99 別れの朝に4903
朝の空気は、夜よりも冷たかった。
白狐族の村を囲う防柵の外、踏み固められた雪の上に、俺たちは並んで立っていた。
まだ出発の予定時刻には早すぎるぐらいだが、ここからだとこの村全体を一望できる。夜を焦がした花火の煙は、もうどこにも残っていない。空は澄み切っていて、昨日と同じ星は、当たり前のように姿を消していた。祭りは終わった。夢のような一夜があったことを、疑わせるほど静かな朝だった
吐いた息が白く伸びて、すぐに消える。その様子を見て、胸の奥に溜まっていたものも、ゆっくりと形を失っていく。
旅立ちの朝だ。
防柵の影から、足音がいくつか近づいてきた。
わざわざその姿を見なくても、誰が来たのかはわかる。気配が、もう馴染んでしまっている。
最初に姿を現したのはソラカゼだった。白い外套を羽織り、左肩を庇うように紐を結び直している。雪を踏む足取りは安定していて、昨夜までの迷いは感じられなかった。その少し後ろを、エニセイが歩いてくる。相変わらず気配は薄いが、今朝は隠す気がないらしい。黒い瞳がまっすぐ前を見ている。
さらに遅れて、リオウと、数名の雪牙隊の者たち。誰も武器は持っていない。代わりに、手袋を外した素手が、白い息と一緒に空気に晒されていた。
「もう行くのか」
ソラカゼが言った。問いというより、確認だ。
「ああ」
短く答える。
言葉を重ねると、余計なものまで零れそうだった。
誤魔化すように俺は一歩前に出て、ソラカゼに向き直る。
「この村をお前に任せる。無理はするなよ」
「任せろとは言われなくても、守るさ」
エニセイが一歩進み、俺の前に立つ。
昨夜の祭りの熱は抜けているが、目は冴えていた。
「エイジ」
「なんだ」
「行く先で、また厄介なものを拾いそうだね」
「否定はできない」
「なら、覚えておいて」
彼女は一瞬だけ言葉を探し、それから続けた。
「この村は、いつでも戻ってきていい場所だってこと」
胸の奥が、わずかに軋んだ。
「……ああ」
リオウが腕を組んで、わざとらしく咳払いをする。
「しんみりすんのはここまでだ。祭りの翌朝にゃ似合わねえ」
そう言いながら、俺の肩を一度、強く叩いた。
「生きてりゃ、また会う。死んだら文句も言えねえしな」
「相変わらずだな」
「お互い様だろ」
かつての仲間と、新たな親友と、別れの言葉を交わしていると、新しい人影が現れた。
仰々しいほどに豪奢な伝統服を着こみ、簪を幾重にも連ねている女性カザヌキ。彼女は傍に導き手スズナを侍らして、ゆっくりと丘の上まで登頂する。もちろん俺は彼女たちを待っていた、導き手の奇術がなければそもそもこの村の外へ出ることもできない。
転移魔法は村に張られている結界を貫通できない。どうやら自分の意思で境界を越えようとすると弾かれるみたいだ。だから最初ネヴァスは侵入できなかったし、逆に明確な意思を持たない動物や、呪いで操られていた戦士たちは越えることができた。スズナは俺たちを村の外へ届けるための橋渡し役だ。
流石にカザヌキも冬の外では扇を仰ぐことはないようで、しかし、代わりに長い艶やかな尾を揺らしながら言った。
「改めて、白狐族一同を代表してお礼を申し上げます。本当に、本当にありがとうございました。貴方たちのおかげで、私たちは過去に囚われず未来へ踏み出せそうです」
カザヌキはそう言って、深く頭を下げた。
族長としての礼だ。個人の感情を挟まない、しかし決して軽くない重みがあった。
俺は慌てて言った。
「俺たちは、やるべきことをやっただけだ」
「それができぬ者が、どれほど多いことか」
カザヌキは静かに微笑んだ。
「戦いを終わらせるのは簡単です。しかし、その後に責任を残すことを選ぶ者は稀。貴方たちは、それを選ばれた」
隣で、エリアが小さく頷く。
「この村が再び外と繋がる決断をしたのは、そなたら自身の力じゃ。妾たちは、ただ背を押したに過ぎぬ」
「それでもです」
カザヌキは尾を揺らし、視線を俺に戻した。彼女の真剣な瞳を見ると、不思議と実感が湧く。ここで過ごした日々が、確かに積み重なっていたのだと。俺が選んだ道は間違っていなかったのだと。
「白狐族は、貴方を忘れません。エイジ殿、ファイドル殿。そして魔王エリアさま。この御恩はいずれ返します。……ああそれと、スズナからも伝えたいことがあるそうです。さあ、スズナ。行っておいで」
恐る恐る導き手スズナが一歩前に出る。カザヌキは優しくその小柄な身体を押し出した。
「その、エイジ……さま」
「あ、ああ」
かなり年下の少女に畏まられると面映ゆいな。知らなかった。彼女は俺たちを外へ送り出すのに必要な存在だが、わざわざ伝えるべきことなんてあっただろうか。
「わたしは、決めました。導き手を辞めます」
「つまり?」
「はい。この村を外の世界と繋げます。いま、ここでこの瞬間に」
狐面に隠れて表情こそ見えないが、その奥からでもわかるほどの決意が溢れている。かつての独り取り残された死者のような存在感のなさとはかけ離れている。彼女もまた選択したのだ。ならば俺はその意思を尊重する。
スズナは携えていた鈴を、静かに前へ出した。
誰も声を発さない。固唾を飲み込んで見守る。
そして――しゃらん、と。
最後の鈴がひとつ鳴る。
村全体が輝かしい燐光で包まれた。
感覚だけでわかる。ついに内と外の世界が繋がった。
エリアが目尻に涙を浮かべた。その心中は推し量るべくもなく、俺も同じだった。
スズナは改めて俺を見る。
「これも、もう必要ありませんね」
そう言って、スズナはゆっくりと細い指先で狐面の縁に触れた。
ほんの一瞬、躊躇うような間があってから、彼女はそれを外した。
初めて見る素顔だった。まだ幼さの残る輪郭に、朝の冷気で少し赤くなった頬。雪明かりを映す瞳は澄んでいて、その奥に微かな不安と、確かな決意が同居している。唇には、緊張からか淡く朱が差していた。
まるで守ってあげたくなるような可愛さ。思わず、そんな感想が胸に浮かんでしまう。
だが、それ以上に強く感じたのは、生きているという実感だった。狐面の下に、ちゃんと人がいる。当たり前のことを、今さら思い知らされる。
スズナは視線を泳がせ、耳まで赤くしながら、ぎこちなく笑った。
「……素顔を見せるのは、久しぶりで少しだけ、その……恥ずかしいです」
「無理に外さなくてもよかったんだぞ」
俺がそう言うと、彼女は首を振る。
「いいえ。これからは、隠れる理由がありませんから。それにエイジさまに本当の姿を見せることができませんから。これがわたしです。これがわたしの声です。エイジさま、わたしは貴方をお慕いしています。だから、成長したら必ずわたしは貴方に会いに行きます。だから、その……その時は、わたしをお嫁さんにしてください」
――
――
――
その言葉が、朝の空気に落ちた瞬間だった。
「……え?」
間抜けな声が、俺の喉から零れた。
頭が一拍遅れて状況を理解し、心臓が嫌な音を立てて跳ねる。
俺は咄嗟に聞き返そうとしたが、それよりも先にエリアの声が跳ねた。
「え、え、ええ?」
エリアが、固まっている。掠れた声が、確かに漏れた。
まばたき一つせず、口を半開きにしたまま、完全に思考が停止していた。
あの霹靂の魔王が。
戦場で刃を受け止め、王座の前で無数の視線を受け止めてきた彼女が。珍しくも頓狂な顔で困惑していた。
「嘘じゃろ? 妾は、妾は――?」
それは誰に向けたものでもない、純粋な混乱だった。自覚のないまま、彼女の心の声がそのまま音になって溢れ出る。そこでようやく、はっとして口を押さえる。
遅い。
俺は慌ててエリアを見る。
彼女の耳は、はっきりと分かるほど赤くなっていた。尖った耳の先が、信じられないというようにぴくぴくと動いている。
「ち、違う、違うのだエイジ! 今のは、その、妾は何も聞いておらぬ――」
「いや、聞いた」
「聞いておらぬと!」
即答だった。
周囲が、妙に静かだ。
ソラカゼは目を逸らし、リオウは口元を押さえて肩を震わせている。カザヌキとファイドルは、何も言わずに扇も持たず、ただ静かに楽しそうに微笑んでいた。
スズナが、小さく一歩下がる。
その顔には、先ほどまでの緊張も、恥じらいもない。
代わりに浮かんでいるのは、年相応の、悪戯っぽい笑みだった。
「……ふふ」
明らかに、してやったり、という顔だ。
「やっぱり、魔王さまの方が先に固まるんですね」
「――っ!?」
エリアが、完全に言葉を失う。
「な、な、なにを言っておるのだスズナ! 妾は別に、その……!」
「安心してください」
スズナは、からかうように首を傾げる。
「ちゃんと順番は守りますから。いまは、約束です」
「約束などしておらぬ!!」
「はい。だから、その時です」
俺は、どうしていいかわからず、ただ額を押さえた。
これは、平和な別れのはずじゃなかったのか。
「……スズナ」
なんとか声を整えて言う。
「その、これは場を和ませるための、冗談だよな……?」
それはそうであって欲しいという願いなのか。
しかし、スズナは人差し指を口元に当てた。
「ひみつです」
「ああ……」
それだけしか言えなかった。勘弁してくれ。まだ旅に出てもいないのに、エニセイが言うところの厄介なものを拾ってしまったぞ。スズナは満足そうに微笑み、狐面を抱き直す。
彼女は最後に小さく頭を下げた。
「行ってらっしゃい。お帰りをいつでもお待ちしております」
「ああ、行ってくるよ」
「俺も世話になった。カザヌキの嬢ちゃん、ソラカゼの坊主。これからも頑張れよ」
「え、え、妾は、魔王……じゃぞ?」
エリアはまだ動揺している。
呆然としていた間に、いつの間にか見送りがかなり増えていた。
防柵の外、丘の斜面に、人影が点々と並んでいる。白狐族だけではない。それも、偶然通りかかったという数ではなかった。
地霊族の一団が、厚手の外套に身を包み、無骨な手を胸に当てて立っている。復興の際に木材を運んでいた者たちだろう。誰も言葉は発さないが、その視線はまっすぐこちらに向けられていた。森霊族の若者たちは少し後ろで寄り集まっている。花冠を付けた少女が、見渡す俺に気付いて、小さく手を振った。夜影族は相変わらず影が薄い。だが、確かにそこにいる。雪の上に溶け込むように立ち、気配だけが静かに寄り添っていた。魔人族の男は腕を組み、獣人族の女はその隣で尻尾を揺らしている。昨日まで肩を並べて作業をしていたのだろう。互いに視線を交わし、何かを確認するように小さく頷いた。
誰も、立場を誇示しない。
誰も、前へ出ない。
ただ、同じ場所に立っている。
俺は息を呑んだ。
ほんの一週間前、彼らは敵として刃を向け合っていた。
呪いに操られ、疑念に煽られ、恐怖に縋って。
それが今は、見送りだ。
声を掛けられたわけでもない。
誰かが呼び集めたわけでもない。
それでも、彼らはここにいる。
「……来てくれたんだな」
誰に向けた言葉でもなかったが、近くにいた地霊族の老人が、ぶっきらぼうに鼻を鳴らした。
「世話になった。そんだけだ」
それだけ言って、視線を逸らす。
やっとひとつの平和が実現した。俺たちの旅はまだこれからも続く。
「……行ってくるよ」
次の旅へ。今度ははっきりとそう言った。
別れの言葉は、もう十分だった。俺は転移魔法の魔石を取り出し、ファイドルとは手を重ねて、呆然としているエリアとは離れないように指を絡めて、唱える。
「転移、フロゥグディ」
ぱきり。周囲に術式の光が集まり始める。
冷たい朝の空気が、少しずつ遠のいていく。
――この光景を、無駄にはしない。
そう心に刻んだ瞬間、視界は白に満たされた。




