必殺シリーズ
大河ドラマでさえ数字が取れない現在の時代劇事情。確かに、「伊達正宗」に比べると「平清盛」は、時代考証的にはまあまあなのだろうけど、平安時代の作品が少ないだけにとっつきにくい面はある。もっとも、平家の御曹司があそこまで汚かったり、カビの生えた白河法皇の落胤説を採用している点はきついのだが、重盛の母をうやむやにせずにきちんと描いている点は評価できる。謎の女性なのだが、重盛の思慮深さや武将としての才能は、この謎の母親によるものが大きいと思えるほど、宗盛ら下の弟とは違いが大きすぎる。史実とフィクションのバランスがとりづらいのは、大河の宿命だろう。
そんな中で時代劇の数字請負人と言うと、必殺シリーズ。散発的にSPをやっても20%近い数字が保証される鉄板なのだが、なぜ他の時代劇を尻目にこの数字を出せるのか。それは、丁髷を付けていながら時代劇ではないハードボイルドものだからではないか。
仕事人、あるいは他の名称で呼ばれる殺し屋達は、実にシビアな世界で生きている。彼らは正義の味方ではない。死ねば磔獄門、あの世では確実に地獄粋になる連中だ。殺しも大グループに属している時も少人数んで動く時も掟に縛られ、それに背く事は仲間から粛清されることを意味する(実際はされないけど)。
ある意味、これはマフィアに近い。役人の腐敗や金にまみれた商人の間で割を食う庶民の一種の自衛、或は報復システムとして無言の要望としてできたのが、「金で恨みを晴らす」殺し屋という商売である。無論、仕返ししたからと言って誰も救われるわけではないが、ただでは死にたくはないと言うあがきをほう助するビジネスと言える。
マフィアと決定的に違う点は、誰も望んでいない内に生まれ、庶民の役に立っているかどうかは微妙な立場にある。そして、彼らの立ち位置は作品ごとの違いを見せる。
まず仕掛人。これは、『職業』である。しかも、一般庶民が利用することがほぼ不可能な金額が動く、本当に社会の社会の裏側で活動する商売である。『江戸職業尽くしには載っていない』というナレーション通り、人知れない稼業なのだ。
これ以降、必殺は中村主水シリーズとそれ以外に分岐していくのだが、主水の立ち位置を見ていると殺し屋達のスタンスが見えてくる。
主水の初登場は『必殺仕置人』から。仕掛人が組織だったのに対し、仕置人達は合議制によるアマチュアグループ。引き受けるか引き受けないかの基準はないし、ノリで仕置を敢行する所がある。『世のため人のためにならない奴を殺す』と言う最低限のお題目を持つ仕掛人に対し、仕置人は『腹が立つあの野郎を殺る』と言う、身も蓋もない行動理念。でも、『悪の上を行く極悪人』の覚悟と矜持があるため、仕置人たりえる。
次の登場は『暗闇仕留人』。仕置人ラストで解散することになる際、主水は仲間と一緒に江戸を出ようとする。これは後にも先にもない行為で、それだけ仲間意識が強く仕置人と言う活動に情熱を持っていたため。仕留人は、その延長であり夢の続けであった。つまり、この時点でリスクや超えてはならない一線を理解していないアマチュアだったのだ。
しかし、新たに加えた仲間の糸井貢によって、この仕置活動の矛盾を突きつけられ、夢の終わりを迎える。悪人どもを殺して世の中が少しでも変わったか?殺した奴にも愛した奴もいたかもしれないし、彼らにとって俺達はなんだ?ふれてはならない現実に主水は応えることはできない。食うためとも割り切れない。当然だ。自分の中でくすぶる正義感の発露として仕置活動をしてきたのだから。糸井貢の死により、主水の夢は終わる。シリーズも、ここからアマチュアではない稼業の殺し屋達の物語に変わっていく。子も見つつ具も問題提起は、以降のシリーズで殺し屋達にも重くのしかかり、すべてのヒーローや戦うキャラクターに鋭い刃を向け続けている。
次の『必殺仕置屋稼業』になると、主水はなかなか裏稼業に戻らない。情熱がないのだ。情熱だけで突っ走っていたガキの遊びに首を突っ込んで、仲間を失うのがもう嫌なのだ。それでも復帰する決意をした時、彼は被害者の声を聞くことなく、ただ金を受け取って仕事を遂行するようになる。情ではなく掟に従って動くのだ。腕が立つ、それだけで仲間をスカウトするドライさも身に付けた。ただ、この時点でも、最終的に仲間の命を守ろうとするアマの精神は残っている。職業と上の間で揺れ動く、ある意味では現在のシリーズの基礎である。
だが、直接の続編である『必殺仕業人』になると、情もプロ意識もへったくれもない、金がすべての状況にまで落ちぶれる。もはや、矜持も何もない。明日の生活のために、金をむしり取るために仕事をしているきらいもある。仲間意識は皆無だ。金だけで結び付き、稼ぐために組んでいるだけ。出てくる悪人も、悪事を通り越して人間として終わっている悲惨な連中なため、クズとクズの戦いにカタルシスはない。金で動く点ではゴルゴ13に近いのだが、社会の裏側の頂で生きるゴルゴに対し、仕業人はドブ川の中でのたうちまわりながらしぶとく生きる、殺し屋の末路の姿に見える。そんな彼らに訪れるのは、些細なミスによる崩壊と無意味な死。覚悟の上でありながら、心のどこかで夢の延長で生きてきた主水はとうとう超えようのない壁にぶち当たり、無意味な果たし合いにも生き残ってしまう。こうなった以上、彼は表の世界でひっそりと生きていくしかない。仕業人は、すべてを失うリスクの果ての姿を描いた物語だ。プロでもアマでもない、生の人間が裏で生きた揚句に辿り着くゴールなのかもしれない。
『新必殺仕置人』では、旧知の仲であった念仏の鉄と再会する。仕置人時代は非常に仲の良かったグループだったのだが、奉行所の仕事にようやくやりがいを見せていた主水は、会わなかった事にしようとする。だが、人を殺してきた自分が標的になった事を知り、因果応報と言う現実を思い知らされる。そして、表の世界に対する未練を捨て再び裏の世界に戻っていく。この時、主水は『徹頭徹尾、手抜きでいく』と言う。もはや表の社会に希望がないなら、とことん地獄に行くまで裏の稼業をやってやると言う決別宣言である。最終回での崩壊劇でも、主水は仲間を助けるよりも、仲間をはめた連中にたいする怒りを仕事に変えた上で敵のアジトに乗り込んでいく。シリーズ最大の大立ち回りだが、瀕死の重傷の鉄に声をかける事はない。いつか自分もああなるわけだし、わかってやってきた事だからという冷めた想いが見える。仲間への思いを捨てる厳しさ、人を殺す人間に仲間を語る資格はないのだろうか。
『必殺商売人』は、江戸プロフェッショナルと言う枕言葉がついており、殺しのプロとは何かと言う事を考えさせてくる。主水は、今回は別のグループと組むわけだが、信頼関係が皆無なのだ。仕置を遂行するために仕方なく組むのだが、いざ仕置になると無類のチームワークを発揮する。必要に応じて雇用される契約社員の様なシステムと言えなくもない。問題は、主水を襲う悲劇。種なしカボチャの主水に子供ができるのだ。だが、結末は生まれた女児の死産。人を殺してきた彼に、人の親になる資格はないと言う通告である。人としての幸せをつかむ事も出来ない主水は、奉行所で完全に昼行燈になる。昔は、能ある鷹は爪を隠す男だったのに、これ以降は本当に駄目役人になり下がる。
そして、仕事人である。主水が生涯を殺し屋として生きる覚悟を決めさせる(足を洗うとかもう嫌だとかはこの先も言うけれど)きっかけは、彼をスカウトした元締めの言葉で、地獄に落ちた時にこの手で悪いやつらを殺してきたというために仕事人をやるのだと言う言葉。ここで足を洗った所で表の世界で得るものはない。ならば、一人でも多くの悪党を葬った上で地獄に行ってやると言う、ある種の悟りである。中村主水が永遠のキャラクターになったのは、ここにあると言えよう。ここまでいくと、主水にとっては他の仕事人はみんなアマちゃんである。目上に当たる人物と組む事もあるが、皆この主水の覚悟に圧倒されるのか一目おいた様子で『中村さん』と呼ぶ。
前期と後期で何が変わったかと言うと、この壮絶な中村主水の生き方と変遷を受け継ぐキャラがいないからだ。殉職する事もなくなって、ヤバくなると足を洗ったり江戸から出ていくのだが、あっさり戻ってきて活動を再開する。仲間が捕まっても、非情になりきれず血気にはやって行動しそうになる。主水はそこまでしたくてもせずに、表の稼業を犠牲にしたり死を見つめてきたせいか、かなり冷めた目で事の成り行きを見守り、けじめをつけろと言うのみだ。掟に縛られる窮屈さも、合議制による奔放さもなく、何処か部活動的なグループの雰囲気で重苦しさやハードボイルドさがない。これでは、他の時代劇と変わりなく、必殺たりえないのだ。
現在の東山体制の必殺シリーズは、少しずつ以前の空気に戻そうとする姿勢は感じられる。今はもういない中村主水が通ってきた道を継承し、発展させる作品を期待したい。