2:闇に身を置くもの
彼に腕を引かれてやってきたそこは、ひどく立派な建物で。
煌びやかなそこには、美しい女の人たちがいっぱいいて、それでもやっぱり、この“アマキ”という彼ほどに美しい人はいないように見えた。
アタシのこの黒い色合いのせいか、歩けば歩くほどに周りの人による騒音はひどくなる。
その中で時折聞こえる、“アマキサマ”という言葉。
どうやら彼は、あの高慢な物言いのとおり、ここでは偉い地位にあるらしい。
「天姫っ」
人ごみの中から、よく通る凛とした声が聞こえた。
多くの女の人の間をかきわけるようにして現れたのは、鮮やかな緋色の髪と濃紺の瞳をもつ、
アマキと同じくらいに綺麗な人。
まぁ…男の人だったんだけど。
「ただいま、タエ。」
「タエじゃない。白妙と呼べって何度も言っているだろう。」
呆れたようにそう言って、タエと呼ばれたその人はため息をつく。
濃紺の瞳はとても、アマキと似た色合いをしている。
「タエがだめなら、みー君って呼ぼうか?母さんが呼ぶみたいに。」
幾分も年上の彼をからかうかのようにアマキは笑う。
妖艶な微笑みというのが相応しいようなその笑みに、アタシは目を奪われる。
「……タエでいい。それより天姫、仕事中抜けだすだなんて何事だ。」
「別にいいじゃない。今日は特にやるべき仕事もなかったんだし。
天姫殿にいることだって立派な仕事だ、ってタエは言うけど、
ただ座ってニコニコしてるだけって結構暇なんだよ?」
「お前がいつ、ニコニコと客に愛想振りまいたって言うんだ…。」
脱力、呆れ、そんな風にアマキはタエを振り回す。
疲れた風のタエを見て、アマキはにっこり笑う。
「でも安心していいよ。今度からは抜け出さないから。
そのためにわざわざ拾ってきたの。」
そう言ってアマキは、ポンとアタシの肩に手を置く。
そこで初めてタエの視線がアタシに向き、彼は大きく目を見開く。
「えっと…竜里?俺には……その子が犬猫であるようには見えないんだが。」
「うん、人間の女の子だけどそれがどうかした?」
爽やかに言い切るアマキにタエは脱力している。
…というか、アタシはアマキデンが何かを教えてもらうためにここに来たんじゃなかったっけ?
「だってタエが、どうせ面倒見切れないんだから犬猫は拾ってくるなっていったんだよ?
だから面倒なんて見る必要のないものを拾ってきたの。
犬猫を拾ってくるよりは、ずっといいでしょう?」
ただただ綺麗に、アマキは笑う。
外にいた時はひどく不機嫌そうな顔をしていたのに、ここに入ったとたん、にっこり作ったような笑みを浮かべるアマキにアタシは目を白黒とさせるしかできない。
「とりあえずその子、人目に付かないところにでも連れてってやれ。
俺たちは気にしないけれど、そうじゃない人だっているんだからな。」
タエのその言葉に、アタシは自分の長い髪を慌てて手で隠す。
だけど背中の中ごろまである長い髪は、アタシの小さな手で隠しきれるはずもなく。
そんなとき、アタシの頭に柔らかいものがかぶせられる。
よく見てみると、それはあの時アタシがつかんだ、アマキのコートで。
「それ、持っててよ。」
一言そう言って、アマキは歩き出す。
アタシはアマキのコートを頭からかぶったまま、慌てて彼の後を追う。
歩いても歩いても、そこにいるのは綺麗で煌びやかな着物を着た、綺麗な女の人ばかり。
時折すれ違う、綺麗な女の人と仲睦ましげに歩くお金持ちそうな男の人。
アタシの生きてた世界とは、全く別の、綺麗な世界。
「ねぇっアマキさん、ここって何するとこ?」
そう聞いたアタシを、アマキは一瞥する。
アマキの濃紺の瞳は冷めているように見えてとても深みがあって何を考えてるのかアタシにはわからなかった。
「オンナを、抱くところ。」
はっきりと言われたその言葉に、アタシは何を言われたのかとっさに理解できず、目を白黒とさせる。
その言葉が、綺麗すぎるこの場所とアマキにあまりにも似つかわしくないものだったからか、ぽかんとするアタシにアマキは皮肉げに笑い、もう一度繰り返す。
「天姫殿。
天女のように美しい女を神殿のように美しい建物で、金次第でいくらでも抱ける、そんな場所。」
そして彼は一番奥にある部屋の前で止まり、襖を開ける。
現れたのは豪華で品のいい調度品で飾られた豪華な部屋。
「そして俺が、十八代目天姫殿当主。今の、天姫。」
長い薄紫の髪を翻し、天姫は部屋の中に入る。
傲慢で美しい、天女の館の主。
部屋の襖をあけたまま、いきなり服を脱ぎだした彼にアタシは驚く。
「ちょ、なんで服脱ぐのっ!」
文句を言うアタシを変なものでも見るかのように彼は見る。
女の子として普通の反応であるはずなのだが、彼の周りの女の子はこんな反応はしないとでもいうのだろうか?
「さっきのタエとの会話、聞いてたでしょう?
俺はまだ仕事があるの。だから仕事着に着替えるだけ。」
そう言って彼は着替えを再開する。
アタシはとても見てられなくて、頭からかぶっていたコートを顔までかぶる。
信じられない、もう少し気を配ってくれてもいいと思うなどと思いながら。
「何、コートかぶってるの?」
そんな言葉と共にコートを奪い取られ、
そこにいたのは煌びやかな女物の着物に身を包んだ天姫の姿。
廊下にたくさんいた女の人たちと同じようにその裾は引きずるような長さで。
彼女たちと違うところは、彼女たちは前で帯を結んでいたことに対して、天姫は後ろで帯を結んでいるということか。
先ほどまでは背中を流れていた長い薄紫の髪は高い位置で一つに結われている。
「なんで、女物の着物なの……?」
アタシの問いに小さく彼が首をかしげ、長い薄紫の髪を結いあげた白い簪が小さく揺れる。
「天姫殿の天姫は、天女を抱ける館の、唯一手の届かない天女だからね。
“天女”である限り、その中身が男であっても女の姿をしているのは当たり前だろ。」
女にはとても見えそうにない長身でありながらも、中性的な顔立ちの天姫は、その衣装がひどく似合っていた。
「あぁ、それと…天姫じゃなくっていいよ。
アマキは仕事上の名前だから。あんたは竜里って呼べばいい。」
「ろん…り。アタシは、イツク!イツクって、言うの。」
大きな声でそう言ったアタシの頭をポンとたたき、竜里はゆっくり笑みを形作る。
「あと一刻ほどしたら仕事終わりだから。
そしたら戻ってくるから、ちゃんとここにいてね。ここにある本、適当に読んでいていいから。」
そう言って竜里は部屋を出ていく。こうしてアタシは、竜里のモノになった。
あれから、幾らか経っただろうか…。
アタシは天姫殿での生活に慣れ、毎日優雅にのんびりと暮している。
基本的には竜里の部屋にこもり、本を読みふける毎日。
今まで本なんて読んだことなかったから文字を読むことはできなかったけど、空いている時間を見つけて竜里や白妙…雅灯さんやその奥さんの雪葉さん、竜里のお母さんの樋摘さんが教えてくれたので、アタシはすぐに文字を読むことができるようになった。
本は楽しい。
アタシの知らない、いろんなことを教えてくれる。
本の他にも琴や三味線など、アタシの知らないいろんなものがあり、竜里は少しずつアタシにそれらを教えてくれた。
天姫殿にいる多くの人の中で、先ほどあげた数人以外の人はアタシの容姿を恐れた。
でもその中にたった一人だけ、アタシの容姿を気にせずに仲良くしてくれる人がいた。
天姫殿一の遊女をあらわすという太夫の称号をもつ遊女、香梓ちゃん。
「イツクちゃん。」
鈴のなるような可愛らしい声をした香梓ちゃんは、竜里と同じ十八歳。
十三歳だったアタシは竜里に拾われて一年、十四歳になった。
竜里の部屋の外から顔を出した香梓ちゃんの姿を見て、アタシは顔を綻ばせる。
少しだけ癖のある長い空色の髪と橙色の瞳の可愛い可愛い香梓ちゃん。
「こんばんは、香梓ちゃん。」
アタシがそう言うと、香梓ちゃんはこんばんはと返し、部屋の中に入ってくる。
そしていつもとは違う部屋の中をきょろきょろと見回す。
「天姫は…いないのね。」
アタシ一人だけだった部屋の中、部屋主の姿を彼女はいつも探す。
「竜里は、樋摘さんに呼ばれたからぶつくさ言いながらも行ったよ。
もうしばらくしたら、帰ってくると思う。」
アタシの言葉に、香梓ちゃんはそっかと言って笑う。
香梓ちゃんはきっと、竜里のことが好きなんだろう。
「香梓、また来てるの?」
声をした方を向くと、男物の着物に身を包んだ竜里が、襖の横で眠そうに欠伸をして立っている。
雅灯さんが樋摘さんが呼んでるって言いに来た時、竜里はまだ寝てる時間だったから、アタシが無理やり起して向かわせた。
いつもより起きる時間より早かったからまだ眠いのだろう。
「天姫、おかえりなさい。」
「竜里、おかえり。」
「…ただいま。」
竜里はそう言って、アタシの膝に乗っていた本をどけて、そこを占拠する。
竜里はスキンシップが好きなのか、人がいても普通にアタシの膝を枕として使う。
例えそれが、竜里のことを好きな香梓ちゃんの前であっても。
「半刻したら起こして。」
そう言い残して、竜里はすぐに眠りにつく。
いつも思うことだが、竜里はとても寝つきがいい。
「天姫がそうしていたら、イツクちゃんは天姫が起きるまで動けないじゃない。ねぇ?」
そう言って苦笑する香梓ちゃんはどことなく切なそうで、
アタシは手持無沙汰な手で竜里の髪をなでた。
香梓は最初から、他と違う目で俺を見てた。
物心つく頃から先代天姫であった父は亡くなっていて、代役としてタエ…雅灯が天姫についていたけれど、それでも彼は直系の人間ではなかったから、十二になる年に俺が天姫になることは決まっていた。
幼いころからその立場に在るべき人間として注目されていて、俺は人に注目されることに慣れていたからなのか、香梓の視線が他とは違うことにすぐ気付いた。
熱を孕んだ、別の視線。
だけど俺の興味はそんな香梓にさえも注がれることなく、あの日教会の前で出逢った一人の子供に注がれることとなった。
何にも染まることのない漆黒の色を持つ、何かにひどく怯えながらも、誰よりも俺をまっすぐ見た少女。
今まで俺に向けられるものは畏怖やら尊敬やら同情やら香梓が向けるようなものばかりで、イツクのようにただ映すと言うだけの視線を向けてきたのはイツクが初めてたった。
俺が初めて興味を示した存在。