第9話 完全降伏 ~ソファの上で国を落とす~
戦争は、たった三日で終わった。
それも、血を一滴も流さずに。
使われたのは剣でも魔法でもなく、ペンと通信機、そして底意地の悪い計算だった。
「……チェックメイトだ」
リビングに、低く艶のある声が響いた。
クラウスだ。
彼は私の隣で『人をダメにするソファ』に深々と身を預け、片手にはグラス(中身は最高級の葡萄ジュース)、もう片手には通信用の鏡を持っていた。
服装は、私が貸したシルクのパジャマである。
帝国宰相の威厳もへったくれもない格好だが、鏡の向こうの相手にとっては、死神に見えているに違いない。
『お、お待ちください宰相閣下! 関税の引き上げだけは……! それでは我が国の流通が死んでしまいます!』
鏡から聞こえるのは、アルグリア王国の外務大臣の悲鳴だ。
「知ったことか。貴国が我が帝国の保護民に対し、軍事侵攻を仕掛けた事実は消えん。これは正当な報復措置だ」
クラウスは氷をカランと鳴らした。
「輸入制限、街道封鎖、そして貴国への魔石供給の停止。……冬が来る前に、国が干上がるぞ?」
『ひぃっ……!』
容赦がない。
彼はこの三日間、ここから一歩も動かずに、祖国の経済網をズタズタに切り裂いてみせた。
物流を支配していた私が抜けた穴を突き、帝国の圧倒的な経済力で殴りつける。
まさに「大人の喧嘩」だ。
私は膝の上で抱えているクッションに顔を埋め、その様子をぼんやりと眺めていた。
怖い怖い。
味方でよかった。
「さて、そろそろ大将のお出ましかな」
クラウスが指先で鏡をタップし、チャンネルを切り替えた。
空中に展開されたホログラム映像が揺らぎ、新しい人物が映し出される。
豪華な、しかしどこか薄暗い玉座の間。
そこに座っているのは、痩せこけた初老の男性だった。
アルグリア国王。
ギルバート殿下の父親だ。
『……ガレリア帝国宰相、クラウス殿とお見受けする』
王の声は掠れていた。
病床にあると聞いていたが、今回の騒動で叩き起こされたのだろう。
「お初にお目にかかります、国王陛下。……寝間着姿で失礼。何分、貴国の王太子殿下に安眠を妨害されたもので」
クラウスは慇懃無礼に頭を下げた。
嫌味の切れ味も鋭い。
『この度は……愚息が、大変な無礼を働いた。深く、謝罪する』
国王が頭を下げた。
一国の王が、他国の宰相に頭を下げる。
完全な敗北宣言だった。
『ギルバート! 前へ!』
王の怒号が飛ぶ。
衛兵に両脇を抱えられ、引きずり出されてきたのは、後ろ手に縛られたギルバート殿下だった。
数日前の泥だらけの姿よりはマシだが、目は虚ろで、口枷を噛ませられている。
「んー! んんー!!」
彼はカメラ(通信水晶)に向かって何かを叫ぼうとしていた。
おそらく「俺は悪くない」とか「リリアナが悪い」とか、そんなことだろう。
『愚息ギルバートは、王太子の位を剥奪し、北の塔へ幽閉する。二度と日の目を見ることはないだろう』
王が冷たく告げた。
廃嫡。
事実上の社会的な死だ。
「妥当な判断です。で? それだけですか?」
クラウスは冷ややかにグラスを揺らした。
「我が国の『最重要人物』が受けた精神的苦痛への賠償は?」
『……賠償金として、国家予算の三年分を支払う。さらに、国境付近の鉱山採掘権も譲渡しよう』
「ほう。悪くない」
国が傾くレベルの賠償だが、王には拒否権がない。
そして、王は意を決したように、視線をカメラの端に向けた。
私が見ていることに気づいているのだ。
『……リリアナ嬢。そこに、いるのだろうか』
私はため息をつき、クッションから顔を上げた。
クラウスが映像の視野角を広げ、私が映るようにする。
「お久しぶりです、陛下」
『おお……リリアナ……!』
王の目が潤んだ。
『すまなかった。私が病にかまけて、国政をギルバートに任せきりにしたばかりに……。君のような稀代の才女を、あのような形で失うとは……』
彼は玉座から身を乗り出した。
『頼む。戻ってきてはくれないか? 君がいなければ、この国は立ち行かない。宰相の地位を用意する。いや、望むなら女王として迎えてもいい!』
必死の懇願。
かつての私なら、心が揺らいだかもしれない。
公爵家の娘としての責任感に縛られて。
でも。
私はちらりと隣を見た。
パジャマ姿の魔王様が、不機嫌そうに眉をひそめている。
そして、私の背中には、世界一柔らかいソファの感触がある。
答えは決まっていた。
「お断りします」
『な、なぜ……!』
「陛下。私は今、人生で初めて『ぐっすり眠れる夜』を手に入れたんです」
私は正直に伝えた。
「王城での生活は、私にとっては地獄でした。終わらない仕事。減らない書類。誰も評価してくれない孤独。……もう、あんな日々には戻りたくありません」
『そ、それは、待遇を改善すれば……!』
「無理ですよ。だって、陛下はまた私に『国のために働け』と言うでしょう?」
私は首を横に振った。
「私は、私のために生きたいんです。だから、さようなら」
王が絶句する。
その隙に、クラウスが私の肩を抱き寄せた。
所有権を主張するように。
「聞いた通りだ。彼女は帝国が貰い受ける。……返還交渉は決裂だ。これ以上しつこいようなら、追加の制裁が必要かな?」
『……っ!』
王はがっくりと肩を落とした。
『……わかった。条約書にサインをしよう。……リリアナ嬢、どうか幸せに』
通信が切れた。
ホログラムが光の粒子となって消える。
リビングに静寂が戻った。
「……終わったな」
クラウスが通信機をサイドテーブルに放り投げた。
大仕事が終わったというのに、彼の表情は涼しいままだ。
「はい。あっけない幕切れでしたね」
「こんなものだ。実力のない者が権力を振りかざした末路は」
彼は伸びをして、自然な動作で私の膝に頭を乗せた。
膝枕だ。
この数日で、すっかり定位置になってしまった。
「……重いです、閣下」
「報酬だと思って我慢しろ。国を一つ潰したんだぞ」
彼は目を閉じた。
その顔には、安堵の色が浮かんでいる。
「それに、まだ最後の仕事が残っている」
「最後の仕事?」
「ああ。君を正式に帝国へ迎え入れるための手続きだ。……まあ、それは明日でいい」
彼はあくびをした。
「今は、寝かせてくれ。君の膝は、あのソファの次に寝心地がいい」
なんて失礼な言い草だろう。
でも、私は彼を押しのけなかった。
彼の髪を指で梳いてやると、すぐに規則正しい寝息が聞こえてきた。
ギルバート殿下は塔の中。
国王陛下は後悔の中。
そして私たちは、夢の中。
これ以上のハッピーエンドはないだろう。
私は窓の外を見た。
曇り空が晴れて、夕日が差し込んでいる。
明日はきっと、いい天気になる。
洗濯物がよく乾きそうだ。……もちろん、干すのはゴーレムだけど。
こうして、私の「役立たず」という汚名は雪がれ、世界一の怠惰な英雄としての生活が確定したのだった。




