04 : 知らない世界。2
優しく、温かく、そして安堵させられる。
そんな刺激から、海衣は目を覚ました。
『ん。起きた?』
脳裏に響いた声、それはナツメのものだった。
「ナツメ!」
がばりと起きたら、隣にいたらしいナツメに吃驚された。
『なんでおれの名前』
「ジョエルに聞いた!」
『…………誰だ?』
「綺麗なお兄さん!」
わからない、という顔をしたナツメとは、手を繋いでいた。そうしていないと言葉が通じないからだ。
『…………ああ、ジョエル』
ジョエルを思い出したらしいナツメが、ふむ、と思案顔をする。
『あの顔だものな……まあいい。カイエ、食事だ』
「え、食事?」
『用意してもらった。おれも、腹が減った』
食事だ、と言ったナツメは、ベッドの横に置かれたワゴンのようなものを指差し、その上に乗っている食事を海衣に促した。
そういえば、いつから食事をしていないのか。
ぐう、と腹が鳴る。
『いい音だ』
「聞かなくていい音は聞くなっ」
しかも無表情で言うことではない。
ナツメは海衣を促して、ベッドの端に腰かける。ワゴンを引き寄せて蓋を取ってしまうと、美味しそうな匂いが鼻を突いた。見るからに日本食ではないが、洋食だと言われたら「それっぽい」食事がふたり分ある。
やはりここは天国か地獄ではなかろうか。
『天国とか、地獄とか、その概念がわからない』
海衣の考えを読み取ったらしいナツメが、海衣と繋いでいないほうの手で、パンのようなものに齧りつきながら声を海衣に響かせる。ナツメは咽喉を使わないテレパシーのようなもので海衣に話しかけているようなので、食べながらでも海衣に声を聞かせることができるらしい。
「天国も地獄も、宗教からの言葉だけど……言われてみれば、わかんないかも。死後の世界ってことだけど」
『ここが死後世界なら、おれは死んでいることになる』
なるほど。ナツメは温かい。生きている。
この部屋にくる前に見たジョエルや、足を洗ってくれた女の人も、生命力を感じさせる笑顔を見せてくれた。
「……生きてんのか、あたし」
いやべつに、ふだんからこの身体ならいつ死んでもおかしくはないとは思っているが、自ら進んで死にたいわけではないし、死にたがりでもない。ただ身体が丈夫ではないせいでいろいろと悔しい思いをしてきたから、図太く生きてきたのにあっさりと、呆気なく死ぬのはいやだった。もっとたくさん、世界を見ていたかった。
そう思うから、生きていると知って嬉しい。
たとえここが、どこかわからなくとも。
『……ここはレヴァルゥド帝国だ』
「アヴィシュ? とかいう世界だっけ?」
『カイエがいた、ちきゅうとか、にほんではない』
「異世界、ね」
姉さん、あなたが好きなファンタジー世界ですよ。あたしも好きだけどね。
『姉がいるのか』
「どこまであたしの考え読めんの、ナツメ」
『繋いでいる限り』
答えになってない。が、どこまでも読まれたらちょっといやだ。
「ご飯食べるから、手、離すよ」
海衣が宣言すると、頷く前にナツメのほうから手を離してきた。ぼんやりとした眼で、もさもさとパンを頬張る。
海衣も、ナツメと同じパンに手を伸ばした。まだ温かい狐色のパンは表面がちょっと硬くて、割ったらもっちりとしていた。なんとも言えない美味しそうな見目と匂いに誘われて齧りつけば、ほんわかとした甘みが口の中に広がる。
「ん、美味い」
食べ方なんてわからないから、ナツメがもさもさと食べているのをいいことに、作法も気にせず好きなものを口に入れていった。
マグカップより少し大きい器に入ったスープっぽいもの、緑と赤と黄色のサラダみたいなもの、ちょっと黄身が大きい目玉焼き、ベーコンのような薄い肉、完全に洋風な食事だが、サラダみたいなものが湯通しされているようなのだけは気に喰わなかった。
ナツメを見ると、目玉焼きと肉を残してサラダのみたいなものを食べきり、パンを食べながらスープを飲んでいる。というよりパンばかり食べていて、最初は七つくらいあったパンのうち五つはナツメが食べた。
「だいぶお腹が減ってたんだな、ナツメ」
ナツメを見ながらそう言ったら、なんだ、とばかりにナツメが首を傾げる。パンを咥えたまま。
それにしても嫌味なほどすっきりと整った顔は、改めてちゃんと見ると眠そうな顔つきだ。初めて逢ったときは吃驚していたから、それで目が開かれていただけなのかもしれない。いや、今だってちゃんと目は開いているのだが、なぜか眠そうに見える。
ふたりして食事を終えた頃、海衣はナツメが残した目玉焼きを横から掻っ攫って食べていたわけだが、頃合いを見計らったがごとく扉がノックされた。
部屋に入ってきたのは、足を洗ってくれたあの女の人だった。歳の頃は海衣よりいくつか歳上だろう。優しい目をした人だ。
海衣はまだパンを咀嚼しているナツメの手を取った。
「お礼を言いたいんだけど、言葉教えてくんない? ありがとうって」
頼んだら、ごっくん、とナツメはパンを嚥下して、口を開く。
「ぐらっつぇ・まーくた」
「あの人の名前は?」
「………………」
「あ、知らないんだ」
知らないなら仕方ない。
海衣はワゴンを下げにきたらしい女の人に、ナツメが口にしたとおりに、そのままというのは難しかったが、ありがとうと伝えた。すると女の人はにっこりと微笑んでなにか言ってくる。
「なんて言ったの?」
『どういたしまして』
「ね、名前聞ける?」
ナツメは女の人に声をかけた。女の人はナツメに声をかけられて吃驚した様子だったが、海衣を見るとすぐ笑顔に戻る。
「せむ、ろあ」
「せむろあ?」
「ろあ」
「ロア?」
なるほど、ロアというらしい。
「ロア、ぐらつぇ・まくた」
足を洗ってくれたことも、食事も、ありがとうと伝える。ロアはこぼれ落ちそうなほど綺麗な笑みを浮かべると、頭を下げてワゴンを引き、部屋を出て行った。
「いいなぁ……ああいう人の胸に飛び込んですりすりしたい」
『……そうか?』
「温かくて柔らかそう……姉さんとは真逆」
女王サマな姉とは正反対、ロアはひたすら優しいお嬢さまのようだ。
いや、お嬢さまに自分はなにをさせているのか。
「あたし、かなり優遇されてね?」
『おれがいるから』
「ナツメがいるから?」
なんだいそれは。
『ジョエルもいる』
いや、ジョエルを加えられてもどこの意味が変わったかわからない。
『…………帰るか』
「いやいやいや、なに放棄してんの。今なんか放棄したよね? 大事なことだと思うよ、それね?」
『ここから家までは遠い』
「家までの距離はともかく、説明されないとあたしナツメについて行けないんだけど」
『………………』
「……ナツメ、黙るの好きだな」
困ると黙る癖があるのか、それとも考える時間がものすごく長いのか。はたまた単に放棄しているのか、というか面倒なのか。
「ナツメ、ちゃんと話して」
くれないかな、と言い終える前に、ノックもなく扉が開いた。
ジョエルだ。
綺麗な顔だと思ってはいたが、もれなく世界中の敵となろう美貌である。
「うぇるせーら、カイ」
「うるせえな?」
なんだと、と目、光らせたら、ナツメに『おはようのことだ』と訂正された。
「なんと語彙の変換……面倒だな」
『覚えろ』
「え……やっぱりそうなんの?」
覚えなければこれから先不自由な思いをする、とナツメは言った。
現に今、海衣はジョエルがなにを言っているのかわからない。口を開いたナツメがなにを喋っているのかもわからない。
それはちょっとした不安で、とても大きい恐怖だ。
ぶるりと、身体が震える。
もしかして、死んでいたほうが楽だったのではなかろうか。
『おれは受け入れない』
「え……?」
『世界からこぼれ落ちたおまえを、おれは知った。知らなかった頃には戻れない』
現実を拒絶しかけた海衣を引き留めてくれているのか、ナツメはそう言った。灰色の瞳は眠そうで、なにを考えているのかわからなかったけれども、手のひらを握ってくる力の強さだけは確かだった。
『カイ』
ふと、ナツメではない声が脳裏に響く。反対側の手を、ジョエルが握っていた。
驚いた。ジョエルもナツメと同じことができるらしい。ということは、考えていることが筒抜けになる、ということでもある。
『そうだよ。わたしも魔法遣いだからね』
「まほうつかい?」
『そう、魔法遣い。わたしとナツは、この国唯一の魔法遣いだよ』
魔法遣い、と聞くと、なんでも魔法でできてしまう、ファンタジックな発想がすぐに思い浮かぶ。魔法陣とか、詠唱とか、ゲームの世界でありがちな力が、ここでは使えるのだろうか。
『うーん……陣はたまに使うけど、わたしとナツは詠唱を使わないな。それに、言ったでしょう? この国唯一の魔法遣いなんだよ、わたしとナツは』
「ジョエルとナツメ以外に、魔法遣いがいないの?」
『残念ながら、ね。そもそも数が少ないんだ』
「へぇ……」
少子化にでも悩んでいるのだろうか。
まあ、魔法などという、海衣には使えないものを使える人が、そう多くないというのは頷ける。
なんでもできる魔法、その力の大きさを考えれば、人間がそう簡単に使えるわけがない。海衣にしてみれば、使えるほうが恐ろしい。人間の業を、どこまでも強め、欲深にするだけの気がしてならない。
『なるほど……きみはそういう発想なんだね』
ジョエルに考えていることを読まれた。
「気分がいいものじゃないね、これ……」
考えていること、思っていることすべてが、どうやら読み取られてしまう。べつにこの人たちに本心を読まれたからといって問題はないのだが、他人の心がわかるような世界にいたわけではないから、気分的には複雑だ。
『ああ、ごめんね? こっちの言葉をカイが話せたらいいんだけど……ナツ、手っ取り早く習得させる魔法でも開発したら?』
ジョエルが申し訳なさそうに謝ってきて、そうして今にも眠ってしまいそうな顔をしているナツメに提案する。ちなみに賛成だ。魔法でなんでもできるなら、語学の習得もできるだろう。
『無理だ』
「あ、そうですか……ちっ」
魔法なんて便利な力があるのに、融通が効かない。
というか、海衣を中継地点にして会話するなんてことも、ナツメとジョエルはできるらしい。微妙な魔法だ。というかこれも魔法なのかわからない。
『魔法だ』
「へぇ……びぃみょ」
『カイエの言葉は、この世界にはない。この世界にある言語であれば、変換の魔法で習得させることもできた』
はっきりと、ここは異世界だ、と言われた気がした。日本でも、地球でもない、海衣が知らない世界なのだと。
けっきょくのところ、それはもしかして、死んだこととなんら変わりないのではなかろうか。
ああ駄目だ、思考がマイナスに傾いている。こうなってきたということは、体調が狂い始めてきたということだ。思考がどこまでもマイナスに向かっていくのは、海衣自身いやでたまらないことなのに、止めることができない。
ぐらりと、身体が傾ぐ。
『カイエ?』
とん、と寄りかかったナツメの肩は、思いのほか柔らかい。それでも、そこに人がいる、というだけで、具合が悪いときいつも一緒にいてくれた姉や母を思い出す。
『なんだか熱いなとは思っていたけれど……もしかしてこれが平熱なのじゃなくて、本当に熱を出しているのかな?』
あたしの平熱は低いよ、と海衣はジョエルに突っ込む。
平熱が低いから、少しの熱でも動けなくなってしまう。そんなポンコツな身体なのだ。
ああ、いやだなぁ。
こんな身体、いやだなぁ。
『……ジョエル、医師を』
『治癒魔法は?』
『……使いたくない。どんな影響が出るか……予測が立たない』
『ああ……そうだね。わかった、呼んでくるよ』
そんな心配は要らないのに、ナツメもジョエルも心配してくれる。
少し、嬉しかった。
『だいじょうぶだ、カイエ』
ナツメが、姉と同じようなことを言ってくれる。
『おれがいる』
ひとりじゃない。
安堵して、海衣は「ありがとう」と呟くと瞼を閉じた。