6:ただ安らかに
竜里が倒れたころから、一年。あれから多くのことが、変わった気がする。
一八歳になったアタシは依然変わりなく、竜里のそばにいることを許されていて、長い間結婚しろと竜里に言い続けていた雅灯さんは、竜里が倒れたあの頃を境に、結婚のことを全く言わなくなった。
二十二歳になった竜里は相変わらずの性格で、でも床に伏せることが多くなった。
誰もがきっと、気づいている。だけど誰もがきっと、口に出すことを恐れている。
竜里はきっと、長くない……。
「竜里、林檎貰ったっ。」
籠にいっぱいの林檎を、雪葉さんから貰った。
甘い甘い、真っ赤な果実。
床の中にいた竜里は、部屋に入ってきたアタシを見て体を起こす。
なんだかひどく、眠そう。
「寝てるとこだった?」
「別にいいよ、いつも寝てるようなもんだし。」
寝てばかりであっても竜里の爪は遊女のそれのように綺麗に整えられているし、長い薄紫の髪はさらさらと揺れる。
「林檎、剥いてあげるよ。」
竜里がいる布団の横に座り込み、アタシは小刀で林檎を剥く。
するすると皮は剥けて、赤い色の下から白っぽい実が現れる。
「眠い。」
ふとそんなことをいう竜里に、アタシは苦笑する。
いつも寝ているようなもんだと言ったのは自分なのに。
「そんなに眠いなら、寝たらいいのに。」
アタシの言葉に、竜里は視線をこちらに向ける。
髪とは違い、しっかりした色素をもつ、濃紺の瞳。
「眠たいんだけど、寝れないんだよね。
なんていうか、眠たいというよりも起きてるのが辛いって感じ。」
そう言った竜里は、アタシを見て少し悲しげに笑う。
白い指がアタシへと伸ばされ、大きな手がアタシの頬を包む。
「イツク、泣きそうな顔してる。」
「だって、竜里…っ。」
頬を撫ぜていた手が頭へと移動して、アタシの黒い髪を優しく梳く。
竜里の白い指と、アタシの黒い髪が交差する。
「そんな顔しないでよ。まだ時間あるから、そんな顔しないで。」
時間があるって、竜里はいつも言うけど、そう言ってる間に竜里の体はどんどん弱ってきた。
雅灯さんが竜里に結婚しろって言わなくなったのは、結婚しても子供が残せるほどの時間が竜里に残ってないからでしょう?
そんな思いだけがアタシの胸に渦巻いて、アタシはひどく複雑な気持ちになる。
竜里が元気だったころは竜里が結婚してしまうの、あんなに嫌で仕方がなかったのに、今になれば竜里が結婚できないことが悲しくて仕方がない。
竜里は嘘つきだ。
敏い竜里は自分が長くないこと、気づいてないはずないのに、アタシの前ではいつもそんなことないよって言う。
アタシを、不安にさせないために。
そしてアタシも、嘘つきだ。
そしてアタシは、我儘だ。
竜里に結婚してほしくなかった理由に、ずっと前から気づいてる。
それはきっと、竜里に初めて逢ったときから変わらない気持ち。
アタシは自分が死神と呼ばれる存在であるとわかっていながら、竜里と釣り合わない存在であるとわかっていながら、竜里の隣にいたいと思っていたんだ。
誰にも、譲りたくなかった。
他の女に奪われるだなんてまっぴらごめんだった。
竜里が優しいから、その優しさに甘えて、アタシは何も言わなかったの。
アタシは、竜里が好き。
嘘をつくのは、得意なつもりだった。
幼いころから足の先から僅かな髪の先まで残すことなく、この世界に浸かって生きてきたから。
だけどこんなに、ばればれの嘘をつくことになるとは思ってもみなかった。
安っぽい嘘は、嫌いだった。
どうせつくのなら、ばれないように完璧な嘘をつきたかった。
それでも彼女が泣かないためなら、いくらだって安っぽい嘘をつこうと思った。
それが何と呼ばれる感情なのか、ずっと前から気づいてる。
だけどそれを言葉にしてしまったら、彼女を守り続けることができないから、その言葉を必死に隠してきた。
だけど近頃、その言葉を紡いでしまいたい気持ちにひどく駆られている。
死期が近くて、俺もだんだんおかしくなってきたのかもしれない。
はらはらと舞い落ちる雪を見ると、彼女と出会った日のことを思い出す。
あの日までは確かに、雪が好きだったわけじゃないのに、あの日の存在でそれは、確かに特別なものへと変わった。
仕事を抜け出して立ち寄った町にあった、小さな教会。
屋根の上には大きな十字架が掲げられていて、それはひどく綺麗で、心奪われて…同じくらいに憎かった。
俺は教会や聖書や讃美歌が好きだけど、それによって祀られているあの神様は、俺が営んでいるような仕事をしている奴を、受け入れやしない。
綺麗な綺麗なそれらのものは、本当に悲しい場所にいる人間を、救ってくれはしない。
好きだけれど、憎いそれを見上げていた俺を、彼女はひどくまっすぐ見つめた。
多くの人が天姫と敬い、多くの人が水商売のものと蔑む俺を、彼女だけがただ見つめた。
教会のせいでいらついていた俺に、鋭い言葉を投げつけられたのに、なぜか彼女は帰ろうとした俺を引きとめた。
自分で引き留めたくせに、彼女は自分が怖くないのかと俺に尋ねた。
俺に怖くないかと尋ねておきながら、怖がっていたのは彼女だった。
俺に怯えているわけでなく、あえて言うならば、彼女は彼女に怯えていた。
そして自分以外のすべてに、怯えていた。
だから俺は、守ろうと思った。
紡ぎたい言葉を隠してでも、彼女がずっと笑っていられる世界を作ろうと思った。
あのとき俺は、死なんて怖くないと言ったけれど、今は怖くて仕方がない。
誰にも言わないし、ばらすつもりもないけれど。
イツクを置いて死んでしまうのが、何よりも怖い。
降り出した雪はやむことなく降り続け、天姫殿を白の世界へと染め上げる。
中庭にもたくさんの雪が積もっていて、十分に雪だるまが作れるけれど、一緒に作ってもらうことができないので、アタシはそれを諦めた。
竜里の体調は依然良くならず、近頃の彼は布団の中で辞書をめくっている。
辞書なんか見て、面白いのかな?
竜里はアタシよりずっと頭がいいので、もしかしたら面白いのかもしれない。
竜里の昼食を受け取って、部屋の方へと戻る。
部屋に近づくと、微かに歌う声が聞こえてくる。いつもと同じ、竜里の大好きな讃美歌。
柔らかい歌声は、耳に心地よく、それを聞いてると幸せな気持ちになる。
「イツク、何してるの。」
部屋の前で立ち止まっていたアタシの意識を、竜里の声が引き戻す。
我に帰ってみれば、アタシはお盆を持ったまま、襖の前で立ち止まっていた。
「何ぼーっとしてんだか。」
そう言って微笑む竜里の声は優しくて、アタシもつられて笑みを作る。
竜里は布団から起き上がり、アタシが持っていたお盆をもって、すたすたと部屋の中に行ってしまう。
アタシも慌てて竜里を追って、部屋に入る。
「竜里っ起きてもいいの?」
「たまには動かないと、体なまっちゃうでしょう?
ほら、早く自分の分のご飯も持ってきなよ。待っててあげるからさ。」
優しい竜里の笑顔に見送られて、アタシは自分の分を取りに行くべく部屋を出た。
パタパタと駆け足で出ていくイツクを見送って、俺はお盆を床に置く。
足元には、先ほどまでめくっていた辞書の姿。
「イツク…いつく、しむ…。」
こないだふと思い出して、辞書でひいてみたイツクの名前。
慈しむと一緒に載っていたのは、別の“いつくしむ”で。
思わず、笑みが零れた。
視界に入った瞬間に、これだと思った。
“アイ”という字に慈しむと同じ送り仮名をつけても、それは愛しむと読むらしい。
何が、変わったと言うのか。
何かが、変わったと言うのか。
それは全くわからなかったけど、死期が近くなって心が変わったのだと、思うことにしてみた。
「イツク。これ、見て。」
いつものように、俺のあげた聖書を読んでいた彼女を、手招きして呼び寄せる。
今日はずいぶんと調子が良く、彼女の元まで行けなかったというわけでもなく、ただそうしたかっただけ。
布団の中で、体だけ起こした俺の膝の上に置いた辞書を、彼女は覗き込む。
俺の指さす先を見て、彼女は首をかしげる。
「イツクの、名前。」
何を言われたのか、さっぱりわからなかった。
思わずポカンとしたアタシを見て、竜里は小さく笑みをこぼす。
何度目を瞬きしても、そこにあるのは“愛”と言う字で。
「竜里、この字、アイだよ?」
アタシがそう言うと、竜里は笑って、ページをめくる。
“あ”のところから移動して、“い”のところへ。
「いつくしむって、愛情の愛でも、愛しむって読むんだって。」
そう言って竜里が指さした先には、愛しむ、と書かれていて。
思わず、涙が零れた。
イツクの、漆黒の瞳から透明の涙が零れる。
その涙を指で拭うと、イツクの漆黒の瞳が俺に向けられる。
それが無性にいとしくて、無意識のまま、俺はイツクに口付けた。
「ろん…り?」
驚いたんだろう、放心しているイツクがおかしくて、思わず俺は笑いだす。
そんな俺にイツクは我に返ったのか、真っ赤な顔をして怒り出す。
「なっ…なにがおかしいのよっ。」
そんな風にイツクが怒っても、俺の笑いは止まらなくて、
声を出して笑ったのなんていつぶりだろうと、頭の隅で考えた。
やっと笑い終わった俺を、イツクが責めるような視線で見る。
確かに彼女が責めたくなるのもわかるとこだが、それがまた俺の笑いを誘う。
思わず笑みが零れるほどに、いとおしいと思う。
「好きだよ。」
初めて紡いだ俺の気持ちに、イツクはもともと大きな漆黒の瞳をさらに大きく見開いた。
それが無性に可愛くて、無性にいとしくて…俺は彼女が呆けている隙に、再びその唇に口づけを落とす。
「そんな、こと、聞いてないっ!」
真っ赤な顔をしてそう言うイツクに、俺はまた笑みを零す。
今日初めて紡いだのだから、彼女が聞いてないと言うのは当たり前すぎることで。
「もっかい言ってほしいのなら、言ってあげるけど?」
そう言った俺に、イツクは息をのむ。
真っ赤な顔して下を向いてしまったイツクの手を掴んで、その顔を覗き込む。
「イツクは?」
手加減なんて、してあげない。
待ってあげられる時間なんて、俺には残されていないから。
「アタ…シは、」
その先は、紡がれることなく、俺とイツクの体は、宵の闇へと消えていった。
少し無理をさせてしまったのか、気絶したように眠るイツクを見て、俺は小さく微笑んだ。
彼女の胸元には俺の散らした紅い花が散っていて、白い肌とのコントラストが、ひどく綺麗。
さらさらと流れる漆黒の髪に小さく口付け、俺は彼女の頭を撫ぜる。
「愛してる。」
寝ている君に届かなくても、それは俺が紡ぐたった一つの真実。
あれから一月、あの日のことが嘘だったように、竜里は弱り、死んでしまった。
天女のいる遊女屋は、天女を失い、
アタシは竜里が最後まで紡ごうとしなかった言葉の意味を知った。
『天姫の妻となった女は、表の天姫殿の責任者とならなければならない。』
そう言った雅灯さんの言葉で、アタシはすべてがわかった。
アタシだって気づいていたんだ、竜里がアタシを守ろうとしていてくれたこと。
竜里がアタシを、人の目に晒される位置に立たないでいられるようにしてくれていたこと。
アタシの容姿は、人に蔑まれ、人に嫌われるそれである。
アタシは自分が誰かを傷つけることに怯え、同時に誰かに傷つけられることに怯えていた。
だから竜里は、アタシに楽園をくれた。
優しくて綺麗で、みんなアタシに優しくしてくれる、そんな楽園を。
何も言わなくても、誰と争わなくても竜里は隣をアタシのために用意してくれたから、
アタシはそれに甘えて、その位置を自分の力で手に入れようとしなかったの。
竜里はアタシを守るために、わざと言葉を紡がなかったと言うのに。
そうやって竜里は、アタシを表の天姫殿の責任者にさせないために、たくさんのことに気を配った。
だけどそんな彼にもたった一つだけ、本当にたった一つだけ、ミスを犯した。
「雅灯さん、天姫殿さえ構わないのなら、アタシは表の天姫殿の責任者になるよ。
天姫はいなくなってしまったけど、アタシは天姫の妻になる。」
天使のように綺麗で、悪魔のように冷たい、人間らしい優しさを持ったあの人が残してくれた、たった一つの奇跡の欠片。
竜里が死んだあとに気付いた、体の違和感。
アタシのお腹には、竜里の子供が宿っていた。
産まれた子供は、男の子で、思わず笑ってしまうくらいに、竜里にそっくりだった。
きっとこの子は、天姫殿を継ぐだろう。
薄紫の髪と、濃紺の瞳の子供を抱き上げて、アタシは微笑む。
次代の天姫は、幸せそうにアタシの腕の中で眠っている。
天姫殿は、幾重にも折り重なった、嘘にまみれた幻想の館。
多くの女たちが男たちに金を出させるための嘘を繰り返し、ひどく美しい女のかんばせは本当のことを言うような顔で、たやすく嘘をつく。
そんな中でたった一つの真実は、天姫の唱える愛の言葉なのだと、雅灯は言った。
唯一本当の愛を紡ぐことの許された天姫に、多くの遊女は恋い焦がれ、その心を欲するのだと言う。
今は天使のような顔で眠るこの子も、いつか誰かに、愛の言葉を紡ぐのだろう。
柔らかな薄紫の髪は、キラキラと輝き、アタシに幸せをくれたあの人のことを思い出す。
天姫殿は、まだまだ続いていく。
嘘にまみれた幻想の館は、小さなこの子にとっては重荷になるのかもしれない。
それでもアタシは、竜里がくれたこの世界を守りたいから、この小さな子に天姫殿から一字を取って、天と名付けた。
「愛、そろそろ仕事だぞ。」
その声にアタシは立ち上がり、天をゆりかごに寝かせ部屋を出た。
天女は一人だけの女のために、手の届くところに降りてくる。
男となった天女は女に愛の言葉を紡ぎ、そして幸せを捧げてく。
天姫が何代と続こうと、女にとっての天姫は一人だけ。
アタシの天姫は、竜里だけ。