再評価
発表された時はあまり芳しくなかったのに、後に高い評価を得たり、リバイバルブームの様に評価されていく作品と言う物は多分にある。
先日放映されて、映画公開時同様にテレビ視聴率でも見事に爆死した『宇宙戦艦ヤマト』も、最初の放送より再放送などでようやく世界観や人物像が理解されて、正当な評価を得たのは再評価と言うテーマではわかりやすい例。『機動戦士ガンダム』もまたそうだし、特撮では第二次ウルトラシリーズは21世紀になってから評価が随分と上がった。この再評価とは一体なぜ起きるのか?
あくまで、自分の感覚や言葉で語ってみるので、主観だと言う事をあらかじめ言っておく。
まず、あまりにコア過ぎて、視聴者側の脳が処理しきれないと言うのがあるのではないか。普通であれば、作り込んだ世界観を下敷きに、できる限りわかりやすく物語を構築するのが王道なのだろうが、あまりに緻密勝つ精密な構造の世界観や設定を作ると、既成の常識が邪魔をして、一度の放映では理解できず頭が過熱してしまう。そして、時間を置いて冷静に俯瞰して様々な角度から見直すと、初めて見えてきて理解できる事が多々ある。
要は、マニアックすぎて理解できないのである。本来であれば、発信する側と受信する側は5:5、対等であるのが一番わかりやすい。バランスも取れている。発信する側の比率が高まると、理解されなくなる可能性が強まっていく。マニアックゆえに、思考が一緒でないと理解できないからだ。
では、マニアックがいけないのか?別に悪い事ではないし、物を創造する人と言うのは何処かマニアックだ。豊富な知識を深く理解することに苦を感じず、さらにそれを発信しようと言うのは、ある意味で何処か人と違う思考がないとできない事だからだ。ブログでさえ、身の回りの人間でどれだけ書いている人がいるか。それだけ、自分のアイデアを不特定多数に発信すると言うのは、実に変わっている行為であったりする。
マニアックの深みに足を踏み入れるほど、膨大で奥深い知識を収集し、処理していくことになる。興味のない人にとっては苦痛でしかないが、これを楽しめる人であれば、それがどんなジャンルであれ、あなたはマニアックの一面を持っているのだ。つまり実に変わっている行為でありながら、一方では日本国民、いや、世界中の誰もがその資質を持っている事になる。問題は、プロになるほどその足を踏み入れる世界が、常人ではもう入っていけないほどの複雑な構造になっていくことだ。
素人がただ嗜む程度では、プロと言う金を稼ぐ立場では生きていけない。自分の持つ世界の果てを超え、深淵を覗かなければたくさんの創造物の中で自分の作品のオリジナリティを出す事ができない。そして、何人たりとも理解できない世界に入り込み、出来上がった作品は常人にはすぐに理解しきれないものになる。理解しきれないから面白くない。結果的に評価されないまま終わるが、何度も見たり思い返したりするうちにはっと気がつく事が現われ、面白さに気がつく事ができる。それが再評価の一つの仕組みではないかと思う。
また、時代の先を行きすぎた、という表現がされる事もある。これは、コア過ぎて理解されない事にも関わってくるのだが、その時代の価値観や情報では理解できないほどの発想の飛躍により、発表された時代の人間がついていけないため、情報を蓄積した未来にならないと評価されない、或は繰り返して接する時間がないと理解が何回になると言える。
例としてあげるなら、『ブレードランナー』。これは、『アンドロイドは電気羊の夢を見るのか』を基に作られた映画であるのだが、原作とは関係ないタイトルがついた上(一応、そういうタイトルの小説はある)、通常のSFヒーロー物を連想させるようなタイトルとは裏腹に、台詞以外で展開する心理描写を追わなければ物語を理解できない複雑な作品となっている。加えて、後に発表されたディレクターズカット版により、全く異なる解釈が与えられ作品のあり方そのものが変わっていく。
何故、そこまで内容が変わりかねない編集をしたのか?結局の所、撮影上の事情で発生した、『六人目のレプリカント』と言う設定の矛盾が放置された結果、監督が『デッカード=レプリカント』というアイデアを思い付き、それを臭わせるカットを撮影したが、芸術的過ぎて難解だ、つまり商業映画としては不向きだという判断で公開版になった。二次創作的発想で、正史の裏や出来事や解釈の仕方で正史の展開がガラッと変わるイフストーリーに近いものとも言えなくもない。例で言えば、『リング』から始まり、、呪いの科学解釈の『らせん』、呪いは呪いの『リング2』にいくか。発信は一緒でも、一カ所の解釈でまるで違う作品になるわけだ。
『ブレードランナー』は、わかりやすいはずの公開版でも観客が不入りだった。『スターウォーズ』や『E.T』などがSF映画の主流の時代だ。観客の思考および嗜好に合うはずがない。だが、その退廃的な未来と言うそれまでとは違ったアプローチの未来のビジュアルが鮮烈な印象を残し、じわじわとファンを獲得し、サイバーパンクの原典とまで言われる地位になる。
この地位までいくと、ファンの解釈も多種多様になり、深淵に入っていく。そうすると、かつてボツになったリドリー・スコットのアイデアに、世間が追いつく様になる。結果、全く違う解釈の作品と言える『ブレードランナー ディレクターズカット版』が世に発表される。
後づけ設定なのに、「やっぱり!」と思わせるこの展開。作品のテーマやクリエーターのセンスが時間を置いてファンと共鳴するのは、考えさせられる面がある。これまで自分が見た作品で、駄作や愚作と思ってしまった作品から、大輪の花を咲かせるものが眠っていないとは言えないわけだ。面白くない作品は存在するだろう。だが、それは存在しなくていいものではない。石ころの中に花が混じっている事もあるし、駄作を肥しにして成長する作品もある。無駄な作品など存在しない。再評価とは、スタートで出遅れたり、逆にフライングしてしまって失格になった作品にもう一度与えられる、敗者復活の場なのかもしれない。そして、圧倒的な強さを示した時、正当な評価を勝ち取るのだろう。
こんな宝を人より先に発掘すると言うのは面白さだけではなく、自分のセンスを少し自慢できる事でもあるので、なかなか楽しいものかもしれない。




