08 : 絵本の話。3
魔法遣いは言いました。
【願いを叶えてあげる。けれども代わりに、わたしの願いも叶えて欲しい】
青年は頷きました。そして魔法遣いに言いました。
【あなたの願いを叶えよう。だから、わたしの願いを叶えて欲しい】
青年の快い返事に、魔法遣いは微笑みます。青年も微笑みます。互いに微笑みあい、互いに手を取ります。
【王となるべき者よ、そなたはなにを望む】
魔法遣いは青年に訊ねました。
【魔法遣いよ、わたしはあなたを望む】
青年は答え、そして魔法遣いを抱きしめました。
【魔法遣いよ、あなたはわたしになにを望む】
青年の問いに、魔法遣いは少し躊躇って、そして答えました。
【愛するものが欲しい】
そしてふたりは結ばれました。
「なんかちゃっちい」
幾度読んでもそう思う絵本を、海衣は飽きもせず読み、そして少しは自由になったこちらの言語で文句を言ってみる。
「言葉が達者になってきたのはよいことだけれど、どこでそんな言葉を憶えてくるのかな」
「え、ナツメとジョエル?」
「ああ、先生が悪いのか……駄目だよ、僕を真似なさい。カイは女の子なんだよ」
「むり。陛下の言葉、きれいすぎ、発音できないもん」
「まったく……しかし、ちゃっちいとは失礼だね。それはとても貴重な本なのに」
「だって陛下、これちゃっちいんだもん」
「僕はわりと好きだけれどなぁ……どうしても駄目?」
絵本は、人好きするらしい皇帝陛下ギルヴィレスが、ある日いきなり持ってきた。その来訪は唐突で、そして意味がわからない来訪であったから、海衣は驚いて慌ててナツメの影に隠れたわけだが、ナツメがあまりにも自然に陛下と会話し、そして陛下は優しげな笑みを浮かべると丁寧に自己紹介してきたので、ジョエルとのやり取りを思い出させて海衣から警戒心を取り去った。
皇帝陛下は、こうして対峙して話をすると、実はとても暢気でのんびりで、そしてゆっくりとした感覚の、おそろしく皇帝らしくないただのお兄さんだった。
この人、本当に皇帝陛下なのだろうか。
この国の最高権力者だなんて、嘘としか思えない。
そんな感想を抱く、のんびりとしたお兄さんだ。
「だめというか……いいんだけど、おわり? 簡単すぎ」
「まあそこは仕方ないというか……うん、その絵本はね、ジョエルとナツの師が書いたものなんだよ」
「えっ、そうなの?」
「それも実話でね」
「うわ……」
実話を絵本にするとは。それを「ちゃっちい」などと言ってしまった海衣は、瞬間的に蒼褪める。しかし、結末が簡単過ぎるというのは、陛下も思っていることのようだった。
「最後はぼかしてあるから、よくわからないことが多いね。でも、おじいさまも本当のことだと言っていたから、嘘は書かれていないはずだよ」
「おじいさま?」
「ああ、僕のね」
「んん? 魔法遣いは陛下のおばあさま?」
「そうなるかな」
ナツメとジョエルの師は、陛下のおばあさまであるらしい。ジョエルやナツメをこの国に留める影響をもたらした魔法遣いだ。その人は、優しさに押し潰されて亡くなったと、ジョエルは言っていた。
「とてもやさしい人だった?」
「どうだろう? 話には聞いているけれど、そもそも僕が産まれる前に亡くなられているからね。おじいさまも詳しくはわからないようだし」
「え、ちょっと待って? おじいさまが、ねがいを魔法遣いにかなえてもらった人とちがう?」
「違うよ」
「ええっ?」
ちょっと待て、混乱してきた。
「陛下のおじいさま、魔法遣いと恋をした人?」
「いいや。その息子だよ」
「はっ?」
どういうことだ。
「これは昔話だよって、教えなかった? もう百年くらい前の物語だよ、その絵本の内容は」
思わず沈黙。
え、ナツメとジョエルって、何歳ですか。
「あの、つかぬことをお訊きしますが」
「ああ、随分と発音が綺麗だね。だいぶ語彙も増えているのかな。その調子で、僕の口を真似なさい。うん、なにかな?」
にこにこと笑う陛下に、海衣は引き攣らせた笑みを浮かべる。
「その、魔法遣いというのは、長命なのでしょうか?」
「うん」
うわ、さらりと肯定してくれましたよ、陛下。
「といっても、僕らより五十年くらい長いのかな? 精神的な感覚は僕らふつうの人より、少し成長速度が速いけれど。だから僕は焦っているのだよねえ」
焦っている、と言った皇帝陛下は、ちらりと、海衣から視線を外した。陛下が見ている先には、出先から帰ったジョエルと、そしてジョエルに引っ張られてくるナツメの姿がある。ふたりは今日、協会という魔法遣いの組織に呼ばれて出かけていた。
「僕にとって曾祖母の魔法遣いが、ふたりの師……だから僕は、焦ってしまうんだ」
「……なにをあせるの?」
問うが、陛下は苦笑するだけで、その目許に寂しさを浮かべるだけで、答えてくれなかった。だから、言いたくないことなのだと思った。
「なんの話をしていたの?」
到着したジョエルに、陛下は優しく微笑む。
「絵本の話。僕が以前渡した絵本、カイには納得できないみたいだよ。僕もそうだけど」
「ああ……最後はぼかしてあるからね」
テーブルに置いていた絵本を視界に入れると、ジョエルは懐かしそうに目を細めた。だから、この絵本が本当に師であった魔法遣いが書いたものなのだとわかった。
「カイエ、ただいま」
ジョエルにそれまで引っ張られていたナツメが、ただいまと言いながら抱きついてくる。その抱擁を受け止めてから、隣の席を促した。ジョエルも陛下に促されて、陛下の隣に腰かける。
「絵本、ナツメの師匠が書いたもの?」
「ふぅん?」
興味なさげに、ナツメは自分でお茶を淹れて、カップに口づける。
「読んだことある?」
「ない」
「え、ないの?」
「つまらないだろ」
まあ確かに、最後はぼかしてあるらしいので、最後まで読むとちょっとどころかかなりもの足りない絵本だ。それでも、内容がどこか惹かれるところがあったから、海衣は飽きもせず繰り返し読んでいた。
「師匠が書いたもの、すこしくらい読んでみればいいのに」
「おれには関係ない」
本当にそう思っているのか、眠そうな顔は美味しいお茶に和んでいた。和み過ぎで本当に眠ってしまいそうになっている。
「懐かしい本だけど、まあ、わたしもあまり好きではないかな」
ジョエルがそう言った。
「どうして?」
「素敵な話ではないからね」
「……そうなの?」
「わたしが見た限りでは、ね」
長命だという魔法遣い、その魔法遣いでもあるジョエルは、この絵本が描かれた頃の、その真実を見ているのだろう。
海衣は、テーブルに置いていた絵本を手に取り、じっと見つめた。
陛下は、なにを想って、これを海衣に見せたのだろう。ジョエルが好きではないという、ナツメは関係ないという、この絵本を。
「ところでジョエル、きみの言いつけ通り、僕はきみたちがいない間ずっとカイのそばにいたよ」
「ああ、そういえばそんな話したね」
「ご褒美はなにかな」
うきうきとし始めた陛下に、ああだからお茶会らしきものをここで開いているのか、と海衣は理解する。
ここはナツメの家で、お茶会らしきものが開かれているこの場所はその庭だ。それもかなり広い庭で、周囲は木々に囲まれている。海衣は今のところ、ここより外を知らない。虚弱な海衣を心配したナツメとジョエルが、まずは外に慣れることから、と始めているからだ。もう少ししたらここより外、敷地外に連れていってくれるという。
陛下はこの庭のどこからか現われて、「お茶をしよう」と海衣を誘ってきたわけだが、そういえばどこから入ってきたのだろう。見渡す限り木々、言ってしまえば森の中にここはある。陛下についてきた騎士のような人たちも、同じようにどこからか現われたので、それはとても不思議な現象だ。魔法遣いのナツメだから、そういう、なにか仕掛けのようなものがあるのだろうか。
「そうだねえ……カイも随分と言葉が達者になってきたし、そろそろいいかもしれないね」
「え、ジョエル? 僕のご褒美だよ?」
「もちろんその話だよ。ねえ陛下? もうひとり、魔法遣い要らない?」
「もうひとり?」
海衣をひとりにしないでそばにいた報酬を、陛下はジョエルに求めていた。だから、まさか自分にジョエルの視線がくるとは思っていなくて、海衣は幾度か瞬きする。
「あたしが、どうかした?」
「カイ、魔法遣いになろうか」
「へっ?」
素っ頓狂な声が出た。なぜならそれは、あり得ない提案だからだ。
「ああ、それはいいかもしれないね」
「へ、陛下? あたし、そんな力、ないよ?」
「いや、うん、それいいよ。そうしなよ、カイ」
陛下が賛成してしまう。
そんな無茶な、と海衣は慌て、うとうととし始めていたナツメを揺さぶった。
「な、なつ、なつめっ」
「んぁ?」
「おきて!」
「……起きている」
「ねてるよ!」
「起きた」
「あたし魔法遣いちがうよ!」
「ん?」
話を呑み込んでいないナツメに、ジョエルがもう一度、「カイを魔法遣いにしようかと思って」と言う。眠そうな顔をしていたナツメは、怪訝そうな顔をした。
「くれてやる気はない」
え、なんのことですか。
「わたしもそんな気はないよ。だから、口実だね」
なんの口実ですかと言いたい。
「それならいい」
認めてくれちゃったナツメに、海衣は肩を落とす。
「だから、あたしにそんなちから、ない!」
「なくていい」
『意味わかんない!』
「カイエ、言葉がわからない」
興奮したあまり日本語が出たらしい。とたんに不安そうな顔をしたナツメに、両の手のひらで頬を包まれた。
『落ち着け、カイエ。また具合を悪くする』
頭に声が響いてくる。言い返すように、海衣はナツメを睨んだ。
『あたし、魔法遣いじゃない!』
『ああ、そうだ。カイエはおれと同じだ。世界から零れ落ちた』
『魔法遣いになれない!』
もとの世界から放り出されてしまうほど、海衣は役立たずだ。ポンコツな身体は、なにかあるとすぐに熱を出し、ベッドと仲よくなる。そこに海衣の意思はなくて、身体は言うことを聞かない。
こんな身体、要らない。
要らないと思った罰が、もとの世界から放り出されたことだ。
落ちた世界で拾ってくれたナツメも、関わってくれたジョエルも陛下も、みんな一様に優しいけれども、海衣の身体はそれでも虚弱で、どうしようもなく壊れている。
この世界でも、要らないと思ってしまうこの身体。
次はどこへ、捨てられるのだろう。
『カイエ、カイエ、だいじょうぶだ、おれがいる』
『いやだ! あたし、いやだ!』
役立たずだと、言われるのはいやだ。
要らないと、放り出されるのはいやだ。
捨てられるのは、もっといやだ。
寂しい。
ひとりはいやだ。
『カイエ、ああ、おれもいやだ。ひとりはもういい。だからおれのそばにいろ、カイエ。だいじょうぶだ』
暴発する心を宥めるように、ナツメに抱きしめられる。そのぬくもり、その優しさに、海衣はすがらずにはおれなかった。