97 決着10234
彼の左腕が虚空を舞う。
「ソラカゼ!」
俺は咄嗟に名前を呼び、剣技を放棄して駆け寄ろうとした。その前に、制止の声が届く。
「気にするな……!」
その言葉は、俺を信じているから出た言葉なのだろう。一瞬だけ力を緩めてしまったが、きつっと宵闇の剣を握り直す。これはソラカゼが繋いだ道だ。
ネヴァスとの距離は五メル、剣の間合い。近い、近いがネヴァスにとっては遠いようなそんな距離。普通に踏み込んでも転移で逃げられる。
だからこそ、俺は普通に踏み込んだ。
ネヴァスの眼が俺を見る。信じられないような顔。それはそうか、この一撃は避けられるはずなのに、ネヴァスには避けられないと信じて踏み込んでいるから。意識の表層を垣間見ることができる奴だからこそ、その自信の元が理解できない。
「はああぁぁぁ!」
右肩に背負っていた宵闇の剣を振りかぶる。込められた意思の力が重低音を奏で、びりびりと世界を震わせる。纏っているのは、瞳を差すような紅蓮の炎。踏み出された右足の勢いそのままに、超高速でネヴァスへ向かって振り下ろした。
ネヴァスは正面から骨断ち包丁を合わした。
彼の包丁には黒いオーラが渦巻いていて、奴も特殊な剣技を発動しているのは明らかだ。呪いとやらで強化された一閃は、俺の一閃と衝突して――押し負ける。
「なァ!?」
簡単に防げると思っていたはずだ。呪いで強化され、そして剣技で強化されているからこそ、俺が発動した古代流派剣術、紅弦に競り勝つことができると。そう、ネヴァスは俺の技を紅弦だと勘違いしていた。
俺は宵闇の剣を右肩に抱えるように構えていた。これは古代流派剣術、紅弦の構えに違いない。だが、同時に俺は左手を柄に添えていた。そう知識があれば、両手で剣を握っていれば紅弦は発動するはずがないと理解できるはずだ。俺が選んだのは、断炎。数多く存在する古代流派剣術の中で最強の名を欲しいままにする剣技。
本来、この剣技は両手で天高く構えないといけない。それは周知の事実。しかし、六代目勇者レジスは俺に、既存の前提に囚われない大切さを教えてくれた。剣を握っている手でも体術は発動できると。世界の理に反しない程度ならば、突拍子もないことをできると。
断炎の要素はふたつ。両手で握っていることと、振り下ろしであることだけだ。だから、紅弦の構えでありながら、断炎を準備することができる。いかにネヴァスが俺の考えを撫でても、そこまで読みことはできなかった。
極限まで強化した最強の剣技は、荒れ狂う炎で包丁の黒いオーラを塗り潰した。重すぎる一撃にネヴァスはたたらを踏み、一歩、二歩と後退する。
そしてネヴァスは選ぶ。転移という逃げの手段を。
しかし、俺の読みならここで来るはずだ。
最後まで傍観するつもりじゃないだろ?
お前なら、ここでお前の得意な一撃を放つはずだ。
俺はその名前を呼ぶ。
「――エニセイ!」
しゅっ。
音は小さかった。だが、及ぼした影響は最高だった。
「なッ!」
ネヴァスは驚きの声を上げた。
左手の甲には一本の矢が貫通している。その痛みで、転移魔法を封じ込めた魔石が零れ落ちて転がった。
驚きの声は当然だ。狙いの気配を感じていなかった。本来、剣よりも射程が長い弓の方が有利なように感じるが、弓矢を武器とする冒険者はほぼいない。殺気が伝わってしまうこの世界、どんなに離れていても相手に狙いの気配が届いてしまう。だから、矢を射られても気配で避けることができる。しかし、エニセイは違う。どういうわけか、彼女の風魔法に仕組みがあるのか、彼女に狙われていてもまず気付けない。彼女の風が戦場を包んでいたのは既に気付いていた。風で読んで、風で撃つ。ゆえに風読みの弓兵。
霧の中は読まれるというのなら、霧の外から攻撃すればいい。
望んだ瞬間に、望んだ一撃をエニセイはくれた。
ネヴァスは魔石を落とした。転移できない。
俺はさらに踏み込んだ。ネヴァスは対抗できなかった。包丁を弾き、体勢を崩した彼の身体に一撃が届く。
ソラカゼと同じように、右腕が根元から斬り飛ばされる。黒い血が白を汚す。
ここで俺の剣技が終了する。宵闇の剣が元の漆黒へ戻り、世界の理が俺の身体を縛る。両手で剣を握っているから、体術による追撃も発動できない。
対して、ネヴァスは右手と共に骨断ち包丁も捨てた。左手に握り直す選択はしなかった。当然だ。逃げるために新しい転移結晶を出すには、包丁は邪魔過ぎた。とりあえずこの場は逃げなければ、そう考えたに違いない。だが、逃げることはできない。
彼は収納魔法から一粒の魔石を取り出して左手に握り締め、転移、そう声にしようとした。
その前に、風が鳴いた。
「玖・天涯孤独」
地面を這うように、低く、鋭く。
風が鳴いた。
これが九之尾式抜刀剣術の最終到達点。
これが、白狐族のソラカゼ。
かつて独りの剣士しか辿り着かなかった場所に。
彼もまた足を踏み入れた。
時空が捻じれ、不可避の一撃がネヴァスを薙いだ。
左下から右上へ一閃。胴体を深く斬り裂き、左腕をも根元から斬り飛ばす。
「かはっ……」
再高威力の技を続けて喰らったネヴァスは後方へ吹き飛ばされて、しかし、斃れなかった。両足で踏み耐えて、なお立ち続けた。
だが、勝負は終わった。
ネヴァスは両腕を失った。転移できない、逃げられない。ネヴァスの腹には深い傷。治せない、血が流れるだけ。
「終わりだ、ネヴァス」
誰が見ても、奴は負けた。遅まきながらも、黒ローブを纏う男は自覚する。
「オレが……負けた?」
「ああ、負けたんだ」
「あああああァァァッ! そんなはずねェ! オレが負けるはずねェ、なぜだ、なぜだ、なぜだァアアアァァッ! 憎しみだけが、それだけがッ、信じられるものだったはずだろ!?」
ネヴァスは天へ向かって叫んだ。慟哭した。世界の全てを恨んだ。
彼がどのような過去を辿ってきたのかは、俺にはわからない。彼がしてきた悪事の一端は知っている。だが、この結末でいい気味だとも思わない。彼もまた世界に抗おうとして、失敗してきた人物だったのだろう。俺は宵闇の剣を鞘に戻した。ソラカゼも右手だけで納刀する。もうネヴァスは何もできない。
「ははっ、はぁ……」
奴は叫び疲れたとでもいうように、視線を戻した。
ぴくりとソラカゼの眉が動く。僅かな警戒。ネヴァスの顔は、まだ諦めていなかった。まるでまだ何かがあると信じているような、そんな顔。
「まだだ。まだ終わらねェ、終わらせねェ。いつか必ず、オレの娘が絶対にお前らを!」
「……娘?」
「じゃあな、勇者サマ。また会おうぜ?」
「何をするつもりだ?」
ネヴァスがさらに後退した。何かを狙っている予感。ソラカゼが鞘に右手を添えたままにじり寄る。奴に打てる手なんて残っていないはずだ。両手を失い、胴体にも深い傷が刻まれている。もし新しい魔法の予兆があれば、行使されるよりも速く俺とソラカゼが今度こそ両断しているだろう。なのに、ネヴァスは嗤った。
「くはっ、流石にこの手は読めなかっただろ? ――転移!」
ネヴァスの姿が掻き消えた。
「ッ!」
ソラカゼが驚いた声を上げる。
逃がした。
ネヴァスは転移の魔法結晶を持っていなかった。持とうとしても持てない。だが、奴は驚くことに魔石を口内へ隠していたのだ。姿が消えるその瞬間に、ネヴァスの口元が緑色に瞬いていたから。そこまでの隠し玉は誰も予想していなかった。
「どこにいった」
戦いの途中から、ネヴァスがどこへ転移するのか把握できるようになっていた。それはその方向だけ霧の薄い道ができるから。しかし、ネヴァスは切り札の転移を発動すると同時に、周囲を包む濃霧も一瞬で解除した。空気が澄み渡る廃村には、どこにも敵影がない。こうなってしまえば、逃げた方向さえわからない。
とはいえ、残念ながらネヴァスは逃げても生き残ることはないだろう。彼の傷は簡単に塞がるものじゃないし、既に失った血も多い。そしてなによりも――
「エイジも気付いているか」
「ああ。戦場を――エニセイの風が包んでいる」
知覚できる範囲全てを薄い風が支配していた。寒い冬の風、されど魔力が僅かに乗っている。この風を生み出しているのは、風読みの弓兵エニセイ。彼女と長く行動を共にした俺とソラカゼ、そしてアガサにしか知覚できないほど薄い風。
彼女は戦場の全てを風で支配して、知覚下に置き、意識外から矢を届かせる。そして、狙われている者は最後まで気付くことがない。彼女は弓兵、彼女が狙った獲物は彼女から逃げることができない。場合によっては、俺よりも強い存在だ。
強いけれども、彼女はお金で依頼された場合しか敵を倒さない。そのため、彼女がネヴァスを目標とするとは思っていなかったのだが……この薄い風からは、明らかに逃がさないという意思が感じ取れた。つまり、彼女がネヴァスを倒す選択をした以上――
「ネヴァスは負けた。俺たちの勝ちだ」
「……ああ。やっと終わった、長すぎる夜だった」
感慨深くソラカゼは呟いた。
長すぎる夜、そう彼が形容したのに俺は深く共感した。
全ての始まりは八年前。ソラカゼはネヴァスの扇動で村を内戦に巻き込まれ、両親や多くの仲間を失って、復讐の旅へ出た。俺は内戦から始まる一連の流れで故郷シレミスを蜥霊族に滅ぼされ、復讐の旅に出た。その全ての元凶、八年間の因縁であったネヴァスが斃れた。ここまで長かった。けれども、確かに終わったんだ。やっと終わった。
連戦に連戦を重ねた身体的な疲れだけじゃない、長い旅を終わらしたという達成感からくる精神的な疲れがどっと身体に戻ってくる。
「とりあえず、エニセイが帰ってきたら村へ戻ろうか」
俺がなんでもないように言うと、ソラカゼは渋い顔をした。
その視線は、もう戦場を見ていなかった。廃村の向こう、霧が晴れたその先にあるはずの、戻りたくなかった場所を見ているようだった。白い耳が僅かに伏せられ、尾の先が雪を掃く。彼が隠し続けていた本当の姿。
「……村か」
答えはすぐには返ってこない。
帰れば、きっと向けられる視線がある。同族に刃を向けた事実は、雪の下に埋めても残る。疑いも、恐れも、責めも、全部わかっている。だが、俺はそんなに心配していなかった。俺がこの村で関わった白狐族の彼らなら、族長カザヌキなら、雪牙隊衛士長リオウなら、必ずわかってくれると確信していた。長く孤独に歩いたソラカゼの帰還を歓迎してくれると。
「心配しなくても、みんなわかってくれるさ。――スズナ!」
名前を呼んだ。内側と外側を繋ぐ導き手の少女。外と内の間に隠れている彼女は、たぶん最後まで戦いを見ていたに違いない。俺が名前を呼ぶと――しゃらん、と澄んだ鈴が鳴り、ひとり少女が現れる。
と同時に、彼女は俺への胸へと飛び込んできた。思ってもいなかった衝撃に足を取られ、雪の上へそのまま転がった。ぼふっと雪が舞い上がる。
「しんぱい、しました」
「えっと、泣いているのか?」
先ほどまでの血生臭い戦いとの温度差が激しい。スズナは狐面の奥で慟哭を漏らし、隙間から熱い涙が零れ落ちている。小さな身体が胸に縋りつき、指先が外套の端を掴んだまま離れない。震えは細かく、必死に堪えているせいで余計に伝わってくる。泣き声を押し殺そうとして、喉の奥で嗚咽が引っ掛かる音がした。
「……そうか」
それだけ言って、俺はすぐに言葉を失った。
何と言えばいいのかが、わからなかった。
励ます言葉も、慰める言葉も、どれも軽すぎる気がした。正しい言葉を探そうとすればするほど、喉の奥が乾いていく。
だが、そのスズナの重さが改めて俺に事実を教えてくれる。
ついに終わったのだ。
この長すぎる夜が。
◆◆◆◆
クソッ、クソッ、クソッ。
心を悪態が支配していた。
雪も、霧もない。転移先の空気は乾いていて、肺の奥に引っ掛かる。喉が焼けるように痛い。視界が揺れ、地面に膝をついた拍子に、腹の傷が悲鳴を上げた。血が、思った以上に出ている。黒く濁ったそれが、指の隙間から糸みたいに落ちていく。
クソが。
身体が軽すぎる。
腕が、ない。右も左もだ。喪失の痛みが、今になって一気に追いついてくる。包丁を握る感触が、まだ指先に残っているのに、そこには何もない。幻肢が痒い。掻こうとして、空を掴む。苛立ちが、喉の奥で泡立った。
血が流れている。詠唱で熱素を召喚して、表面を焼くことで傷口を閉じようとした。それでも溢れる黒い血が雪を汚し、ネヴァスはさらに悪態を付いた。
「……ッ、クソ……!」
憎しみが足りなかったのか。
違う。足りていた。溢れていた。あれだけ集めて、あれだけ磨いて、あれだけ信じた。霧も、呪詛も、選択も、全部――完璧だったはずだ。あいつらの動きは読めていた。次に何をするかも、どこへ踏み出すかも、全部。
それなのに。
思考の外から、叩き潰された。
勇者の剣。白狐の剣。あの二本は、憎しみの文法に従っていなかった。迷いがないわけじゃない。恐怖がないわけでもない。なのに、選択の揺れが、刃になる前に消えていた。――理解できない。
ネヴァスは笑おうとして、咳き込んだ。血が喉に逆流する。歯を食いしばり、岩に背を預ける。視界の端で、世界が妙に静かだ。風が吹いていない。いや、違う。吹いているのに、音がしない。
おかしい。
この静けさは、知っている。
霧とは違う。呪詛でもない。感情を舐め取らない、均さない。ただ、そこに在るだけで、逃げ道を塞ぐ感触。意識の外側に、薄い膜が張られている。
「……まだ、だ」
絞り出すように呟く。誰に向けた言葉でもない。自分にだ。まだ終わらない。終わらせない。こんな形で終わるはずがない。娘の顔が、脳裏をよぎる。名前を呼びかけようとして、声が出なかった。
ネヴァスは歯を剥いた。嗤ったつもりだった。
風が、鳴った。
音ではない。方向でもない。ただ、背後でも、正面でもなく、世界そのものが一瞬だけ引き絞られた感覚。逃げるという選択肢が、初めから用意されていなかったことを、身体が先に理解してしまう。
思考が冷えた。やっと周囲の状況を脳が理解する。
最後の転移は、行き先を考えずに発動した。発動できるほどの余裕がなかったから、とにかくあの二人の剣士からできるだけ離れたいと思った、それだけだった。ゆえにどこへ転移してもおかしくない。
おかしくなかった。が、こんな視界の悪い森の中へ転移するつもりはなかった。そんな指定はしてなかったはずだ。この気味の悪さは、まるでこの森に誘い込まれたようで――
「やっ、いらっしゃい」
声が聞こえた。若い女の声だ。
それを認識した瞬間、ネヴァスは叫んだ。
「――転移!」
口元で緑の光が溢れ――
しかし、何も起こらない。
景色が切り替わることも、浮遊感が身体を襲うことも、予期されたことは何も起こらなかった。
「あァ?」
転移しようとしてできなかった。初めての現象に、ネヴァスは狼狽える。
「理屈は簡単だよ」
女の声が降ってきた。声の方向へ視線を合わせる。木の幹に女性が腰掛けていた。薄汚い恰好をしている少女。十把一絡げに纏められたぼさぼさの髪に、両目を覆うぼろぼろの眼帯、そして背中に背負われているのは重そうな大弓。特徴から彼女が勇者の仲間である風読みの弓兵エニセイであることは明らかだ。
なぜこんな少女がオレを見下している。こいつはオレの左手に矢を貫通させた奴か。どうして転移魔法が発動しない。まさか待ち伏せしていたのか。
溢れる疑念は行動となり、ネヴァスは口元に含んでいた魔法が刻まれた魔石をがりっと噛み締めた。転移、その小さな呟きは輝きを残すだけで形にならない。
「理屈は簡単。転移魔法はただ空間を跳躍するという便利な魔法じゃない。転移できる環境には制限がある。そうでしょ?」
ネヴァスは答えなかった。構わずに少女は得意げに続ける。
「空間が断絶されていないのは当然として、魔力的な何かが間を塞いでいないこと。貴方はあの霧で知覚している範囲には詠唱なしで転移できるけど、完全に霧が間を塞いでいたら跳躍できない。だから、貴方は転移魔法を発動する前に、向かう方向への道だけ霧を薄くしていた」
「……それがどうした」
「ふふん。じゃあ、簡単じゃん。貴方をここへ誘い出したかったら、他の場所全てとの間を私の風で塞いでしまえばいい。そして、転移魔法で逃げられないようにするには――」
ひゅっと軽い息が喉から漏れた。その先は最後まで言われなくても理解できた。
「貴方を逃がさないようにするには、周囲を私の風で覆ってしまえばいい」
逃げられない、その事実が心を蝕んだ。
ネヴァスは、しばらく言葉を失ったままエニセイを見上げていた。
理解したくない。だが、理解してしまった。
転移できないのではない。
転移させてもらえないのだ。
この空間は、最初から彼のものではなかった。逃げ場を選んだつもりで、選ばされていた。霧で戦場を撫で回し、世界を把握していたつもりで、その外側から、もっと薄く、もっと静かな掌に包まれていた。
「……ふざ、けるな」
声が掠れる。怒鳴ろうとしたはずなのに、肺が応えない。血の匂いが濃くなり、視界の端が白く滲む。それでも、歯を剥いて嗤おうとした。嗤え。嗤え。いつもそうしてきただろう。
「ガキが……調子に乗るなよ……!」
吐き捨てるように言いながら、視線は彼女の背後ではなく、周囲の空間を探している。風の継ぎ目。膜の薄い場所。ほんの指一本分の抜けでもいい。そこに魔力を差し込めば――
ない。
どこにも、ない。
木々の間も、空の高さも、地面の奥も、同じ温度で塞がれている。押し返す感触すらない。ただ在る。薄いが、確かな風が在り続ける。霧を好んで使ってきたネヴァスだからこそ知覚できる風。逃げ道という概念そのものを否定する、薄くて冷たい支配。
「……オイ、何が目的だ?」
喉の奥で、嗤いとも呻きともつかない音が漏れた。
「呪いの扱い方か? それとも転移魔法か? 心配するな、魔石はまだ大量に残っている。オレをここから逃がしてくれるなら、全てお前にやってもいいぜ」
藁にも縋りたかった。
その想いに応えたのは、少女の沈黙。そして彼女は自分の目元に手を掛けた。しゅっ、と乾いた音と共に、薄汚い布が解かれる。少女の瞳があらわになった。
「うん、覚えている。覚えてるよ。貴方に村を滅ぼされた。貴方の姿をこの眼に焼き付けて、蓋をした。ずっとずっと脳裏に刻まれて忘れなかった。あの時と同じ、貴方の姿は全く同じ醜いまま。……貴方は私を覚えている?」
覚えているもなにも。
忘れるわけがない!
全てを侮蔑するような冷ややかな眼。この眼を、この風を、この静けさを知っている。
人界には、シノビという存在がいた。表舞台に出てこないが、裏で静かに動く狂人共。水面下で暗躍するネヴァスにとっては邪魔だった。だから滅ぼした。あの日、あの夜、シノビの村を霧で支配して、全員の首を斬った。はずなのに、風が吹いた。矢が頬を掠めた。少女がいた。あの冷ややかな眼が記憶として残った。屈辱だった。耐えがたい屈辱を隠すように、右頬へ蜘蛛と蛇の刺青を刻んだ。
「……くはっ、そうか。そういうことか」
嗤った。嗤わずにはいられない。
ああ、そうだ。
これは罠じゃない。
処刑台だ。
ネヴァスは岩に背を預け、わずかに顎を上げた。視線がようやく、真正面からエニセイを捉える。ぼろ切れみたいな服装。無造作な髪。軽そうな態度。なのに、その奥にあるのは、揺らぎのない確信だった。
「オレを、ここで殺すつもりか」
「うん」
エニセイは弓に触れなかった。
代わりに、虚空を掴むみたいに、両手をゆっくりと動かした。
――引く。
それだけで、世界が応えた。
ぎ、と低い金属音が鳴る。一本ではない。複数の線が、同時に張り詰める音だ。森の空気に溶け込んでいたそれらが、一斉に存在を主張する。
ネヴァスの身体が、前のめりに引き上げられた。
「――がっ」
喉から、潰れた音が漏れる。
足が地面を離れ、次の瞬間には、宙で固定されていた。
金属製の細線。肉眼では追えないほど細く、だが確実に存在している線が、腕、胴、太腿、そして――首にまで回り込んでいる。風に揺れることもなく、ただ正確な位置で、正確な角度で張られていた。
ぎり、と音がした。ネヴァスが身を捩ったせいではない。線が、わずかに締められたのだ。
つう、と温かいものが喉を伝う。首筋に食い込んだ線から、黒ずんだ血が滲み出て、顎を伝って落ちた。血は地面に届く前に、宙で細く引き延ばされ、やがて雫になって落ちる。
呼吸が、できない。
正確には、できる余地がない。喉を圧迫しているのは一本の線だけだが、逃げようと動けば、他の線が即座に応じて締まる構造になっている。力を入れれば入れるほど、固定は強まる。
喋ろうとすれば、声を出そうとすれば、より喉に線が食い込まんとす。それでもネヴァスは嗤って、声に出す。
「いいぜ。ああ、いいよォ。やっぱりオレを殺すのも憎しみだ。過去の憎しみを抱いた少女に殺される。美しい因果律、やはり憎しみだけが世界の真理、唯一信じられるものだった! オイ、教えてやるよガキ。オレを殺しても終わらねェ。憎しみは残る。オレが死んでも必ずオレの娘が――」
「哀れだね」
一瞬、何と言われたのかわからなかった。
「哀れ……だと? オレのことか?」
「もちろん。哀れ、貴方は凄く哀れだし醜いよ。信じられるものは憎しみだけ、とか言いながら、最後に自分の娘を信じるんだね」
「ッ!」
胸の奥で、何かが音を立てて崩れた。
否定しようとした。
反論しようとした。
だが、喉を締める線が、思考より先に事実を固定する。
「ち、違ェ……!」
声を張り上げたつもりが、掠れた空気しか出なかった。喉が震え、その震えを感知したみたいに、首の線がきゅっと応える。視界が白く滲み、脈打つ音が耳の内側で暴れた。
オレは……オレは憎しみしか信じてねェ……!
声にならない心の叫び。そう言い切らなければならなかった。
ここで揺らげば、これまで積み上げてきた全てが崩れる。憎しみは不変だ。憎悪だけが真理だ。それ以外を信じた覚えはないはずだ。あの日、憎しみ以外を全て捨てたはずだ。魔と人との間に産まれた、それだけの理由で子供を奪われたあの日。世界を憎み、憎しみだけを持って、世界に復讐すると決意した。許せなかった。世界の全てが。理不尽だ、信じても願っても縋っても手さえ差し伸べてくれなかった世界が。
ネヴァスに憎しみ以外があるはずなんてない。
だが。
娘、という言葉が、まだ胸の内で熱を持っている。
死んだ後の世界にまで届く何かを、彼は無意識に託していた。
「貴方はずっと、他人の心を道具にしてきた。憎しみを煽って、積み上げて、世界を動かした気になってた。でも最後は、自分の心すら騙せなかった。信じてないって言いながら、縋ってる。娘に、未来に、続きに」
信じてしまっている。ネヴァスの視界が、ぐらりと揺れた。線が締まったわけではない。思考が、支えを失っただけだ。何を言いたかったのか、わからない。言葉にしようとすればするほど、矛盾が露わになる。
どこから間違え始めた。見も知らぬ少女を娘として育てようと決めた瞬間か。いや、あの復讐の炎で燃えていた少女の瞳は本物だった。人界の女神と対峙した瞬間か。広く信仰される存在だが、奴も人間らしく憎しみを振りまいていた。真理が組み込まれた魔法の一端を見て、そこから濃霧魔法を編み出した瞬間か。この魔法はオレを否定した世界を否定し返したい、という意思が形となったものだ。ゆえに視界を塞ぎ、他人を惑わす。そこに間違いはない――
そこまで考えが巡って、ふと思う。
あの二人と戦っていた時に辿り着いた新しい魔法はそれだけじゃない。不思議とできるきがしたから、胸から浮かび上がる言葉のままに詠唱した。思考の表層まで読み解き、刹那的な未来視紛いのことまで可能になったあの霧は――
「……ははっ、はっ。オレは、オレは」
憎しみだけを信じていた男が、
最後に信じたのは、憎しみではなかった。
その事実を突き付けられた瞬間、彼の中で真理と呼んでいたものが、音もなく折れた。
全てが間違っていた。全てが遅すぎた。本当の真理は、願いは別にあったのに。
少女は、静かに指先へ力を込める。
「本当に、哀れだったね」
少女の瞳に浮かんでいたのは、故郷を失った憎しみではなかった。
最後まで哀れに思う冷ややかな色だった。
金属線が、僅かに鳴った。
それは、答え合わせの音だった。




