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リメイク中作品 ver5  作者: 沿海
4章 疑いを知ることなかれ
94/99

94 復讐の刃8912

 瞳を閉じれば、あの夜のことを思い出す。

 火は白く見えた。あの夜だけは。

 燃える梁の軋みが天へ糸を張り、乾いた板壁がはぜるたび、幼い彼の耳は世界の形を覚え直した。雪は紅に染まるはずなのに、なぜか白く瞬いた。足裏で鳴る灰のざらつき、鼻腔に刺さる樹脂の匂い、視界の端で崩れる屋根。逸る息を押し殺して、身体に付いた雪を払うこともせず屋敷に駆け込んだ。畳の上に敷かれた布団に父が横たわり、隣で恭しく母が控えていた。

 父は息子が部屋に入ってきた気配を感じると、身体を起こそうとしたが持ち上げることはできず、重い頭は枕に戻った。視線だけがその姿を捉え、短い言葉が残る。

「――疑うな、信じろ。姿は奪われるが、音は残る」

 それはどういう意図だったのだろうか、今でもわからない。

 数カ月前、十一代目氷結の魔王クラディオが暗殺された。そしてその濡れ衣を父は着せられた。冤罪だと断定できる。暗殺事件があった日、父は魔王城から離れたこの村にいたのだから。そう主張しているというのに、なぜか批判の声は強くなるばかり。元老院どころか魔界全土から糾弾されて、精神的に堪えて病に伏してしまった。眼前にいる父は以前の面影を失ってしまい、長く束ねていた白髪の艶は鈍く、風貌も酷くやつれていた。瘦せ細り、薄皮一枚下には骨が浮き出ていて、眼孔も深く窪んでいる。命の灯が残り僅かなのは誰が見ても明白だった。――なのに、信じろと?

 父がこんな姿に成り果てたのは、父に濡れ衣を着せた他種族のせいだ。彼らがいたからこの村は戦火に包まれている。耳を澄ませば悲鳴が響き、剣戟の音も飛び交っている。ここまでしたのは奴らのせいだ。これらの平和が覆され、信頼を踏み躙られた。彼らは憎むべき対象で、それ以上でもそれ以下でもない。それを最も実感しているのは、細い息を繰り返している枕上の父だったはずだ。父は絶え間ない非難の嵐に曝されて、光を見ることすらできなくなった。瞳を開けても闇が映るばかり。

 なのに、父は信じろと言う。何を、誰を!

 どこか裏切られたような気持ちで、白狐族族長ソラユキの息子――ソラカゼは家を飛び出した。それが、全ての間違いだったのかもしれない。そこで父に真意を確かめるべきだったのかもしれない。どれだけ後悔しても遅かった。屋敷を飛び出したソラカゼは、怒りのままに刀をがむしゃらに振り続けた。そこに斃れるのは魔界の同胞、されど白狐族の村へ攻めてきた敵だった。だから、躊躇なく殺した。殺せてしまった。

 ――疑うな、信じろ。

 その言葉は教えというより、別れになってしまった。火の筋が柱を舐め、深い雪を血が沈める。夜になり戦いが一段落して、ふらつきながらも戻ったソラカゼが見たのは、静かに息を引き取った父の姿と、上から護るように折り重なってそのまま背中を剣で貫かれていた母の姿。涙は流れなかった。背後で、誰かの叫びと、知らない足音が交錯する。誰が誰を斬ったのか。誰の手が火を点けたのか。あの夜の村は、音だけが真実だった。

 翌朝、雪はもっと白く、世界はもっと静かだった。ソラカゼは喉の奥を焼く乾きを押し下げ、焼け跡を歩いた。拾えた名は少なく、残せた名はさらに少ない。碑に刻むべきはずの名は、彼の胸にだけ沈んだ。彼が家を出る理由はそれで足りた。真犯人を探すこと――そして世界に復讐すること。族長の座を父の妹に託して、両親の遺体を埋葬することもなく出立した。

 旅の間、彼は自分の輪郭を削った。変化の術で耳の形を捨て、髪の色を褪せさせ、目の色に薄い膜を張る。魔族であることを捨てた。ソラカゼにとって魔族は既に敵だった。ただ、父から貰った名前と、白狐族であることを証明する刀と鞘の音だけを残した。それは自分が自分でることを縫い留める糸、というよりも、自身が白狐族の意思を代弁する復讐者であると宣言する糸だった。

 彼は多くの剣を見た。女神に傾倒してしまった人の剣、ひとつに纏まることがない魔の剣、背骨を打つような音を残す正義の剣、返り血が乾く前に次を求める復讐の剣。どれもよく似て、どれも違った。やがて彼は、人界の女神という存在の取り計らいで、勇者の剣と並んで歩くことになる。勇者はソラカゼと同じく故郷を失い、魔族に復讐すると息巻いていた。しかし、彼は魔族が人族と同じく生活を知り、剣を振ることができなかった。対して、ソラカゼは敵の首を、本来ならば同胞であるはずの首を刎ね続けた。勇者からすると、ソラカゼは恐れず躊躇わなかった——たぶんそう見えたのだろう。それは半分だけ正解で、残りの半分は間違っている。ソラカゼは彼の復讐を他所の戦場に一時避難させただけだ。刃先に纏った殺意は薄くはならない。同時に、向ける矛先が関係のない者ではないとも理解していた。だが、やるせない怒りを向ける相手がいなかった。

 ――疑うな、信じろ。

 憎むことは果たして間違っているのだろうか。それを聞きそびれてしまったのが唯一の後悔だった。父は最後まで疑わずに信じ続けたのだろうか。声を再び聞くことはできない。正解を知ることもできない。だが、信じることが真理というのなら、この戦いで本当の未来を見ることができるのだろうか。

「くくッ、あははァ! まんまとやられたなァ! 逃げられちまった。仕方がねェ、そこの白い坊主。二人で暫く踊ろうじゃねェの?」

 いま、目の前にいる黒い影が嗤う。酷く乾いた、砂を噛むような嗤い。肩で重い大剣の背をとん、とんと弾ませ、喉の奥で濁り音を擦る。彼が全ての元凶。先代魔王を暗殺し、父ソラユキに濡れ衣を被せ、白狐族を内戦に引き込んだ全ての元凶。ソラカゼは何も知らなかった。八年前の全てがたったひとりの男に操られていただなんて。名前はネヴァスというらしい。まるでこの世界の憎悪を集めたような、どろどろとした気持ち悪さを含む名前だ。ざらざらとした声音は耳鳴りを起こし、生理的な嫌悪感さえ覚えさせる。

「喋るな。貴様は八年前、俺たちの村を壊した」

「あァ? お前も内戦の被害者だったのか。なるほどなるほど、お前が勇者の仲間ソラカゼねェ。どうだ、美味かったかァ? そのカタナで味わった同胞の血はサァ?」

「貴様に何がわかる」

 ソラカゼは鞘口に親指をかけた。革の鳴きが、ひい、と細く上ずる。刀身はまだ眠っている。出すのは音だけで足りる、と胸が答えた。

「わかるさ。自分の村を滅茶苦茶にした他種族が憎かったんだろォ。殺してやりたかったんだろォ?」

 ネヴァスが嗤い、大剣の背をまた、とん、とん、と弾ませる。三つ、間。三つ、間。乾いた歯車が欠けを抱えたまま回る音。――聞いたことがある。忘れもしないあの夜に。崩れ落ちる家屋の梁に立って高く嗤う男の姿と、とんとんと不気味に何かが打ち付けられる音。雪の村を飲み込む炎が背にあった。やはりこの男が他種族を煽り村の中へ引き込み、内戦までに発展させた。

「喋るなと言った」

 吐いた息に白が乗る。白は軽く、音は重い。視界の端で黒い影が脈打つように揺れ、輪郭がほどけたり固まったりする。ここは白狐族の村の外縁、同時に重なっている外の世界。廃れ朽ちた家屋。積み上げられた木箱、転げた樽、凍みた藁。風が角を撫でれば、藁がほつれて擦れ、さやさやと弱い鈴のように鳴る。ここで黒ローブの男ネヴァスを倒さないと、村が再び危険に陥るかもしれなかった。

「お、怖い怖い。じゃァ、踊ろう――ぜッ!?」

 言葉が終わるよりも先に、鞘から刀を引き出していた。雪よりも眩しい純白の光が瞬き、世界の理に引っ張られて刀身が加速する。九つある抜刀剣術の八番目、明鏡止水。攻撃の予兆を極限まで抑えて振るわれた一閃は、しかし、紙一重で避けられた。上方向へ斬り上げられた一撃はローブの裾を僅かに斬り飛ばすだけで留まり、ネヴァスは大袈裟に後退する。

「危ねェなおい。完全に殺しに来てたじゃねえかよォ」

「五月蠅い」

 ソラカゼは刀身を鞘へ戻すと、握っていた右手を開閉した。今のは全力で振るったはずだ。なのに避けられた。抜刀剣術のひとつである明鏡止水は攻撃の意思をほとんど感じさせない技であるため、初見で受けるとなると避けることはおろか防ぐこともままならない。もちろん、初見でなければ両者とも可能になるかもしれない。ソラカゼと共に前線で戦い続けてきたエイジに通用することは、もう絶対にないだろう。だが、眼前の男が避けた理由にはならない。

 以前に何度か見たことがある可能性も存在するが、それでも説明しきれない。数度見た程度では、明鏡止水の絶対的な強さは揺るがない。ならば、やはり周囲を取り囲んでいる濃霧が何らかの効果をネヴァスに及ぼしているのか。エイジが先代勇者だとかいうレジスを引き連れて霧の外へ出たのは、この霧に何かがあると勘付いたからだろう。どちらにせよ、抜刀剣術の強さが発揮できないのなら、使いどころを選ぶ必要がある。

「じゃあ、オレからも行くぜェ?」

 ネヴァスは愉しそうに嗤った。右手に握っているのは無骨な大剣。いや、本来は肉屋が持つべき商売道具。誤った使い方をされている骨断ち包丁。いったいどれほどの返り血を浴びたのか、どす黒い鈍色を放っていた。

 ネヴァスがローブの陰で何かをぼそりと呟いた。瞬間、その姿が新緑の光を伴って消失する。そこから後方で気配が膨れ上がる。前へ倒れ込みながら反転して包丁の切先を避けると、安定しない体勢のまま刀を振り抜く。

「――参・乾坤一擲」

 僅かな動きで引き出された刀身は、次こそその首をなぞるように思われた。直前、ネヴァスがまた短く呟いて、直撃することなく姿が消える。鞘に刀を戻して残心。危なかったと、首から流れ出た一滴の汗が背中を濡らす。事前に伝書鳩が届けてくれた手紙で、転移魔法とやらの仕組みを教えてくれていなければ、ネヴァスの瞬間的な移動に反応することもなく斬られていた。八年に及ぶ旅の道中で知識は何度も命を救ってくれたが、ここまで不可解な動きをする人外の敵は初めてだ。

 また気配が膨れ上がる。右、そして移動して左、前に後ろに。焦らすように焦らせるように転移を繰り返す。面倒くさい相手だ。ソラカゼはただ波風立たない水面の如く気持ちを静め、左腰の鞘に右手を添えて待ち構える。攻撃の気配が背面で――

「弐・危急存亡」

 風を巻き込むように一回転する。踵を雪に沈めたまま、鞘の口だけを肩口へ滑らせる。刃を半寸、空気へ晒す。鳴きが一筋、白に走る。鳴らすために抜く。抜くために斬らない。

 現れた骨断ち包丁の腹が、すんでのところで鳴きを避ける。音に反応した? ――違う。あいつは霧に耳を預けている。そういうことか、霧そのものが感覚器官となっていて、こいつに間を教えている。わかってしまえば単純な仕組みだが、ソラカゼやエイジでなければ看破できなかっただろう。味方のひとり、風読みのエニセイは両目が見えない。だから同じように戦場へ風を張り巡らして見ている。前例があったからこそ、把握が早かった。

 ソラカゼは息の深さを一段だけ落とし、足裏で雪の膜を薄く踏んだ。濃霧が僅かにうねる。上の梁影から、包丁の影。ソラカゼは半身を崩して受けに回る。刃はまだ寝かせたまま、鞘をそちらの方向へ合わせる。重さが降ってくる瞬間に鯉口を弾く。

「漆・因果応報」

 重さを一度受け止めて、返す。噛ませた鞘の角で包丁の背を跳ね上げ、さらに――威力が高まった二連撃目を無防備な身体に叩き込む。刃が半寸だけ走る。だが、返しの線は短く、浅い。黒ローブの袖口に白いほつれが生まれ、血の筋が薄く滑った。必中の技を避けられた。ネヴァスの喉奥で濁り音がひとつ転び、嗤いが僅かに遅れる。

「へェ、受けて返すかよ。面白い技だなァ?」

 嗤いながら、ローブの裾を掻き乱すように消える。碧が灯って、ぱきんと割れたような音が響いた。ソラカゼは静かに刀を納刀し、次の攻撃を待ち受ける。ソラカゼはネヴァスの攻撃に対して相性が良かった。ネヴァスの戦い方は相手の視界を閉ざして、転移魔法で瞬時に接近して攻撃を加えて、反撃される前に離脱するという暗殺者のような戦い方だ。一般的な冒険者の縮図に当てはめると、その戦術は高いアドバンテージを発揮していただろう。間違いなくソラカゼが助太刀に入るまで、エイジはこの男に苦戦していたはずだ。彼は古代流派剣術オルドモデル現代流派剣術モダンモデル、そして特殊な勇者専用剣技を組み合わせて戦うのに長けているが、彼の剣技は全て高威力である反面、発動までの隙が長すぎる。ゆえにそこを突かれてしまえば、簡単に負けてしまう。彼の得意な妙手をもってしても、不利は覆らない。

 しかし、ソラカゼはエイジのような剣技ではなく、白狐族にのみ伝わる抜刀剣術を扱っている。これは全ての技が古代流派剣術オルドモデル最速の朱閃に匹敵する初撃の速さで、相手より遅く発動しても合わせることができる。だからこそ、見えないところから見える前に迫るネヴァスの刃と相性がよかった。恐らくこのまま戦い続けると、体力的な問題でソラカゼの方が有利になっていくだけだろう。

 それを理解したのか、ネヴァスは戦術を変えてきた。

 抜刀剣術の強みに対抗するのではなく、その弱みに付け込む戦術へと。

「――」

 頭上から降ってきたのは、退路を断つように投げられた三本の短剣。別々の方向から投げられていて、どれかを避けてもどれかが必ず当たってしまう。結果、刀を引き出して斬り飛ばす。が、そこへ嗤うネヴァスが現れて、鈍く輝く骨断ち包丁を横へ薙いだ。鞘を帯から引き延ばして、辛うじて防ぐ。身体にそのままの衝撃が走り、内臓が搔き乱されたような感覚。焦燥を奥へ沈めて飛び退いて、すぐに鞘へ納刀する。

 気付かれた。いつかは気付かれるだろうとも思っていた。抜刀剣術は初撃が速い。しかし、発動するためには、刀身が鞘の中へ納まっていなければならない。つまり、抜刀剣術から抜刀剣術へ繋げようと思うと、その無駄な所作が必要になってくる。本来ならばそこで読みの技術を活用して、隙の一瞬に攻めさせないようにするのだが、ネヴァスは流れに逆らって

距離を詰めることができる。その観点からすると抜刀剣術の強みは殺されてしまう。

 ソラカゼは唇を噛んだ。憎い相手が眼前にいるというのに、攻め切ることができない。

 濃霧が、かすかに嗤ったように揺れた。

 一瞬の攻防を繰り広げ。ネヴァスは転移せず、同時に一歩も踏み込まない。ただ、間合いの糸を指先で弾くみたいに、音を置く。樽の縁を靴でとん、とん、と鳴らし、濁り声で鍵を擦る。こちらが納刀しようと動いた瞬間だけを狙ってくる。

 ソラカゼは鞘口へ右手を戻しかけて、止めた。――駄目だ。納めれば、今度はそこを斬られる。ならば、と彼は刃を眠らせずに構え、鞘だけを背に流す。抜刀剣術ではない、ただの受け。白狐の剣は抜くために設計されている。抜かない刃は、ただの剣と同じだ。

 音が一つ、背で弾けた。

 転移。右後ろ。骨断ち包丁の鈍い背が、肩甲骨の上で暴れる。身を捩じり、刀身の腹で滑らせる。火花が雪に散り、冷たい粒が頬へ貼りついた。反撃の角度はある。――が、刃を引き戻す軌道の先に、納刀の隙が必ず生まれる。

 ネヴァスが嗤う。

「どしたァ? さっきみてェな綺麗な一太刀、もう出ないのかァ?」

 有効な一撃を与えるには、抜刀剣術が不可欠だ。しかし、瞬発力に優れた敵に対してだと長すぎる隙を曝してしまう。このような敵とは戦ったことがなかった。単純な技量で勝負しなければいけない相手とは。

 ソラカゼは刃を構え直した。低く、肘は締める。刃は正面から僅かに外し、相手の胸から喉へ向けて細い線を引く。足は肩幅より少し狭く。雪の鳴きに自分の呼吸を合わせる。正眼の構え。エイジが好んでいた体位だ。

  遠くで、高い金属音が二度、三度。レジスか。エイジか。どちらにせよ、あの方向は霧の外だ。ここは違う。ここはまだ、ネヴァスの庭だ。

 ネヴァスはにやついたまま、喉の奥でぼそりと呟き、霧に滲む。消える。右の藁束がわずかに揺れた。そこだ、と決めつけず、半歩だけ左へ逃がす。刃の腹で受け、力を斜めに流す。骨断ち包丁の重さが、肩から背へ落ちていった。打ち込んだ反動を利用して一足一刀の間を維持。追いはかけない。追えば、霧の向こうから次が来る。

「乗らねェなァ」

 嗤い声が散る。どこにでもいる。けれど、どこにもいない。ソラカゼは視線を固定しない。焦点を外し、黒い影の輪郭がほどける瞬間だけを見る。刃筋を立てず、相手の起こりだけを払う。袖の中で筋が細く軋む。握りは乾いて、指の節が白い。

 刹那、背中の皮膚がざわついた。左後ろ。来る。振り向かない。踵を返し、刃の背で下から持ち上げる。金属が短く悲鳴をあげ、火花が白に消えた。膝裏に鈍い痛み。包丁の背が掠めたらしい。耐える。体重を前足に移し、反撃の線を作る――が、出さない。出せる角度で止める。ここで振れば、納める隙ではなく、振り終えの硬直を撃たれる。

 転移。また消える。今度はすぐに現れない。霧がわずかに渦を巻く。上から、来る。梁から落ちる雪の響きが、半拍早い。刃を寝かせ、頭の上で交差させる。重い。腕が下がる。膝を抜いていなす。雪が足首まで割れた。冷たさで正気が戻る。息を吸う。短い。吐く。もっと短い。肺が縮む。瞬間的に腕に力を込めて打ち返すと、前傾姿勢のまま切先を突き出した。皮膚が薄く裂ける音。黒いローブの袖に、白い糸のような裂けが走った。追わずに引く。

 互角。互いに互いと相性がよかった。ソラカゼは一撃が速い。ネヴァスは間を外さない。こちらが整えた呼吸の切れ目だけを選んで降りてくる。刃を出せば、次の刃が来る。出さなくても、来る。なら、出さないでやり過ごすしかない。単純な話だ。筋が焼けるまで続けるだけの話だ。

 ソラカゼに打てる手は少ない。抜刀剣術の強みは殺された。単純な剣術は転移魔法と同格。何か決定打が必要だった。しかし、ソラカゼには魔法が使えない。魔法を使わない、それが身体を縛る枷だった。収納魔法さえ展開できない彼は、咄嗟に他の武器を取り出すなんて真似ができなかった。光素の奇術で目潰しでもできれば話は変わったかもしれないが、そんなことさえ運命が許さなかった。

 ネヴァスの身体がぐらついた。ソラカゼは刹那に刀身を鞘へ潜らせて、一拍、鯉口へ擦らせるように引き出す。

「――壱・五風十雨」

「うおッ――!」

 最も普遍的でゆえに最も速い横薙ぎ。半寸、空気が鳴る。だが、遅い。霧が絡みつくように動きの流れを汲み取って、ネヴァスの身体を動かした。もう影も気配も白い海に飲み込まれてしまっている。抜刀剣術の準備をする余裕はなかった。

 背中が冷えた。来る。今度は背中。振り向かず、半歩だけ斜めに抜ける。包丁の風圧が耳を打つ。――剣技、骨断ち包丁が黒い威圧を纏っていた。耳鳴り。目が霞む。視界の端が黒く沈む。倒れない。倒れたら終わる。膝を伸ばす。伸びない。伸びるまで歯を食いしばる。伸びた。まだ立っている。立っているなら、まだ受けられる。

 霧そのものが感覚器官として作用していることは把握した。だが、問題なのはネヴァスの力量だった。ソラカゼやエイジ、そして魔術師のアガサはそれぞれの神から加護を与えられている。そのため、弱々しい身体のアガサですら一般的な男性を超えた腕力で、戦闘系の加護を持つソラカゼはもはや超人的だった。対して、ネヴァスの気配には加護持ち独特のオーラがないにも関わらず、一撃ごとの威力がソラカゼやエイジに匹敵していた。増強魔法では説明できない。どこからか強化を得ているのは明白だ。

「なァ、白い坊主。飽きねェか?」

 飽きるほど余裕がない。ソラカゼは呼吸を数える。四つで吸い、四つで吐く。吸うたびに肩の傷が疼く。吐くたびに視界の白が濃くなる。霧が嗤う。ネヴァスは余裕そうな態度を崩さない。自分の方が格上だと確信している顔だ。

 包丁の背がまた唸る。今度は低い。足首の外側。刃の腹で払う。払えた。次が来る前に、半歩だけ寄る。間合いが詰まれば、あいつの重い刃は振り切れない。振り切れないから、押してくる。押してくるなら、また合わせる。合わせれば、膝が抜ける。抜けても、立つ。

 雪が息を呑んだみたいに静かになった。

 ――疑うな、信じろ。

 信じることよりも、疑わなければいけない人生だった。あの日、外部の者を疑わず招き入れたのが問題だった。最期に残された父の言葉を疑わず信じればよかった。復讐の旅に出てからもそうだ。自らの姿を捨てて、行く先の全てを疑って、味方さえ信じきれなかった。たった独り、どこへ行っても敵だらけ。安心できるタイミングは一度もなかった。弓兵エニセイが変化術の膜に触れた時、咄嗟に斬り捨てようとしたほどだ。孤独で孤独で、分かち合える光はなかった。

 だからこそ、ここで勇者エイジと再会した際、どこか安心できた。彼は眼前の宿敵に警戒していたようだったが、その顔の裏には重みがなくなったような晴れやかさがあった。未だ復讐心を燃やし続けているソラカゼと違って、彼は未来を選ぶことができたようだった。この感情は憧れなのだろうか。ゆえに、全てを信じることができないソラカゼは、いまのエイジだけは疑わず信じることができた。彼なら格上だろうと先代勇者レジスを打ち倒し、ソラカゼの元へ助太刀しに来てくれると。

 ソラカゼは、なお刃を下ろさない。なお斬らない。なお、耐える。足裏で時間を作って、手首で角度を作って、肩で痛みを飲み込み続ける。

 ――早く来い、エイジ。

 心の奥で、それだけを言って、声にはしない。声にすれば、霧に運ばれる。運ばれて、嗤われる。だから、言わない。言わずに、ただもう一度、包丁の重さを斜めに外した。


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