01 : 世界から放り出された。
突然ですが、目覚めたら天国でした、となっていたら、それはもう恐ろしくはありませんか。
いえ、吃驚しませんか。
まず驚きます。
「あたし……」
誰しも布団の上で往生したいものだ。子どもや孫といった家族に看取られて死ぬ、それを望むのはごく一般的な思いだろう。
しかし、残念ながら月島海衣は、子どももいなければ孫もおらず、また彼氏さえもいない独りの身であった。
だというのに、どうやら天国にきてしまったらしい。
たかだか風邪で。
まあ稀にある。
悪性の風邪に罹って命を落とす、というのは、現代に留まらず過去にも発生していたものだ。とくに珍しいわけではない。
「あたし、死んだか……?」
見渡す限りの草原。
ああ綺麗だ、なんて暢気に思うけれど。
この現実をどう受け止めたらいいものか。
やはり死んで天国に、いやもしかしたら煉獄に来たのでは、と考えるべきだろうか。
繰り返すようだが、たかだが風邪で。
ちなみに風邪とは、一月ぶりの再会だった。それはもう涙までつけた感動の再会だ。些かドラマチックに。
まあもともと頑丈ではないので、いつだって家族を冷や冷やさせている海衣としては、もはや慣れた感覚である。彼氏ができないのも、すべてはあまり身体が丈夫ではないせいだ。いや、もしかしたら性格に問題があるのかもしれないが、それにはぜび目を瞑っていただきたい。
とにかく、海衣は風邪を引き易い。たかだか風邪で丸二日は寝込むくらいには、貧弱な身体をしている。
しかしながら図太いのが、海衣でもあった。
こうして生きているのだから。
「あ、いや、死んだのか?」
海衣はとりあえず自分の頬を抓り、これが夢ではないことを確認してみる。
痛い。
夢ではないことを確認し終えると、また周りを見渡してみる。
晴れ渡った空の下に海衣ひとりの、草原。
「天国? 煉獄? 地獄?」
とりあえず。
ここは、どこだろう。
「……考えても仕方ないかな」
なんにせよ、死んだのなら、もうどうしようもないのかもしれない。
だから。
再びとりあえず。
海衣は歩く。ひたすら歩く。というより歩いてみた。見渡す限りの草原であったから、一度はやってみたいことをやってみるものだ。それがたとえただ歩くことだとしても。
そして小学校の遠足以来、初めてと言える長距離を歩いた。いや、あの遠足のときはけっきょく、行くときだけ歩いて、帰りは迎えに来た両親の車だった。遠足のはずが、病院からの帰り道になってしまった記憶が懐かしい。
つまりはそれくらい、長時間歩いたことがない。というより歩けない。
なので、ひたすら歩いたあとはもちろん、倒れた。
「ああ……あたし、マジで体力ねえ」
先ほどいた場所から、景色があまり変わっていない。目印になるようなものがないので、どれくらい歩いたのかもわからない。
身体の疲れから、約一駅分くらいだろうか。電車で三分、歩いて二十分の距離、なんて短い。
「うらめしい……なんであたし、こんな身体なんだ」
いつだって役立たずな身体は、死んでも役に立たないらしい。
死んだら肉体から解放されるのではなかったのか。魂だけの存在になるのではなかったのか。
誰だ、そんな適当な教えを説いたのは。
「……死後の世界なんて、死んだ者にしかわかんないもんだよなぁ」
はぁぁ、とため息をついて、海衣は緑の布団に転がる。
四肢を投げ出して仰ぐ空は美しく、頬を撫でる風は暖かだ。
ああきっと、ここは天国だ。
あたしは天国に来られたのだ。
親孝行もできなかったけれど。
「これからどうなんのかなぁ……誰か迎えにきてくれんのかなぁ」
例えば死神とか、悪魔とか、天使とか。
誰でもいい。
死んでまでひとりなんて、寂し過ぎる。生きているときだって、こんな身体のせいでろくに友だちも作れず、いつだってひとりだったのだ。そばにいてくれるのは両親と、姉と、祖父母だけだった。家族に取り残されてしまったら、海衣には、なにもない。
ひとりは寂しい。
死ぬのは寂しくないけれど、こういうひとりきりは寂しい。
「誰かぁ……」
来てくれないかなぁと、美しい空に、手を伸ばす。
「姉さーん、ひとりにしないでよーぅ」
呼んだらすぐに駆けつけてきてくれた姉も、今は、呼んでも来てくれない。なんて寂しいことだろう。
「姉さーん……寂しいんだけどー」
姉を道連れにできたらよかったのに、なんて残酷なことを考えながら、海衣は瞼を閉じた。
広がる暗闇が、恐ろしいというよりも寂しい。
それとも寂しいから、恐ろしいのか。
「姉さぁん……」
ああ、本気で姉を道連れにすればよかった。こんなにひとりきりが寂しいなら、一緒にいてくれる人とくるべきだった。
寂しいなぁと繰り返し口にしながら、海衣は眠りに落ちる。
かさり、という音で目を開けた海衣は、自分が眠りこけていたらしいことに気がついて、肌寒さに身を起こした。どうやらまだ草原にいるらしい。しかしながらこのままではまた風邪を、いや寝込んでいて死んだのなら再びそうなることはないだろうが、とにかく風邪を引きそうだ。
死んでまでも生きているような感覚を味わうのもどうかと思うが、などと自分に突っ込みを入れたところで、ふと視界に黒いものが映る。
「……死神?」
漸く迎えか、と思った黒いものは、人の形をしていた。外套のようなものを着て、付属しているらしい頭巾を目深に被った、人の形をしたものだ。手に大きな紙を持ち、首を捻りながらこちらに向かって歩いてくる。しかし、一向に海衣には気づかず、いきなり立ち止まって屈んだ。かと思ったら、どこからか赤いペンのようなものを取り出して、紙に書き込んでいる。書き終えると時間が止まったかのように動きを止め、そうして首を傾げてしばらくすると、漸く顔を上げる。
死神が海衣を見つけた。
「どうも」
こんにちは、と声をかけるべきなのだろうが、とりあえず引き攣った笑みを浮かべて声をかけてみた。
死神は動かない。
「あの……死神さんですか?」
問うたら、死神がびくっと身体を震わせて、こけた。
「あ、だ、だいじょぶ?」
ころん、と転がるようにこけた死神に、海衣は慌てて駆け寄る。なんだかドジな死神だ。
そばに行くと、頭巾が脱げた死神の全容が露わになっていた。
黒に近いが白っぽい灰色の髪、同じような色の瞳、青年というよりも少年に近い幼い顔、このまま成長すれば美形の部類に入るのではなかろうかという、すっきりとした顔立ちの男の子だ。いや、男性というべきか。ともすれば女の敵に、もしかしたら全人類に対する宣戦布告するかのごとく整った顔だ。喧嘩を売られているかもしれない。
どうしようか。
この喧嘩を買うべきか。
ではなく、その前にすることがあった。
「だいじょぶ?」
とりあえず海衣は死神に手を伸ばした。しかし、吃驚しているらしい死神は固まったままで、海衣の心遣いを無視してくれる。仕方ないので海衣は死神の腕を掴み、引っ張って起こした。
「驚かせてごめんなさいよ?」
この場合、謝るのは海衣なのかわからないが、死神が海衣に吃驚していることは確かなようなので、とりあえず謝罪を述べてみる。だがそれでも、死神は反応を見せない。
となると、この青年は死神ではないのだろうか。それなら悪魔だろうか。人を堕落させるために美貌で誘惑する悪魔がいる、という話を聞いたことがある。
「あのー……なにか反応してくんない?」
彼が反応してくれないことには、海衣もどうしたらいいのかわからない。死後の世界とは気難しい。
困っていると、死神はおずおずと、海衣に手を伸ばしてきた。そっと、恐れるかのように、手に触れてくる。
『おまえ、ひとか?』
と、どこからか響いてくるような声に、海衣は吃驚する。
「いっ? 今のなに?」
『おれの声』
「どこの誰っ?」
『目の前』
「は?」
海衣はまじまじと、死神を見つめた。黒に近い灰色の双眸が、じっと海衣を見つめ返してくる。
「……どこから声が?」
『手』
「て?」
『つないでいる』
手を繋いでいるから聞こえるのだ、と死神は言っているようだった。現に死神の口は、動いていない。
『おまえの言葉、耳で聞くとわからない』
「え、ど、どういうこと?」
『おれもわからない。おまえ、なに者だ』
「な、なに者って……」
そう問われても困る。海衣は海衣でしかない。それを言うなら死神のほうだって、なに者だというのか。
『しにがみ? 死神などではない』
「ぅわ! か、考えてることわかんのっ?」
『おまえが考えていることを、読み取っている』
「ぎゃ!」
考えが筒抜けか、と海衣は慌てて死神から手を離した。すると死神は、そこで漸く口を開く。しかしなにを言っているのかがわからなかった。
「な、なに言ってんの……」
聞き慣れない言葉は、日本語でもなければ英語でもない。本当に聞いたことのない言葉というか、音の羅列だ。
死神がまた手を伸ばしてきて、海衣の手を取った。
『おれの言葉、わからなかったな?』
「わ……わかんね」
なぜわからないのか、それもわからない。
死後の世界とは、本当に気難しくできているものだ。まさか言葉が通じないなんて、誰が予想できただろう。
『死後の世界? 違う。ここはレヴァルゥド、セラン大陸のレヴァルゥド帝国、アヴィシュ世界』
「え……?」
また海衣の考えを読んでいるらしい死神が、眉間に皺を寄せながら、考えるように海衣の頭に言葉を響かせる。
『おまえ……アヴィシュの住人、違う。にほん? ちきゅう?』
「……な、なに言ってんの?」
『こことは違う世界……ああ、おまえか。おまえが落ちてきた』
「は?」
『おまえが境界に落ちてきた』
「きょうかい? に、落ち?」
なにを言って、いや口は開いていないが、なにを言っているのかわからない。
『そうか……おまえも、世界から零れ落ちたのか』
死神が海衣をじっと見、どこか悲しげに目を細めた。
「なに、言ってんの……どういう、こと……?」
『おまえはレヴァルゥド帝国のこの境界に、落ちた』
「落ちた……?」
それはやはり、死んだ、ということなのだろうか。
『死んでない』
「じゃあ、なに? ここはどこ?」
『この世界はアヴィシュ。ここはレヴァルゥド帝国にある境界の中』
それは、どこなのだ。
ここは、死後の世界ではないのか。
あたしは。
『おまえは、落ちた。この境界の中に』
意味がわからない。
死んだと思ったら死んでいなくて。
目が覚めたら異世界でした、なんてことが。
現実に、あるなんて。
しかも。
「落ちた……?」
この役に立たない身体は、世界から放り出されるほど、役立たずだということなのだろうか。
読んでくださりありがとうございます。
今後も拙作をよろしくお願いいたします。