第7話 聖女の倒れる日 ~彼女を支えているのは信仰心ではなく、カフェインとポーションでした~
帝都の下町、通称「煤払い地区」。
工場の排煙が最も濃く降り注ぐこの場所は、昼間でも薄暗い。
貧困と病が蔓延する、帝国の暗部だ。
「……臭いわね」
私はハンカチで鼻を覆い、顔をしかめた。
もちろん、物理的には防臭結界を張っているので匂いはしないはずだが、気分の問題だ。
私は今、スラムの広場を見下ろす建物の屋根に立っている。
透明化魔法を使っているので、下からは見えない。
「リリアナ。わざわざ来なくてもよかったのに」
隣に立つクラウスが、心配そうに私を見る。
「そういうわけにいきません。私のせいで『聖女が狂った』なんて噂が立ったら、寝覚めが悪いですから」
そう。
二日前の御前試合。
私の医療ポッドで完敗したセラフィナは、目覚めた直後、顔を真っ赤にして逃亡した。
そしてその足で、このスラム街に転がり込み、不眠不休の治療活動を始めたのだ。
まるで、自分の価値を証明しようと焦るように。
広場には、長い行列ができていた。
咳き込む老人、怪我をした子供、過労で倒れた労働者。
その最前列に、彼女はいた。
「神よ……癒やしを……」
セラフィナの声は、擦り切れた糸のようだった。
僧衣は泥まみれ。
金髪は煤で汚れ、かつての輝きはない。
彼女はふらつく足で患者の前に立ち、震える手をかざしていた。
カッ……。
放たれる光が弱い。
電球が切れる寸前の明滅だ。
「あり、がとう……聖女様……」
「いいえ、感謝など……これは私の、贖罪なのです……」
彼女はうわごとのように呟き、次の患者へ向かう。
その手には、空になったポーションの瓶と、眠気覚ましのカフェイン錠剤の包み紙が握りしめられていた。
見ていられない。
あれは治療ではない。寿命の前借りだ。
「……教団の連中は、何をやってるの?」
私は広場の隅を指差した。
そこには、立派な法衣を着た司祭たちが数名、腕を組んで立っていた。
彼らはセラフィナを手伝うことも、止めることもしない。
ただ、じっと観察している。
「監視だ」
クラウスが吐き捨てるように言った。
「彼らはセラフィナを見限ったらしい。敗北した聖女など、広告塔にならないとな」
「なら、なぜ止めないの?」
「死ぬのを待っているんだよ」
クラウスの声が、氷点下まで冷え込んだ。
「『異教の魔女』に敗れた聖女が、スラムの民を救うために命を燃やし尽くして死ぬ。……そうなれば、彼女は『悲劇の殉教者』になる。教団は彼女の死を利用して、再び民衆の支持を集め、君と私を攻撃する材料にするつもりだ」
……は?
私は耳を疑った。
「何それ。あの子は、使い捨てカイロか何か?」
温かいうちは使い倒して、冷たくなったらゴミ箱へ?
ふざけている。
効率主義の私でも、そんな非合理な廃棄処分はしない。
道具なら、壊れる前にメンテナンスをして、長く使うのが鉄則だ。
その時。
広場で悲鳴が上がった。
「せ、聖女様!?」
セラフィナが、膝から崩れ落ちたのだ。
泥水の中に、バシャリと倒れ込む。
彼女は起き上がろうともがくが、手足が痙攣して動かない。
「ああ……まだ、まだです……。私は、働かなければ……」
彼女は泥に顔を汚しながら、這って患者へ向かおうとする。
爪が剥がれ、指先から血が滲んでいる。
「神よ……私に、苦しみを……。もっと苦しまなければ、許されない……」
狂気だ。
「楽をすること=罪」という洗脳が、彼女をここまで追い詰めている。
司祭の一人が、ゆっくりと歩み寄った。
助け起こすためではない。
最期の言葉を聞き届けるためだ。
「おお、なんという自己犠牲……。セラフィナよ、安心召されよ。そなたの尊い死は、教団の礎となるであろう」
司祭は恍惚とした表情で、瀕死の少女を見下ろしている。
周りの民衆も、涙を流して拝み始めた。
誰も助けない。
「聖なる死」という演出に、全員が酔っている。
──プチン。
私の中で、何かが切れる音がした。
「……あー、もう!」
私は屋根を蹴った。
隠密など知ったことか。
こんな胸糞の悪い茶番、私の安眠の敵だ。
◇
ドォォォン!!
広場の中央に、爆音と共に着地した。
砂煙が舞う。
「な、なんだ!?」
「天使か!?」
民衆がざわめく中、私は砂煙を払って立ち上がった。
目の前には、泥まみれのセラフィナと、驚愕に目を見開く司祭。
「だ、誰だ貴様は……リリアナ・ヴェルディ!?」
司祭が叫ぶ。
私は彼を無視して、倒れているセラフィナの襟首を掴み、強引に引き起こした。
「……っ、あ……」
彼女の瞳は焦点が合っていない。
体は高熱で燃えるように熱い。
「貴様、何をする! 神聖なる儀式の最中だぞ!」
司祭が杖を振り上げて怒鳴った。
私は彼を睨みつけた。
「儀式? これが?」
私は冷たく言い放つ。
「ただの整備不良でしょう」
「な……何を……」
「使い潰して、壊れたらポイ? 三流の管理者のやることね。道具一つ大事にできない組織が、人の魂を救えるわけがない」
私は指を鳴らした。
上空で待機させていた輸送用ドローン(かご付き)が降下してくる。
「回収します。このままここで死なれたら、ここが心霊スポットになって地価が下がるので」
「ふ、ふざけるな! その娘は教団の所有物だ! 殉教こそが彼女の望み……」
司祭が私の肩を掴もうとした瞬間。
ヒュンッ!
どこからともなく飛来した小さな石が、司祭の手の甲を正確に弾いた。
屋根の上にいるクラウスだ。
私の彼(番犬)は優秀なのだ。
司祭が怯んだ隙に、私はセラフィナをドローンのバスケットに放り込んだ。
扱いが雑?
緊急搬送だから仕方ない。
「ま、待っ……て……」
セラフィナが私の袖を掴んだ。
消え入りそうな声で、彼女は懇願する。
「私を……連れて行かないで……。私は、ここで死ななきゃ……役に立たないままじゃ、神様に……」
彼女の目から、涙が溢れ出し、泥で汚れた頬を伝う。
「休むのが、怖いんです……。自分がいらない子になるのが、怖い……」
ああ。
やっぱり、似ている。
前世の私と。
ブラック企業のデスクで、「私が休んだら会社が回らない」と思い込んで、ボロボロになるまで働いていたあの頃と。
私はため息をつき、彼女の泥だらけの額を指で弾いた。
パチン。
「バカね。休んだくらいで回らなくなる世界なら、滅びてしまえばいいのよ」
「……え?」
「貴女が死んで喜ぶ神様なんて、ろくなもんじゃないわ。そんなブラックな職場、私が労働基準法違反で訴えてあげる」
意味がわからないという顔をする彼女に、私はニヤリと笑った。
「安心しなさい。私の『お昼寝特区』では、強制労働は禁止だけど、強制休息は義務だから」
私はドローンに上昇指示を出した。
「さあ、行きましょう。泥パックは美容にいいけど、本物の泥じゃ肌が荒れるわよ」
セラフィナを乗せたドローンが空へ舞い上がる。
呆然とする司祭と民衆を残し、私はクラウスと合流するために跳躍した。
宣戦布告だ。
教団という巨大組織に対し、私は「休日」という武器で喧嘩を売ったのだ。
これから始まるのは、聖女の奪還戦ではない。
彼女に「二度寝の味」を教え込む、壮大なリハビリ計画である。




