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馬耳総論  作者: 馬耳東風
22/22

名セリフ 2

「バッカモーン!」

波平の伝家の宝刀である。これを聞くと、『ああ、月曜日がやってくる……』と憂鬱な気持ちにさせられるが、同時にホッとさせられる。今時、こんな風に他人を怒れる人はいない。波平のこの一言は、叱られると言う意味でのバカモンと言う言葉への免疫を作ってくれるのだろう。ウルトラマンダイナに出演した木之元亮さんは、『愛情のあるバカモンを教えたい』と言っていたが、こういう事なんだろう。



「お前のものは俺のもの。俺のものも俺のもの」

ジャイアニズムの基本理念である。原作では二回登場する。のび太達の諦めきった、達観したような表情が見事だ。ここまで言い切れば、理屈を超越して通用するのが世の中だ。社会の縮図を彼らは教えてくれる。

一番の理不尽な言葉は、『いつ返さないと言った?永久に借りておくだけだぞ!』と言うセリフ。言ってみたい……



「天が呼ぶ、地が呼ぶ、人が呼ぶ。悪を倒せと俺を呼ぶ。俺は正義の戦士、仮面ライダーストロンガー」

単純明快かつ、熱い言葉である。同時に、独善に満ちあふれている様にも聞こえる。一方的に悪と断罪し、己を正義と名乗る。どこぞの超大国のようだ。

だが、ストロンガー=城茂にロジックや理念は存在しない。道徳的に見過ごせない。道理に合わない。人として放ってはおけない行為を悪と言っているに過ぎず、それを許せない自分は、対極の立場として正義だと言っているのだ。『自分が正義だから、お前は悪』なのではなく、『お前達のやっていることは人として許せない。それなら、俺は正義として戦うまでだ』と言う、単純な理屈だ。だが、これが世の中でどれだけ実践できるか……



「後は勇気だけだ」

『サイボーグ009』のミュートスサイボーグ編で、自分より能力が上で、ギリシャ神話のアポロンを名乗るサイボーグと対峙した際に009が発した言葉。アポロンは、自信をサイボーグであると受け入れ、それに従って戦うし、思考する。だが、009はサイボーグでありながら、人としての心を重視、何よりも優先する。性能で自分が負けるなら、最後に残されたのは心から生まれる勇気が相手を上回る最後の武器、その覚悟で戦う。そして、その武器は神々との戦いに身を投じるサイボーグ達を支えていく。



「my name is neo」

エージェントスミスは、最後までネオを『ミスターアンダーソン』と呼び続ける。ネオと言う名は、スミスにとってはマトリックス内の異常、突然変異の名前であり、存在してはならないもの。故に、プログラムである彼は、あくまでマトリックス内の存在の固有名詞であるアンダーソンと言う名に固執する。そして、自らが漂流者となり、マトリックス内を制圧し始めると、すべての統一と言う自分の存在意義を真っ向から否定する存在のネオを制圧する意味を込めて、アンダーソンの名にこだわりと見せる。顔も名前も記号と化しているスミス。すべての法則を無視できるネオ。ネオが自分はネオであるとはっきり名乗ることは、彼らは秩序と混沌の両極に位置する故に、絶対に共存しない運命の象徴である。



「俺にとっては、現実の方が痛いんだ」

『ザ・レスラー』に出てくるセリフ。

プロレスラーとは、虚構の存在として、肉体と精神を削るエンターテイメントである。削って削って、残されたものがレスラーとしての完成系。だが、何かの間違いで、削ることに間違いが生まれたら?

過去の栄光からドロップアウトしていき、インディーの団体で、生活をするのにギリギリのギャラをもらって食いつなぐランディ。それでも、過去の栄光を知る若手たちから尊敬されるし、ファンもついている。だが、現実では、娘から絶縁を言い渡され、肉体を維持するために使用していたステロイドによって、心臓に爆弾を抱える。就ける仕事も限られ、スーパーのパートをするがうまくいかない。上手くいきそうな女性と付き合うが、根本のところで理解し合えない。現実世界に彼が生きる場所は全くない。クソッタレと言われても仕方がない男なのだが、直接言われるのではなく、生きる場所を削り取られる所に痛みがある。声援を送る観客や、自分をリスペクトがいるしてくれる人仲間がいるリングにしか彼の生きる場所は残されておらず、死に場所すらもそこしかない。そんな覚悟で彼はリングに立ち、最後の技を放ったところで暗転し、映画は終わる。見ていて本当に心が痛い映画だ。自分もいつ落ちてもおかしくない恐怖があるからだ。だが、生きる場所を失っても死に場所があったランディは、まだ救いがあったのかもしれない。



「生きている限り、望み捨てず」

すこぶる評判の悪いモスラ。でも、好きなのは、音楽や怪獣の造形と、所々にあるいいセリフのおかげ。

この台詞は、冒頭のナレーションである。誰の言葉なのかは意見が分かれるが、これは復活を待つ鎧モスラだと考えている。『どんなに苦しくても、やらなければならないことがある』と言う覚悟のもと、勝ち目のない戦いに挑むモスラ。何とかキングギドラを白亜紀で相討ちにまでもっていき、息絶えてしまう。だが、キングギドラは再生の布石を打っていた。そして、モスラもまた繭の中で復活戸の時を待ち、鎧モスラとして目覚める。現代のモスラやキングギドラがいると、自分の存在がなくなるため、最後まで見目覚めることはできない。長い時を超えて再び最強の敵と戦うために、勝利するために、一億年以上もの間、希望を捨てなかったモスラに、キングギドラが勝てるはずがない。

逃げたいこと。避けたいこと。それらは、必ず存在する。だが、それを乗り越えない限り、自分の望む結末は存在しない。死んだら何もしなくて済むが、何も叶えられない。生きる限り、戦い続ける。だが、その先には希望がある。持ち続けなければならない。絶望を乗り越えたものにだけ、希望を現実にする権利が与えられる。



「もう二度と、この橋、渡ってくるんじゃねえぞ」

必殺仕事人において、江戸を去る仲間の左門に主水がかける言葉。

殺し屋は所詮殺し屋。何かしかの代償を払う。殉職は当然。主水の様に、地獄の道連れである仲間の死を見続けることも代償と言える。そして、家族に巻き込まれることもそうである。左門は、裏稼業に巻き添えで妻を殺され、子供は記憶をすべて失う。最後の仕事を終えて江戸を去ることにする左門。主水はどこに行くのかと尋ねるが、それは言わないと断る左門。ならば、二度とこの橋を渡って江戸に帰ってくるな。仕事人の世界から足を洗えと言う意味の餞別の言葉がこの台詞である。そこまで言わせる仲間と別れなければならないのも、仕事人の掟であり、宿命であり、代償である。



「10%の才能、20%の努力、30%の臆病、後は……、運、だな」

ゴルゴ13が、一流のプロフェッショナルであり続けるための極意を聞かれた際に応えた言葉である。

基本的に、ゴルゴは依頼人や協力者に余計なことは言わない。恐らく、この時はいくらか機嫌が良かったのだろうが、実に貴重でためになる言葉である。

やはり、才能はプロにとって必須である。だが、それは仕事を成功させる上で一割の要素に過ぎない。

努力は、自分で何とかできる唯一の事。この努力の部分を、ゴルゴはプライベートな時間でも怠らない。己に厳格なルールを課して実行することも努力と言える。

ゴルゴは、自身を『ウサギの様に臆病』と評する。いつ、どこで自分を狙うものが現われるかわからないのだから、警戒心は常に研ぎ澄まされている。そして、自分自身の慢心を封じるためにも、『ライオンの様な勇気』より『ウサギの様な臆病』の方が生き残っていくために必要なのだ。

これらの事を兼ね備えることで、運と言う不確定要素を40%まで抑えることができ、驚くべき強運を物にする事を可能にすることで、ゴルゴ13は超一流のプロフェッショナルたりえるのだ。



「ワトスン君」

究極の偏屈男であるシャーロック・ホームズ。点は二物を与えるのだが、彼に与えなかったのが友人。作中、ホームズの友人はほとんど出てこない。スコットランドヤードの刑事とはかなり打ち解けているのだが、友人まではいかない。大学時代の同級生は、それなりに親しかったが、極めて稀な例。女性に対してはかなり変わっていて、軽蔑している所もあるのだが、敬意を失う事はない。一度、女性に出し抜かれた事もあるので、『油断してはならない生き物』と思っている節がある。唯一、下宿の管理人のハドソン夫人には、かなり感謝の念を抱いている。得体の知れない客が訪れ、異臭を放つ化学薬品を取り扱い、時間を考えずにバイオリンを弾き、拳銃を室内で発砲するホームズを、多額の下宿料を渡されているとはいえ住むことを許しているのだから、尊敬して当たり前だろう。実際、失踪後に初めてロンドンに戻った時には、すぐにハドスン夫人の所に行き、部屋をそのままにしておいてくれたことを感謝している。

そんなホームズが唯一『友』と明言しなくても認めているのがワトスンだ。下宿料が払えないのでルームシェアしようと言う、ムシのいい話に乗ってしまったのがワトスンの奇妙な運命の始まり。最初の頃は、ホームスはワトスンの事を見下していた節があるし、ワトスンにしてもホームズを、究極の変人だと思っている。せっかく、事件をベースに自伝的小説を書いてくれて宣伝になったのに、対して小説を読んだりしないくせに批判しまくるホームズに、ワトスンは何度かキレている。早々と結婚して下宿先を出るのも、我慢の限界を感じていたととられてもおかしくない。何しろ、暇だからと言ってコカインに手を出すクズ野郎と一緒にいたら、ストレスは無限に増えていく。

だが、これだけ偏屈自分に真正面から付き合ってくれることに、ホームズも感謝はしていた様で、自分の命が狙われていた時に頼っているし、害が及ばないように気遣いをしている。一度、毒薬で死にかけた時にワトスンが救ってくれ、つい本音で感謝の念を口にしてしまった時もある。晩年、ダメ出しをし過ぎて、『そこまで文句を言うなら、自分で小説を書け』と言われて、自分で事件ファイルを描くことになってしまい、初めてワトスンの苦労を知り、才能を誉めることになる。



「何が始まるんです?」「第三次大戦だ」

一部でカルト的人気を誇る、アーノルド・シュワルツネッガー主演の映画、『コマンドー』からの台詞だ。

一応、この台詞を取り上げたが、この映画には他にも印象に残る台詞が多々あり、テレビで放送されると、実況版が立てられるほど強烈な台詞が出てくる。吹き替え版だからこその言い回しだが、俳優の個性を消すどころか際立たせることに成功し、最強の魅力を放っているのだ。難しいことは言わない。

                   『みてこい、カルロ』



「彼が私の影なのではない。私が彼の影なのだ」

小説家のモーリス・ルブランの言葉だ。

アルセーヌ・ルパンと言うキャラクターを生み出した彼は、元々はこういう身吸うテリーや冒険ものを書きたかったわけではなかった。だが、どう見てもこっち方面の才能に秀でている。理想と現実の差だ。結局、彼は一度だけルパンを小説の中で殺している。だが、数ページ後には死にきれずに、第一次世界大戦に参加させている。第一次世界大戦と言う世界大戦と言う社会情勢と、ルパンと言うキャラクターに観念したのか、この語、ルブランはルパンと言うキャラを使って本格ミステリーから社会派、純愛、怪奇、歴史、戦争物など、様々なジャンルの小説をルパンと言うキャラを狂言回しにして書くことに成功している。ルパンをコントロールすることを諦め、自由気ままに顔や名前を変えて動き回るルパンに付随して、彼に似合う物語を書いていくのだ。ここまでルパンを認めていないと、亡くなる直前までルパンの小説を書きはしない。最後の作品となりそうな『ルパン 最後の恋』も発見され、フランスで出版されているので、いずれ日本でも翻訳版が出版されるだろう。

ここまで自由自在に動きまわり、リクエストに応えるキャラクターを生み出せるのは、今なら作家冥利に尽きるだろう。また、ルパン自身がデビュー作で、鏡に映る自分と鏡に向かっている自分の区別がつかなくなり、本当の自分の顔がどれなのかもわからなくなると言っている。ルブランも、自分が主なのか従なのか、自分がルブランなのかルパンなのか、曖昧になっていたのではないだろうか。何しろ、晩年に過ごしていた別荘の近くで『先生ですよね』と言われても、双子の弟ですと言って煙に巻いていた彼の姿は、ルパンそのものではないか。



「法は罰するだけで、悪を是正することができない事が多すぎる」

ディック・フランシスの『連闘』の文中に出てくるセリフ。

人が他人と接する上で、無法は互いに不幸をもたらす。自由とは、自らに責任を持つこと。故に、それぞれが責任を持って生きるには、互いにルールを守り、侵害することは許されない。よって、法ができるのだが、社会を守るためにあるのか、罰を与えるための装置であるのか、社会が高度かつ複雑になると、一体どちらなのかがわからなくなる。罰を与えることで抑止力にはなる。だが、罰を与えずに済む社会、悪が根絶できなくても是正されていく装置になりえるのか?かと言って、自警行為や私刑を許せば、それは無法に繋がる。永遠に答えは出ず、その中で人は生きるしかないと言う諦めと覚悟のセリフではないだろうか?

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