第8話 王太子の逆恨み ~「戻ってこい」という命令書を自動シュレッダーにかける~
その日は、朝から曇り空だった。
湿度が高い。
私の髪が少しうねるくらいの、不快な湿気だ。
私はリビングのソファで、気だるげに紅茶を啜っていた。
隣では、クラウスが優雅に新聞(帝国から転送されたもの)を広げている。
平和だ。
外で、けたたましい警報音が鳴っていなければ。
ウーッ! ウーッ!
「……来たわね」
私はため息をつき、空中にモニターウィンドウを展開した。
画面に映し出されたのは、森の木々を切り倒しながら進軍してくる集団だ。
アルグリア王国、近衛騎士団。
かつては煌びやかな鎧と整然とした行軍で知られた、王家の誇り。
だが、今映っているのは、落ち武者の群れだった。
「ひどい有様だな」
クラウスが新聞から目を離さずに言った。
「補給が続かなかったのだろう。馬も痩せているし、兵士の目は死んでいる。ここまでの道のり、魔物の襲撃も受けたはずだ」
その通りだ。
私の家の周囲は、高ランクの魔物がうろつく危険地帯。
リリアナ・バリア(防衛タレット群)の外側で、彼らは散々な目に遭ったに違いない。
先頭を行く馬車から、見覚えのある金髪の男が身を乗り出した。
ギルバートだ。
彼は剣を振り回し、何かを叫んでいる。
集音マイクのボリュームを上げる。
『進めぇ! 何をしている、この無能ども! リリアナはすぐそこだ! 捕まえれば報奨金が出るぞ!』
兵士たちは無反応だ。
ただ重い足を機械的に動かしているだけ。
忠誠心など、とうの昔に擦り切れているのが見て取れた。
「……どうする? リリアナ」
クラウスが私を見た。
彼の手には、いつでも帝国軍に介入命令を出せる通信機が握られている。
「私が騎士団を動かせば、五分で鎮圧できるが」
「却下です。血生臭くなるのは嫌」
家の前で虐殺劇なんて御免だ。
後片付けが面倒すぎる。
「それに、彼らは私の平和な庭に土足で踏み込んできたんです。……少し、お仕置きが必要ですよね」
私は口角を少しだけ上げた。
敵意には、相応の報いを。
ただし、私らしいやり方で。
(防衛システム、モード変更)
(殲滅モード:OFF)
(撃退・嫌がらせモード:ON)
(対象:全エリア)
私は指先を指揮者のように振った。
さあ、アトラクションの開演だ。
◇
画面の中で、異変が起きた。
先頭を歩いていた騎士たちが、突然バランスを崩して転倒した。
地面がぬかるんでいるわけではない。
芝生の下から、大量の「液体」が染み出してきたのだ。
『な、なんだこれは!? ベトベトするぞ!』
『足が抜けない! うわっ、滑る!』
トラップその一、『高粘度スライムローションの沼』。
スライムの研究過程でできた副産物だ。
接着剤のようにへばりつき、かつ氷の上のように滑る。
物理攻撃は効かないし、火で炙れば爆発的に臭くなる。
騎士たちは将棋倒しになり、重い鎧のせいで起き上がれず、ローションまみれになって悶えている。
まるで、巨大なゴキブリホイホイだ。
『ええい、だらしない! 迂回せよ! 右から回れ!』
ギルバートが指示を飛ばす。
残りの部隊が右翼へ展開しようとする。
だが、そこはトラップその二、『強制送還コンベア』の設置エリアだ。
ズズズズ……。
地面がベルトコンベアのように高速で逆走を始めた。
土魔法の応用だ。
騎士たちは必死に走るが、その場から一歩も進めない。
むしろ、どんどん森の奥へと戻されていく。
『はぁ、はぁ……! なんで進まないんだ!』
『も、もう無理です! お腹が空いて力が……!』
一人の騎士が武器を捨てて座り込んだ。
コンベアに流され、視界外へと消えていく。
それを合図に、次々と騎士たちが脱落していった。
戦意喪失だ。
『貴様ら! 逃げるな! 反逆罪で処刑するぞ!』
ギルバートが喚くが、誰も聞く耳を持たない。
残ったのは、彼と、数名の側近だけ。
「……滑稽だな」
クラウスが冷ややかに言った。
「指導者が無能だと、兵はこうも脆い。見るに堪えん」
「そろそろ終わらせましょうか」
私は最後の手順を入力した。
ギルバートの足元への道だけ、あえてトラップを解除する。
いわゆる「花道」だ。
ただし、泥とスライムまみれの。
ギルバートは馬を乗り捨て(馬もローションで転んだため)、自分の足で走ってきた。
肩で息をし、目は血走り、泥だらけの顔で。
そしてついに、私の屋敷の玄関前までたどり着いた。
私はソファから立ち上がり、玄関へと向かった。
クラウスも無言でついてくる。
ガチャリ。
私はドアを開けた。
「──リ、リリアナァァァ!!」
目の前に、悪鬼のような形相の元婚約者がいた。
かつての煌びやかな王太子の面影はない。
ただの薄汚れた不審者だ。
「……何の御用でしょうか、殿下。不法侵入ですよ」
私はあくびを噛み殺しながら言った。
彼は私を見ると、憎悪と執着の入り混じった目で睨みつけてきた。
「貴様……よくも、よくも私をコケにしてくれたな!」
「コケになんてしていません。貴方が勝手に転んだだけです」
「黙れ! 戻れ! 今すぐ王都へ戻れ!」
彼は剣を突きつけてきた。
切っ先が震えている。
「城がめちゃくちゃなんだ! トイレも流れない! 風呂も入れない! 書類は山積みだ! お前がやっていたんだろう!? 責任を取って元に戻せ!」
……は?
私は耳を疑った。
謝罪でも、命乞いでもなく。
「不便だから直せ」と言いに来たのか、この男は。
「全部お前のせいだ! お前がいなくなってから、何もかも上手くいかない! ミナも逃げ出した! 父上も私を責める! 全部、全部お前が悪いんだ!」
ああ、駄目だ。
会話が成立しない。
彼は自分の無能さを直視できず、全ての原因を外部(私)に求めて自我を保っているのだ。
「お断りします」
私は短く答えた。
「私は追放されました。もう部外者です」
「うるさい! 命令だ! 王太子の命令が聞けないのか!」
彼は懐から、しわくちゃになった羊皮紙を取り出した。
『帰還命令書』と書かれている。
「これを見ろ! お前の復職を許可してやる! ありがたく思え!」
許可してやる、ときたか。
どこまでも上から目線だ。
私はその紙切れを指差した。
(対象識別:不要物)
(処理:細断)
シュパパパパッ!
不可視の風の刃が、彼の手にある羊皮紙を一瞬で微塵切りにした。
紙吹雪となって舞い散る命令書。
「あ……」
ギルバートが呆然と自分の手を見る。
「私の言葉は届きませんし、その紙切れに価値はありません。お引き取りを」
私がドアを閉めようとした、その時。
ギルバートが逆上して、剣を振り上げた。
「舐めるなぁぁぁ! 無理矢理にでも連れて行く! 手足を切り落としてでもなぁ!」
殺気。
彼は本気だ。
私が動くよりも早く、私の背後から影が伸びた。
「──そこまでだ、愚か者」
凍てつくような声。
次の瞬間、ギルバートの剣が甲高い音を立てて弾き飛ばされた。
私の前に、クラウスが立っていた。
武器は持っていない。素手だ。
ただ、その体から放たれる圧倒的な威圧感が、ギルバートを縫い留めていた。
「き、貴様は……なぜここに……!」
ギルバートが後ずさる。
帝国の宰相の顔を知らないはずがない。
「ガレリア帝国宰相、クラウス・フォン・ガレリアだ」
クラウスは私を背に庇いながら、ゴミを見るような目で見下ろした。
「我が国の保護下にある重要技術者に対し、武力行使および拉致未遂。……これは明確な、帝国への宣戦布告と受け取るが?」
「ひっ……!」
ギルバートの顔から血の気が引いていく。
個人の痴話喧嘩が、国際問題にすり替わった瞬間だった。
「ち、違う! これは王国内の問題だ! 貴様ら帝国には関係ない!」
「関係あるな。彼女は私の……」
クラウスは一瞬言葉を切り、私をちらりと見て、不敵に笑った。
「……私の、安眠の守護者だ。手出しはさせん」
かっこいい台詞のようで、言ってることは「枕を奪うな」だ。
でもまあ、今の状況では頼もしい。
ギルバートは剣を失い、後ろには誰もいない。
前には帝国最強の男。
詰みだ。
私はクラウスの背中越しに、元婚約者に最後通告をした。
「さようなら、殿下。帰りの道はトラップを解除しておきますから、泥だらけで歩いて帰ってください」
バタン。
私は無慈悲にドアを閉めた。
鍵をかける音が、カチャリと響く。
外から、情けない絶叫が聞こえたが、防音結界のおかげですぐに静かになった。
「……ふぅ。片付いたか」
クラウスが肩の力を抜いた。
「いいえ。物理的には片付きましたけど」
私は散らばった命令書の紙吹雪を、風魔法でゴミ箱へ集めながら言った。
「これで、貴方の国と戦争になりませんか?」
「なるかもしれん。だが、向こうに戦力はない。経済制裁と外交圧力だけで、一週間以内に白旗を上げさせる」
彼は楽しそうだった。
やはり、この男はワーカーホリックだ。仕事を増やして喜んでいる。
「さて、仕事の前に……少し休憩が必要だな」
彼は当然のような顔をして、ソファへと向かった。
先客(私)が座るスペースを、ちゃんと半分空けて。
「……はいはい」
私は苦笑しながら、彼の隣に座った。
外は泥沼。中は天国。
私たちの奇妙な共犯関係は、どうやらもう少し続きそうだった。




