと思っていた。
それとはまた別に、弟は弟で苦しんでいるのだろうと僕は思っていた。僕は弟を守って、更正させたいと思っていた。弟は僕より幼い、まだ小学校に入ったばかりで母親と別れて暮らさなければならなかったんだ、僕が守ってあげなければ。でもそんな僕もたかだか中学生か高校生だ、母親の変わりなんてできやしなかった。それに僕自身だって、学校でどうにもできないトラブルを抱えていた。僕には家にも学校にも安らげる居場所がなかった。孤独で、誰からも守られていなかった。洗面所で背中をさすってくれる人すらいなかった。
だんだんと僕の中で怒りや憎しみの感情が湧いてきた。誰に向けていいかわからない憎しみ、怒り。
僕はもう、弟のことで苦しみたくない、と思った。弟ももう30を過ぎている。自分のことは自分で背負ってもらいたい。それに、弟には今、結婚をひかえた心優しいタイ人の彼女がいる(今日本に来ている)。悪いけど、今回はその彼女に頑張ってもらおう。
そう考え、気を楽にした。
そんなことを考えながら仕事をしていると、携帯が鳴った。母親からだった。
母親は泣き声まじりに言った。
「哲ちゃんと電話で話してて・・・お母さん泣いちゃって、哲也君が『お母さんどうしたの?』って言うから『どうもしないけど・・・』って言ったんだけど」
「お母さん、哲ちゃんと連絡取らないでって言ったじゃん!」
「向こうからかかってきたのよ・・・でも、『何も悪いことしてないよ』って言ってたよ?」
「悪いことしてないって、なんかお母さん言ったんじゃないの?」
「言ってないよ・・・ただ、昨日の朝警察が来たって言っただけ」
「言ってんじゃん!!だめっだて言ったのに」
「だって・・・何も悪いことしてないって・・・これからうちに来るって」
「わかった、とりあえず警察に電話して聞いてみる・・・」
「うん・・・」
「じゃあ切るよ」
そして警察に電話しようとして、その時ふと思う。知らされたのは、警察の一人の携帯番号だけだ。彼らは本当に神奈川県警なのだろうか。手帳は見せてもらったけど、まじまじと見たわけではないし、それによく見たところで本物かどうかなんてわかりっこない。新手の詐欺ではないだろうか。示談にするから金よこせ。・・・でも考えたら詐欺であったほうがよかった。それなら本当に弟は何も悪いことはしてないことになるんだから。とりあえず詐欺であろうとなんだろうと、教えられた携帯番号に電話した。
警察は、昨日は夜中まで張ってたけど弟が仕事から帰らず(弟はたびたび遅くなってホテルに泊まっている)引き返したこと、これからそちらに向かうから、弟さんが来たら帰らせないように、と言った。僕は、母は気が動転してるから、何を言うかわかりませんよと言った。
また母に電話して、そのことを伝える。3時から4時頃に警察が着くらしいからと。
あと数時間で弟は間違いなく連れて行かれる、その時容疑もわかるはずだ。そう思った時、違う考えが浮かんだ。
警察が来た時、部屋の壁のユニフォームを見て「これ本物?」と聞いた。
人の部屋の飾り物に対してすぐさま本物かどうか聞くなんて変じゃないのか?それとも警察だからそういうことに敏感なのだろうか。というのも、弟はタイが気に入って何度も旅行していて、そこで彼女と出会ったりもした。そしてタイでよくジーンズやバッグなど、いわゆる偽造品を安く買っては身につけ、プレゼントし(本田のユニフォーム)、フリーマーケットなどで売ったりしているのだ。それは違法行為だろう。
そのことで今回警察が来たんじゃないだろうか。神奈川県の誰かに、ブランドバッグだかスニーカーだかを売って、それで問題になったんじゃないのか。
だとしたら、弟は何も悪いことしたつもりはないかもしれない。そう思うかもしれない。警察にしたって、昨日は帰ってこなかったからって、今日朝一で柏に向かうわけでもなかったようだし、そんなにたいした罪ではないんじゃないだろうか。
そうだそうだ、きっとそうだ。
そう考えて気分が軽くなると同時に、自分の中で不穏な感情が動くのにも気付いた。
弟は罰せられるべきだ。
傷が疼く。怒り。憎しみ。
でもとにかく母親を安心させたかった。母親に電話をして、偽造品を持ち込んで売ったりしたことで警察が来たんじゃないかと考えた、たいしたことにはならないかもしれない、そう話した。母親は「それなら注意とかで済むのかねぇ?」と言った。注意をするだけのためにわざわざ神奈川から警察が来るわけないじゃないか。「連れては行くと思う」僕はそう言った。
それから早めに仕事を終え、家に帰る。弟が廊下で誰かと携帯で話している。警察が来たことを知って誰かと話してるのだろうか?わざわざ廊下で話さなければならないことなのか?相手は誰なのだろう?とりあえず僕は「ただいま」みたいなことだけ言ってうちの中へ入る。まだ警察は来てないようだ。僕を出迎えた母親が嬉しそうに言う。「給付金のお金で、みんなで夜ご飯でも食べようって、今話してたの、哲ちゃん帰ってきたの久しぶりだし、どこか行こう?」
「は?何言ってんの?警察来るんだよ?連れてかれるよ?」
「だって、警察来てないし、哲ちゃん何も悪いことしてないって・・・」
信じたいんだ。この人は、弟を信じたいんだ。何も悪いことしてないのを信じたいんだ。何事もなく、みんなでおいしいご飯を食べれるのを信じたいんだ・・・。そう思うと身を切られるように切なく、悲しくなった。
「警察は来るし、哲ちゃんは連れて行かれる」
「だって・・・」
そうして携帯が鳴った。警察からだった。
「今着きました。弟さんはいますか?」
「はい」
「ではこれから行きます」
廊下に出た。弟の姿はなかった。どこへ行ったのだ?
下を見ると警察が車から4人降りてきた。昨日の二人に、若い女性と歳のいった男の人が加わっていた。その物々しい様子を見て、母親の顔色も変わった。僕も覚悟をした。
弟は階段のところにいた。警察来たよと言ったら、なんで?というような顔をしていた。
「とりあえず電話を切ってこっちに来て、今来るから」
4人の警察はエレベーターをゆっくりと上がってきた。
「お騒がせしてすみません。神奈川県警の者です」手帳を開いてみせる。
「哲也さんですね?」
「はい、なんですか?・・・車のこと?」
「いや、・・・わかってるよね?」
「わかりません」
「大麻のこと。わかるね?」
「いえ、わかりません」
「とにかくこれから事情聴くから」
母親が言う。「仕事はどうなるんですか・・・?」
「とにかく事情聴いて、それからのことはまたあとで」
弟は料理人として何年か勤めたお店を、不況を理由に解雇され、新しい職場を見つけたばかりで、しかもいきなり料理長に抜擢された。その「料理長」と書かれた名刺を母親に見せた時、母親はすごく喜んだ。その仕事がどうなるかをまず心配したようだった。
そして弟は連れて行かれた。母親は、どうしたのかねぇ、なんだろうねぇ、と繰り返しつぶやいていた。
警察が「お兄さんとお母さん、ちょっといいですか」と言い、うちの中へ呼ぶ。
「真実はひとつです。我々は確信なく今日ここに来たのではありません。間違いないことです。哲也くんは大麻を売りました。今、弟さんはご家族の手前、知らないと言っていましたが、あとでちゃんと話してくれるだろうと思います。やったのはそんなに昔のことではありません、この一ヶ月の間にしています。それに一回だけではありません。でも、お母さん、心配しないで。悪いようにはしません。哲也くんが今真面目に働いているのも我々は知っています。だから会社にも言わない、マスコミにも出さない、おそらく一ヶ月位拘留されて出てこれます。前に捕まったのは10年以上前でしょう?大丈夫です。ただし、本人が素直に『ごめんなさい』すれば、の話です。すべて話してくれればの話です。本人が、知らないとか、事実を隠そうとするなら、もっと延びていきます。本人次第です。我々は早く終えて、反省してもらって、また会社に復帰してやり直してもらいたんです。会社の方には、怪我をしたとか、うまいこといってもらって、哲也くんを待っていてあげてください。後で弟さんと話す機会がありますから、そのことをよく言ってあげてください。お母さん、しっかりして、お兄さん、あとのことよろしくね」
母は涙を浮かべながら何度も深々とお辞儀をし、「よろしくお願いします」と言った。僕も頭を下げた。
警察にそう言われ母親も少し落ち着いたのか、あらためて「なんで、そんなことまだやってたんだねぇ、結婚もする、料理長にもなった、タイでいつかお店出すって夢もあるのに・・・なんで・・・フォンチャンが可哀相だよ・・・大麻ってそんなに止めれないもんなのかねぇ」と事態を受け止めて嘆いていた。
大麻・・・僕も一度だけ吸ったことがある。弟に誘われ一ヶ月ほどタイに旅行に行った時、ある島でタイ人の弟の友達何人かとお酒を飲んでいた時に、軽い感じで一回やった。弟はhip hopが好きなので、タイでもそのつながりで友達ができるようで、マリファナはわりと身近にあるようだった。もっとも弟はタイに行く前からやっていたのだけど。
僕自身は大麻に関しては、覚せい剤や、その他の危ないドラッグに比べれば、害は少ないと言うし(タバコやアルコールより害がないとも聞く)好きな作家の小説やエッセイなんかにも出てくるし、わりと寛容なほうかもしれない。でも、やはり警察に捕まるようなことはするべきではないと思う。それとこれは別だ。じゃあ見つからなければいいのか?と言われれば困るけれども、人が警察に連れて行かれるというのはやはり周りに大変なショックを与えるし、本人も困ることになる。大麻に害が少ないと言っても、法律で禁止されてる日本でやるべきではないと思う。タイでだって違法なのだが。
それと中毒の話になるとやっかいだ。そこから抜け出すのは並大抵のことではないのは十分わかる。でももうそれは、弟の問題だ。僕はそこまで関わりたくはない。
会社には適当に嘘をついておいてと言われたが、いざどう話そうかとなると、母親と二人で頭を悩ませてしまった。警察は怪我をしたとかなんとかと言っていたが、「弟が怪我をしました、今本人が電話に出ることはできませんが、一ヵ月後には元気に働けるので休ませてください」そんな状況が実際あるだろうか?
電話に出れないほどの重症なのに、一ヶ月後には元気に働けるとはどんな根拠があるのだろう?そんな根拠を考え付くことができなかった。一ヵ月後と言わずに「怪我をして重症です、しばらく休ませてください」でもいいのだろうが、そうしても、どんな状態なのかとか、どこの病院かとかになると、ほころびのない嘘をでっち上げなくてはならない。当然お見舞いに、となっても困る。
それなら急にタイに行かなくてはならない用事でも考えようか。電話もできないほどの急用だ。そして一ヶ月間タイにいなくてはならない・・・そんな用事。
あれこれ考えているうち、携帯が鳴った。警察からだ。
「今弟さんの自宅を捜索しています。これから弟さんにいろいろ事情を聞くところです」
警察に聞いてみようと思った。こんなケースをたくさん見てきてるのだ、いいアイデアがあるに違いない。
「先ほど、会社には適当に嘘ついてと言われましたけど、具体的に浮かんでこなくて・・・」
「そんなのは怪我しかないでしょう」
「そうですか・・・いいアイデアがないかと思って」
「とにかく怪我しかないでしょう」
「そうですか・・・」
「それでですね、さっき話した事を、今哲也さんに言ってください、哲也さんは喋れませんが今聞こえてる状態になってるので、一方的に話してください、どうぞ。
どうぞ、と言われても。僕は困った。
「・・・え?さっき話したこと?」
「さっきお母さんと話したことです」
「あぁ・・・、えーと、哲ちゃん、警察は確信もってきてる、たぶん、やったんでしょう?僕もお母さんも、哲ちゃんに正直に全部話して欲しいと思ってる。警察が言ってたけど、正直にすんなり話せば一ヶ月で出れるからって。会社のほうにはうまく言っておくから、復帰できるようにするから・・・えーと、だから」
「じゃあいいですね、弟さんは、言い分があると言ってます、それは聞きます」話を遮るのに慣れてるのだ。
「はい、聞いてあげてください」
「話如何によって状況は変わってきますから」
「はい、よろしくお願いします」
電話が切れた。
警察は、なんとなくいらだってるような、急いでるような感じに思えた。さっきの僕らに話した暖かい言葉と比べるとそっけなく思えた。困ってる身内に対してもう少しなにかあってもいいんじゃないかとすら思った。あるいは逮捕時の身内に話すことのマニュアルのようなものがあって、あのような心強い言葉がかけられたのかもしれない。ドラマにあるような人情的な言葉があるかと思えば、事務的になったりする。警察というものはよくわからないと思った。
「やっぱり怪我で通すしかないって」母に伝え、それからしばらく考えたが、やはり嘘なんかつききれないという結論に達した。とりあえず今日は仕事休みだけど、明日朝出勤しないと、どうしたんだとなる。今日中に会社には電話しておかなければならない。こうなったらもう、さっきは「仕事はうまくするから」みたいに言ったけど、仕方ない、料理長にまでしてくれてもったいないけど、だめだったら、まだ働いて1,2ヶ月しか経ってないところだし、諦めてもらおう。なにせ自分のしたことなんだから。とにかく「一身上の都合で」を押していこう。それで「困る」と言われたら、諦める、クビ覚悟だ。
弟の働くお店に電話して、哲也の兄ですと告げ、店長に代わってもらう。その時点で向こうに、何かがあったのだという緊張が走るのがわかる。代わって出たのは店長兼社長だった。
「実はこの度、大変申し訳ないのですが、○○哲也の一身上の都合で、一ヶ月ほどお休みさせていただけないでしょうか」
社長は若い、30代くらいの感じの人だった。驚いた様子で「え・・・哲也さんになにかあったのですか?」
「はい」
「失礼ですが、どんなことがあったのでしょう?」
「すみません、一身上の都合としか申し上げられません」
「哲也さんの身になにかあったのですか?」
「はい、そうです」
「どのようなことか教えてはいただけませんでしょうか?」
「・・・申し訳ありません」
「哲也さんは今元気でおられるのでしょうか?」
「・・・大丈夫だと思います」
「・・・そうですか」
「すみません、弟が責任ある立場に立たせていただいておりながら、こんな勝手は承知しています、それなら他の方を入れるとおっしゃられても仕方ないと思っています」
「いえ、そんなことはありません、私としましても、また哲也さんに是非働いていただきたいと思ってます」
「ありがとうございます、弟からもそちらでよくしていただいていると聞いています、本人としてもそちらでまた働かせていただきたいと思ってると思います」
「でしたら是非とも、長期休暇という形で休んでいただいて、また戻ってきてもらいたいのですが、うちも会社として、ある程度の理由がわからないと、長期休暇という形を取れないんです、もう少し話していただけませんか?」
この時、すべてを話してしまいたい衝動に駆られた。ここまで言ってくれるのなら信用してもいいんじゃないだろうか?
でもやはり、弟の口から話す以外、僕が話すわけにはいかないと思った。
「すみません、詳しく話すことは今のところ、できません」
「何か、トラブルがあったわけですよね?」
「はい」
「事故か何かでしょうか?」
かすかに突破口が見えた。
「そうとってもらってかまいません」
「大きな事故ですか?」
「詳しくは今わからないんです」
「もう少し詳しい状況を話していただけませんか?」
「・・・少しお時間いただいていいでしょうか」
「もちろんです」
「一度電話を切ります、すみません」そう言って電話を切った。
着地点が見えてきた。社長はいい人のようだ(後でそうでもないことがわかるのだが)。たとえ何が起こっていようと、弟の復帰を望んでくれているようだ。でも本当のことを話すわけにはいかない、ここは、嘘だとバレバレでもいい、事故ということで通そう。そして長期休暇にしてもらう。後で本人の口からどう言うかは本人次第だ。あるいはもうその会社には行けないというかもしれない。でもとりあえず弟に対してできることはしてあげよう、ベストを尽くそう。
少しだけ、母親とでっちあげの、バレバレの嘘を作り上げた。
再び電話する。
社長は「ここは会社の電話なので、周りにスタッフもいます、聞かれたくないので、外に出て携帯からかけなおします」そう言って電話を切った。そして電話が鳴る。
「ご配慮いただきありがとうございます」
「いえいえ」
沈黙。向こうはこちらの話を待っている。
「弟は交通事故に遭いました」
「そうですか・・・」
「原付で走っている時に事故に遭い、先ほど連絡を受けて今母親が病院に向かっているところです。詳しいことはわからないのですが、本人が電話できる状況ではないようです」
「お体の具合はどうなのですか?」
「一ヵ月後くらいには退院できるようです」
「今、入院されているということなんですね?」
「そうです」
「入院先などは教えていただけませんか?」
「それは申し訳ありません」
「わかりました、事故で入院ということなら、こちらで長期休暇扱いにさせてもらいます」
「本当にすみません。本当にありがとうございます」
「弟さんの状況などお兄さんに電話してもよろしいですか?」
「ちょっと・・・出られるかわかりません」
「わかりました。弟さんの回復を祈ります」
「ありがとうございます」
電話を切って、会話を思い出すと、最初に「体は大丈夫と思います」と言っておきながら大事故で入院だし、どこの病院かも言えない、状況を逐一伝えるのも出来ない、まったくおかしな話をもっともらしく話したもんだと思うと少し可笑しくなった。害のない嘘とはこういうものだろうな。
でもとりあえずひとつのバーをなんとか乗り切った達成感があった。うん、悪くない。
あとしなければならないのはフォンチャンに知らせることだ。電話をかける。
まだ日本語が片言なので翻訳サイトを使いながら起こったことを伝える。
「ハロー、フォンチャン、今大丈夫?」
「コンバンワ、オニイサン、ゲンキデスカ?」
「うん、・・・あのねフォンチャン、ちょっと話があるんだ」
「ハイ、ナンデスカ?」
「え〜、実は、Tetsuya trouble happened」
「What?ナンデスカ?」
「え〜、ごめんね、Tetsuya in the police,now」
「Oh!ドウシテ?」
「う〜ん・・・何でかって言うと・・・」
「コージ・・・マリファナデショ?」
「フォンチャン!知ってたんだ!?You know it?」
「ハイ」
「そっか・・・うん、マリファナ、それと、え〜と、Buying and selling」
「Oh!ホントデスカ?」
売買してるのは知らなかったようだ。もちろん買わなければ手に入らないのだが。
「フォンチャン大丈夫?」
「ハイ・・・オニイサンハダイジョブデスカ?」
「うん、大丈夫」
「オカアサンハ?」
「今代わるね」
母親に代わった途端、フォンチャンは泣き出したようだった。母も涙声だった。フォンチャンと母親はすごく気が合った。母親はタイ語も英語もまったくわからないのに、「なぜかなんとなく」会話が成立してしまうのだ。言葉は通じなくても気持ちは伝わるみたいだった。母と話せてフォンチャンも感情を出して泣けたのだろう。僕には出来ないことだ。
12年前は、ショックを母親と二人で受け止めなくてはならなかった。でも今回はフォンチャンがいる。それはとても心強く、助かることだった。それを伝えたい。もう一度電話を代わる。
「フォンチャン、心配しないで、大丈夫だから」
「ハイ、フォンチャン、ダイジョブ」
「あとね、Police said,Tetsuya go out about 1 month」
「ok」
「わかる?」
「ワカリマシタ」
「He confess honestly, go out about 1 month」
「ok」
「But If he not confess honestly,go out long long long…」
「ワカリマシタ」
「フォンチャン」
「ハイ」
「I rely on you(あなたを頼りにしてる)」
「ダイジョブ、フォンチャン、ガンバル」
「ありがとう、ごめんね」
電話を切った。これでひとまずやることはやった。あとは今後どうなるか、警察や弁護士から話があるだろう、それは明日以降の話だ。
ふと一息ついたその時メールの着信音が鳴った。表示された名前を見て、絶妙なタイミングだと思った。それは出来事の終わりを(あるいは始まりを)知らせるチャイムのように届いた。その人からメールが来るのは二週間ぶりだった。そのたわいない内容のメールの返信に僕は「昨日と今日で、うちにとても大変なことが起きた。出来れば15分だけ電話で話を聞いて欲しい」と書いた。ほどなくして「いいよ」と返信が来た。前に電話で話をしたのは一ヶ月以上前だった。声が聞けると思うと心臓が高鳴った。僕はその人に電話をかけた。次は僕が誰かによって癒される番だった。
完




