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馬耳総論  作者: 馬耳東風
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大長編ドラえもん

 毎年、春の映画の風物詩である大長編ドラえもん。だが、その売り上げとは裏腹に、評価はあまり厳しいもの。自分も同じ感覚を持っている。

 声優に関しては別にいいのだ。人はいつか死ぬ。突然の別れより時間をかけてその時を迎える方がいいし、前声優陣の衰えは顕著だったし、あまりにもドラえもんが道徳的、よい子になり過ぎた。それを原作に揺り戻すきっかけとして声優の総入れ替えになったわけだし、ドラえもんのキャラクターも毒のある短気な中古のネコ型ロボットとしての一面が見えるようになった。面白くない原因は、もっと他にある。


 まず、怖さやダークさがない

 ドラえもんは本来ギャグ漫画である。しかも、あっけらかんとした雰囲気に、毒のあるセリフや描写が多数見受けられ、それがメインなのだ。カオスと言ってもいい。

 無表情にバカだのアホだの言い放つドラえもん、暴力性をユーモアとペーソスを利かせて描かれるジャイアン、本当は無自覚なSの一面が存在するしずかちゃん。実は、サクッ社の趣味などが最も濃厚に投影されているスネオ、思いやりと射撃とあやとり以外は、究極の駄目人間として描かれるのび太。作者の「自分はのび太」発言は、数少ない特技に特化して生き残ったから、君達も自分の光るものを精一杯磨けば強く生きていける、と言う意味だったのではないか。のび太でも自分の様な存在になれると言う軽い言葉だったのではない様な気がするのは自分だけだろうか。

 このような現実的なものを表現するとなると、ストレートに描くのはあまり得策ではない。子供漫画を主戦場にしていた作者にとって、自身の作風を殺さずに描くにはユーモアと言うオブラートが必要だった。それも、味が感じるギリギリの線で。これが、原作に漂う一貫した空気である。ブラックユーモアに彩られたギャグ漫画。だからこそ、ストレートなメッセージが異彩を放ち、心に残る副作用も作用する。

だが、今のドラえもんは、特に劇場版で顕著なのだが、感動が持ち味だと勘違いしてしまっている。感動は、心の奥底にあるスイッチにそっと触れることで作用するのだが、あまり何度もバンバンと叩くとスイッチが壊れてしまう。要は感動の押し売りである。作者が死去する前の映画は、決して感動させる作品ではなかった。結果的に感動するのである。これは、コミック版のドライなタッチを見るとなおさら顕著になる。むしろ、怖さが目立つ。

 本気ででタイムマシーンを撃ち落とそうとする。殺し屋と直接対決しなければならない。丸腰のまま武装した兵士と対峙する。核の発射を止めるため決死の突撃を試みる。時空の流れを泳いでいく魔法正解の魔物。見つかれば死を意味するディストピア。圧倒的な兵力で侵略を仕掛けるロボット。鬼化した母親が階段を静かに上ってくる。たった一つの隕石で生態系が崩壊する現場に立ち会う。神隠しと時空間乱流と言うSFとオカルトの融合の不気味な解説。あげればきりがない。

 扱う題材、シチュエーション、敵。すべてに論理的な怖さが存在する。そこまで子供を対象とした漫画でやるのかと言うほどに。これらを乗り越えた所にすっとくる感動、これは押しつけではないのだ。

だが、近年は表現に対する規制や、ドラえもんに対する偶像崇拝や神格化により、どうしてもきれいな部分しかみせない。そうなると、感覚がマヒして感動を帰って感じないし、鼻につく様になる。どくに、作者の生前の作品をリアルタイムで見た者ほど、このにおいに敏感になってしまい、評価が厳しくなる。


 ドラえもんのイメージの固定化も一つの要因である。

 繰り返すが、本来のドラえもんはいい子ではない。短気で、ケチで、子守りロボットとは思えないほどのび太と喧嘩し、中古やネズミ嫌いというコンプレックスを抱えるネガな存在である。のび太とは、親友であり、腐れ縁であり、悪友であって、保護者ではないのだ。

この傾向が崩れるのは、作者の死後から急速になる。藤子F不二夫のドラえもんではなく、テレビ朝日や声優陣のドラえもんに変質していったのだ。結果、ドラえもんは、「あたたかい目のつもり」ではなく、「真にあたたかい目」で見守る存在となるし、駄目さが薄れた普通の子供、ジャイアンは乱暴者と言うより押しが強いくらいの存在に変わっていく。過激な発言もNGと自主的になった。結果、声優陣は懐かしんでも、末期の作風は受けつけられないと言うファンが存在する不思議な事態になる。

「キャラ崩壊」、「原作レイプ」という表現があるが、実は緩やかに国民的キャラにまでなったドラえもんもこの現象に巻き込まれていたのではないか?原作者のコミックではなく、アニメの方がオリジナルとなってしまったことで、現在の原作に比較的近いキャラクターを持つ水田ドラが受け入れられない状況が生まれてしまっている。きつい言い方をすれば、我々は二次創作のドラえもんの姿がオリジナルのドラえもんだと刷り込まれていたのではないか?


 原作とアニメがかい離してしまう事は往々にしてある。これは仕方ない。媒体も違うし、アニメになれば脚本家や監督と言う存在があるため、キャラクターへの解釈やアプローチが変わるからだ。だが、そうであったとしても、本来持つ魅力を失ったり、本質を履き違えていいと言う事にはならない。もし逸脱するのなら、原作に負けないセンスを見せて欲しいのだが、近年のドラえもんは過去の遺産を切り崩しながら生きている様にならない。お金ははいるが、それでは計り知れない何かがなくなっているのではないか。財産はあるものではなく作る物。今のドラえもんは、何を残しているのだろうか。

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