らせん再考
ホラーを科学する小説『らせん』。エクソシストも二作目は、精神面から悪魔という物にアプローチする点でよく似ているが、こちらは見事に玉砕、クソ映画と言われてもまず弁護されないレベルである。人間の姿の貞子さんが出ている点では、『らせん』劇場版はかなり良心的だ。
では、らせんにいってみよう。タイトルが既に出オチで、DNAの二重らせん構造を指しており、この作品のキモがバレているわけだ。
前作の登場人物の解剖から始まる物語というのも衝撃的なのだが、解剖という現実世界の仕事でありながら、死というものに極めて近い、一種の境界線上にたつ仕事に就いている主人公。読んでいくと、この作品には境界線上に立つ人物が多いことに気がつく。
主人公の安藤は、生きる気力を失っているのだが、その現実を忘れるために事件に前のめりになるし、人並みに性欲もあったりする。石としての良識があると思えば、貞子の軍門にあっさり下る。子供に対する愛情は感じるのだが、それは自分のミスに対する後悔であり、再生させられた子供の未来を考えているよりは妻との関係修復の打算も見える。人間の善性より悪性を表現するかのような中途半端な姿勢で物語の中で動きまわる様に見えるのだ。
とうとう再生を果たして、文中でも生きた姿をさらす山村貞子。彼女も実に揺らぎの中で生きている人物だ。短編である『空に浮かぶ棺』、『レモンハート』を読むことで、らせんでの時間軸の貞子の動きや心理が読めるのだが、誕生後はとにかく悪魔だ。他人の不幸は顧みないし自己中心的な考え方をする。そうかと思うと、最後の彼女の人間性のよりどころであった、昔愛した男の許に会いに行き、男は貞子の胸に抱かれたいと言う思いを遂げて息を引き取る。ただし、助ける事はない。生前の鬱々した性格から、再生を果たしたことで自分は一人より上位の存在にシフトアップした事を自覚したのか、万引きを働くなどやる事が大胆になる。両性具有と言うハンデのために、愛する人でさえその事を打ち明けられなかったのに、再生したことで完全なる両性具有に進化したことで人間を見下しているのか、自分の魅力を武器にする事も全く躊躇がない。
性を超越した完全なる両性具有と言うのは、天使と悪魔のような存在ともとれる。もう、人間に虐げられる事はなく、それどころか人類の存在や進化にまで介入できる存在になっているのだ。かつてハンデを背負わされていた物が人類にハンデをさらに重い負わせる。この時点で復讐はほぼ完了している。生命の系統図まで変えようとするのは、彼女が天使や悪魔になることで神に接し、世界のあらましを理解した故ではないか。この点はループに関わってくるので割愛するが、そうでもなければあれだけスケールの大きい生物への介入をするはずがないのだ。彼女はただ、子孫、遺伝子、自分の存在、どれでもいいから残したいと言う思いの結晶として、呪いのビデオを作ったのであって、世界をどうこうしたい願望はなかった。人間より上位の存在になったことでサディスティックな面に目覚めたのかもしてない。そう思うと、かつて愛した男を再生させようとしなかったのは、破滅的な未来に生きることの不幸を背負わせたくないと言う、彼女の最後の人間としての情愛だったのかもしれない。世界と神の世界の境界線を越えたことで、大きなことは望まずささやかな幸せだけを望んでいた彼女の内面に、大きなさざ波が立ったのは間違いないだろう。まるで、オーメンシリーズのダミアンみたいだ。
本作で、もっとも境界線上に立っているのは高山竜司なのだが、同一人物とは思えないほど、二つの作品をまたいで人格が変わっている。
リングでは、豪胆な人物であり、ワルであり、天才であり、子供っぽい所がある複雑な人物として描かれていた。浅川との行動も、彼は本気で友人を助けるためであり、アウトローヒーローの様なキャラクターだった。
だが、らせんになるとこういった面は影を潜める。姿を見せないが、意思を持って安藤を誘導し、物語も主導し、思惑どおりに再生を果たして、山村貞子と結託することで、彼が何度も試行してきたであろうこの世界の始まりと終わりを目撃したいと言う、ある意味では純粋で、現実にはこの上なくはた迷惑な願望を実現しようとする。
リングでの高山は、優秀ではあるが決して人付き合いがうまいタイプではない。だが、高野舞に対して浅川の事を親友と紹介している。浅川は、高山とは対極にいる人物で小物と言っていい。仕事に対するそれなりの情熱はあるのだが、置かれている現状と実力が伴っていない。家庭を顧みていないくせに、家庭人を演じようとするため、表面上は上手くいっているのに妻とはどこか視点がずれている。事件に首を突っ込む度胸はあるのに、いざ事件に、つまり呪いのビデオに遭遇するとビビりまくって、後腐れがなく他にも頼るあてがないので高山に協力を依頼する。依頼しておきながら、自分とは真逆の高山を見て、俺はこいつとは違うと言う意地を張る。
高山は天才すぎる故に、平凡すぎる浅川と気楽に付き合えたのだろう。天才と下手に張り合うと、大抵の人間は挫折する視点際には近づかなくなる。自信損失する恐れがないからだ。だから、張りあったりする事もなく、互いが違いすぎることで客観的に見る事が出来る唯一の人間だから、浅川の事を親友と呼べたのではないか。天才とは孤独なものである。普通、浅川の様な小物とは友達になりたいとは思わないのだが……。
これがらせんになると、同じ知人でも浅川と安藤に対する高山の態度は違って来る。安藤は、大学時代に高山が出した暗号を解いた唯一の人物である。安藤はそれを偶然と考え、絶対に高山には敵わないのだと言うコンプレックスを持ち続けていたのだが、高山の方は違ったようだ。天才で誰も自分の息には届かないと思っていた所に、暗号を解読された彼は、心を見透かされたような恐怖を感じている浅川とは気兼ねなく気楽に付き合えたのだが、安藤に対しては恐怖を初めて与えた存在として買っており、一目おいているライバル意識の様なものが僅かに見える。同じ友人関係であり、相手からは何処かうとまれていても、アプローチが全く違うのだ。
そのため、暗号を解読させるやり方も実に高度で、安藤の能力を知った上での設問を出してくる。その後の行動も読んでいるため、彼のロジックの上で安藤は踊らされ、貞子の肉体を使って再生させられる羽目になるのだが、再生後の高山は「俺の思ったとおりに動いてくれた」と言っている。操っていたのではなく、自分の仕掛けに安藤がどう動いてくるかのゲームと言う勝負を挑んでいたのである。
親友のために駆けずり回り、死のゲームにとことん付き合い殉じていく男。死者でありながら、人間を自分の作ったルールとロジックに引き込み、高度に知的で危険なゲームを楽しむ男。一体どちらが本物なのかと、あまりにも隔たりのある人格の境界に存在する高山竜司。天才児なのか、悪魔なのか。両方なのだろう。そんな彼から語られる人知を超えた存在。ここに、この世界と彼自身の秘密かが隠されていようとは、発表当時は想像もつかなかったし、飛躍の凄まじさに唖然とした。
他にも境界線上にいる人物は多い。前作の主人公である浅川は、主人公と言う役目を果たしたことで作者からも貞子からもお役御免となったか、生と死の狭間で廃人と化す。
今シリーズで最も悲惨な運命を辿る高野舞。高山の現行の推敲を任せられるほどの頭脳を持ちながら、人付き合いは究極に下手。どうも、周りが下世話だと彼女は思っている様なのだが、作品を読む限りでは彼女の方が変人に近いしずれている。惹かれてしまう男も、そのずれに惹かれているのであって、恋愛感情に発展する気配もない。初めて会った浅川も、何でこんないい女が竜司と一緒にいるんだ、と言う違和感が一番印象に強く持っている。この場合、高山の方がはるかに変人なのだが、変人同士で共鳴したのか、周りに理解されないことで理解し合ったのか、二人はいい感じにはなっている。容姿端麗と頭脳明晰、スポーツ万能を兼ね備えていながら、極端に人付き合いが苦手で、その狭間で宙ぶらりんな状態なのが彼女なのだが、与えられた明確な役目は、再生する両性具有の天使と悪魔、貞子の繭である。飛散この上ない運命同様、彼女は暗いビルの取水塔で一人死んでいく。井戸の底で死んだ山村貞子がビルの屋上に見える空に向かって再生を果たしていくのに対し、高野舞はその間にある『空に浮かぶ棺』の中で絶望的な最期を迎える。……、作者はなぜここまで過酷な仕打ちをしたのだろう?
安藤とともに謎を追う宮下は、この境界線で最も賢く、器用に立ち回る。個人との友情をそつなくこなし、組織での出世も順調に進める。良き家庭人でありながら、仕事に対してもしっかりしており、どちらか一方ではなく、両方の折り合いをつけて中間の着地点を見つけてしまう。羨ましい限りだ。
リングウイルスについてもスタンスはわかりやすく、「状況を楽しんでいた」と言うセリフに集約されている。自分に火の粉が懸らない限りは、知的好奇心をくすぐる妙な事件と言う事で面白がり、安藤を焚きつけたりしている。だが、自分にリングウイルスが感染したとなると、主人公そっちのけで真相解明を進めていく。貞子に翻弄される安藤とは裏腹に、ものすごい勢いでリングウイルスの仕組みや増殖方法を解明してしまうのだ。だが、貞子の狙いと自分の命が彼女の手中にあるとわかると、あっさり白旗を上げる。科学者の責任と個人のエゴに折り合いをつけ、いざという時の保険にするのだ。主人公とわき役、常識人と非常識人、凡人とやり手、高潔と俗物。これらを時には選択し、時にはいいとこどりをする。ある意味、この人物が一番まっとうなのだろう。
DNAは4種類のアミノ基が二重らせん構造を描きながら構成され、そこに生命の設計図が作成されていく。一本だけでは作りえず、二本なければいけない。登場人物も、まさにらせんと言う世界の構造で生きるには、境界線上の上に存在するしかないのかもしれない。そして、ウイルス自体、生命と非生命の間で蠢く存在なのだから。