98 冬まつりの夜に7235
冬の夜に、白い息と一緒に甘い匂いが流れてきた。
油で揚げた生地の匂い、香草を煮出した湯気、焼いた肉の焦げる音。雪を踏みしめる足音の上に、太鼓の低い響きが重なる。白狐族の村の中心に、灯りが集まっていた。
――冬まつり。
俺は人の流れに身を任せながら、ぼんやりと空を見上げた。夜空は澄み切っていて、星がやけに近い。身体はまだ重い。しっかりと戦いの傷は療養したのだが、芯に疲れが残っている感覚がある。それでも、不思議と息は楽だった。
「ぼーっとしておるな、エイジ」
「まあな。俺が目指していた景色が広がっていて、少し感慨深い」
隣を歩くエリアが、くすりと小さく笑った。
すれ違う者の多くが、どこかに白い布を巻いている。腕だったり、肩だったり、額だったり。重い怪我は多かった。だが、命を落とした者はいない。暗い空気はそこになく、みな片手に酒を握り締めて、明るい雰囲気に身を委ねていた。
あの戦いの最中、ネヴァスは宣言通りに呪いで操られた多数の戦士を村に送り込んでいたらしい。彼らは自我を失って、村の住人を見境なしに襲って荒らした。しかし、エリアやファイドル、そして族長カザヌキの尽力があって命に関わる被害なく取り押さえることができたと聞く。俺たちが、いや、風読みの弓兵エニセイがネヴァスを討った直後、全ての呪いが解けて、操られていた戦士たちは意識を取り戻した。
正気に戻った彼らは、揃って膝を折ったそうだ。覚えているのは、断片的な痛みと、誰かを斬った感触だけ。自分たちが何をしていたのか理解した瞬間、顔色を失い、声を失い、ただ雪に額を擦り付けたと。
呪いに操られていた。それを言い訳にするだけで許されるとは思っていなかっただろう。それでも、彼らは逃げなかった。そして、彼らは申し訳なさそうな顔で復興の手伝いを申し出た。その声に憤怒していた一部の住民たちも冷や水掛けられたように冷静さを取り戻し、とりあえず彼らの断罪を後回しにした。死者が出なかったという事実も貢献しているのだろう。
翌朝から、村のあちこちで木槌の音が鳴り始めた。倒れた柵を起こし、割れた板を運び、燃え残った柱を切り揃える。操られていた者も、村の者も、区別はなかった。誰かが指示を出したわけじゃない。ただ、そうするしかなかったのだと思う。
決着の翌日は度重なった戦闘の疲労から寝込んでしまったが……、復活した次の日から俺も村の復興を手伝った。一度は復讐に逃げてしまったソラカゼも、申し訳なさそうに尻尾を萎ませながら、協力していた。
一週間。折れていた梁は継がれ、崩れていた壁は直され、雪牙隊の詰所も元の形に戻っている。新しい木の色が目立つ場所もあれば、古い傷をそのまま残した場所もある。隠してはいない。忘れないために残したのだろう。
そして、今日は白狐族に古くからある伝統の『冬まつり』という日である。かねてより準備されていたらしい催し物だったため、復興の最中であろうと中止にはならなかった。むしろ、だからこそ今夜が選ばれたのだと、歩きながら理解する。
灯りの下を歩いているのは、白狐族だけじゃない。
土埃の匂いを残す地霊族が、大きな杯を片手に笑っている。山吹色の髪を靡かせた森霊族が、屋台の串を器用に回しながら子供に渡している。夜影族は相変わらず物静かだが、白狐族の若者と肩を並べて、同じ皿を覗き込んでいた。魔人族の男が、獣人族の女と並んで太鼓の音に合わせて足踏みをしているのも見えた。
一週間前、同じ者たちが刃を向け合っていたとは、今の光景からは想像もできない。
いや、忘れたわけじゃない。
彼らの身体に残る包帯も、動きの端に残る遠慮も、全部がその証だ。
けれど、その距離は確実に縮まっていた。復興の間、同じ木を運び、同じ釘を打ち、同じ雪を踏み固めた。言葉が通じなくても、作業は通じる。手が足りなければ差し出し、危なければ声を掛ける。それを一週間、繰り返した結果が、今ここにある。
白狐族のある子供が、獣人族の尻尾を面白がって引っ張り、叱られて笑い合っている。
森霊族のある女が、狐耳に触れてみたいと恐る恐る手を伸ばし、許されて目を輝かせている。
地霊族のある男は、意外にも酒にめっぽう弱いらしく、早くも顔を赤くしていた。
その様子を見て、胸の奥が静かに揺れた。
「妾が夢見ていた景色も、これと同じものじゃ」
ああ、そうだ。
俺が目指していた平和も、きっとこういう景色だった。
誰もが同じ思想を持つ世界じゃない。
過去を全部水に流すわけでもない。
傷は残るし、憎しみも消えはしない。
それでも、同じ灯りの下で、同じ夜を過ごせる。
剣を抜かずに、酒を交わし、食い物を分け合う。
明日を殺し合わずに迎えられる。
それだけで、十分だった。
「……良い顔をしておるな」
エリアが、俺の横でそう言った。
「そうか?」
「そうじゃ。この夜は永遠に続くわけではなかろう。また新たな争いも起きよう。それでも、この瞬間を妾たちは誇りに思うべきじゃ。……少し腹が減ったの。何か買わぬか?」
「いいな、どれ」
俺は屋台のひとつで足を止めた。串に刺さった肉の団子のようなものを指している。表面にはてかてかした蜜が塗られ、湯気が立っていた。俺は二本分の代金を収納魔法から落として右手に握り込む。微妙なテクニックだが、明確に引き出す物をイメージしなければいけない収納魔法において、同時に複数枚を落とすのは上級者の技術だ。
代金を払おうとすると、屋台の主人が一瞬、手を止めた。視線が泳ぎ、言葉を探すみたいに口を開きかけて、閉じる。
「……いえ」
そう言って、首を振った。まさか白狐族の村では独自の通貨しか流通していないのか、と思ったが、周りの屋台を見るとどうやらそうでもないようだ。俺は店主が遠慮する理由に気付く。
「祭りだ。払う」
俺は何も言わず、硬貨を置いた。
主人は少しだけ困った顔をして、それから深く頭を下げた。
「……ありがとう、ございます」
それ以上は、何も言わなかった。
それでよかった。
俺とエリアは買った肉団子串を、喉奥を突かないよう注意しつつ食べながら歩く。うむ、悪くない味だ。というより、普通に美味しい。表面に塗られた蜜がほどよい甘さで、なおかつ、中身の肉汁を逃がさないようにしていたから、じゅわっとした旨味が口内に広がる。無言で食べ進めていると、中心からはチーズが出てきた。香ばしく旨い、なんという満足感。
俺とエリアは同時に食べ終えて、互いの顔を見合わせて、小さな笑いを零した。
しばらく屋台を巡りながら歩いて。人の輪の外側に、見知った顔がふたつ現れた。片方は雪牙隊の衛士長リオウ、片方は長く旅を共にしてきたソラカゼだ。彼は白い耳を僅かに伏せ、尾の先が雪を掃くように揺れ、落ち着きがない。村に戻ってきてから、ずっとそうだった。リオウはそんな気落ちしている彼の背中を、ばしっばしっと強く叩いてた。
距離感がかなり狭く見えるが、なんでも二人は幼馴染みだったらしい。そう知ってみると、リオウの戦い方はそこはかとなくソラカゼに似ているような気がする。ただの気のせいかもしれないが。
「行くか」
俺はエリアに声を掛け、二人の元へ歩いた。
「よ、ソラカゼ。楽しんでるか?」
「いや、俺は――」
「ほらさ、エイジも言ってるじゃねえか。そんな辛気臭え顔するなよ。今は祭りだぜ」
リオウが便乗して、ソラカゼの首に腕を回した。ソラカゼは一瞬だけ口元を緩めたが、視線は灯りから少し外れている。視線の先には、修復された集会所があった。新しい板と古い板が混じり合い、継ぎ目がはっきりとわかる。きっと、彼はそこに過去を見ている。
彼の痛みを知っている俺には、何も言えなかった。代わりに彼へ声を掛けたのは、彼女だった。
「全部、終わったわけじゃないけど」
視線をずらすと、近くの屋根に腰掛けていたエニセイが、音もなく飛び降りてくる。全く存在感がなかった。やはり風読みの弓兵は一度潜んでしまえば、誰にも見付からない。ぼさぼさの黒髪に、薄汚れた服、それらはいつも通りだったが、ひとつだけ異なる点があった。
眼帯をしていない。
闇に落ちていくほど黒い瞳が、けれども夜空のように優しい温かさが、そこにある。
彼女はしっかりとソラカゼの眼を見て、言葉を続ける。
「終わったわけじゃないけど、少なくとも今日は祭りだよ。八年前の清算は私たちが終わらしたじゃん。だから、もう前を向くべきなんだよきっと」
ソラカゼは少し黙って、それから小さく息を吐いた。
「……ああ」
俺が不在の間に、ソラカゼとエニセイの仲がどのように変わったのかは知らないが、一人の少女が残した言葉は独りの青年の胸を確かに打ったらしい。青年はそこに揃っている仲間、親友たちの顔を見渡して小さく笑った。
太鼓の音が強くなり、踊りの輪が広がる。子供たちが走り回り、雪を蹴り上げて笑っている。狐面を付けた少女が、鈴を鳴らしながら人の間をすり抜けていった。
「それはそうと」
エニセイは次に俺を見た。瞳が俺を捉える。慣れない色にたじろいでしまった。
「エイジと魔王さんは本当に明日ここを発つの?」
「そのつもりだが……。俺たちも本当はもう少しここに残りたいんだが、機を逃すと冬に閉じ込められるし。何より、長く不在することにしていたエリアはまだしも、地霊族の村を放り出してきたファイドルが早く戻らないといけないみたいでさ」
「ふうん」
「逆にエニセイとソラカゼはどうするんだ。俺たちの旅に同行することは難しいが、また新しい旅をしてもいいだろ?」
――俺たちの旅に同行することは難しい。
そう表現したのにはもちろん理由がある。転移魔法を封じ込めた魔石の遺物は、同時に三名までしか運べないようだからだ。俺とエリアとファイドルの三人、他は同行できない。俺だって信頼できる二人が付いて来てくれれば心強いが、遺物の制約はどうしようもない。
エリアが前に持っていた遺物は幾度かの使用で崩壊した。その代わりに得ることができたのは、ネヴァスが最後まで口内に隠し持っていた魔石。多少汚く感じてしまうが仕方なかった。残っていた結晶は全て奴の収納魔法内にあったと考えられるからだ。収納魔法は、魔法が確立されているのにも拘わらず、その理屈が深くわかっていない不思議な魔法だ。所有者が亡くなった時に、中身はどこへ行ってしまうのか。消滅するのか、実態は誰も知らない。
とにかく、最後の魔石はそれだけで、しかもエリアによると既にヒビが入っているようで、残り一度しか使えないそうだ。
そこまでの事情を知っているソラカゼは、静かに答えた。
「俺の旅は終わった。だから、俺は死ぬまでこの村に残ろう。なにもエイジたちの夢を悪く言っているんじゃない。応援しているし、協力もする。だが、確かに俺の旅はもう終わったんだ」
深い決意が伝わる。俺もそれでいいと思った。復讐の楔から逃れることができた彼は、この村で平和に暮らすべきだった。続けてエニセイが答える。
「私も残る。同じく旅は終わったんだ。ソラカゼと話し合ったんだけど、私はこの村で生きていくことにするよ。――ソラカゼの伴侶として」
エニセイはごく自然な様子で、ソラカゼの右腕に腕を絡めた。彼は一瞬だけぴくりと白耳を動かしたが、拒否する動きはない。
「えっ、お前らってそんな関係だったの!?」
「うん、昨夜決めた」
「えええええ……」
嘘だろ。なんというか、意外だ。リオウも驚いたような顔をしている。
思ってもいなかった組み合わせだ。片方は軽薄な口調をしながらも、お金に関わる仕事だけを淡々とこなす傭兵。片方は常に周囲を警戒していて、仲間さえ信用していなかったような剣士。頼りにはなるが、殺伐とした間柄すぎて、そんなのは全く想定していなかった。でもまあ、お似合いなのか?
対して俺はと言えば、残念ながらそんなことを考える余裕はなかった。これまでも、そしてこれからも。過去を巡る旅が終わった彼らと違って、本当の平和を目指す俺の旅は終わらない、むしろ始まったばかりだ。もう少し余裕ができれば、もう少し恋心というやつを理解できるようになれば少しは考えるかもしれないが、今はまだその時じゃなかった。
俺が驚きを隠せずにいると、ソラカゼがエニセイに何か指示をした。頷いた彼女はソラカゼの左腰から湾曲した一本の武器を取り外して、俺へと差し出した。
「……これは?」
「餞別だ。銘は霊刀・星空。かつて魔王アラマサが使ったとされ、うちの家に代々伝わる由緒正しき刀だ」
「なぜ俺に?」
「いつか必要になるだろうと思ってな。俺が持っていても、左手がこうなってしまえば上手く扱えないだろう」
ソラカゼは視線を左肩に落とした。あるはずの腕が一本失われていて、痛々しく包帯が巻かれている。剣士として致命的な欠落は明らかだ。とはいえ、餞別としてそのカタナをもらい受けたとしても、そんな言外の言葉を含んで反論する。
「だが、俺こそ抜刀剣術なんて扱えないぞ」
「今はそうだろう。しかし、エイジ。お前なら九之尾式抜刀剣術をいつか俺よりも上手く扱うことができるに違いない。お前の真理は理解と模倣にある。ゆえに受け取れ。そしてそれでも嫌なら、世界平和を実現してから返しに来い」
「契約、か。……わかった、受け取ろう」
俺は星空――エリアの剣と同じ銘が付けられたカタナをしかと受け取った。どっしりとした重さだが、心強い重さだ。柄の巻きの硬さも、心を引き結んでくれる。ソラカゼの想いと願いが込められている気がする。ただいつまでも握っているわけにはいかないし、丁重に収納魔法へ落とす。いつか必要になった時に再び握ろう。
やりとりがひと段落して、見計らったようにリオウが場を改めた。
「悪いな、エイジ。俺はこいつみたいに餞別なんか用意してねぇ。だが、ちょうど最後に良いもんが見れるぜ」
「……良いもん?」
「花火だよ。ハ・ナ・ビ! 知らねぇだろ、この空にでっけえ――」
「おぬし!」
エリアが言葉を被せた。強引な割り込みにリオウが目をしばたかせるが、何かに気付いたのか申し訳なさそうな顔に変わった。
「すまねぇ、魔王の嬢ちゃん。こいつには内緒にしてたんだな」
「もうよい。どうせすぐに始まるからの」
妙に皆の視線が空へ向いていた。
何の話だと首を傾げた、その瞬間だった。
――ドンッ。
腹の底を叩くような衝撃音が夜気を震わせ、俺は反射的に肩を竦めた。遅れて、空気を裂くような音がいくつも重なり、思わず視線を跳ね上げる。
夜空が、割れた。
闇の向こうから火の粉が噴き上がり、次の瞬間、巨大な光の花が咲いた。赤、青、金。幾重にも重なる光が弧を描き、星空を塗り替えていく。遅れて降り注ぐ火の粉が、消えきらない余韻のように空に残った。
「エイジ。特等席で見ようではないか」
エリアが呆然としている俺の手を引っ張って先導する。海のような人混みを掻き分けて進み、そして視界が開けた。前から人影がいなくなった。眼前は凍り付いた湖のようで、夜空を綺麗に反射している。
また一発、低く重たい音が腹に響いた。
湖面に映っていた光が揺らぎ、遅れて本物の花火が頭上で弾ける。反射と実像が重なり合い、上下の境目が一瞬わからなくなった。今度は白い光が大きく広がり、花弁のようにほどけて消える。俺は無意識のうちに息を止めていた。胸の奥が、きゅっと掴まれるような感覚。綺麗だとか、凄いとか、そういう言葉が追いつかない。
俺は息を呑んだまま、ただ立ち尽くす。
夜空と湖が、同じ色で燃えている。
こんなものを見るのは初めてだ。花のように広がる火、だから花火。
「……すごいな」
それだけ言うのが精一杯だった。
「であろう」
エリアは満足そうに頷き、俺の隣に立つ。彼女の声は花火の音に掻き消されそうになるが、加護で強化された聴覚は余さずに拾う。
「なんでもこの村の近くでは硝石という珍しい素材が得れるそうで、それと炎色反応という現象を組み合わせたものらしい。白狐族の村では毎年行っていた行事じゃが、八年前に外界と断絶したことで素材が希少となって取りやめておったと聞く。今回は残っていた材料を使っているそうじゃ」
「……ということは」
「そうじゃ。彼らは外界との隔たりを破ると決めた」
よかった。と素直にそう思った。この花火はこれまでの旅の終わりを祝福すると同時に、これからの旅の始まりをも祝福している。
また一輪、今度は赤が強く弾けた。
熱を帯びた色が夜を染め、湖面に揺れる。
「凄いな」
改めて、精一杯の賛辞を贈る。エリアが連れてきてくれたこの場所もいい。山に遮られないどころか囲まれているから、爆ぜる瞬間の衝撃が素直に伝わる。爆ぜる直前の唸り、空気が張り詰める気配、そして遅れなく訪れる破裂音。そのすべてが、身体に直接触れてくる。雪崩の心配をしなくてもいいのだろうか、そんな一抹の懸念もまた紅を基調にした大輪に吹き飛ばされた。
中心から外へ、放射状に光が伸び、やがて細かな粒となって静かに消えていく。湖面には、少し遅れて同じ形が映り、消える。
終わり際に残るのは、微かな煙と、胸の奥に落ちる余熱、そして次に咲く花火への期待だけだ。
「エリア。またいつか、この花火を見に来よう」
「うぬ」
彼女は嬉しそうにはにかんだ。
並んで立ち、何も言わずに夜空を見上げる。
花火はまだ終わらない。
だが、この光景が終わったあとも、俺の旅は続く。
その先で、またこの光を見られるようにするために。




