第4話 灰色の帝都 ~人々が死んだ目で働いている。この街には「癒やし」が足りない~
帝都の宰相邸は、巨大な棺桶のようだった。
石造りの重厚な外観。
窓は小さく、カーテンは閉ざされ、中からは陰気な空気が漂ってくる。
「……ここが、貴方の家?」
馬車を降りた私は、思わずハンカチで口元を覆った。
埃っぽい。
玄関ホールのシャンデリアは曇り、絨毯には微かに煤が染み付いている。
ヴォルグの屋敷の、あの清浄な空気とは雲泥の差だ。
「すまない。私がほとんど帰宅しないせいもあって、管理が行き届いていないんだ」
クラウスがバツが悪そうに言った。
そこへ、奥から一人の老婦人が現れた。
きっちりと結い上げた白髪。糊の効いたメイド服。
背筋を定規のように伸ばした、典型的な「お堅い」メイド長だ。
「お帰りなさいませ、旦那様」
彼女は深くお辞儀をした後、私を冷ややかな目で見据えた。
「……そちらが、噂のリリアナ様でございますか」
「はじめまして。リリアナです」
「メイド長のマーサと申します。……急なご到着でしたので、客間の準備が整っておりません。これから掃除を始めますので、三時間ほどお待ちいただけますか?」
三時間。
移動で疲れた私に、埃っぽいロビーで三時間待てと言うのか。
嫌がらせとしては上等だ。
「人手が足りないの?」
「いいえ。ですが、客間は最上級の敬意を込めて、手作業で磨き上げるのが当家の流儀。雑巾がけ一つにも、魂を込めねばなりませんので」
マーサは胸を張った。
ああ、ここにもいた。
「苦労=美徳」教の信者だ。
後ろに控えている若いメイドたちの顔色は悪い。
目の下にクマを作り、指先は荒れている。
「魂を込める」前に、彼女たちの体が壊れそうだ。
「……三時間も待てません」
私は即答した。
今すぐ、清潔でふかふかのベッドにダイブしたいのだ。
「でしたら、出直していただいて結構です。当家には当家のやり方が……」
「やり方が古いですね。アップデートしましょう」
私は指先をパチンと鳴らした。
(環境スキャン完了:汚れレベルC)
(実行:全館自動清掃プログラム)
ヒュオオッ!
屋敷の中に、爽やかな風が吹き抜けた。
ただの風ではない。
埃を吸着し、微細な汚れを弾き飛ばす「浄化の風」だ。
「な、なんですの!?」
マーサがスカートを押さえる。
風は廊下を駆け抜け、天井の隅々まで舐めるように旋回した。
同時に、亜空間から取り出した数百匹の「お掃除スライム(極小サイズ)」を一斉に放つ。
彼らは床を高速で這い回り、こびりついた煤汚れを分解・吸収していく。
シャンデリアが輝きを取り戻し、曇っていた窓ガラスが透明になっていく。
所要時間、三分。
薄暗かった玄関ホールは、新築のようにピカピカになっていた。
「……な、な、な……」
マーサは口をパクパクさせて、綺麗になった床と私を交互に見ていた。
「バカな……魔法で、手抜きをするなんて……! 汗もかかずに綺麗にして、そこに真心はあるのですか!?」
「真心で埃は取れませんよ、マーサ」
私は埃一つない手すりを指でなぞった。
「結果が全てです。……ほら、三時間浮きましたよ」
私は硬直するメイドたちに向き直った。
「貴女たち、お茶の用意を。人数分、全員のね」
「は、はい! ……えっ、全員?」
若いメイドが聞き返した。
「そう。マーサも、貴女たちも。仕事は終わったんだから、休憩しましょう」
◇
十分後。
サロンには、奇妙な光景が広がっていた。
主人である私とクラウス、そして使用人全員が、同じテーブルで紅茶を飲んでいるのだ。
最初は恐縮して立ち尽くしていたメイドたちも、私が持ち込んだ「ヴォルグ特産クッキー」と「疲労回復ハーブティー」の香りに負け、今は幸せそうに頬を緩めている。
「お、美味しい……」
「足が……むくみが取れていくみたい……」
彼女たちは過労だったのだ。
真心という名の強制労働から解放され、本来の笑顔が戻ってきている。
その輪から少し離れた場所で、マーサだけが頑なにカップに口をつけずにいた。
「……認めません」
彼女は震える声で言った。
「こんなの、間違っています。楽をして……サボって……。これでは、人間がダメになってしまう」
「ダメになって、何が悪いんです?」
私は自分のカップを置き、彼女を見た。
「マーサ。貴女、腰が痛いでしょう?」
彼女の肩が一瞬跳ねた。
立っている姿勢が、僅かに右に傾いている。長年の雑巾がけの代償だ。
「それは……年のせいです」
「いいえ、働きすぎです。……この椅子に座ってみてください」
私は、彼女のために用意した特製チェア(腰痛ケア機能付き)を指差した。
「命令ですか?」
「提案です。騙されたと思って」
マーサは躊躇いながらも、恐る恐る椅子に腰を下ろした。
その瞬間。
「あ……」
彼女の口から、声が漏れた。
椅子の背もたれが温かく発熱し、凝り固まった腰の筋肉を優しく支える。
痛みが、溶けていく。
「どうですか?」
彼女は目を見開いたまま、動かなくなった。
目尻に、じわりと涙が浮かぶ。
「……痛くない。十年ぶりに……痛みが……」
彼女は部下たちのほうを見た。
若いメイドたちが、談笑しながらクッキーを食べている。
その顔は、彼女が厳しく指導していた時よりも、ずっと生き生きとしていた。
「私は……間違っていたのでしょうか」
「間違いじゃありません。ただ、もう少し力を抜いてもいいだけです」
私はティーポットを持ち、彼女の前のカップに紅茶を注いだ。
「冷めますよ。飲んでください」
マーサは震える手でカップを持ち上げ、一口飲んだ。
そして、深く、長く息を吐いた。
「……美味しい、でございます」
彼女の纏っていた棘のような空気が、霧散した瞬間だった。
「さて」
屋敷の制圧(懐柔)は完了だ。
私はクラウスを見た。
彼は満足そうに頷き、そして窓の外へ視線を向けた。
「中は片付いたが……外はこれからが本番だぞ」
彼の言葉通り、窓の外からは微かに、しかし確実に不穏な音が響いてきていた。
群衆の叫び声。
教団の鐘の音。
『魔女出ていけ』
『聖女様に栄光あれ』
帝都の灰色の空気が、私の聖域を取り囲もうとしていた。
「うるさいわね……」
私はクッキーを齧った。
安眠妨害だ。
こうなったら、徹底的にやってやろうじゃないの。
この灰色の街を、私の色(パジャマ色)に染め上げてやるわ。
私は決意を新たに、二枚目のクッキーに手を伸ばした。




