第9話 堕落のススメ ~聖女様、この「人をダメにするクッション」に座ってみてください~
宰相邸の一角にある客間。
そこは今、屋敷の中で最もセキュリティレベルと快適指数が高い「聖域」となっていた。
室温は常に二十四度に保たれ、湿度は五十パーセント。
遮光カーテンが外界の光を遮り、空気清浄結界が微細な埃すら許さない。
私は、その部屋のドアをノックなしで開けた。
手に持っているのは、特製カスタードプリン(とろけるタイプ)とホットミルクだ。
「……起きた?」
ベッドの上で、小さな影が震えていた。
聖女セラフィナだ。
彼女は最高級の羽毛布団を蹴飛ばし、部屋の隅で膝を抱えてうずくまっていた。
着ているのは、私が用意したシルクのパジャマ。
ボロボロの僧衣は、とっくに焼却処分済みだ。
「……ここは、どこですか」
彼女が顔を上げる。
三日間の昏睡から目覚めたばかりの瞳は、まだ焦点が定まっていない。
けれど、顔色は劇的に良くなっていた。
死人のような白さから、健康的な桜色へ。
私の「強制睡眠療法」の成果だ。
「宰相邸の客間よ。貴女、スラムで倒れてから三日間寝ていたの」
「みっ……三日!?」
セラフィナが悲鳴を上げて立ち上がろうとした。
しかし、足がもつれて絨毯の上に転ぶ。
「いけない……行かなきゃ……。祈らないと……働かないと……!」
彼女は半狂乱でドアへ這っていこうとする。
まるで、何かに追われているようだ。
いや、追われているのだろう。
「怠惰は罪」という、強迫観念に。
「落ち着きなさい。外の病気はもう治ったわ」
私はサイドテーブルにプリンを置き、彼女の前に立ち塞がった。
「嘘です……! 私の祈りがなければ、あの病は……」
「私のドローンが薬を撒いたの。もう終息宣言が出たわ。貴女の出番はない」
残酷な事実を突きつける。
彼女の目が大きく見開かれた。
「そん、な……。じゃあ、私は……何のために……」
彼女の手が震え、自分の体を抱きしめる。
「痛くないんです」
「は?」
「体が……どこも痛くない。頭も重くない。息が苦しくない……」
彼女は恐怖に顔を歪めた。
「怖い……! こんなの、私じゃない! 苦しくないと、生きてる気がしない! 神様に見捨てられてしまったんだわ……!」
涙がポロポロと溢れ出す。
重症だ。
ブラック企業の社畜が、定時退社を命じられて「クビになる前兆だ」と怯えるのと同じ心理。
教団の洗脳教育、恐るべし。
「はぁ……」
私は深いため息をついた。
言葉で説得するのは無理だ。
理屈じゃない。体感させるしかない。
「ねえ、セラフィナ。そこに座って」
私が指差したのは、部屋の中央に置かれた純白の物体。
『人をダメにするソファ・聖女カスタム』だ。
中身は極小ビーズとエアクッションのハイブリッド。
表面は、雲の手触りを再現した最高級モフモフ素材。
「座りません! そんな贅沢品……悪魔の椅子です!」
「いいから座る。これはリハビリよ」
私は有無を言わさず、彼女の腕を引いた。
抵抗する彼女の背中を、えいっと押す。
ボフンッ。
彼女の体が、白い雲の中に沈み込んだ。
「ひゃっ……!?」
セラフィナが声を上げる。
逃げようと身を捩るが、動けば動くほど、ソファは彼女の体型に合わせて変形し、隙間なく包み込んでいく。
「な、なにこれ……離れない……抜けない……!」
「無駄よ。そのソファは、座った人の『一番楽な姿勢』を記憶して固定するの」
私は指を鳴らした。
ソファに内蔵された『温熱ヒーター』と『微振動マッサージ』が起動する。
ブブブブ……。
じんわりとした温かさが、彼女の背中から全身へと広がっていく。
凝り固まった筋肉が、強制的にほぐされていく。
「あっ、あ……うぅ……」
セラフィナの抵抗が止まる。
彼女の口から、甘い吐息が漏れた。
「だめ……こんな、気持ちいいなんて……だめなのに……」
彼女はまだ戦っていた。
快楽と、罪悪感の狭間で。
「どうしてダメなの?」
私は彼女の目線の高さに合わせてしゃがみ込んだ。
「痛くないと、神様は貴女を愛してくれないの?」
「そ、そうよ……。代償を払わなきゃ、奇跡は起きない……」
「嘘ね」
私はきっぱりと言った。
「私のドローンを見てみなさい。あの子たちは電気と魔石だけで動くわ。痛みなんて感じないけど、何万人もの命を救った。……苦しみだけが対価だなんて、効率が悪すぎるわ」
「で、でも……私は機械じゃない……」
「人間よ。だからこそ、休まなきゃいけないの」
私はプリンのスプーンをすくい、彼女の口元に差し出した。
「ほら、口を開けて。甘いものを食べると、脳が幸せになるの。これも治療の一環よ」
セラフィナは潤んだ目でスプーンを見つめ、恐る恐る口を開けた。
とろけるカスタードが、彼女の舌の上で広がる。
「ん……ッ!」
彼女の目が大きく見開かれた。
断食と粗食しか知らなかった彼女にとって、それは衝撃的な味だったはずだ。
「おいしい……」
ぽつりと、本音が漏れた。
「すごく……おいしい……」
その瞬間、堤防が決壊した。
「う、うわぁぁぁぁぁん!!」
セラフィナはソファに顔を埋め、子供のように泣き出した。
「痛かった……! ずっと、痛かったの……! お腹も空いてて、眠くて、寒くて……! でも、言っちゃダメだって……聖女だから我慢しなきゃって……!」
彼女の小さな背中が激しく波打つ。
これまで押し殺してきた感情のすべてが、涙となって溢れ出てくる。
「辛かった……休みたかった……! もっと、寝たかったぁ……!」
私は何も言わず、彼女の頭を撫でた。
サラサラの金髪が、指の間を滑り落ちる。
「よく頑張ったわね。もういいのよ」
神様が許さなくても、私が許す。
だってここは、私の管理下にある「お昼寝特区」の出張所なのだから。
「ここでは、寝ることが仕事よ。美味しいものを食べて、笑うことが義務なの。……だから、貴女は今、とっても優秀な働き者よ」
「うぅ……ぐすっ……リリアナ、さん……」
彼女は私のパジャマの裾をギュッと握りしめた。
その手はもう、祈るためではなく、温もりを求めるために使われていた。
しばらくして、泣き疲れたセラフィナは、再び夢の中へと落ちていった。
今度はうなされることもなく、幸せそうな寝顔で。
口元にはプリンの残りがついていた。
「……堕落完了、ね」
私は空になったプリンの器をテーブルに置いた。
ガチャリ。
タイミングよく、ドアが開いた。
クラウスだ。
彼はソファですやすやと眠る元聖女を見て、苦笑した。
「見事な手腕だ。教団が十年かけて植え付けた洗脳を、プリンとソファで解いてしまうとは」
「人間の本能に従っただけですよ。……で、外の様子は?」
クラウスの表情が引き締まる。
「教団の上層部が動き出した。セラフィナを『魔女に洗脳された裏切り者』として処分し、新しい聖女を擁立するつもりだ」
「へえ。懲りない連中ね」
私は寝ているセラフィナに布団をかけ直してやった。
「私の大事な『睡眠仲間』に手を出そうなんて、いい度胸じゃない」
私の中で、明確な敵対認定が下された。
これまでは「安眠の邪魔だから追い払う」だった。
でも今は違う。
この子の寝顔を守るためなら、あの古臭い組織ごと解体してやるのも悪くない。
「クラウス。帝都の教会本部って、ここから近いですっけ?」
「馬車で十分ほどの距離だが……何をする気だ?」
「殴り込みです」
私はニヤリと笑った。
「いえ、訂正。『快適化リフォーム』です。あそこ、風通しが悪そうだから」
最終決戦だ。
聖なる祈りの場を、世界一快適な昼寝スポットに変えてやる。
それが、私なりの「聖女救済」の仕上げなのだから。




