07 : 絵本の話。2
レヴァルゥド帝国、というらしいセラン大陸のアヴィシュ世界に海衣が落ちて一月ほど立つと、続いていた体調不良がいくらか回復の兆しを見せた。というより、ベッドからあまり離れられなかったので、気がついたらだいたい一月くらい経っていた。
そしてこちらの世界、アヴィシュ世界は、海衣がいた地球の生活水準より少し遅れているくらいで、現象の根源は違うようだが電気のようなものもあればガスのようなものもある。ないのは、精密な機械だ。たとえばそう、自動車のような乗りものや、携帯電話のような小型の通信機がない。海衣が身近に感じていた機械がとても少ないのである。
一月足らずの生活は、海衣がそれらを知るには充分な時間だった。
「あたしは、カイエ。あなたは、ジョエル。あなたのお名前は?」
「うん、上手い発音だ。次、今日はいいお天気ですね」
「きょうはいいおてんきですね?」
「よし。明日は晴れるかな」
「あしたははれるかな」
「いいね。口の動き、昨日よりよくなっているよ。この調子で上級編に進もうか」
ベッドの上で、実はそれほど具合が悪いわけではない海衣は、翻訳機能がナツメと同じく備わっているジョエルに、語学の家庭教師をしてもらっている。わからない単語や発音できない単語は、手を繋いで意思の疎通を図りながら教わるので、これがなかなか覚え易い。ナツメもそうやって言語を教えてくれるが、ジョエルほどわかり易く教えてはくれないので、というか教えることに不慣れのようで、勉強はジョエルに任されたようだった。
「じょうきゅうへん、あしたから?」
「そうだね、明日から。今日は終わりにしよう」
「おわり! お茶しよう!」
よし今日のぶんは終わった、と海衣はベッドを抜け出すと、この一月で覚えた部屋の間取りを、迷うことなく隣へと進む。そこはナツメの勉強部屋のようで、たくさんの本や紙が乱雑に散らばっている。その中で足許に気をつけながら、棚に腕を伸ばして茶葉を手にすると、寝室に戻った。
「ジョエル、いい?」
「準備はできたよ」
それまでそこにはなかったティーセットが、自身も魔法遣いだというジョエルの魔法で、いつのまにか用意されている。
「今日のお茶はなにかな?」
「んー……かる、かう? かうあれ?」
茶葉の入った缶のラベルには、読めそうで読めないこちらの文字が表示されている。いくらか読めるようになったとはいえ、こちらの世界の幼児よりも識字がない海衣には難しい文字だ。
「ああ、カルカネン。それなら茶菓子はクオネの焼き菓子かな」
ぽん、と音を立てて、ケーキが現われる。ジョエルの魔法は本当になんでもできるから面白い。
「おいしそう!」
「それはよかった。カイは甘いお菓子が好きかい?」
「すき!」
甘過ぎるものは得意ではないが、こちらの世界は全体的に味が薄く、濃い味で育った海衣にはもの足りないところがあった。それでも、こちらの世界の甘味はちょうどいい。
いそいそとお茶の用意をして、いただきます、とケーキを頬張った。
美味しい。
海衣が黙々と食べている間、ジョエルはのんびりとその様子を眺めていた。
「カイは表情豊かでいいねえ」
「ん?」
「いや、可愛くない弟を持つとね、心が荒むから」
ジョエルはときどき、ナツメを「弟」と呼ぶ。魔法遣いの師が同じらしく、しかも血縁にあるのだとか。だからジョエルはナツメを「弟」と呼ぶ。
「ナツメ、かわいくない?」
「最近は少し可愛いけどね。カイのおかげだな」
ありがとう、とジョエルは微笑む。今日もジョエルは美しい。
「あたしも、ありがとう。言葉、しらないこと、おしえてくれて」
早口でない限り、こちらの言葉は理解できる。ジョエルは努めて気遣ってゆっくり話してくれるので、こうして語学が着実に習得できるのだ。聞き取りだけならどうにかなる。
「食べ終わったら外に出ようか。ここ一月、ずっと頑張っていたからね、気晴らしにどうかな?」
「そと出たい!」
「じゃあ、まずは周りから。ここがナツの家だっていうのはわかっているよね」
「うん」
「城に繋がっている、というのは?」
「しろ?」
「皇城だよ」
意味がわからなくて首を傾げたら、ジョエルが手を取って頭に言葉を響かせてくる。
『皇城、皇帝陛下の居城だよ』
「こっ……っ?」
吃驚した。
皇帝陛下がおわす場所に、この家が通じているとは。
『驚くことかな? 前に、わたしらはこの国唯一の魔法遣いだって、教えなかった?』
いや、それは聞いたが、まさかお抱えの魔法遣いだとは思うまい。
『まあ、魔法遣いを従わせる国なんて、このレヴァルゥド帝国くらいだけどね。魔法遣いっていうのは、基本的に自由奔放なんだ。隠居するとき以外はあちこち歩き回っている。その素性を隠して』
数が、人数が少ないという魔法遣いは、協会と呼ばれる組織には所属しているが、集団でいることは少ない。一か所に留まっていることもない。ふらふらと、世界中を歩いている。だから、ジョエルやナツメのように、一定の国に定住することもなければ国に従うこともないそうだ。
なぜジョエルとナツメは、他の魔法遣いと違うのだろう。
『ん? ああ……わたしらの師がね、この国を愛してしまったんだ。それはもう、魔法遣いという命を捨ててしまうほどに』
師の影響で、自分たちも離れられなくなった。ジョエルはそう言って笑った。
『魔法遣いって、そんなにすごいの?』
自分も声を発せずとも言葉をジョエルに聞かせられると教えられてから、海衣は響いてくる声に自分も響かせるようにしていた。
そうやって問うと、ジョエルは困ったように笑った。
『なんの力もない者にしたら、それはもう偉いというか、すごいというか、まあ恐ろしいだろうね。だから逆に力がある魔法遣いは、その力を自覚してからは、とても傲慢になる。自分を支配できる者など、この世界にはない……そんな感じでね』
逢えばとてもムカつく連中ばかりだよ、とジョエルはため息をつく。
『じゃあふたりの師匠は、力に溺れなかった魔法遣いだね』
『力に……ああ、そうだね。お師さまは、ちょっとどころかかなり優しい人だったからね。そして自分の感情にとても素直な人だったから』
少し悲しそうな、寂しそうな吐息だ。
『もう、いないの?』
『死んだ。優しさに押し潰されてね』
『……ごめん』
『どうして謝るの?』
『寂しいから』
だからごめん、と謝ると、ジョエルが柔らかな笑みを取り戻した。
『カイはいい子だねえ』
いい子だなんて、そんなことはない。寂しい気持ちが、悲しい気持ちが、わからなくはないだけだ。
そのときだ。
「カイエから離れろ」
と、背表紙の硬い本が、部屋に投げ込まれた。標的にされたのはジョエルだが、呆気なくぱしっと手に取ってしまう。
驚いて本が投げ込まれてきたほうを見ると、不機嫌そうなナツメがいた。
「カイに当たったらどうするつもりだい、ナツ」
「そんなヘマをやるか。カイエから離れろ」
「……羨ましいかい?」
にやり、と人の悪そうな笑みを浮かべたジョエルに、また本が飛んでくる。投げていたのはナツメだったらしい。
「カイエ」
「お、おかえり?」
飛んできた本を避けたジョエルを無視して、ナツメは海衣のところに駆けてくる。そのままぎゅっと抱きつかれた。
「カイエ……カイエ」
「え、なに? あたし、なにした?」
ナツメのスキンシップは珍しくない。ジョエル曰く、滅多なことではないらしいが、海衣にはとくに珍しくもない。最近は殊に微笑んでいるナツメは、すぐに海衣と手を繋ぎたがるし、こうして抱きついてもくる。灰色の死神に子どものように懐かれた、という感覚が海衣にはあった。
「ふふ……ナツはいい具合に育っているねえ」
面白そうに笑ったジョエルが、カップのお茶を飲みながらのほほんと言う。意味がわからなくて、いや言葉はわかるが含まれている意味が理解できなくて、海衣は首を傾げる。
「いいぐあい、なに?」
「可愛くなったものだ、ということだよ」
雰囲気がね、とジョエルは笑う。
そこへ。
「暢気にお茶とは随分だねえ、ジョエル」
目を据わらせた、もともとは優しそうな顔をしたお兄さんがひとり。
「おや陛下」
さらりとジョエルが、優しそうな顔をしたお兄さんを「陛下」と呼ぶ。その単語は憶えていた海衣は目をまん丸にした。
しかし。
「仕事してくれないかなあっ?」
「してるよ? ほら、わたしは生きている」
「そうじゃなくて、立場上の仕事だよ!」
涙を浮かべてまでジョエルに訴えるその姿が、皇帝陛下だとは思いたくない。
「きみがいないと話が進まないんだよ! そもそも今の議事はきみが提案者なんだけど!」
「ああー……そうだったね」
「仕事しようよ、ジョエル!」
お願いだから仕事してちょうだい、と皇帝さまは泣いてジョエルの腕を引っ張った。
なんというか、皇帝陛下ってもんのすごく偉いはずだよね。
この関係はなんだろうと、海衣は思わず悩んでしまった。
「仕方ない、行くか……カイ、また明日ね」
「あ、うん。外は?」
「うん、明日は課外授業だよ。楽しみにしていてね」
「たのしみ!」
名残惜しげにしながらも、泣いて懇願する皇帝さまを見捨てることはできなかったらしく、ジョエルは立ち上がってすぐ皇帝陛下に引っ張られながら部屋を出て行った。
『この国の皇サマって、なんか面白いな』
くっついているから聞こえるだろうと、声をナツメに響かせる。
『あんな感じで皇帝陛下って……うーん、だいじょうぶか?』
ほぼひとり言に近しいそれに、ナツメは声を返してこない。
意思疎通のそれが繋がっていないのだろうか。
「ナツメ?」
声に出して呼んだら、ふっとナツメは海衣と距離を開けた。
「身体は平気か?」
「う? うん。もともと、そんな大変、違う。少し疲れた、休むくらい」
「今日はもう休め。食事の時間には起こす」
ふっと微笑むナツメは、実は非常に過保護だ。ベッドと一月も仲がいいのは、ナツメが邪魔をするせいでもある。歩き回っても平気なのに、要らないくらい心配して、休め休めとばかり言うのだ。まあそれに応えるように間を空けず熱を出していた海衣も海衣であるが、とにかくナツメは過保護だ。手厚い看護には感謝するものの、そこまで心配されるのも心苦しい。
「いや。起きる。本、読みたい」
「本?」
「子ども、絵本、捜せばある、ジョエルが言った」
「……あったか?」
子ども用の絵本などあっただろうか、と首を傾げたナツメは、海衣に背を向けると隣の部屋に姿を消す。起きていていいらしいと知り、海衣はその背を追いかけた。