第10話 二つの「聖地」 ~ヴォルグは「休む場所」、教会は「心の拠り所」。役割分担してハッピーエンド~
聖アルス教団の大聖堂。
かつては冷たい石床と、厳しい規律が支配していたその場所は、今や別世界へと変貌を遂げていた。
「……あぁ、極楽じゃ……」
長老司祭が、ふやけた顔で呟いた。
彼が座っているのは、硬い木のベンチではない。
私が寄贈した『全自動・聖なるマッサージチェア(天国モード搭載)』だ。
大聖堂の中には、心地よいアロマの香りが漂い、ステンドグラスからは柔らかな光が差し込んでいる。
懺悔室は防音完備の個室カラオケ……もとい、ストレス発散ルームに改造され、中庭の泉は温水ジャグジーになった。
「これがリフォームの結果ね」
私は満足げに頷いた。
先日、私が「快適化」を強行してから数日。
最初は「冒涜だ!」と騒いでいた強硬派の司祭たちも、一度その快適さを味わうと、あっという間に陥落した。
人間、一度知ってしまった「楽」からは逃れられないのだ。
「リリアナさん」
背後から、澄んだ声がかかった。
振り返ると、そこにはセラフィナが立っていた。
以前のようなボロボロの僧衣ではない。
清潔で、少しゆったりとしたデザインの新しい法衣を身に纏っている。
肌は艶やかで、目の下のクマも消えていた。
「調子はどう、セラフィナ?」
「はい。おかげさまで、体がとても軽いです」
彼女は穏やかに微笑んだ。
その笑顔には、以前のような悲壮感はない。
「今日、説法を行いました。『神は人を愛しているからこそ、夜という休息を与えたのです』と。……信徒の皆さんが、泣いて喜んでくれました」
「そりゃそうよ。誰だって苦しいのは嫌いだもの」
彼女は「休息の聖女」として生まれ変わった。
苦しみを美徳とするのではなく、健やかな体と心で神に感謝を捧げる。
その新しい教義は、疲弊した帝都の人々に爆発的に受け入れられた。
「リリアナさん。私は、ここを『心の拠り所』にします」
セラフィナは真っ直ぐに私を見た。
「貴女のヴォルグが『体を休める場所』なら、この教会は『心を休める場所』でありたい。……もう二度と、誰も過労で倒れさせません」
「頼もしいわね。期待してるわ」
私は彼女の手を握った。
冷たかった手は、今は温かい。
これならもう大丈夫だ。
私の安眠を脅かす「騒音」は、もうここにはない。
◇
その日の午後。
私は皇城のテラスで、皇帝ヴァルター3世と向かい合っていた。
テーブルには最高級の紅茶。
そして、私の隣にはクラウスが控えている。
「……で、帰るというのか? 本当に?」
皇帝が名残惜しそうに尋ねた。
「はい、陛下。ここの空気は私には合いません。あと、枕が硬すぎます」
私は即答した。
帝都の空気はドローンのおかげでマシになったが、それでもヴォルグの清浄さには敵わない。
「むぅ……。では、宮廷魔導師長として迎える件は?」
「お断りします。通勤時間が無駄です」
「ならば、技術顧問として名前だけでも……」
「在宅ワークでいいなら、考えます」
私が譲歩案を出すと、皇帝は目を輝かせた。
「おお! 『リモート』というやつか! クラウスから聞いているぞ。ヴォルグにいながらにして、帝都の設備を監視・制御する魔法技術……」
「ええ。週に一度、レポートを送ります。緊急時は通信鏡で。それ以上は働きません」
「よかろう! 契約成立だ!」
皇帝は満足げに頷いた。
彼は合理的だ。私が帝都にいて不機嫌にサボるより、ヴォルグで機嫌よく発明をしてくれる方が国益になると理解している。
「クラウスよ。そなたも苦労するな」
皇帝がニヤリと笑ってクラウスを見た。
「このような自由奔放な才女の手綱を握るとは」
「いえ、陛下」
クラウスは私を見て、柔らかく微笑んだ。
「手綱を握られているのは、私のほうですよ。……彼女の作る『寝床』以上に、心地よい場所はこの世にありませんから」
ノロケだ。
皇帝が「あてられんわ」と肩をすくめる。
私は顔が熱くなるのを感じて、そっぽを向いた。
◇
帰りの列車。
もちろん、私の特製寝台車両だ。
窓の外を流れる景色が、灰色の街並みから、緑豊かな森へと変わっていく。
「……やっと帰れる」
私はソファに深く身を沈めた。
長かった。
たかが式典に出るだけのはずが、聖女と対決し、パンデミックを鎮圧し、宗教改革まですることになるとは。
働きすぎだ。
向こう三ヶ月は有給を消化したい気分だ。
「疲れたか、リリアナ」
クラウスが私の隣に座り、肩を抱いてきた。
「ええ、へとへとですよ。……クラウスこそ、大丈夫ですか? 宰相の仕事、溜まってるんじゃないですか?」
「ふっ、侮るな」
彼は不敵に笑った。
「留守中の業務は、君の作った『自動決裁AI』に任せてある。単純な承認作業はそれで十分だ。これからは、もっと頻繁にヴォルグへ帰れるぞ」
「それは……いいニュースですね」
私は彼の肩に頭を預けた。
彼の匂いがする。
落ち着く匂いだ。
「ねえ、クラウス」
「ん?」
「帰ったら、まず何をします?」
彼は少し考えて、私の耳元で囁いた。
「……二度寝だな。君と一緒に、あのでかいベッドで」
「奇遇ですね。私も同じことを考えていました」
私たちは顔を見合わせて笑った。
同志だ。
共犯者であり、最愛のパートナー。
怠惰への情熱を共有できる、唯一無二の相手。
◇
ヴォルグの屋敷に到着したのは、夕暮れ時だった。
懐かしい我が家。
自動掃除機によってピカピカに磨かれた床。
最適な温度に保たれたリビング。
私は靴を放り出し、寝室へと直行した。
「ただいま、マイ・ベッド!」
バフッ!
私はキングサイズのベッドにダイブした。
ああ、この弾力。この肌触り。
帝都の最高級ホテルも敵わない、私の楽園。
「……やれやれ。着替えてからにしろ」
遅れて入ってきたクラウスが苦笑する。
でも、彼もまたネクタイを緩め、上着を脱ぎ捨てていた。
「クラウスも、早く」
私が布団をめくって誘うと、彼は迷わず潜り込んできた。
温かい体温が重なる。
私たちは抱き合うようにして、目を閉じた。
窓の外では、虫の声が聞こえる。
もう、シュプレヒコールも、工場の騒音も聞こえない。
ふと、サイドテーブルの上の手紙が目に入った。
留守中に届いていたものらしい。
差出人は『セラフィナ』。
私は薄目を開けて、封を切った。
中に入っていたのは、一枚の申請書。
『有給休暇申請書
申請者:セラフィナ
期間:来月の三日間
理由:ヴォルグの温泉プリンが忘れられないため。
追伸:宰相閣下によろしくお伝えください(ハート)』
「……ふふっ」
私は思わず吹き出した。
あの子も、すっかりこちらの住人だ。
「どうした?」
「なんでもないです。……ただ、平和だなって」
私は手紙を置き、クラウスの腕の中に潜り込んだ。
「おやすみなさい、クラウス」
「ああ。おやすみ、リリアナ」
意識が遠のいていく。
明日はきっと、今日よりもっと素晴らしい一日になる。
だって、好きなだけ眠れるのだから。
私の「役立たず」なスローライフは、まだまだ終わらない。
むしろ、ここからが本番だ。
世界を巻き込んで、もっともっと快適に、怠惰に生きてやる。
幸せな決意と共に、私は深い眠りへと落ちていった。




