第1話 断罪と追放 ~「君は用済みだ」と言われたので、喜んで隠居します~
シャンデリアの光が目に痛い。
王宮の大広間は、むせ返るような香水の匂いと、意味のないお世辞の応酬で満たされていた。
私は壁の花になりきりながら、必死であくびを噛み殺す。
ヒールの高さは七センチ。足の裏がジンジンと痺れている。
帰りたい。
今すぐに帰って、あの少し硬めの枕に顔を埋めたい。
昨晩も、財務省から回ってきた予算案の修正を裏で処理していたせいで、睡眠時間は三時間を切っている。
私の肌は、もう限界だと悲鳴を上げていた。
「リリアナ・ヴェルディ! 前に出よ!」
よく通る、甲高い声が広間の空気を裂いた。
音楽が止まる。
ざわめきが波のように引いていき、視線が一斉に私へと集まった。
声の主は、壇上に立つ金髪の青年。
この国の第一王子であり、私の婚約者であるギルバート殿下だ。
その隣には、ピンク色のふわふわとしたドレスを着た小柄な女性がへばりついている。
ミナ男爵令嬢だ。
私は小さく息を吐き、重たいドレスの裾を蹴らないように歩き出した。
歩数は最小限に。無駄な体力は使いたくない。
「御前に」
カーテシーをして顔を上げると、殿下は勝ち誇ったような笑みを浮かべていた。
まるで、これから素晴らしいショーを始めるとでも言いたげな顔だ。
「リリアナ! 貴様との婚約は、今この時をもって破棄する!」
会場がどよめいた。
扇子で口元を隠す貴婦人たち。
ニヤニヤと下卑た笑いを浮かべる取り巻きの令息たち。
私は瞬きを一つした。
思考を巡らせる。
今、彼はなんと言った?
婚約破棄?
(……やった)
歓喜の声を上げそうになるのを、理性で押し留める。
頬が緩みそうになるのを、無表情の仮面の下で必死に堪えた。
公爵家の娘としての義務。
将来の王妃としての教育。
そして何より、彼が放り出す山のような公務の処理。
それら全てから、解放されるということか。
労働からの解放。
自由な時間の獲得。
つまり、寝放題。
「……理由を、お伺いしても?」
形式上、聞いておく。
声が弾まないように注意深く低音を保った。
「ふん、白々しい! 貴様のような無能で、地味で、可愛げのない女が、将来の国母になれるはずがないだろう!」
殿下はミナの腰を抱き寄せ、見せつけるように胸を張った。
「見ろ、このミナを! 彼女は真実の愛で私を支えてくれている。貴様のように、いつも眠そうな顔で部屋に引きこもっている怠け者とは違うのだ!」
ああ、なるほど。
彼は本気でそう思っているらしい。
私が部屋に引きこもっている間、彼が捨てた書類が勝手に片付いていると思っていたのだろうか。
まあいい。訂正する手間すら惜しい。
「それに貴様、ミナをいじめたそうだな? 階段から突き落とそうとしたり、教科書を破いたり……」
身に覚えのない罪状が次々と読み上げられる。
ミナ嬢が「きゃっ、怖いですぅ」と殿下の胸に顔を埋めた。
演技にしては少し震えが大袈裟だ。
反論すべきだろうか?
いや、反論すれば、証拠を出せだの、水掛け論だのと時間がかかる。
今、時刻は二十一時を回っている。
これ以上長引けば、明日の肌のコンディションに関わる。
私は決断した。
最短ルートを選ぼう。
「承知いたしました」
「なっ……?」
殿下が言葉を詰まらせた。
泣いて縋るか、激昂するとでも思っていたのだろう。
予想外のあっさりとした反応に、彼のプライドが傷ついたのが見て取れた。
「し、承知しただと? 罪を認めるのか!?」
「殿下がそう仰るなら、私の弁明など不要でしょう。婚約破棄、謹んでお受けいたします」
私は深く頭を下げた。
そして、顔を上げずに続ける。
「つきましては、慰謝料と手切れ金の交渉に入らせていただきたく」
「金か! やはり貴様は卑しい女だな!」
殿下は侮蔑の言葉を吐き捨てたが、私は無視した。
金はいらない。
公爵家から持参金は返してもらうが、それよりも欲しいものがある。
「お金は結構です。その代わり、王家の直轄地である『ヴォルグ荒野』の譲渡をお願いいたします」
会場が再びざわついた。
ヴォルグ荒野。
国境付近にある、広大な未開拓地。
強力な魔物が出没するため、誰も住みたがらない不毛の地だ。
「はあ? あの魔の森か? あんなゴミ捨て場を欲しがってどうするつもりだ」
「隠居させていただきます。無能な私には、王都の華やかな生活は荷が重すぎましたので」
静かに、しかしはっきりと告げる。
殿下は鼻で笑った。
「いいだろう! 追放処分にしようと思っていたところだ。魔物の餌にでもなるがいい!」
「ありがとうございます。では、この場にて書類にサインを」
私は懐から、あらかじめ用意しておいた譲渡契約書を取り出した。
こういう事態も想定して、昨夜のうちに作成しておいたのだ。
我ながら、この周到さは褒めてあげたい。
殿下は書類を引ったくると、中身もろくに読まずにサインをした。
王印が押される。
これで、法的効力が発生した。
「二度と私の前に顔を見せるな!」
「はい。お約束いたします。……お幸せに」
私は契約書を丁寧に折りたたみ、亜空間収納へしまった。
最後の挨拶は、心からの本音だった。
彼らが幸せでいてくれれば、私が呼び戻されることもないのだから。
私は踵を返し、出口へと向かった。
背後から嘲笑が聞こえる。
「哀れな女だ」「捨てられて気が触れたか」
どうぞ、なんとでも。
雑音は、私の安眠を妨げる要素にはならない。
◇
会場を出ると、夜風が火照った頬に心地よかった。
待たせておいた公爵家の馬車──ではなく、私が個人的に雇っておいた辻馬車に乗り込む。
実家の馬車を使えば、父や義母への報告義務が生じて面倒だ。
事後報告の手紙だけは、自動筆記魔法で書いておいたものが今頃届いているはずだ。
「出してちょうだい。北の門へ」
御者に告げると、馬車がゆっくりと動き出した。
石畳を車輪が叩く音。
揺れは少し大きいが、王城の堅苦しい空気に比べれば天国だ。
私は窓の外を流れる王都の灯りを眺めた。
美しく輝く街。
その光の一つ一つを維持するために、どれだけの計算と調整が必要だったか。
上下水道の魔導ポンプの制御、食料流通の最適化、街灯の燃料管理。
全部、私の部屋の机の上で行われていたことだ。
明日から、それらは全て停止する。
私の魔力が届かなくなるからだ。
「……まあ、なんとかなるでしょ」
誰かがやるはずだ。
人間、追い詰められれば働くものだ。
私だってそうだった。
前世で死ぬまで働いて、今世でも働き詰めだった。
でも、もう終わり。
これからは私の時間だ。
私はクッションを背中に当て、大きく背伸びをした。
荒野に着いたら、まずは寝床を作ろう。
遮光カーテン完備の、最高の寝室を。
アラームのない朝を。
想像するだけで、意識がとろけていく。
瞼が重い。
私は幸せな微睡みの中で、かつての祖国に別れを告げた。
おやすみなさい、皆様。
永遠に、さようなら。




