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馬耳総論  作者: 馬耳東風
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特撮とSFX

 特撮とCG、何が違うのか?アナログとデジタルと言う違いがあるのだが、それは優劣ではない。同じナイフでも、果物ナイフ、菜切り包丁、柳葉包丁、中華包丁と言う様に、様々な種類があり、用途に会った使い方をしないと作業ははかどらないし、ときには怪我をする。目的は一緒でありながら使いどころや方法が違うのが、撮影技術である。

 それに、特撮と言うと『手作り感がある』と言うが、人が造りましたと味が出過ぎたらリアリティがない。演出にケレン味や人間味があってもいいが、それは周りにリアリティがある舞台が整っているから成立するのであって、基本的に作りものとバレてはいけないのである。クリエーターはそこの所に妥協をして言い訳をしてはいけないが、観る方もそこに拘るべきなのかと時々思う。ある意味、それはハリウッドのCGの環境に対するコンプレックスもあると思うのだが。


 特撮、特にミニチュアの良さを上げてみれば、それが『現実に存在する』ものを映す事。生で撮影できるわけだから、重量や現象、効果は真実そのものである。だが、真実を映し出す長所は、それがミニチュアであるという真実まで容赦なく映すという短所にもなりえる諸刃の剣でもあるのだ。ここに、嘘をつき斬るかどうかで技術が問われる。日本特撮界の父である円谷英二は、ここに心血を注いだと言っても過言ではないのではなかろうか。

 「キング・コング」に衝撃を受け、こんな映像を撮りたいと考えた円谷氏。怪獣をやりたいのではなく、現実にはないものをビジュアル化する技術として特撮を研究したわけである。

 円谷英二の名前を高めたのは、ゴジラ以前は戦争記録映画である。そのあまりの精巧なミニチュアや航空映像、寒天で作りあげた海は、GHQが本物と思い込んだほどのレベルである。つまり、円谷氏は「リアル」な画を取ろうとして特撮を作り上げていったのだ。『ゴジラ』にしても、最初は着ぐるみではなく人形をコマ撮りしてやりたかったと言われる。だが、予算とスケジュールの都合から着ぐるみ方式でいく事になり、日本流と言える着ぐるみとミニチュアによる特撮映像作りが誕生する。

 また、ハイレベルの映像を求めながらも、決して血を見せる様な演出は好まなかった。これは、映画を見る子供の事を考慮したもので、晩年の円谷氏は子供の目線に非常に気を使っていたと言う。しかし、求めるクオリティはあまりにハイレベルで、自社作品に対してはとことんこだわるため、なかなかOKが出ず、スケジュールがひっ迫していき、最終的には高視聴率でありながら打ち切りと言う前代未聞の状況に発展する(これを打ち切りと言っていいかどうかは微妙なのだが)。

 これらから言える事は、特撮も当時の技術で最もハイレベル且つクオリティを維持するのに最も適した技術だったのだ。こだわったのではなく、それが一番いい方法だったから選択したのである。そして、その技術に乗っ取った演出がなされていた。実際、ストーリーはともかくとして、映像に関しては70年代の間はハリウッドとそう大差はない。『スターウォーズ』にしても、あるものをうまく加工し映像技術を駆使することでリアリティと面白さを両立しているわけだから、アプローチは変わらない。しかし、『エイリアン』辺りから、デザイン性や発想に差が生まれ始め、日本の映画ファンに微妙なコンプレックスを生んだ様な気がする。


 CGが話題になったのはどの辺りかと言うと、『ジュラシックパーク』からではないかと思う。この作品では、恐竜のほとんどがCGで映像化されている。ロボットのぎこちなさもなければ、安っぽいデジタル合成もない。まさに生き物の様な恐竜が画面に存在する。この時点で、特撮<CGと言う強引すぎる図式が出来上がってしまった。だが、同じ事に作られた日本の恐竜者と言えば、『REX 恐竜物語』や『ゴジラVSメカゴジラ』のベビーだから、負けたと思っても仕方がない。生命を感じる演出ができていないから。

 だが、『ジュラシックパーク』でも最初はパペットやミニチュアを使った視覚効果をする予定だった。デジタル合成の出来があまりにもよく、CG主体の撮影に変わっただけなのである。つまり、質を重視した結果。さらに、実際にはいない恐竜の動きを再現するために、従来のストップモーションや実際の動物を観察すると言うアナログな方法を取り入れている。デジタルとアナログの融合業であるアニマトロニクスも使われたりと、とにかく最も質が高く、説得力があるシーンを撮ると言う事が前提で、これらの技術が生み出され主流になったのである。

 それに、ハリウッドでは予算の奥の部分が俳優のギャラに消えていく。製作費は言うほど潤沢ではなくタイトなものになる。そうなると、CGを使い、そこに人材をつぎ込んだ方が予算を押さえられる。ソフトがどんどん進化することで、クオリティの高い映像を作る事が技術的にも予算的にもハードルが低くなっていく。それでも、現実に存在するものでしか表現できないシーンには、、要所要所でミニチュアを投入する。結局、二次元のものが三次元のものと同列になる事はないのだ。貞子さんやミラーマンの様にはいかないのである。


 下らない事はさておき、日本は製作背景がアメリカとは全く違う。どうやっても、ハイスペックのコンピューターとマンパワーを大量に備えたポストプロダクションを作れない。だから、向こうと同じハイクオリティのデジタル映像と言うのはどうしても無理が生じる。

 ストーリーと映像が見事なまでに融合したエンターテイメント作と言える平成ガメラシリーズ。この作品は、ポイントごとにCGは使われている。だが、クオリティ的には2、3秒しか鑑賞には耐えられない。ガメラの回転ジェットもイリスの飛行も、カットを重ねて高速で動かすことでその粗を視覚で捕らえられない様にしている。そして、メインになるのがやはりミニチュアと着ぐるみとなる。形式美の要素もあるのだが、質量感やエフェクトはミニチュアが一番である。G1では自然光を多用してミニチュア感を消し、G2では砂を使った放水やミニチュアに人を組み入れる技法が取りいれられている。アングルごとにミニチュアの配置などを変えたりする必要があり、非常に手間のかかる撮影であったと言う。

 そして、G3では撮り直しが利かないレベルのミニチュアとして渋谷と京都駅が作られる。ただ、迫力があり過ぎて、怪獣が破壊の背景に過ぎないと言う減点材料がある。怪獣がキャラクターであり、自然現象ではないので、ここがやや評価を下げる要因にはなっているのだが、日本における特撮とは何かと言う一つの基準点を作った事は無違いない。

 逆に、あまりにも大きな看板を背負ってしまって自滅した『GODZILLA』だが、監督がローランド・エメリッヒだったのである程度の予測は、映画ファンの間で少なからず予想はついていた。ゴジラではなく、怪獣映画としてみれば結構面白い作品なのだが……。

 この作品で暴れまわるのは、時速480キロで走りまわるCGゴジラ。であるのだが、実際はミニチュアも使われているし、ベビーゴジラは着ぐるみをCGで増やしている。無論、中に人が入る日本方式だ。アナログとデジタルの比率が日本と逆になっているだけで、結局は最もクオリティの高い映像を撮るためのベストの選択をしているだけなのだ。

 だが、何が違うかと言うと、とどのつまりは宗教観、思想の違いである。日本の神話は、様々な人格を持つたくさんの神々が、非常に人間くさい思考と行動をする世界観だ。アメリカは、人工的にできたキリスト教の新興国と言うのがメインのポジション。唯一神・ヤハウェに似せて作られたのが人間であるから、動物には人格はない。人間以外に人格を持つものは悪魔の化身と言う見方もできる。だから、人格や神格と言ったものを持つ『怪獣』は存在せず、人間が理解できないか、下の層にいる生物としての『巨大生物』しか存在しない。

 日本では、物にも魂が宿る世界観がある。だから、ミニチュアや着ぐるみと言ったアナログに対しても心血を注ぐ。その代わり、デジタルと言う電気信号に対しては今いち魂を感じない。もっとも、Pixivやニコ動などを見ていると、デジタルの二次元にも魂を感じつつあるのが今の日本だと思うのだが。

 アメリカでは、人間は神に似せて作られた存在だから、ある意味この世の主人公。だから、他の生物の命に対する概念が基本的に違う。人間の都合や価値観で考えるため、巨大生物に感情移入する余地はないし、宇宙人にしてもエイリアンやプレデターの様に理解不能の存在として描かれるものも多い。むしろ、理解可能な場合はコメディの要素が漂う。予算と言う都合でデジタルにウエイトが傾こうと、結果を見越した上でのミニチュア使用でも、そこには魂ではなく効率と根本にある思想が見え隠れする。上手くは言えないが、説明しきれない理屈の魂と、ロジックの上に成り立つスピリットの違いとでもいおうか……。


 このように分析してみると、変に外国かぶれしたりコンプレックスをしても、モノにはならないという結論になる。かといって、固執する様な思考も良くない。最もベストな方法を選択しつつ、クオリティを高めるとなると、日本はやはりアナログ比率がデジタル比率より高い『特撮』の国なのだろう。方法論ではなく、完成品から逆算していくとそうなる。東映ヒーローが街中や採石場でガソリンと火薬を爆発させたり、巨人や怪獣がミニチュアを盛大にぶっ壊し、その補助にデジタル技術を使うのが一番美しく心躍る映像が撮れる。そして、リアリティある映画になる。

 特撮とSFX。アナログとデジタル。目指す所は一緒である。だが、道は時に交差し、時に平行線をたどる別物。そこには、技術だけではない、精神や思想に左右されるものがある。日本人であることを主張し、日本を外国に向けて誇りと自信を持って発信してもいいのではないだろうか?問題は、観客側が自信喪失する様な作品しか今の邦画界にはない事なのだが……。


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