シーン3:世界の胃袋が満たされる時
毎日投稿チャレンジ挑戦中です。予約投稿も使えばいける、、、はず。
20時に投稿しますので、よろしくお願いします。
図書館から徒歩十分。
村の南外れに広がる麦畑は、初冬の冷たい風に吹かれて茶色く荒涼としていた。
見渡す限りの畑の多くは休耕地になり、かろうじて作付けされている区画の麦も、膝の高さにも満たない弱々しい茎を震わせている。葉は黄色く変色し、穂先はスカスカだ。前世の私なら「養分失調のお手本」として写真に撮りたくなるような惨状だった。
「リリア先生、あそこ! あれがわたしの家の畑!」
マリナが指さした先にあるのは、他よりもさらに発育の悪い、ひときわ痩せた区画だった。
私たちは畝の間に立ち止まる。私の足元には、エルドが図書館の裏庭からかき集めてきた落ち葉や、近くの森で拾った獣の糞を混ぜ合わせた「即席の堆肥」を入れた木箱が置かれている。
「本来なら数ヶ月かけて発酵させるものだけど……」
私は木箱の中の、強烈な臭いを放つ土の塊を足先でつつく。
「この世界の『アップデート』がどれだけの速度と威力を持っているか、見せてもらおうか」
私はマリナを見る。
「マリナ。さっき図書館で教えたこと、覚えてる?」
「うん! 土のお腹を、いっぱいにすること!」
「そう。じゃあ、この土を、麦の根元に少しずつ撒いて」
マリナは躊躇しなかった。
臭いを気にするそぶりも見せず、小さな両手で堆肥をすくい、弱々しい麦の茎の周りに丁寧に置いていく。「食べてね、食べてね」と小さな声で呟きながら。
エルドが私の隣で、緊張した面持ちでそれを見守っている。
「……リリア様。本当に、これで何かが起きるんでしょうか。僕にはただ、汚れた土を撒いているようにしか見えませんが」
「見えない部分で起きるんだよ、エルド」
私は目を細めて、マリナの足元——堆肥が置かれた土の表面をじっと見つめる。
「図書館の魔導知識核は、マリナの『理解』を世界に反映させた。つまり、今のこの村の土壌には『堆肥の栄養を極限まで効率よく吸収し、作物を成長させる』という物理法則のバフが掛かっているはずだ」
沈黙が落ちる。
風の音だけが耳を通り過ぎていく。
十秒。
二十秒。
何も起きない。
「……やはり、すぐには」
エルドが諦めたような声を出しかけた、その時だった。
ず、ずず……。
微かな、本当に微かな音が足元から聞こえた。
それは、何万もの極小の歯が、何かを食い破るような音。
「な、なんだ!?」
エルドが飛び退く。
マリナも驚いて手を引っ込めた。
見れば、麦の根元に撒かれた即席の堆肥が、まるで熱い鉄板に落としたバターのように、ぶくぶくと細かな泡を立てながら土の中へ沈み込んでいくではないか。
未発酵だったはずの枯れ葉が瞬く間に黒く変色し、ボロボロに崩れて土と一体化していく。目に見えないほどの超高速で『分解』と『発酵』のプロセスが強制的に進んでいるのだ。
「土の……胃袋が、動いてる……!」
私が息を呑んだ次の瞬間。
——パキィン!
乾いた破裂音とともに、黄色く変色していた麦の茎が、内側から弾け飛ぶようにして青々とした新しい葉を突き出した。
「えっ……嘘だろ……」
エルドが腰を抜かして、そのまま土の上に座り込む。
目の前の光景は、控えめに言っても異常だった。
早送りの映像を見ているようだった。地面から水分と栄養を一気に吸い上げた麦が、見る間に太くなり、背を伸ばしていく。膝丈だった茎が、私の腰の高さを越え、胸の高さに達する。
スカスカだった穂先が、まるで内側から空気を吹き込まれたようにパンパンに膨らみ、重みを増して黄金色に輝き始めた。
「先生! リリア先生! 麦が、麦が大きくなったよ!」
マリナが歓声を上げて、私の腕に抱きついてくる。
「……うん。見事なもんだね」
私は平静を装ってマリナの頭を撫でながらも、内心では冷や汗をかいていた。
(……効きすぎだ。いくらなんでも早すぎる)
農業改良書の知識による「成長効率の最適化」に、図書館のシステムの「強制的な現実改変」が上乗せされた結果だ。たった一人の「理解」でこれだ。もし村人全員がこの知識を共有したら、どうなる? 一晩で森が畑を飲み込むような生態系破壊すら引き起こしかねない。
「リリア様……これは……魔法以上の……」
座り込んだままのエルドが、震える手で大きく実った麦の穂に触れる。
「奇跡だ」
「奇跡じゃない。技術だよ、エルド」
私は彼の言葉を冷たく訂正する。
「原因があって、結果がある。土に栄養を与えたから、育った。ただそのプロセスが、この世界の法則によって極端に『加速』されただけ」
私は周囲を見回す。
マリナが堆肥を撒いた区画だけが、まるでそこだけ季節が違うように黄金色の豊穣を見せている。休耕地で作業をしていた数人の村人が、鍬を落として呆然とこちらを見つめていた。
「おい、見ろよ……」
「マリナの家の畑が……なんだありゃ」
「魔法か? 神父様を呼んでこい!」
ざわめきが、波のように広がっていく。
「エルド。立って」
私は低く鋭い声で命じる。エルドはハッとして立ち上がった。
「見つかった。隠すつもりはなかったけど、予想以上に派手になったね。ここからがあなたの仕事だ」
「僕の……」
「村人を集めて。この『奇跡』の理由を説明する。ただし、魔法じゃないってことを強調して」
私は足元のルビを拾い上げ、腕の中に抱く。
「この豊作は、マリナが図書館で『本を読んだから』起きた。誰でも本を読めば、自分の畑をこうすることができる。そう宣伝するんだよ」
エルドの顔が引き締まる。
彼は私の意図を完全に理解した。村人を巻き込み、読書会という名目で『理解者』の数を増やす。それはこの辺境の村を救うと同時に、王都の監視網に対する巨大な反逆の始まりでもあった。
「承知しました、館長。すぐに人を集めます」
エルドが村人たちの方へ駆け出していく。
その後ろ姿を見送りながら、私は大きく実った麦の穂を一つむしり取り、手のひらで転がした。
「……さて。これでパンドラの箱は開いた」
王都の黒服たちが気づくのも、時間の問題だろう。
でも、止まるつもりはない。
私はマリナに向き直り、ニヤリと笑った。
「マリナ。お母さんに、美味しいパンを食べさせてあげな」
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