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リメイク中作品 ver5  作者: 沿海
4章 疑いを知ることなかれ
96/99

96 『ネファス』24696

 血が、肩の内側でぬるく広がった。冷えた霧と触れ合うところだけ、湯気のように白く立った。痛みは思考を細くするが、代わりに余計な声もひとつ消してくれる。耳鳴りの向こうで、金属の扇がはぜ、狐の尾が一度だけ揺れる気配。あの軋み方はまだ余力がある時のもの、だが長くはもたない。

 ――殺せ。

 短く、底の浅い、けれどあまりにも簡単な命令。その一言。語尾や言い回しはどうでもいい。たったひとつの言葉で、戦況はいくらでも変わる。命令する側も、従う側も、それで楽になる。なのに、エリアは喉の奥でその一語を留めたまま、決心できなかった。

「エリア様!」

 カザヌキの声が、霧の層を切り分けて届いた。近い。扇の骨が鳴り、金属の風が頬を掠める。それに返す余裕はない。エリアは足裏で雪を蹴って間合いを外し、左手の凍素を掌大に圧して転がす。ぱきん、雪の目が瞬き、足首を奪う音。青年の脚が一拍だけ止まる。止まる、のだが、止まったところに別の刃が無遠慮に突っ込んでくる。呪いは秩序を与えず、ただ攻めを重くした。味方との連携も、互いの立ち位置も考えていない。だからこそ予測が効かない。殺さないよう加減するのが難しい。エリアは数々の攻撃魔法を会得している。いくつもの場面で、それらは状況を覆してきた。だが今は、舌の上で言葉が解けていく。躊躇いが詠唱を妨げていた。

 彼らも護るべき民なのだ。本当の敵ではない。彼らは謎の男に操られただけの存在で、責めを負うべき場所はどこにもない。そう理解しているからこそ、エリアは刃を沁み込ませる角度ひとつにも迷いを覚える。

 彼らを殺してしまえば、その先で彼らの家族はどう泣くのだ。帰りを待ちながら、遅いと笑っていた誰かが、いきなりの訃報に床へ崩れ落ちる。その涙の底で、憎しみは静かに熱を増していく。魔王は――妾はその泣き声を知っていた。耳を塞ぎたくなるほどの嗚咽と、誰にもぶつけられない怒りで喉を潰した声を、八年前に、雪の上で見ていた。その光景は、まだ瞳の裏側にくっきりと残っている。雪は紅に染まりながらも、あの日だけは妙に白く瞬いていた。

 喉から溢れかけた言葉を噛み潰し、代わりに唇を噛んだ。歯の間を縫って血が滲み、舌の上でその味を転がす。鉄の味が、ひどく生温かい。早くしないと、速く結論を出さないと。

「――ジャン! フェリス! 戻ってこい。戻ろう、俺たちの村へ!」

 知った声が耳を劈いた。低くよく通る、いつもは穏やかで、今は切羽詰まった怒鳴り声。視線を眼前の青年から一瞬だけ外すと、白い霧の向こうに、ファイドルの逞しい背中が黒く浮かび上がる。そしてその先に、彼へ襲い掛かっている二人の姿も。影が唸る。黒い靄に喰われた眼、それでも呼ばれた名に、わずかに首が揺れた――揺れた、だけだ。襲い来る剣は止まらない。刃が行き先を変えようとしない。

 エリアにとって、ファイドルは少し特別な位置にいた。

 八年前。エリアの父、氷結の魔王クラディオが暗殺されたとき、最初に嫌疑が掛かったのは彼だった。元老院から非難の目が雪崩のように押し寄せていた頃、その濡れ衣を、当時まだ九つにしかならないエリアが魔王の座を継ぐと同時に晴らした。周囲からの信用も信頼もまともに得ていなかった幼い魔王が、それでも父の死と向き合って掴んだ真実だった。

 その時の恩義。そしてコズネス攻防戦で、共に死線を跨いだ時に交わした盟約。そして、幾度もの選択と偶然が重なって、ファイドルはここまでエリアの旅に同行してきた。単なる戦力というだけではない。父を奪われたエリアの支えになりたいという気持ちも、きっと彼の胸にはあったのだろう。同時に、エリアの方も、ファイドルの横顔や声の調子に、時折クラディオの面影を見てしまうことがあった。

 どちらにせよ、今となればファイドルはエリアにとって頼れる存在だった。寡黙で、手を伸ばせばそこにある岩のように揺るがず、優しい。実際に甘えたことはほとんどない。それでも、彼はいつだってそこにいるだけでエリアに安心感を与えていた。

 だからこそ、いま必死の形相で襲い来る若者たちに名を呼び掛けているその姿は、エリアの予想から大きく外れていた。歯を食いしばり、余裕などひとかけらもない顔。斧と刃を受け止める腕に力を込めながら、それでも諦めたくなくて、声を投げ続けている。

 心臓が跳ねた。エリアは歯を噛んだ。喉の裏で、まだあの一語が擦れる。――殺せ。言ってしまえば、楽だ。言ってしまえば、たやすい。そこから先は誰も考えなくてよくなる。けれど、その一語は、雪に血の道を造る。エリアは、それを知っている。

「――ジャン! フェリス!」

 ファイドルの叫びに合わせるように、エリアも二人の姿を目で追った。獣のように大振りの斧を振り回す青年が、たぶんジャンだ。腕や肩の筋肉が盛り上がり、血管が浮いている。素早い足さばきで駆け回りながら、周囲の死角を狙って飛び込む少女がフェリス。細い脚だが、踏み込みの瞬間だけ地面を抉る力が宿る。どちらも、ファイドルと同じく赤褐色の肌に、縮れた頭髪。考えるまでもなく、彼らが地霊族だとわかる。

 わかってしまう。ファイドルと共に地を踏み、同じ里で笑っていたであろう若者だと、考えるより先に身体が理解してしまう。

 ――そうだ。そうなのだ。

 眼前で狂ったように暴れている夜影族の戦士も、どこかで平和に生きているべき者なのだ。彼らにも家族がいて仲間がいて愛する者たちがいるのだ。なのに、その日常ごと、呪いという忌むべき術式に奪われているだけなのだ。帰りを待っている者がいる、ここで命を失ってしまえば悲しむ者がいる。その時、胸の奥で何かが千切れる音とともに、また新たな憎しみが生まれる。

 彼らは名前もない過去の亡霊ではない、名前を呼ばれるべき生きる相手。エリアは――妾は、魔王。全てに責任を負い、可能な限り手を伸ばし、助ける義務がある。ならば、答えはひとつだった。

 エリアは展開していた魔法を全て放棄パージする。軽くなる代わりに、空白ができた心の中へ、ひとつの詠唱を新しく刻んでいく。この覆い尽くす霧を貫き、誰の耳にも届くように、希望だけを運ぶための魔法。大きく息を吸い込んだ。冷たい霧と血と煙の匂いが一気に肺へ流れ込み、胸の奥が焼ける。それでも、声として吐き出した。

「――ファイドル、カザヌキ殿! そして、妾の声を聞く全ての者よ!」

 霧が音を削いでいく。けれど、魔力に乗せた声は、空気の抵抗を滑り抜けて広く広く響いていく。あの日、コズネスの城壁の上から使った拡声魔法。あれを少し変えて、今度はこの村だけを包むように。

「すまぬ!」

 まずは謝罪からだった。声が震えないように、喉を押さえつける。

「これは妾の見通しが甘かったゆえ、今まさに直面しておる状況じゃ。余裕がないことも、怖いことも、よくわかっておる。じゃが――致命を。殺すことを、絶対に禁ずる! 妾がなんとかする! 妾は魔王、十二代目霹靂の魔王である妾が必ず道を拓く! ゆえに妾を信じて、今はただ耐えてくれ!」

 命を賭けた約束が、空気の層を切り替えていく。前と後ろで、何かが入れ替わる感覚。胸の内側に張り詰めていたものが、エリア自身のそれも含めて、別の形へ移ろうとしていた。カザヌキの背が、目の端で僅かに沈む。扇を構えた肩が一瞬だけ震え、その視線が刹那、こちらを向いた。

「できるのですか……?」

「うぬ。絶対に助ける」

 迷いはなかった。迷いを口にすれば、誰かの手が止まり、誰かの心が折れてしまう。それを許さないために、エリアは自分の退路を先に断った。

 ファイドルもまた、敵の斧を受け止めながら、短く力強く頷いた。

「できるんだな。ならば、俺は嬢ちゃんを信じよう」

 嬢ちゃん、という呼び方にいつもの調子が混ざり戻っていた。それが逆に、彼の覚悟と信頼の深さを示していた。

 二人の信頼が、霧の冷たさを押しのけて胸の奥を熱くする。熱い、と気付いた瞬間、白の幕が裂けるように、別の影が現れた。笑うように脈打つ紫紺の印。その発光が、霧の向こうで点滅する。黒い襟の奥で、かすかに低い嗤いがした――そう聞こえた。霧が、世界が、エリアの決意を嘲笑っているかのように。

 それでも。

 全員が生きて帰れる未来のために、エリアは世界へ抗うことを、もう一度、深く覚悟した。

 エリアは一歩引いた。夜影族の青年が距離を詰めようと迫るが、その間にファイドルが割り込んだ。彼はこちらを振り返らなかったが、その背中からは全幅の信頼が伝わる。既にファイドルは四人の影を相手にしていた。斧、剣、槍、どれもが呪いに濁りながら彼へ殺到しているのに、彼は一歩も引かない。エリアが状況を打開するための一手を探すあいだ、その障害となる敵を、何の言葉もなく引き受けていた。

 さらに、新たな影が飛び込んでくる。次はカザヌキがその対処に回る。金属製の両扇をひらりと翻し、刃を弾き、軌道を逸らし、紙一重で攻撃を滑らせていく。果てしない攻防。それでも、二人の実力ならば、この戦況でもしばらくは耐え忍ぶことができるだろう。

 だが、敵は増え続けている。呪いに操られた戦士たちは、霧の中から途切れなく溢れてくる。導き手の結界も、この濃霧のせいで機能を阻害されているのは明らかだ。どちらにせよ、できるだけ早く、何かを変えなければならなかった。

 エリアは大きく深呼吸して、戦場を見渡す。とはいっても、視界は数メルと離れないうちに濃霧へ飲み込まれてしまうけれど、それでも周辺で戦う雪牙の隊員たちの姿が、初めて輪郭を持って認められた。ひとりは、眼前の斧使いに苦戦していた。刃と刃がぶつかるたび、腕が痺れているのが遠目からでもわかる。もうひとりは、家屋の影を器用に利用して駆け回り、仲間の死角へ飛び込んで援護していた。想定外の事態だったにも関わらず、彼らがここまで踏ん張っていることに、エリアは本気でありがたさを覚えた。

 が、その感謝と同時に、胸の底から小さな違和感が湧き上がる。

 雪牙の青年たちの顔が、みな険しいのだ。歯を食いしばり、顎の筋肉を強張らせ、目を吊り上げている。それは終わらない戦いへの焦り――だけではない。もっと濃く、もっと粘ついた何か。

 まるで――憎しみ。

 そう、いまになってはエリアもわかるようになった。彼らの顔に現れているのは憎しみ、嫌な感情ばかりだった。彼らの顔に現れているのは、恐怖や緊張ではなく、憎しみ。嫌悪。刀を振るう手にも力が籠っている。一刀一刀が、本気で相手を殺すための一撃だ。切り結ぶたび、刃先が相手の喉元や心臓を正確に狙っている。それはエリアが意図していたものとは正反対の事態だった。

 どうして――。

 喉奥までせり上がった問いは、次の瞬間には刃を避けるための動きに塗り潰され、言葉になる前に飲み込まれる。

 エリアもファイドルも、そしてカザヌキも裏の事情を知っている。だが、彼らはこの戦場の裏で何が起こっているのか何も知らない。黒ローブの男が他種族の戦士たちを呪いで操っているなんて知らない。だから、白狐族の村人たちはこの戦場をあの日の、八年前の戦場と結びつけている。状況が違うのに、いま眼前にいる敵たちは本当の敵ではないのに。その言葉は喉奥で転がすばかりで、形にならなかった。

 彼らにとってはどちらも同じ。家を焼いた炎も、家族を奪った刃も、自分を殺そうとしている刃も。その根が呪いであろうと、誰かの陰謀であろうと、見える現実は一緒。だからこそ「今だけが違う」と声高々に主張しても、聞く耳を貸すことはない。もし彼らの意識を変えたければ、こういえばいい。

 ――これこそが呪いだ、あの日も皆が呪いに支配されてそなたらの村を襲撃してきたのじゃ、と。

 八年前に白狐族の村を襲った戦士たちも、同じように呪われていたのだと説明すれば、彼らの刃先は緩むだろう。今だけでなく、あの日に巣食っていた憎しみも、少しは解けるかもしれない。「誰かが悪意で操っていたのだ」と知れば、自分たちもまた被害者なのだと、心の置き場所を変えられる。

 言えば救われるかもしれない言葉。喉元までせり上がってくる甘い響き。

 しかし、エリアはどこまでいっても部外者であると同時に、その言葉が完全な真実ではないことも知っていた。あの内戦で僅かなりとも関わったエリアは知っている。当時、白狐族の村に攻めてきた他種族は、強い憎しみと恐怖に支配されていても、こんな黒い呪いの片鱗を持ってはいなかった。自我を持ち、ただ自身の間違った正義を押し付けるべく攻めたのだ。過去の全てを呪いのせいにするのは、あまりに都合が良すぎる。

 魔を統べる王として、嘘で民を動かしたくなかった。信じてほしいからこそ、最初の一歩で真実を曲げたくなかった。

「エリア様……」

 迷いが、ほんの一瞬だけ揺れたのだろう。その揺れが伝わったのか、カザヌキがエリアを一瞥し、小さく頷いた。彼女の瞳に、何かを引き受けた覚悟の色が宿る。

 そして息を吐き、扇を握り直すと、拡声魔法を使ったエリアの声よりも、さらに澄んだ響きを村中へ投げ掛けた。

「白狐の民よ!」

 その一声で、幾筋もの刃と足がほんの僅か、されど確かに止まる。凍てつく空気が、さらに静まり返った。

「彼らは呪いという魔法を掛けられて、理性を奪われているだけです! 八年前もそうでした!」

 霧の向こうで、何人もの胸が上下する気配が伝わる。ここで初めて、彼女は八年前の戦場と、今起きている出来事とを同じ線で結んだ。カザヌキは選んだのだ。自身の言葉を嘘で塗り固めるのも厭わず、ただこの夜に希望を与えるために。

「私たちはある男が仕込んだ策に踊らされて戦わされているだけです! それでいいのですか! 八年前と同じで操られたままで……! 誰かが用意した筋書きではなく、私たちも選び進むべきはずです。殺してはいけません。傷付けてもいけません。忘れろとは言いません、今は憎しみを傍に置いてただ耐えてください! 霹靂の魔王エリア様が必ず戦況を変えてくれます!」

 その言葉により、エリアの名は、希望と同じ重さで村中へ放たれた。彼女自身が掲げた約束に、今度はカザヌキが、族長としての信を重ねた。エリアはさらに強く拳を握り締め、今ここにいる実感を取り戻すと、戦場に意識を戻す。

 白狐族は先ほどの呼びかけに応えてくれたのか、これまでの荒々しい剣戟ではなく、相手を傷付けないように配慮したものになっていた。心の中ではまだ不本意なところがあるかもしれない、それでも憎しみを先送りにしてくれただけでよかった。ただし、時間が経過すればするほど彼らの疲労が溜まり、加減が難しくなるかもしれない。持ち堪えている間に打開の策を考えなければ。

 一番わかりやすい打開策は、この霧を払うことだ。数メル先ですら怪しくなるこの視界を解消するだけでも、一気に戦いやすさを保証するだろう。

全素召喚(サモンオリジナルエレメント)構造走査(スキャンコンストラクチャー)――」

 試しに最も簡単な解析魔法をこの濃霧に当ててみるが、やはり溶け込むことなく弾かれてしまう。どのような構成でどのように魔力が練られているかだけでもわかればいいのだが、手応えは全くなかった。覚えはある、エイジが潜ったという地下世界を護っていた虹に輝く金属格子扉。あれも全ての魔法を弾き、解析さえ通さなかった。ここに糸口はなさそうである、方法を変えよう。

 エリアは次に風素を呼び起こすと同時に圧縮し、前方に向けて解放する。効果は予想された通り、濃霧を奥へと押し退けて、広い空白地帯を確保する。しかし、魔力的な何かが働いているのか、すぐに周囲から濃霧が流れ込んできてひとときの空白地帯は閉ざされてしまう。一瞬だけ効果を及ぼすことはできるが、長時間の維持は無理ということだ。戦場から一気に濃霧を排除しようかとも考えたが、難しそうであった。

 長くは維持できない――その結論は、むしろエリアの思考を研ぎ澄ませた。

 この霧は、外からの魔法を跳ね返す。解析も、走査も、ただ滑って弾かれる。ならば、それは「拒む壁」なのだろうか。いいや、と胸の底で違和感が形を取る。魔法とは術者のイメージを表現するもの、この濃霧魔法だって術者である黒ローブ男のイメージを汲み取っているはずだ。

 霧は壁ではない。壁なら、押し退けた空白を即座に埋め戻すだけの「意志」を持つ必要はない。霧は戦場のあらゆる隙間へ入り込み、均一に満ち、触れたものすべてを包み込み、同じ温度で濡らしていく。それはいったいどういうイメージで構成されている?

 エリアは息を止め、霧の冷えを舌の上で確かめた。視界を奪う白は、ただの目隠しではない。押し退ければすぐに戻ってくる粘りと、外からの魔法を拒む硬さ。相反する二つの性質が、同じ膜の中に同居している。

 ――拒む。満ちる。戻る。

 そこに「意志」がある。術者の意志が。魔法とは、術者のイメージを具現化するもの。ならば黒ローブの男は、この霧を「壁」としてではなく、もっと別の概念として描いている。戦場を包む白を、ただ隠すためではなく――把握するために。

 胸の奥で、先ほど感じた違和感がさらに輪郭を増す。霧は、戦場の隙間を埋めるだけではない。触れたものの温度、動き、息遣い、血の匂い、金属の振動。すべてを同じ白へ溶かし込み、同じ層の中で「均す」。

 均す、とは何だ。

 世界を一枚の布にすること。凹凸を消し、段差を消し、見えないものを見える形に揃えること。つまり霧は、目ではなく手なのだ。

 戦場を撫で回す巨大な掌。触れたものを確かめ、どこで何が動いたかを知り、そこへ別の力を導くための感覚器官。だから外からの魔法を弾く。外部の異物が混じれば、触覚が狂うからだ。だから押し退けても戻る。掌は離れたくない。触れていたい。

 そして、触れているなら。

 その掌に、別の感覚を混ぜることはできる。

 エリアは視線を上げた。といっても白しかない。白の向こうに、ファイドルの怒号と刃の衝突音がある。カザヌキの扇が空気を裂く音がある。白狐の若者たちの息がある。全てが霧に吸われ、霧の中で均されていく。

 ならば、同じ「均す」側に回る。

 外から叩き割るのではなく、内側から手触りを奪う。霧の上に魔法を乗せるのではなく、霧そのものに、風の性質を溶かし込む。

 エリアはゆっくりと掌を開き、指先で霧を掬うような仕草をした。風素を呼ぶ。しかし圧縮しない。吹き払う形にしない。力を誇示すれば弾かれる。霧は異物を拒むのだから。必要なのは全てを吹き飛ばす風ではなく、全てを優しく包み込む風。呼吸のように、自然にそこにあるものとして。

 エリアはまず、自身の周囲一丈ほどにだけ、極薄い風の層を作った。冷えた白が肌を撫でる感覚の中へ、風の撫で方を一筋だけ混ぜる。霧が揺れた。拒絶の反発はない。戻ろうとする粘りもない。ただ、そこにある白が、ほんの僅かだけ「動きやすく」なった。

 手応えが、確かにあった。

 もう一度。今度は風素を霧へ散らし、霧の粒の一つ一つに「流れの向き」を与える。霧が風に従って引かれるのではない。霧が霧のまま、内部に流れを持つ。

 それは外から見れば何も変わらない。白い幕が白い幕のまま揺らぐだけ。だがエリアの指先には、霧の中に「道」ができていく感触があった。霧の層がどこで厚く、どこで薄いのか。どこへ向かって満ち、どこで戻るのか。

 霧が、戦場の隅々へ伸びる「線」を持っている。

 その線は、術者の意志に従っている。あの男は、霧で戦場を触れているのだ。

 確信が生まれた瞬間、背筋を冷たいものが走った。これほど広域の霧を維持し、なおかつ干渉を跳ね除けるのは、単なる目眩ましでは割に合わない。目的がある。霧の向こうの全てを知り、望む場所へ望むタイミングで呪いを伸ばすための、支配の器官。

 ならば、こちらが取るべきはひとつ。

 その器官を、共有する。奪うのではない、借りるのだ。

 エリアは風を、さらに「薄く」した。薄く、薄く。霧と同じ色になるまで。霧が拒まない、ぎりぎりの濃度まで落とし、ただ性質だけを残して混ぜ続ける。風素が霧の内部へ沁み込み、霧の流れと重なり、霧が持つ線の一本一本に風の通り道ができていく。

 次の瞬間。

 視界ではないものが、開いた。

 目を凝らしているわけではない。音を聞き分けたわけでもない。けれど、霧が触れている場所の情報が、エリアの内側へ一斉に流れ込んできた。知覚できる範囲が広がった感覚。五感に気配察知を加えた六感、そこへさらに空間という知覚できる次元が広がったような。気持ち悪い。脳の奥に新しい光景が広がる。周囲数メルの範囲の全てを理解できた。蹴り飛ばされて転がっている樽、白い絨毯に刻まれた足跡、刃が空気を裂く軌跡。息が吐かれる温度。血が落ちた位置。誰がどこで脚を止め、誰がどこで身を捻ったか。

 戦場が、ひとつの感覚として立ち上がる。

「ぐ、ぅ……」

 その情報の圧が脳を支配する。ぐるぐると視界が目まぐるしく回り、吐き気が喉元までせり上がってくる。それでもエリアはその線を手放さなかった。手放せば、誰かが死ぬ。

 これが、霧の本質。

 霧は広く支配し、全てを知覚するための魔法だ。だから外からの干渉を弾く。だから押し退けても戻る。触れていたいから。知りたいから。

 そして今。

 エリアはその「知覚」を、自分のものとして共有していた。

 霧の中の点と点が繋がり、輪郭が立つ。ファイドルは右前方、四体を相手に一歩も退かずにいる。カザヌキは左、扇で刃の軌道を外しながら隊員たちを守っている。白狐の若者たちは、殺さないために刃を鈍らせ、代わりに疲労を積み上げている。呪われた戦士たちは霧の奥から次々と湧き、ただ「攻め」だけを重ねてくる。

 村全体を霧が覆っている。全てがわかった。泣き叫ぶものも全て、怯え蹲るものも全て。あらゆる情報を拾い繋げるその感覚はありえないほどの負担を心に強いる。とはいえ、これで状況を打開するための策は完成した。

 エリアは息を吸い、冷えた白を肺に満たした。喉の奥で、先ほどから擦れていた言葉はもう違う形に変わっている。殺せ、ではない。奪え。握れ。道を拓け。

 彼女は霧へ混ぜた風を、広くそっと伸ばした。

 エリアの瞳は、もう眼前の濃霧を見ていなかった。戦場そのものを見ていた。

「――全開放フルバースト

 小さな呟きだった。けれどその言葉は、霧という巨大な掌の上を滑り、全員を救うための道となる。エリアの創造魔法オリジナルクラフト、拘束魔法。鎖状のそれが虚空に編み出され、じゃらじゃらと戦場へ広がった。

「こ、これはっ!?」

 カザヌキが驚いた声を上げる。彼女が相対していた二人の相手が、同時に膝を折った。

 じゃらり、と霧の中で金属音が増える。鎖が一本ではない。一本に見えたものが、戦場の至るところで生まれ、増え、絡み合い、枝分かれしている。空を裂いて伸びたそれは、敵の手首へ、足首へ、肩へ、腰へ、まるで最初からそこに「繋がっていた」かのように巻き付いた。

 呪いに濁った眼がぎらりと光り、振りほどこうと腕が暴れる。だが暴れるほどに、鎖は締まる。刃を振るうための角度を奪い、踏み込むための支点を奪い、息を吐くたびに逃げ道を削っていく。

 エリアは霧の向こうを見ていない。霧そのものを、感覚の網として使っている。誰がどこで膝を曲げ、どこで重心を崩し、どこで刃が走ろうとしているか――その「動き出し」だけを拾い、先回りして縛る。

「――全開放フルバースト

 さらなる詠唱が、冷たい空気へ落ちた。

 鎖に絡め取られた四肢の先から、白い結晶が一気に咲く。皮膚ではない。衣を破って肉を裂く凍り方ではない。鎖の表面に霜が走り、その霜が地面へ根を張るように広がって、足元ごと固定する。雪の上に薄い氷の花が開き、そこに縛られた身体が「倒れきれないまま」止まった。

 カザヌキの眼前の二人も同じだ。扇を振るう彼女の間合いに入る直前、足首が凍り、鎖が肘を引き、刃先だけが虚しく宙を切る。カザヌキは反射で扇を振り下ろしかけ――寸前で止めた。

「……っ」

 刃を通さずとも、勝てる。そう理解した顔だった。彼女は扇を翻し、相手の武器を手から弾く。金属が雪へ落ちる音が、霧に吸われて鈍く響いた。

 同時に、右前方でファイドルの周囲が――一拍で静かになる。

 四体の呪われた影が、まるで糸を切られた人形のように、動きを失う。斧の柄が握れず、槍が突けず、剣が振れない。鎖が肩甲骨の動きを殺し、手首の返しを奪い、足運びを縫い止めていた。

「……嬢ちゃん。やっぱ魔王だわ」

 ファイドルが呟く。その声には驚きよりも、納得が混じっている。戦場の中心で、彼だけが余裕を取り戻す速度が速かった。

 エリアは返事をしない。返せない。

 霧の網へ触れて得た情報は、呼吸をするだけで押し寄せる。村中でうごめく「攻め」の衝動、呪いの濁り、刃の軌道、足音、悲鳴、泣き声。そのすべてを抱えながら、なお誤差なく鎖を落とし、氷を走らせ続けるのは、容易ではなかった。肩の内側の傷が、じわりと熱を持って痛む。血が冷え、霧がそれを奪う。視界の縁がわずかに暗くなる。

 それでも、止めるわけにはいかない。

 殺さずに終わらせると、口にしたのだ。ならば、そのための暴力を選ぶしかない。致命ではなく、拘束。命ではなく、時間を奪う。

「――雪牙の者たちよ!」

 エリアは喉の奥から声を引きずり出し、霧へ流す。

「刃を収めよとは言わぬ。だが、今は斬るな。弾け。転ばせよ。鎖が絡んだ者は、武器を奪い、縛れ!」

 指示は簡潔に。混乱の中では言葉は刃になる。長ければ刺さらない。短ければ届く。

 霧の左手で、雪牙の若者がひとり、はっと顔を上げる気配がした。次の瞬間、その眼前で襲い来る敵の足が凍り、鎖が膝を引く。若者は反射で斬りかけ――しかし刃先を逸らし、柄で殴り、相手を雪へ押し倒した。

 もうひとりも同じだ。家屋の影から飛び出した敵が、跳ねるように踏み込んだ瞬間、足首に鎖が巻き付き、地面へ釘付けにされる。若者は刃を落とさず、相手の手首だけを弾いて武器を落とす。

 戦場のあちこちで、同じ「失速」が連鎖していく。

 呪いに操られた戦士たちは、勢いだけで襲い掛かってくる。だからこそ、止められた瞬間に脆い。連携がない。互いの位置取りを見ていない。突っ込めば勝てるという単純な命令で動いている。

 そこへ鎖が入る。氷が入る。

 濃霧を通して遠隔で発動された魔法が、世界を支配し直していく。エリアは十二代目霹靂の魔王、彼女の真骨頂は八重魔法(オクタプルクラフト)。しかし、それは彼女の限界が八重までしか扱えないということではない。圧倒的な魔力操作センスは遥か上を目指せる域にあったが、最大魔力量的に同時展開がそこまでしかできなかっただけだ。だが、今はその足りない魔力を濃霧魔法が肩代わりしたことで、エリアは十にも二十にも及ぶ魔法を同時展開していた。母親譲りの卓越した思考能力がそれを可能にしていた。

攻めの重さだけを奪い、体勢だけを崩し、時間だけを凍らせる。刃が届くより先に、膝が落ちる。踏み込みより先に、足首が固まる。振り上げより先に、手首が引かれる。

 そして、仲間たちの動きが「殺すための剣」から「制するための剣」へ切り替わっていく。

 カザヌキは扇で次々と武器を弾き、雪へ落とし、鎖の隙間へ相手を誘導して完全に縛り上げる。ファイドルは大きな腕で敵の身体を押さえ、鎖が締まる位置へ投げるように転がし、致命を避けたまま動きを奪っていく。雪牙の隊員たちは、最初に顔に浮かべていた憎しみの色を、少しずつ薄めながら――それでも必死に耐え、学ぶように「斬らない勝ち方」を積み上げていった。

 霧の中で、戦況が反転する。

 押されていた側が、押し返すのではない。押し返さずに、止める。止めた上で、剥がす。剥がした上で、縛る。

 エリアは唇の端から、細く息を吐いた。白い霧の中へ、白い息が混ざって消える。

 まだ終わりではない。敵は尽きない。呪いの糸はどこかで脈打っている。霧の奥で、紫紺の印が嗤っている。

 内側の世界は霹靂の魔王が支配した。しかし、この暗い夜を終わらせるのは、外の世界にいる彼らの仕事だ。頼もしい魔王の騎士エイジ、そして、かつては復讐を選んだ白狐族の青年――ソラカゼに、エリアは希望を託した。


    ◆◆◆◆


 どれほど経ったのか、霧の白さだけが濃くなっていた。肺の内側がざらつき、息を吸うたび、冷えた針が肋の裏を撫でる。吐けば白が落ち、白はすぐ霧に溶ける。時間は溶けない。痛みだけが増える。

 肩の傷は熱を失って、鈍い。膝裏の掠れは、足を踏むたびに歯を立ててくる。雪は血を吸って黒く沈み、次の雪がその黒を隠す。そうやって、世界は静かに見た目だけを整える。

 ネヴァスの嗤いは、整わない。

「まだ立ってんのかよォ。白い坊主はしぶてェな」

 声が近い。背後ではない。右でも左でもない。正面――霧の向こうの、見えるはずのない距離。見えないのに、いるとわかる。霧が、いると告げる。霧が、いまの自分を測っている。

 ソラカゼは刀を下げない。刃は寝かせない。鞘は背に流したまま、握りの汗を指の節で砕く。呼吸を数える。四つで吸って、四つで吐く。もう四つが保てない。吸いが短く、吐きが長い。霧がそれを喜ぶ。

 立てないわけじゃない。まだ倒れない。疲れただけだ。ソラカゼは加護の力も相まって超人的な体力を保有している。だが、黒ローブの男――ネヴァスはソラカゼよりも体力に余裕があった。それも当然だ。離れた距離を結ぶ転移魔法は、移動という概念を省略し、技だって防ぐ必要はなく範囲外に逃れればいいだけ。体力を消耗する速度がそもそも異なっていた。

 ソラカゼは息を整えようと、深くされど静かに呼吸した。

 刹那。その間を潰すように、音が、置かれた。

 音が、置かれた。

 とん。

 樽の縁。靴底。乾いた木が鳴る。次も同じ音になるはずなのに、次はない。代わりに、背中の皮膚が冷える。――来る。

 ソラカゼは一歩だけ、前へ踏んだ。逃げではない。逃げに見える動きは、霧に読まれる。金属が、短く悲鳴をあげた。刀身の腹で受け、滑らせ、力を斜めに流す。腕が痺れる。痺れは一拍遅れて肩に来る。肩は痛みを飲む。痛みは呼吸を乱す。乱れは霧に拾われる。――悪循環。わかっているのに、止められない。

「ほらほら。斬れよ。抜いてみせろよ。綺麗な一太刀、また見せろって」

 嗤いが散って、どこにでもいる。けれど、どこにもいない。ソラカゼは焦点を外し、黒い影の輪郭がほどける瞬間だけを見る。――見えない。霧が邪魔をするのではない。霧が、見せない。ネヴァスの気配が、正面で膨らむ。今度は逃げない。逃げないふりをして、逃げるつもりだ。こちらが動いた瞬間だけを狙っている。わかる。わかるのに、身体が遅い。

 抜刀剣術は、鞘に納まっていなければ始まらない。納めれば狩られる。抜けば狩られる。なら、狩られながら始めるしかない。――そんな無茶を、白狐の剣は許すのか。

 ソラカゼに状況を打開するための手段は持っていなかった。ゆえに、待つ。待つことだけが彼に許された手だ。絶対にエイジは過去の勇者を打ち倒して、ここに戻ってくる。そう言い聞かせた瞬間、ソラカゼは自分の喉が震えたのを知った。

 ――疑うな、信じろ。

 信じる。疑わない。たったひとつだけ。いまのエイジだけは。

 だから――耐える。

 ソラカゼは刃を下ろさない。なお斬らない。なお、受ける。受けながら、鞘へ戻す角度を、雪の下で探す。見えない角度。霧に読まれない角度。読まれない間。

 その間を作るために、また一度だけ、息を止めた。

 何手、何十手の攻防がその間にあっただろう。目まぐるしく繰り広げられていた剣戟がふと途絶えた。ネヴァスが白く塗り潰された世界の中心に足を止め、そしてソラカゼから視線を外した。見ているのは、霧の外側なのか焦点が合っていない。

 金属が擦れる音が、遠くで――途切れた。

「くふッ、あははァッ! やっぱりだ、やっぱり憎しみしか信じられねェなァ。氷結の魔王を追い詰めた奴だって言うから、ちっとは期待したんだがなァ。結局、オレが信じられるのは憎しみだけなんだよ」

「……何が言いたい」

 ソラカゼは静かに問うた。ネヴァスは肩を竦めるばかりで何も応えない。いや、答えないのではない。応える必要がないと思っている顔だ。

 霧が、微かに脈打った。ソラカゼは目を細めた。見えないものを見るためではない。見えているものを、見ないためだ。焦点を外し、黒の輪郭がほどける瞬間だけを拾う。

 来る。背。右後ろ。骨断ち包丁の鈍い背が、肩甲骨の上で暴れる。身を捩じり、刀身の腹で滑らせる。火花が白に散る。散った火花が雪に落ち、落ちた雪が音もなく溶ける。受けた腕が沈む。そこへ、また包丁が来る。

 受ける。流す。受ける。流す。

 何度も繰り返した動きが、ひとつだけ、ずれた。膝裏。鈍い痛み。包丁の背が掠めた。痛みが走った瞬間、呼吸が漏れる。

ネヴァスの声は、霧の内側でやけに鮮明だった。鮮明であるほど、霧が運んでいるのがわかる。霧が味方だという確信。霧が世界だという確信。

 だから、ネヴァスは視線を外したままでも嗤える。

 ソラカゼは刃を下ろさない。なお斬らない。なお耐える。耐えることだけが、ここにいる理由だ。ここにいる理由が、音になって外へ漏れたら、終わりだ。

 ――早く来い。

 喉の奥で焼けた言葉を、歯で噛み砕き、舌の裏へ押し込んだ。

 その瞬間。

 霧の外側から、ひとつ、違う音が落ちてきた。

 とん、ではない。

 重いものが置かれる音ではない。

 切り裂く音だった。

 白を裂く、音。

 ネヴァスがローブの影で嗤った。

 白が、割れた。

 霧の壁が、外から拳で殴られたみたいに、裂け目を作って開く。開いた裂け目の向こうに、黒がいた。黒い外套。濡れた髪。血の匂い。灰色の目だけが冴えている。その手に握られているのは、漆黒そのものを纏った黒い剣。

ソラカゼは息を吸った。深くはない。深く吸えば痛む。だが、吸った。吸わずにはいられなかった。胸が勝手に動いた。信じるという行為が、身体に先に来た。

 ネヴァスは一歩だけ退いた。退いたというより、霧が勝手に退いた。霧が押し返される。霧が支配を失う。

「……はッ、やっと来たのかよ勇者サマ」

 エイジは答えない。言葉を置かない。置けば霧に拾われる。拾われても構わないほどの圧があるのに、あえて置かない。代わりに、足を置いた。

 雪が、鳴いた。

 ひとつ。ふたつ。

 鳴き方が違う。軽くない。逃げない。踏み固める音。世界に自分の位置を刻む音。ソラカゼがずっと欲しかった、味方がいるという音。エイジはソラカゼの横を通り過ぎない。前にも出ない。半歩だけ前。半歩だけ横。――守る配置。背中を預けられる角度。白狐の剣が抜ける間合い。言葉を交わす必要はなかった。

 彼の背中は先ほどまでとは同じようでいて、どこか違うものになっていた。もう一段、次の舞台へ足を踏み入れた者の背中。

 エイジが、ようやく口を開く。

「……レジスは死んだ」

「知ってるぜェ。勇者サマがその剣で貫いたんだろォ?」

 哀しそうな影がエイジの顔に落ちる。それは殺すしかできなかった自分への悔しさか。しかし、彼はすぐに口元を引き結び、黒ローブの男を見据えた。

「……次はお前の番だ、ネヴァス」

「くはッ。相手が増えたくらいで、この霧から逃げれると思うなよォ」

 ソラカゼは自分の足裏の雪が、少しだけ軽くなったのを感じた。膝裏の痛みが消えたわけではない。肩の傷が癒えたわけでもない。だが、支えるものが増えた。支えるものが増えれば、耐えるだけだった戦いが、斬る戦いに変わる。

 霧が、また嗤おうとした。

 嗤いは、途中で途切れた。

 エイジの存在圧が、嗤いの喉を握り潰したからだ。神速で踏み出され、刹那にしてエイジはネヴァスに接近していた。右下から斜めへ斬り上げる。常人では反応できないその速度は、だが、転移魔法の前では遅すぎる。ぱきりっ、と何かが割れたような音だけを残して、ネヴァスの姿が消えた。

 エイジが視線だけで合図を寄越した。言葉はない。言葉は要らない。間だけが、二人の間に張られる。ソラカゼは刀身を鞘の中へ戻した。

 ――納める。

 それは、いままで一度も選べなかった選択だ。納めた瞬間に狩られる。だから、ずっと抜きっぱなしで受け続けてきた。だが、いまは違う。半歩前、半歩横。背中を預けられる角度に、エイジが立っている。霧が読もうとする隙を、先に塞いでいる。

 白が揺れた。

 濃さは同じなのに、霧の触れ方が変わった。視界を奪う白から、感覚を奪う白へ。耳も鼻も肌も、撫でられるたびに鈍っていく。肺のざらつきが、霧の一部みたいに身体の内側へこびりつく。

 空気が割れる音。転移の継ぎ目。

エイジが踏み出す。雪が鳴く。逃げる音じゃない。踏み固める音。世界に自分の位置を刻む音。その足音だけで、霧が一瞬、押し返される。

 ネヴァスが現れる。消える。現れる。消える。

 骨断ち包丁の鈍い背が、視界の外から置かれる。置かれた瞬間、世界の温度が落ちる。赤黒いオーラが、刃ではなく空気に絡みついてくる。

「壱・五風十雨」

 鞘から引き出した刀身が受け止めた。

 ――重い。

 ぶつかった瞬間、金属の悲鳴が霧に吸われ、衝撃だけが残った。腕の芯まで沈む重さ。加護の有無なんて、ここでは意味を失っているみたいだった。さらに力を籠めるために踏み込むと、図ったようにネヴァスが消える。行き場のない勢いそのままに前へ体勢を崩したところに、別方向から包丁が伸びてきて――そこをエイジが弾いた。ネヴァスの意識が彼へと逸れ、次の一撃がエイジの側へ滑る。

 その起点に合わせて、エイジの剣先がほんの半拍だけ沈んだ。

 黒い剣の先で包丁が屈折する。ネヴァスの重い一打が抜ける。抜けた力の行き先を、ソラカゼが鞘で受けて滑らせる。雪の上に火花が散り、散った火花が白に飲まれる前に消える。

 ネヴァスは次の手を重ねる。

 黒いオーラが濃くなる。骨断ち包丁の厚い刀身からどろりと赤黒いものが滲む。雪に落ち、広がり、血溜まりのような形を作る。そこから、影が立ち上がる気配がある。コロセ、ウバエと呟く彼らは名付けるなら影法師。まるで過去の亡者だった。

「はははッ、ははははァッ!」

 ネヴァスが嗤う。影法師が呪詛を呟く。声が来る。意味だけが来る。憎しみが、耳ではなく心に触れてくる。脳裏に浮かび上がるのは、八年前のあの夜。血生臭い煙の残滓が鼻孔を貫き、ソラカゼの身体はふらついた。が、横から伸びてきたエイジの手がソラカゼの意識を現実に繋ぎ止める。

 エイジは少しも揺らいでいなかった。ただ前を見据え、油断なく構えている。

 揺らがないから、霧が拾えない。拾えないから、憎しみが刃にならない。

 エイジは攻めに転じる。神速の踏み込み。斬り上げ。切り返し。だが追撃はしない。追撃すれば、転移に誘われる。代わりに、斬撃の余韻を残す。霧の中に、逃げるべきでない線を刻む。その線の内側で、ソラカゼが抜く。合間合間に九之尾式抜刀剣術を差し込む。

 ネヴァスの攻撃は重い。予想以上に重い。あの黒いオーラを纏ってから、化物のような強さを得ていた。

 ネヴァスの包丁は、重さのまま置かれる。刃で斬るのではなく、背で潰す。潰された瞬間、こちらの間が一拍だけ沈む。その沈みを霧が拾い、次の置き場所が決まる。決まった場所へ、また置かれる。ソラカゼは受けて流す。流して、なお間を保つ。だが、保ったはずの間の端を、重さがじわりと侵してくる。侵された端から、転移の継ぎ目が鳴る。ぱきり。

 息が短くなる。短くなった息の端を霧が舐める。膝裏が一度だけ抜けた。そこへ包丁が滑り込む。鈍い背が、膝の裏を叩く。骨に響く痛み。足が沈む。沈んだ瞬間、首筋へ別の重さが来る。

 エイジが割り込んだ。黒い剣が包丁を弾く。弾いた衝撃が霧に吸われる前に、彼の声だけが残る。

「ソラカゼ。魔法を使え」

 命令ではない。切り札を促す声だった。だが、その一言が、ソラカゼの喉の奥をきつく締めた。

「…………」

 応える言葉はない。だが、その裏に隠された意味はエイジに伝わる。

 魔法なんて、使えるわけがない。その沈黙を霧が喜び、ネヴァスが嗤う気配が近くなる。

「ははァ。そりゃそうか。白狐サマは、ずっと人のフリしてんだもんなァ」

 言い当てられたことより、その言い方が腹に刺さる。人のフリ。逃げのフリ。生き残るためのフリ。復讐の旅に出るためのフリ。変化の術で骨格も目も耳も、全部を誤魔化して、ずっとそれを維持してきた。その維持が、術式の内側を塞いでいた。糸口を縛っていた。魔力の回復が追い付かない。だから、他の術が立ち上がらない。

 ソラカゼは奥歯を噛んだ。血の味が舌に広がる。霧はその生温かさすら均して奪おうとする。

 ――また、フリをするのか。

 復讐のために生きた。生きるために隠した。隠したまま、誰かの背を借りて終わるのか。

 違う。

 いま隣に立っているのは、過去の自分を殺してでも前へ進んだ勇者だ。逃げの形で並び立つのは、ソラカゼが一番嫌う。

「……エイジ」

 名を呼んで、深く息を吸った。吸った瞬間、霧がその意図を探ろうとするのがわかる。だが、探らせる。探らせた上で、踏み潰す。

「俺は白狐族だ。証明してやる」

 次の瞬間、ソラカゼは自分の内側で結んでいた術式の結び目を、指でほどくみたいに解いた。変化の術が、音もなく剥がれる。肌の輪郭が揺らぎ、白い耳が現れ、髪の色が霧よりも冷たい白へ戻る。腰の奥が熱を持ち、そこから純白の尾がゆらりとほどけた。尾が空気を撫でる音が、霧の中で細く鳴る。

「……へェ」

 止まった嗤いの隙間に、エイジの存在圧が刺さる。だがソラカゼはそちらに甘えない。甘えたくない。だから、自分の術で戦場を掴む。八年ぶりの術に選ぶのは、子供の時によく遊びに使っていたもの。

「――闇はほどけて糸となり、影は絡まり形となる」

 ソラカゼは鞘から手を離し、空いた指を虚空へ差し入れた。そこには何もない。何もないはずの場所へ、黒い糸を引く。詠唱の隙はエイジが埋めてくれる。

「結べ、結べ、影の糸」

 詠唱が形となり、世界に干渉する。一本。二本。三本。糸は空を縫い、霧を裂かず、霧の内側へ潜り込むように張られていく。張られた糸が、微かに震えた。震えは風ではない。霧の均しが、糸の張力に触れている。

 この魔力の糸に強度はほぼない。仲間の弓兵エニセイは戦場に硬い金属線を張り巡らしてトラップとしていたが、この黒糸は簡単に千切れる程度の強度だ。攻撃に使うつもりはないが、これでネヴァスの濃霧を模倣できるのではないかと思っただけだ。

 奴が展開する濃霧の本質は、戦場に広げた霧を感覚器官とすることで、その中の動きを知覚すること。ならば、同じように黒い糸を虚空に張れば、そこに触れた時の揺らぎを持って、死角の動きも知覚できるのでは。

 そんな単純な考えで発動したが、虚空にゆらゆら漂う黒糸は不安定で、残念ながら狙った効果は得られなかった。しかし、思ってもいなかった効果を発揮する。

「……見える」

 ソラカゼは呟いた。見えているのは視界ではない。揺らぎだ。糸が震える場所。震えが走る方向。震えが抜ける先。

 転移。ローブの奥でそう男が呟く。ぱきりと鳴った瞬間、一本の糸が鋭く弾けるように震えた。次の瞬間、別の糸が遅れて震える。震えと震えの間に、何かが通った感触がある。霧が、そこだけ薄い。薄い、というより、霧が意図的に押し分けられている。

 道だ。

 ネヴァスがいる場所と、次に現れる場所を繋ぐように、濃度が薄い道ができている。霧の中に、霧が薄い筋が走っている。転移の直前に、その筋が一瞬だけ生まれ、すぐに白へ溶ける。だが糸はその一瞬を掴んで離さない。揺らぎが形になり、経路が輪郭になる。

 ソラカゼは糸を張った指を、僅かに握り込む。震えが集まり、道が一本に定まる。

「……エイジ。あいつの次が、わかった」

「ああ」

 ネヴァスは気付いていない。霧が薄くなった方向へ向き合う。ネヴァスが現れて包丁を振り下ろすが、予め準備していた抜刀剣術が弾く。奴は驚愕で眼を剥いた。しかし、ただの偶然と斬り捨てて、さらに空間を跳躍する。何度も何度も転移して、幾重にも攻撃が降りかかる。しかし、全てを二人で捌き続ける。

 抜刀剣術は速さではない。先読みだ。ネヴァスがどこに現れて、どこへ逃げるか。霧が黒糸が示す最適解を、先に奪う。

 ネヴァスは防ぐ。逸らす。避ける。だが、避けた先に必ずエイジがいる。エイジを避ければ、必ずソラカゼの鞘走りが待っている。どちらを選んでも、もう片方が埋める。防ぎ続けるのは偶然じゃない、とネヴァスは気付き始める。

「……チッ。ほんっと、面倒くせェな」

 言葉は軽口の形をしている。だが、語尾が尖っている。笑いが混ざらない。目の縁が細くなり、視線だけが忙しく左右へ泳ぐ。霧の中のどこかを探しているようで、どこにも焦点が合っていない。

 黒いオーラが、さらに濃くなった。

 声が来る。幾重にも織りなされた声が。

 痛い。

 助けて。

 霧が、その声を餌にして膨らむ。ソラカゼの背筋に冷えが走った。背後から放たれた不可避の黒薙ぎを、エイジが斬り上げた。一瞬の硬直に彼が体術を差し込もうとするが、僅差でネヴァスは逃げる。

 黒い影が霧の溶ける。視界は既に濃霧の白色だけではなかった。足元には血溜まりが広がり、そこらに呪詛を紡ぐ影法師が乱立している。ネヴァスは上手くその影に紛れて転移しているから、敵影を捉えきれない。そしてたまに追いかけたくなる距離に、わざと出てくる。踏み込んだ瞬間だけを刈り取れる位置に。エイジが前に出過ぎない。ソラカゼも追わない。追わなければ霧に狩られない。追わなければ転移に誘われない。

 ぱきり、石が割れたような音。次は左。

 気配が現れる前に、空気が冷える。皮膚の上を撫でる白が、急に刺す。黒いオーラが先に世界へ滲んでいる。

 骨断ち包丁が置かれた。

「――弐・危急存亡」

 霧を巻き込むように、抜刀された刃が正面から合う。赤黒いオーラが抜刀剣術の光を飲み込もうと迫る。重い。空気に絡みつき、白の密度が一段落ちる。目だけじゃない。耳が、肌が、肺が鈍る。そのまま鍔迫り合いに持ち込まれ、あまりの重さにソラカゼは片膝を着いてしまった。ぎりぎりと押し込まれ、刃が首筋に伸びる。

 だが、その凶悪な刃は届かない。

 エイジが掬い上げた。真正面で受けない。刃を当てる角度だけで押し返す。重い衝撃が通り抜けて、霧へ紛れる前に、ソラカゼの鞘が滑り込む。受ける、流す。流した勢いの行き先に、もう一度エイジの黒剣がいる。言葉はない。視線すら交わしていないのに、二人の間に張られた間だけがずれない。

 ネヴァスが消える。消えて、また現れる。

 包丁が来る。来て、逸れる。

 黒いオーラが濃くなる。濃くなっても、斬りきれない。

 いつの間にか、二人の動きは守りの形を超えていた。守るための動きが、相手の逃げ道を塞ぐ。塞がれた逃げ道の端に、攻めの線が立つ。その線の内側で、ソラカゼの刃先が覗く。覗いた刃先が、霧の継ぎ目――転移の匂いがする場所を先に噛む。

 ネヴァスの転移が、噛まれる。

 転移、の声が濁る。

 ソラカゼは気付く。

 ネヴァスは崩せていない。

 あらゆる手を使っている。霧で感覚を奪う。転移で位置をずらす。黒いオーラで重さを盛る。呪詛の声で心を削る。それでも、二人の護りが割れない。割れないどころか、攻防を重ねるほどエイジとソラカゼの連携が太くなっている。

 それが、ネヴァスを苛立たせている。

「はは……っ」

 嗤いが戻りかけて、喉の奥で途切れた。続かない。笑い声が形にならないまま、代わりに息が漏れる。霧の白に黒い熱が混じる。口角が上がりきっていない。歯を見せるだけで、笑えない。肩がわずかに上下している。呼吸が、乱れている。

 焦っている――と、ソラカゼは確信する。

 見えない心情はわからない。けれど、見える。言葉の棘、転移の継ぎ目の荒さ、笑いの途切れ、逃げの雑さ。崩せない苛立ちが、形になって漏れている。

「なぜッ! なぜだッ! 憎しみが、恨みが真理じゃねェのかよ!? それだけが信じられる唯一のものじゃねェのかよ!」

 ネヴァスは叫んだ。焦点が合っていない。

「もっとオレに憎しみを、もっと恨みを。内側から憎しみを引き出せば…………クソッ、制圧されてるだと……! クソッ、クソッ! なぜ上手くいかない。なぜオレが追い詰められている。おかしいだろ、オイ。こんなにも綿密に場を整えて、協力者も用意して、視界を塞ぎ、足場を奪って、背中から斬りつける。なぜ上手くいかない! ――信じられるものは憎しみだけだろ。憎しみ、憎悪はどれだけ時間が経っても変わることがない。不変の存在。そのはずだろ!?」

 声がずれる。焦点がさらにずれる。ネヴァスは叫び続けた。

「オレが間違っているのか……? いや、そんなはずはない。憎しみ以外に信じられるものはない。そうじゃなければ、オレはいったい何のためにここまで……。だったらよォ、ぶっ壊すしかねェよな。纏めて、全部だ。――心を塗り潰す存在」

 その瞬間、世界がみしりと歪んだ。

 ここにきて新しい詠唱だと。ソラカゼは踏み込まず、しかし刀を片手に警戒し続ける。

「真理は揺るぎなき胸の盲信」

 ネヴァスは歌うように二節目を続ける。

 その詠唱はソラカゼの知識にない種類のものだ。神聖語を利用した一般魔法、そして白狐族のみに伝わる奇術。そのどちらにも当てはまらない。まるで世界の理から背いたような詠唱だが、確かに世界へ変化を強いていた。ネヴァスはなおも紡ぐ、まるで心から文章がそのまま漏れ出ているように。

「滲め狐疑逡巡の道標」

 三節目が世界をさらに歪ませた。まずい、このままではまずい、そんな予感がして、ソラカゼはネヴァスへ向かって踏み込んだ。エイジも静観をやめて、神速で彼へ接近する。しかし、その二本の筋が届く前に、詠唱が完成する。

「――輪郭を犯す絶念のルイン・ネファス・ミアズマ

 刹那。

 何が変わったのかを説明することは難しい。だが、確かに変わった。温度が空気がこの世界が。

 ネヴァスが一歩、後ろへ退いた。ソラカゼとエイジの一閃が空振りする。刃は届く位置にあったはずだ。エイジの斬り上げはローブの裾を裂く寸前まで食い込み、ソラカゼの鞘走りは転移の継ぎ目を噛む角度だった。なのに、刃先だけが白を撫でて、何も掴まない。

 霧が薄く脈打つ。鼓動みたいに。

 ネヴァスは振り返らない。こちらを見ていないのに、笑う。

「ほらよ。オレを倒すんだろォ?」

 エイジが踏み込んだ。神速。雪が鳴く。踏み固める音。世界に自分の位置を刻む音。

 朱閃。

 九重指揮抜刀剣術に匹敵する古代流派剣術オルドモデルの抜刀。黒い剣が白を裂き、斬線が霧を割って走る。常人なら、その瞬間に二つに別れる。だがネヴァスは、別れない。

 別れる前に、いない。

 エイジの刃は空気を斬り、余韻が霧へ吸われる。余韻を吸われた瞬間、剣の重さだけが手に残る。

 背。ソラカゼの背中へ、骨断ち包丁の鈍い背が置かれる気配。置かれる、というより置く場所を知っている置き方。ソラカゼは身体を捩じった。腹で滑らせる。受ける。流す。火花が白に散る。散った火花が、次の刃の位置を照らす前に消える。

 ネヴァスはもう次へ移っていた。転移が早いのではない。早さより先に選び方が変わっている。どこへ出れば届かないか。どこへ出れば反撃が遅れるか。霧が、答えを先に出している。

 エイジがその空白を埋める。半歩前、半歩横。ソラカゼが抜くための角度。

 ソラカゼは鞘の口を撫で、刃を覗かせた。

 ――抜ける。

 抜けるはずだった。ネヴァスの気配が、正面で膨らむ。膨らんだ瞬間だけを噛む。白狐の剣は、その瞬間に先んじる。九之尾式抜刀剣術、九之尾の捌・明鏡止水。

 鞘が鳴る。刃が走る。

 だが、刃が走った瞬間、ネヴァスがもうそこにいない。いや、転移したのではない。転移していなかった。半歩、右へ移動しただけだ。抜刀が遅かったのではない。ネヴァスが速かった。こちらが鳴りを聞いた時には、もう結果が出ている。ソラカゼの刃は白を裂いて、何も掴まない。掴まないまま、空気の密度だけが変わる。

「……っ」

 当たらない。攻撃がことごとく当たらない。

 エイジとソラカゼは連携を崩していない。むしろ太く、速くなっている。黒い糸も戦場を漂っている。転移の先と道が造られるネヴァスの癖も治っていない。それでも、刃が届くはずの瞬間が、毎回ひと呼吸分ずれる。

 その幅を、ネヴァスは使っている。

 すんでのところで避け、避けた先でこちらの体勢が崩れる場所を選び、そこへ包丁の背を置く。刃ではない。だが削られるのは肉ではなく、選択肢だ。

 エイジが噴炎を叩き込む。二連。確かに当てた。ローブが裂け、黒いオーラが散る。しかし、本来ならばその肩から斜めに斬り飛ばす連撃が、ローブの裾を裂くだけに留められた。散った黒が雪に落ちる前に、ネヴァスはすでに裂け目の外へ滑っている。

 ソラカゼの胸に、違和感が積もる。

 何も変わっていないはずだ。転移も、霧も、包丁も。だが、変わったものがある。ネヴァスは、こちらが動くより先に「動いた後」を選んでいる。踏み込むか、引くか、抜くか、受けるか。その迷いが形になる前に、霧が拾い、ネヴァスが選ぶ。

 今までの動きは、動きを読んでいる動きだった。

 けれども、今のネヴァスは動く先を読んでいる動きだ。

「ほらよ。わかるだろ? もう見えてんだよ」

 見えている。何が、とは言わない。だがその言い方だけで十分だった。エイジが一歩引く――ふりをする。ネヴァスの包丁は反応しなかった。それでも、次の瞬間には別方向から刃圧が来る。

 ソラカゼの喉元。

 エイジが間に入る。真正面では受けない。角度で逸らす。逸らした勢いをソラカゼの鞘が滑らせる。連携は成立している。それでも、押し返せない。

 ネヴァスは選んでいる。こちらの攻めが成立しない未来を。

 馬鹿馬鹿しい、とは言えなかった。この状態を矛盾なく成立させる言葉をソラカゼは知っていた。

 未来視。

 全ての動きを先読みする、世界の理に反したものだ。

 その言葉を喉の奥で噛んだ瞬間、霧がその噛み跡を舐め取っていった。言葉にしたら負ける。負けるというより、確定する。確定した瞬間、ネヴァスはその確定を踏み台にする。

 ――違う。

 見えているのは、未来そのものじゃない。未来に至る思考の薄皮だ。踏み込むか、引くか、抜くか、受けるか。その選択が肉体に落ちる直前の、胸の振れ。肩の沈み。足裏の重心。呼吸の伸び。まだ形にならない揺れ。

 霧がそれを掬い上げ、ネヴァスがそれを選ぶ。

 だから当たらない。

 当たるはずの瞬間に、当たらない未来へ滑っている。

 エイジが斬り上げる。黒い斬線が白を裂く。裂け目の向こうにネヴァスの影――が、いるはずだった。

 ぱきり。転移の継ぎ目は鳴った。鳴ったのに、ネヴァスはそこにいないのではなく、そこにいたことがないみたいに、最初から別の位置に立っていた。半歩。たった半歩。だが、その半歩が剣の世界を壊す。

 代わりに、骨断ち包丁の背が置かれる。

 置かれる場所は、刃先が到達するその一拍前だ。

 受ける。流す。

 流した勢いの行き先へ、もう一度置かれる。

 背。肋。手首。足首。刃ではない。致命ではない。だが、削られるのは肉ではなく、余裕だ。余裕が削られれば選択が荒れる。荒れれば霧が拾いやすくなる。拾えばネヴァスが選びやすくなる。

 ――理不尽。

 理不尽を、霧が回している。

「ははッ……ほら、ほらほらァ」

 絶望が心を支配していく。心が少しずつ冷たくなっていく。

 だが、その未来予知が濃霧による思考の薄皮の読み取り結果だとすれば。挽回できる手があった。とはいえ、考えると読まれる。だから深く考えない。エイジをちらりと横目に見た。灰色の瞳と意思が交差する、彼も同じ考えに行き着いたらしい。

 エイジが息を吸った。深くではない。深く吸えば霧に拾われる。拾われない程度の吸いで、骨の内側に熱を仕込む。黒い剣が、ほんの僅かに震えた。古代流派剣術オルドモデル、紅弦の構え。彼が最も使い慣れた剣技だが……、僅かにいつもと構えが違う。右肩に剣を抱えるようにしたうえで、その柄を左手で支えていた。

 ソラカゼも息を吸った。肺のざらつきが痛い。痛いのに吸った。精神を統一し、思考を静める。九之尾式抜刀剣術の起こりは全て鞘に収めた状態で発動するので、いつもと構えは変わらない。だが、確かに腰を低くして、いままでより深く息を吸う。

 ネヴァスが一歩、退いた。

 退いたのではない。退く未来を選んだのだ。

 彼は怪訝な顔をしている。それも当然だ。未来を先読みできるネヴァスにとって、構えの長い大技は攻め入る隙が長すぎるだけで、防ぐのも避けるのも簡単だ。にも拘わらず、ソラカゼもエイジも絶対の自信を持っていた。この技がネヴァスに通用しうると。思考の表層を読み解けるからこそ、その自信がどこから来ているのかわからない。

「……あァ? 何のつもりだ」

 ネヴァスの問いは、もうソラカゼの心に届かない。届かせない。

 霧が拾うのは、胸の揺れだ。なら、揺れを無くせばいい。

 ソラカゼは鞘の口に指を当てた。冷たい。雪より冷たい。指先が痺れるほどの冷たさが、逆に助けになる。熱があると、霧は拾う。

 九之尾式抜刀剣術、九之尾の玖・天涯孤独。

 伝え聞く話では、白狐族の祖、魔王アラマサが使ったとされる最強の技。空間と時間そのものを跳躍して、不可避の一撃を与える。転移したネヴァスですら、避けきれない。

 だから、これしかない。

 ソラカゼは腰を落とし、息を細く吸った。霧が舐める。吸いの端を舐める。肺のざらつきを均し、喉の震えを測り、足裏の重心を量る。霧が、先に答えを持っていく。

 それでも、力を籠める。

 鞘の中の刃へ、手首の骨へ、肩の奥へ、尾の根へ。加護じゃない。魔力でもない。技そのものの形へ、無理やり身体を押し込む。

 ――手応えがない。

 できる、という感触が来ない。起こりが立たない。間が生まれない。孤独の技なのに、焦りが混じる。焦りは揺れだ。揺れは霧に拾われる。そもそも本当に「天涯孤独」という技があったのかどうかも怪しい。魔王アラマサが生きていたのは何百年も前の話だ。空間と時間を捻じ曲げるなんて、後世の人が伝える間に尾ひれがついただけかもしれない。これまで幾人もの剣士が再現しようとして、足掛かりすら得られなかった伝説の技。あったとしても、中途半端なソラカゼにできるのか?

 ソラカゼの喉が熱くなりかけた。悔しさが腹の底で蠢く。憎しみが、八年前の煙を連れてくる。悲しみが、失ったものの形を浮かべる。

 その瞬間、霧が膨らんだ。

 拾われた。

 ネヴァスの包丁が、置かれる未来を選ぶ気配が、先に来る。

 ソラカゼは気付く。

 この技は、心で打つ技じゃない。

 心を捨てる技だ。

 天涯孤独。その四字熟語が意味するのは、天の果てにいてただ独りであること。誰の人生を意味しているのかはわからない。ただ、その前に明鏡止水があるならば、その孤独は哀しみではなくてただの事実。独りではなく、心が独りだった。

 つまり、他者も過去も未来も、心の中に置かない。ソラカゼは、息を吐いた。吐いて、吐いて、吐いて。

 胸の中の熱を外へ出す。悔しさも、恐怖も、名を呼びたい衝動も、全部。

 残るのは、刃の冷たさだけ。

 鞘の口の冷たさだけ。

 足裏の雪の硬さだけ。

 ネヴァスを斬る、という未来だけ。

 それ以外は捨てて、心を無に――





















「何を準備してるんだァ?」

 ネヴァスが現れた。

 避けきれなかった一閃が、ソラカゼの左腕を斬り飛ばした。

 宙に血飛沫が舞った。


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