95 鏡写し11017
六代目勇者レジス・ヘルビトス。彼の悪名は勇者だった頃の俺を遥かに超えている。女神の命令に従うというより、生来の趣向なのか虐殺を好み、果てには旅の苦楽を共にしていたはずの仲間まで手に掛けた。その邪知暴虐な行動は留まることはなく、ついに魔王城がある街まで侵攻してきた時に、先代魔王クラディオによってアスカラン地下牢獄へ封印された。あえて処刑ではなく時間さえ静止する空間に封印されたのは、憎しみさえ実体となる世界だ、反知性的な存在になる可能性を恐れてだろう。その判断は正しかった。外との繋がりが断絶された牢獄は、本来ならば絶対に破ることができない檻なのだから。
しかし、今回ばかりは全て悪い方向に進んでしまった。悪の根源ネヴァスが脱獄不可の檻からレジスを連れ出してしまった。予想だが、転移魔法の遺物を使って侵入したのだろう。それに地下牢獄が肉体的な時間の変化を阻害する仕様だったのか、レジスの身体は衰えを全く感じさせず、隆起した筋肉が装備の上からでも確認できる。
勝てる自信は全くなかった。それぞれの神から与えられている加護の強度は互角。体格も筋肉の付き方も互角。ただ、経験の量が天と地の差ほどあった。俺はどこまでいってもまだ十七の若造だ。しかし、レジスはずっと前線で戦い続けてきた歴戦の剣士。ゆえに勝てる自信は全くなかった。勝たなければ生き残ることはできない。レジスは殺すことに躊躇うことがないだろう。負ければ死ぬ、この一戦ではそれが真理だった。
けれども、勝てる自信がないからといって、退く選択肢はどこにもない。俺は宵闇を正眼に置き、肩を落として重心を低くした。雪は硬く、靴底の鳴きが乾いている。
レジスは笑う。ネヴァスとはまた違った不気味さを与える笑い方だ。単純に戦うことそのものを愉しんでいる顔。意志の濁りがない。踏み出しは、半歩。足指が雪を噛んだ瞬間、希望の剣がわずかに沈む。来る。上からではない——押してくる。突きの気配だ。
雪が舞った。爆発じみた加速で飛び出し、一直線に迫る。
俺は刃の腹を僅かに寝かせ、切っ先だけで迎えた。金属が短く鳴る。押し込む力が強い。進路を半度ずらして、肩で飲む。肺の奥に冷たい痛み。許容内だ。反撃は——出さない。出せる角度だが、ここで出せば返しをもらう。距離を保つ。
「へえ、目はいいみたいだな。じゃあ、読みはどうなんだ」
「ありがたく先輩の胸を借りるよ」
次の動きは俺が先だった。宵闇の剣を振りかぶると、翡翠色の風が吹く。前回の失敗を活かして四連撃技のサイクロンエッジを選んだ。剣が世界の理に従って前へと進む。レジスは間を外さない。一拍だけ遅れて飛び出すが、読みの階段を二、三段だけ先に置けば、間に合うこともある。同じように剣を振りかぶると、現代流派剣術アッガス流独自の新緑を纏わせた。
鏡のように、面対称のまま剣技が打ち出される。風色の一撃目が互いの軌道を舐め合っては火花を散らす。サイクロンエッジは最初の三で面を作り、最後の一で反転の慣性を乗せる。鏡写しのままなら相打ち、次に繋げることができる。
俺は三撃目を意図的に深く受けた。刃を押し立て、肩を切り、四撃目の反転が来る瞬間に足を半歩だけ外へ切る。宵闇の腹を半度寝かせ、風の筋に沿ってわずかに撓らせた。重い衝撃が上へ逃げ、反転の芯が空で滑る。
四連撃が終了し、互いの剣が元の色へ戻っていく。そして身体が世界の理に縛られて硬直する。
が、俺はそれにあえて逆らった。
「――ッ、ここッ!」
刃が離れる瞬間、同じ角度、同じ線。俺は宵闇を一寸だけ撫で戻し、刃筋に残った剪断の残滓を拾う――ディレイシア。薄い霞色が宵闇を塗り潰す。
現代流派剣術ルーデンス流、ディレイシア。この剣技は単体では発動できないが、他の剣技が終了する時に合わせることで追撃を発生させることができる。連撃数を伸ばすことができるメリットは大きいが、デメリットとして無理やり繰り出す追撃であるため威力は少しも期待できず、直後の隙を溜め込み後回しにするだけで、より長い硬直がしっかりと身体を蝕むことだろう。しかし、いまサイクロンエッジを完璧に合わせてきたレジスの予想外を引き出すには、ここで妥協してでも一撃を与えたかった。
遅れて伸びるのではない。最後の回転斬りを逆流するように、追記を重ねる。遅く弱い追撃だが、硬直を強いられているレジスには避けることができないはずで――薄い霞色が希望を塗り潰す。
「なッ!」
少し遅れたタイミングで、奴もまたディレイシアを発動し、完璧なタイミングで合わせられた。がきん、と弱い衝撃音を弾かせて両者の剣は交錯し、鍔迫り合いへ持ち込まれる。互いの息遣いが鼓膜を揺らすほどの近距離。レジスの瞳孔が絞られた。
ありえない。予想外の選択だったはずだ。
溜まった負債が身体を縛る。が、それを喰い尽くすように、俺は動きを重ねる。左手に熱い炎を集めて、超至近距離で体術を発動する。虎打ち、これならどうだ――しかし、レジスの肩と腰が同じ呼気で沈み、同位相の虎打ちを重ねてきた。軌道も拍も鏡写し。位相が一致した瞬間、拳と拳が正面で噛み合い、抑え切れないベクトルだけが互いの胸郭へ反跳する。
爆ぜた衝撃はそれぞれの身体を後ろへ押し出し、雪が低く鳴った。
硬直した身体はそのまま背中側へ倒れ込もうとするが、宵闇の剣と繋がる右手の角度を微妙に調整し、硬直が解けた瞬間に次の剣技を発動する。宵闇よりも深い深淵色の稲光が弾け、重厚な金属音を響かせる。空間そのものが震えて、レジスまで一直線の道が定まる。
勇者専用剣技のひとつが加護交代により変色した、黒いスターダスト・スパイク。高威力の単発技は果たして。
「――スパイクッッ!」
「ルクス・スピクルム」
黒い矢は、白い矢に堰き止められた。対極にある色彩が衝突して、世界が一度だけ瞬きをした。金属の悲鳴が空を裂き、圧が地を叩く。
ありえない、ありえないありえない!
レジスが発動した剣技は女神から与えられていた勇者専用剣技スターダスト・スパイクと全く同じ。確かに同じ勇者として選ばれたのだから、同じ剣技を使っているのは当然で、実際に使っている姿も既に見ていた。名前が異なるのは、そもそも俺がそれを星屑のようだと思って名付けたから、レジスも自分で勝手に名付けていてもおかしくない。
問題なのは、俺と同じタイミングで同じように発動して、完璧に合わせたことだ。俺はつねにレジスの想定外を目指して行動していた。なのに全く鏡写しの動きを見せられているのは、偶然じゃない。必然、レジスの実力だ。ゆえにありえない。俺の行動を全て予想して予測して推測して合わせるだって?
精神的に信じたくない事実を知り、俺は思わず二歩、後ろへ滑る。同時にレジスは追い詰めるように二歩、踏み込んだ。俺は咄嗟に風素を無詠唱で召喚して、場を仕切り直そうと、俺の身体を後方へ吹き飛ばす。対照的にレジスは風素で前へと吹き飛ばした。距離が全く変わっていないどころか、近付かれた。余裕そうな顔は崩れていない。その瞳はどこまでも落ちていきそうな虚無が映っている。
もう無我夢中だった。咄嗟に俺はグレンセル流フォールキャメリアを発動した。蜂蜜のように鮮やかな山吹色の剣尖が、同じ色に染まった剣戟とぶつかり合う。鏡に映ったかのように同じ動きが同じタイミングで打ち合わされる。鮮明な光の火花が互いをすり減らす。琥珀色の欠片が雪に散った。フォールキャメリアの渦は、レジスの同型に重なってねじれ、渦芯の圧だけが俺の胸骨へ残る。肺が鳴る。吐息が鉄の味を連れて戻った。
再びディレイシアで追撃した。同じ追撃で弾かれた。体術勝負に持ち込んだ。全て同じ型で流される。魔法勝負に持ち込んだ。俺の得意な三重魔法ですら、同じ三重奏で相殺される。同じ軌道。同じ拍。違うのは先に置かれる起点だけ。
何度も勝負を挑んで、全て合わせられた。遊びにもなっていない。一方的な戦いになっている。鏡写し。俺が選ぶ次の正解は、彼がひとつ前に置いてくる。技そのものを真似ているのではない。拍と角度を先に置かれている。剣が読む。剣だけが追う。剣だけが並ぶ。身体は何も変わらないのに、俺の宵闇の理は、向こうの希望に噛み砕かれないためだけに角度を探し続ける羽目になる。
相手になっていない。勝負になっていない。真似ができるということは、いつでも上回ることができるということ。戦いの結末をまざまざと見せつけられて、俺が振るう剣は鈍る。しかし、その弱体化ですらも合わせられる。舐められている。
「――レインッッ!」
「ルクス・プルウィア」
完璧に予想外のタイミングで発動できたはずと思っていた最上位連撃技。だが、同じ構え同じ軌道を描く白い剣戟に阻まれる。斬り返し、打ち落とし、反転、横薙ぎ。全て、全て、無意味な結果だけを残す。
心が凍っていく。結果が事実が俺に敗北を受け入れさせようと唆してくる。剣は打ち合わせ続けるが、全て防がれていく。最も使い慣れた紅弦も、旋緋も、あらゆる剣技が同じレベルで返される。何も上回ることはできなかった。経験が違う。俺はまだ戦いを覚えてから八年しか経っていない。だが、レジスは勇者になってからそれ以上の月日を過ごしてきた。単純に俺ができることをレジスができないはずなかった。
「諦めろ、後輩。どれだけ戦っても、俺を上回ることはできない」
「……それでも、絶対に勝つ!」
そうやってでも自身を叱咤しなければ、絶望感に膝を折ってしまいそうだった。
もっと考えなければ、もっと視て、もっと予想して、もっと読まなければ。上回るためには、全てを見抜かなければならない。
レジスの強さは、筋力でも速度でもない。読む力だ。剣先の角度、呼吸の切れ目、雪を踏む音の遅速、そういった細部を積み上げて、刃が生まれる一拍前に未来を掴む。彼は戦場で千度も死地を踏み越えて、そのたびに「読むこと」を磨いた。
強い。だから負けない。勇者として一度も負けたことがなかった。
仲間を殺したのも、裏切りではなく、確信だった。仲間さえいなくても負けるはずがないという歪んだ自信の裏返し。実際、レジスはたった独りで魔界の奥深くまで潜り込み、暴れ続けた。多くの敵を跳ね除けた彼に、たったひとりの俺が勝てるはずない。彼は一度も負けたことがないから、ここにいるのではないか。
……いや、違う。
一度も負けたことがない。それは、間違いだ。レジスは一度だけ負けたことがある。先代氷結の魔王クラディオに敗北して、アスカラン地下牢獄へ封印されたのだ。圧倒的な読みを見せる彼でさえ氷結の魔王には勝てなかった。そこに勝利の糸口があるのではないか。
「――そうか!」
思考の霧が一瞬で晴れ、声が漏れた。レジスが一瞬だけ眉を動かし、憐れむような、あるいは退屈そうな瞳をこちらに向ける。あの灰色の双眸は、氷より冷たい。勝者の目だ。何度も敗北を見てきた者ではなく、敗北そのものを理解しない目。
「おいおい、まだ諦めていないのか?」
レジスは俺よりも果てしなく長い旅をしてきた。その道中で彼の強みとなる読みの技術を培った。レジスの読みは経験の積み重ねによって作られている。ならば、その経験に裏付けされていない想定外の理をぶつければいい。氷結の魔王クラディオはその想定外の何かを持っていたわけだ。想定外の何か、彼が知らない技術、どう考えてもあれしかなかった。氷結の魔王クラディオの創造魔法、氷結魔法。
俺は一縷の望みに賭け、呼吸を整える。胸の奥で魔力の流れを練り、左手のひらに集束させる。詠唱はしない。
魔力の流れから、レジスは俺が密かに魔法の準備をしていると気付いたはず。とはいえ、彼は氷結魔法を攻撃手段として認識していない。剣理の延長線上にない以上、鏡写しで真似することはできないはずだ。
氷結魔法、ここ二週間ほど、俺はエリアの手解きを経て、完璧ではないにしても使いこなせるようになってきた。物の温度を下げることはできて、一息に凍らすことはまだ不得意だ。けれども、いまの俺に必要なのは完全な凍結じゃない——一瞬の鈍化だ。
「――全開放」
冷たい空気を左手に集めて、レジスと剣戟を合わす瞬間に開放する。
解放した凍素がレジスの右腕を直撃する。淡い蒼の光が滲んだ。氷の理が指先を伝っていく。原則として魔法は生身の身体に影響をほとんど及ぼさない。だが、レジスの右腕部分がぱきぱきと霜に覆われて、行動を少しずつ制限していく。凍っているのは服の部分だ。幸運にも先ほどまで俺たちは濃霧の中で戦っていた。つまり衣服の表面は僅かに水分を含んで湿っていた。水分が瞬時に結晶化し、布地を締め上げた。
ぱき、ぱき、ぱき、と音が鳴るたび、腕の動きが鈍る。剣が雪を裂く音が、ほんの一拍、遅れた。
氷が光を反射し、白い閃きが夜気に溶ける。
その僅かな変化に、レジスが初めて眉を動かした。
「これは……氷結魔法?」
しかし、驚きの色を見せたのは刹那だけだった。すぐに眼が獲物を射抜く獣のように細まる。それは恐れではなく、濁流のように押し寄せる憤怒の感情だった。
「くはは、はは!」
レジスは嗤った。これまでの飄々とした笑いではなく、嗤い。
「くはっ、俺に対して氷結魔法? ……覚悟はできてるんだよなあ。もう遊びの時間は終わりだ」
凍素よりもずっと冷たい眼差しと声音。レジスの纏う温度が変わった。余裕が抜け落ちた嗤いに、俺は自分の失敗を悟った。彼の逆鱗に触れてしまった。氷結魔法は唯一の敗北を肩越しに呼び戻してしまった。冷たい怒り、その大きさを見誤ってしまったのかもしれない。
レジスが踏み込んだ。人知を越えた神速。もはや彼は俺に合わせることを止めた。これまでの合わせる戦い方から、圧倒的な暴力でねじ伏せる戦い方に変わった。それだけで戦況が狂う。一瞬で俺の懐にレジスがいた。彼は蛇のように地面から剣を撓らせながら跳ね上げた。反応が遅れる。後ろへ蹴って離れるが、剣尖が脇を抉った。
「くっ!?」
レジスはさらに踏み込み、横へ薙ぐ。前傾姿勢で伸ばされた刀身が腹を掠める。赤い血が雪上に花を咲かせる。またもや反応ができなかった。俺は即座に再び氷結魔法を紡いで発動するが、その全てがレジスに直撃しても彼は止まらなかった。ぱきぱきと全身が霜に覆われているのに、レジスは動き続けた。化物だ、素直にそんな感想が浮かんだ。
既にレジスはあらゆる行動を霜に阻害されていた。服が凍り付いて動くことさえままならないのに、体温そのものも奪われていた。体力が削がれていく。なのに、レジスは俺を上回り続けた。
もはや人の速さではなかった。
雪を蹴る音が遅れて聞こえる。振り返るよりも先に衝撃が来る。体が反応するよりも先に、痛みが脳へ走る。
脇腹を抉られた痛みを無視して剣を構え直すが、間に合わない。レジスの踏み込みが深い。重心が下から跳ね上がる。宵闇が打ち返す前に、希望の剣が軌跡を描いていた。
金属が爆ぜ、火花が雪に散る。斬撃の余波が肌を裂く。
――速い。いや、違う。速さじゃない。重さが違う。
剣の一振りごとに、空間の密度が増している。まるで世界そのものがレジスに味方しているようだった。
息を吸い込むだけで胸が焼ける。血の味が喉に広がった。レジスの声が遠くで嗤っている。けれどその嗤いに余裕はなかった。静かに狂っている。雪を踏み締めるたび、氷の表層が砕ける音が近付く。
彼の右腕は確かに凍りついている。服の縫い目が裂け、霜が舞っている。それでも動く。関節が鳴り、筋肉が軋む音が聞こえる。それを無理やり、意思でねじ伏せて動かしていた。心の炎が霜を砕いていた。
俺は宵闇を構え直し、息を整える。心拍が耳を打つ。
距離を取ろうと後退するが、視界の端でレジスがふっと消えた。
次の瞬間、背中に衝撃。息が抜ける。
身体が前へ投げ出され、雪に叩きつけられた。
すぐさま転がって立ち上がる。だがもうレジスがいる。真正面。
剣戟に剣戟が続き、互いの体力を削り続けていく。
雪が燃え、氷が砕け、夜気が震える。もはやどちらの剣が先に振り抜かれたのか、判断できない。呼吸も、視線も、重心も、刃の角度も、全てが限界近くまで研ぎ澄まされている。
レジスの斬撃は、もう見えてはいなかった。ただ、読みでどこに振るわれるのか予想して先に剣を置いているだけだった。剣がすれ違うたび、世界が揺れる。反射で振るう。読んで振るう。身体に刻まれた癖で振るう。
本能。怨嗟。怒り。過去。
それらが幾千の戦場で培った「読み」と融合し、純粋な殺意になって押し寄せてくる。
「くっ……はぁ、はぁ……!」
肺が焼ける。心臓がひっくり返りそうなほど打つ。
宵闇が重い。腕が震える。
それでも立てているのは、ただの意地だ。
レジスが迫る。
俺が避ける。
一手。二手。
斬り払い、受け太刀、反転、返し、踏み込み、躱し。
限界だった。
もう限界だった。それはレジスも同じ。俺は的確に氷結魔法を彼へ当て続けていた。レジスの身体は完全に霜の支配下へ納まり、動きは鈍化して人知の範囲に戻っていた。このままだと共倒れになる段階まできていた。
気付けば、互いの足音すら止まっていた。いや、止まったのではない。限界の先で、踏み出す意味を失った。雪が二人の間に舞い落ちる。一片、また一片。それはまるで、どちらが先に崩れ落ちてもおかしくないと告げるようだった。
レジスも、俺も、呼吸だけが静かに乱れている。剣を下げない。視線を切らない。全身が、次の動きだけに集中している。
――次の一撃で決まる。
互いがそう悟っていた。レジスの目が細められた。怒りも憤怒も、いまは消えている。そこにあるのは、原点に帰った剣士の目だった。熱も、狂気も、憎悪も消えた。ただ純粋な事実だけを告げている。
宵闇を握る手に、力が入る。俺も理解していた。この先に長い戦いはない。俺がレジスの予想を上回ることができれば、レジスが死ぬ。上回ることができなければ、俺が死ぬ。どちらかが必ず命を落とす。本能で理解していた。
足元の雪が、さらりと崩れた。風が止まる。世界が一瞬、呼吸を忘れる。
レジスがわずかに膝を沈める。
俺も同じように重心を落とす。
鏡写しのような構え。
けれど、技は違う。
刃が違い、加護が違い、歩んだ時間が違う。
ただ、ひとつだけ同じ。
――次の交差が最後だ。
雪が、二人の間に静かに落ちる。
夜が、冷たく息を潜める。
世界が、待っている。
この二本の刃が重なる、その一瞬を。
「――しッ」
「ふッ!」
動き出しは同時だった。
希望の剣が深緑に染まる。対して、宵闇の剣は灰色に染まった。レジスは片眉を上げた。
灰色の剣技を彼は見たことがないのだから。アルベルト騎士団三代目総長オリバー・アルベルトから直に教えてもらった、本来は門外不出の三連撃トライラッシュ。予想外の選択を選ぶ、そこにしか勝利の道筋はない。レジスは俺の技を予想することはできなかったが、迷いを捨て去ってそのまま飛び込んだ。
彼の選んだ技は三連撃技のストームエッジか、それともサイクロンエッジなのか。
一撃目。左上から振り下ろされた刀身に剣尖を合わせ、軌道を逸らす。
キィンと澄んだ音が響き渡った。
二撃目。線対称のように右上から振り下ろされた。灰色の突きが狙いを外へずらした。
雪の白が波のように滲む。
三撃目。肩の重さを含んだ一閃が、垂直に振り下ろされる。辛うじて逸らした斬撃が雪上に落ちた。
風圧で雪が舞い上がった。
レジスが選んだ技はサイクロンエッジだった。剣の輝きを残したまま、彼は反転する。対して、トライラッシュは三連撃の剣技。ここで終了して、漆黒へと色が戻っていく――が、更に踏み込んだ。薄い霞色が仄かに世界を照らす。ディレイシアの追撃、これに懸ける。
四撃目。遠心力を味方にした重い一撃が、俺の胴へと振り抜かれた。そこにディレイシアを合わせる。果てしなく強い衝撃と共に、ぎちぎちと鍔が競り合う。拮抗は一瞬だった。追撃の威力は弱いのだ、俺の身体だけが後方へ吹き飛ばされた。しかし、レジスの剣技もここで終了し、彼は世界の理に身体を縛られ――なかった。
「ディレイシア」
その声音だけが、不気味なほど静かだった。負債を前借りして硬直を先送りにする。遅れて発動した追撃が、俺へと伸びた。俺は動けなかった。膨れ上がった代償の利子が身体を縛っている。代わりに体術を発動しようにも、左手は凍素を握り続けていたことでかじかみ、後方へ倒れかけている体勢だから足技もできない。甘んじてその一撃を受けるしかなかった。
本来ならば。
「――鼬払い」
「なッ!?」
古代流派体術特有の炎が燃え上がったのは、宵闇の剣を握る俺の右腕。レジスにとっては想定外も甚だしいはずだ。なぜなら、これは彼の技だったのだから。
剣を握ったままの手でも体術の発動できるなんて、俺も知らなかった。だが、レジスができたのだから、俺にできない道理はなかった。ぶっつけ本番の一発勝負だったが、問題なく発動する。まるで過去の鏡写しの如く、記憶と同じ軌道で右手が振るわれた。
真似されることはないと己惚れていたのだろう。簡単に彼のディレイシアは俺の右腕に弾かれる。
そこで技の出し合いは終了し、両者共に身体が硬直する。そこでレジスは笑った。嗤いじゃない、笑い。
「俺の負けか」
「……ああ」
俺の方が硬直から早く抜け出した。無防備の腹に剣を突き出した。剣技も発動していない、ただの突き。ざぶりと血肉を貫通し、背中から剣尖が高く昇る。大量の血が滴り落ちる。
希望の剣が雪の上に転がった。レジスは晴れやかな顔で負けを受け入れた。戦う意思もない。彼はもう助からない。紛れもない俺の勝利だった。
レジスは血を吐いた。吐きながらも、最期の言葉を紡ぐ。
「負けた……。そうか、俺は負けたのか」
憑き物が晴れた顔。刃を合わせていた時の、あの凶暴な光はどこにもない。頬のこわばりが解け、瞼の縁に溜まっていた影が薄れていく。肩の力が抜けるたび、装備の金具が微かに触れ合って、凍えた音を立てた。レジスは――さっきまで、復讐の契約とやらでネヴァスに縛られていたのだろう。その術がどんな仕組みで、どれほど心身を蝕んでいたのか、もう誰にもわからない。けれど、いまこの瞬間の彼がその束縛から解き放たれていることだけは、理由もなく、確かにわかった。胸の奥に残っていた硬い警戒が、雪に吸われる音のように静かに消えていく。俺は何も言わなかった。言葉は、いまは刃より無粋だと思えた。
白い息が、二人の間でほどけては消える。風は弱い。雪は細かい。血の熱が雪面で薄い蒸気になり、甘い鉄の匂いが夜気に溶けていた。遠い尾根で、風がひとつ唸った。
「こんな……遠い、とこまで来ちまったな。――俺は、ただ護りたかった、だけだったのに」
掠れた声は、胸郭のどこか深いところで擦れていた。遠さ――その言葉が、いままでに踏んだ戦場の数ではなく、戻れない場所まで来てしまった距離を指していることが、聞けばわかった。
「――護りたかった?」
自分でも驚くほど、声が小さかった。問いというより、ただの反芻だ。レジスは乾いた笑いを一息だけ零し、喉仏が上下する。
「もう護るべき、奴は誰もいねぇよ。……全員、俺が――手に掛けたんだ。なにやってんだかな……。ああ、ちくしょう」
「――」
雪片が彼の睫毛にとまり、すぐに溶けて流れた。唇の端に浮いた血が、寒さでゆっくりと黒ずんでいく。悔恨という言葉にすると軽くなる何かが、胸の内側で重い塊になって鳴った。俺は何も挟めない。沈黙の形だけを保ち、剣の柄にかかる指の力を少し緩める。
レジスは天を仰いだ。彼は手を上げようとして、しかし力が抜け、指が一本ずつほどけるように落ちていった。伸ばし切れなかった掌が空を掴み損ね、胸の上に降りてくる。
「なあ、後輩。……自分の願い、だけは履き違えるな。それが……俺の間違いだった、から」
後悔の心。言葉の合間に、白い息が滲む。言い終えた途端、彼の眼差しがわずかに和らいだ。何かをやっと言い当てた者の顔。頬骨の下、固くなっていた筋がほどける。
「――ああ、わかった」
「寒い。……寒い、もっと薪をくべてくれよ。――ああ、温かい」
それが最期の言葉だった。吐息がほどける音が一度だけ雪に吸われ、もう戻ってこない。レジスの身体から張りつめていた重みが、糸が切れた凧のようにふっと抜ける。レジスの身体が軽くなった。どこかに辿り着くことができたのか。わからないが、陰りはもうどこにもなかった。俺はレジスの身体から宵闇の剣をゆっくり引き抜くと、彼を雪の上へ静かに横たえた。傷口から溢れた赤は、雪に触れるそばから薄い湯気を立てて色を失い、滲んだ境界が白へ溶け込んでいく。彼の顔に落ちる雪を指先で払う。睫毛の上で凍りかけていた微粒が、静かにほどけた。
「……ん?」
ふと、彼の胸のあたりで、淡い燐光がふっと灯った。白でも青でもない、夜気に馴染む薄い光。焚き火の最後の火種が息を吸うみたいに、二度、三度と瞬き、ふわりと舞い上がる。それは雪よりも軽く、煙よりもゆっくりと、俺の胸元へ引かれるように流れてきた。触れた瞬間、綿毛が溶けて染みるみたいな温かさが皮膚の奥へ沈み、そこから血流に乗って広がっていくのがはっきりとわかる。凍りついていた四肢の芯に、遅れて火が灯る。指先の痺れがほどけ、視界の縁にかかっていた霞が退いたのが理解できた。
――敵を殺すほど強くなる加護。望まずしも原初の魔王ヴェルゼが俺に与えたもの。俺は誰かの犠牲の上に立つ平和なんて望んでいない。話し合いで解決できるのならそうしたい気持ちは変わらない。剣を抜かない道を、俺はいつだって先に探したい。
けれど、今は違う。今だけは。雪明かりに白く冷えた世界の真ん中で、血の温度と燐光の残滓が指に残っている。胸の奥で鳴っていた罪の鈴は、確かに鳴る。それでも、鳴り続ける鈴に、俺は頷きを返した。悔いてはいけない。悔いたふりで手を止めるのは、ここではただの逃げだ。これでよかった――そう言い切ることが、ここで死ぬ者そして死んでいった者たちに対する、唯一の責任だとわかっている。俺は宵闇を下ろし、雪に吸われる静けさの中で、ただまっすぐ前を見た。
まだ戦いは終わっていない。ソラカゼはまだネヴァスと一騎打ちを続けているはず。息を付く暇なんてない。
俺は最後に横たわっているレジスの顔を一目見ると、宵闇の剣を握り直して濃霧へと向かう。まだ俺の、俺たちの戦いは終わっていないのだ。




