くろねこのかがみ
部屋にある姿見をのぞいてみる。すると、顔があるべき位置には虚空がひろがり、すねのあたりに顔があった。
手を目の前にかざそうとして、つんのめる。四足歩行なため、前足を上げてバランスがくずれたのである。
一瞬、見えた肉球がやわらかそうであった。今度はきちんとよつんばいになり、そして背中を伸ばした。
もう一度、鏡を見る。アーモンド形の瞳が見つめかえす。夜のように黒い体毛が、顔を、全身をつつんでいた。
どうも、猫になってしまったらしい。
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鏡には、よい印象がない。病室の鏡を思いだしてしまうからだ。
重い病気にかかり、いつ死ぬのだろうと考えながら見上げた白い天井には、鏡がはりつけられていた。現実を、反対にうつしだす、奇妙なアイテム。あんなところにあんなものをつけたやつは、趣味がわるい。
同じように迷惑そうにこちらを見かえす同じ顔をした鏡の中の男をにらむ。にらまれる。
そうしていて不思議なのは、鏡の存在を、だれも気にとめないことである。
あるとき、天井を一心にながめていると、看護師に怪訝な表情をむけられた。視線を、天井にむける。ぱち、ぱちとまばたきをして、首をかしげ、尿のはいったカテーテルをもって、看護師は行ってしまった。それで、気にとめないのではなく、たんに見えないのだと知った。
夜になると、鏡の中に、黒い影がうつりこむようになる。その影に、死神を連想した。死に近い存在にしか、この鏡は見えないのだろう。そう考えると納得できるような気がした。毎晩、影はおおきくなっていき、気のせいか、距離をちぢめてきているように思えた。
不意に目が合った。瞳孔が妙にほそい。影は、そして鏡からぬけだして、下にいる人間の体内に吸収された。
心臓の鼓動、呼吸がとまる。影がはいりこんだ肉体は活動を終えた。
そして視界は暗転し、現在。猫になっている。
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それにしても、この部屋は、いったいだれの部屋なのだろう。見おぼえがない。
ちいさな歩幅で探索する。部屋はひろいのに、置いてあるものといえば、姿見のみである。殺風景、ここに極まれり、といった感じだ。このセンスは、天井に鏡を設置した人物に似たものがある。
ふと足をとめる。歩く地面に、光がうまれたからである。近づいて、のぞきこんでみた。暗い部屋がある。猫の眼球は、すみやかに中の闇に順応した。
地面にあいた窓のようなそれをのぞいてみると、真下に男がいた。見おぼえのある顔だった。30年来、見つづけてきた顔である。
あくまでも“反対”むきに、ではあるが。
目が合う。落下する……