92 疑いを知ることなかれ6041
「あいつが例の男か」
ソラカゼが小さな声で尋ねる。俺は油断なく剣を構えながら頷いた。
「ああ。ネヴァス、先代魔王を暗殺して更に内戦が起こるように仕向けた全ての元凶だ」
「そうか、あいつが……」
ぎりりと彼は歯を噛み締めた。刹那だけ鋭い殺意が漏れ出して、すぐに収まる。言葉にならないその裏で、彼はどのようなことを考えているのだろうか。しかし、俺にとっては驚きに値するものだ。ソラカゼは勇者である俺の仲間として行動していた時、躊躇なく多くの魔族を殺してきた。いや、躊躇なくというより、明確な殺意と憎悪が刃に染まっていた。それなのに今はどうだ。本当の仇を目の前にしても、感情が表に出てきたのは僅かだけで動じていない。意外なことだった。
もしかしたら、逆なのかもしれない。明確な仇が定まっていないからこそ、そのやるせない気持ちをどこに向ければいいのかわからなかった。だから、憎悪という理由がなければ罪のない同胞を殺せなかったのだろうか。真意はわからないが、彼の前には本当の仇がいる。無念を晴らす機会だろう。
「それよりも、ソラカゼ。どうしてここに?」
予想はできることだったが、俺がいま最も気になっていることを尋ねる。
「……アガサの伝書鳩が手紙を運んできた」
「手紙?」
「ああ。それも魔王様の直筆で、あの男が内戦に関わっていたことや、男が白狐族の村へ再び現れる可能性があること、俺に村へ戻るように促す文が書かれていた」
やはりソラカゼが白狐族の村へ戻ったのは、エリアの意図するところだったわけだ。思い返せば、地霊族の村から魔王城へ転移する際にエリアが、アガサから伝書鳩を預かっているという話をしていた。あの伝書鳩は俺とソラカゼ、そして仲間の弓兵――エニセイの魔力を記憶しているので、遠く離れていても手紙の伝達ができる。
「それなら、エニセイも来ているのか?」
「当然のことを。しかし、遠くから様子を見ているはずだが、助力は頼めそうにないだろうな。これは俺たちの戦いなのだから」
「そうか」
エニセイ。風読みの弓兵とも呼ばれる彼女は、俺が勇者だった頃に行動を共にしていた仲間だ。両目を眼帯で覆っており、武器は無骨な長弓を使っている傭兵だ。彼女の過去について詳しく聞いたことはないが、整世教会から勇者の仲間にと雇われているらしい。珍しい立ち位置だが、更に珍しいのは勇者パーティー四人の中で加護を唯一持っていないこと、その上で武器に長弓を選んでいることだった。どちらにせよ、エニセイはいつも気分とお金で動く傭兵だ、過去の因縁に関係がない彼女の助力は期待できなさそうだった。
「いやァ、感動の再開は終わりかァ?」
ネヴァスが嗤い、包丁をひらひらと遊ばせる。ソラカゼが参戦しても余裕そうな表情が崩れないのは、単に彼の優位性はまだ確保されているからだろう。俺よりも遥かに実力のある先代勇者レジスを従え、戦場は晴らせない濃霧で覆われたままだ。だが、二人を相手にしなければいけないという不利はこれで解消された。
俺は煽るように彼と同じく宵闇の剣をひらひらと揺らしながら答えた。
「俺とソラカゼに再会の握手は必要ないからな」
「じゃァ、続きを始めよう。――レジス!」
「決着をつけよう。――ソラカゼ!」
「ああ。右を頼む」
ソラカゼの声は、霧の膜に針を通すみたいに細く、しかし迷いがなかった。俺は短く頷き、宵闇を右上に置く。
レジスが一歩、石畳を抉る。跳ぶ準備。速い。だが、呼吸が合う。踏み幅が合う。歯車が嚙み合う音が胸骨の奥で鳴った。宵闇で受ける。骨の芯まで鳴る衝撃。肩で落として流す。振り上げた二の太刀が喉笛へ伸びる。レジスの右腕が赤く光り輝き、古代流派体術鼬払いで弾かれる。――まさか、剣を握ったままの手でも体術の発動ってできるのか。
知らない技術で身体を崩され、そのままレジスに懐へ潜り込まれる。流れるようにレジスの左手に古代流派体術の光が灯り、虎打ち。対応して俺も咄嗟に体術の光を左手に纏い、猿返し。迫る拳をすれすれで見極めて掴み、反転しながらレジスの重心を崩す。掬い上げるように投げ飛ばすと、宙へ浮いたレジスが数本の短刀を投擲する。閃くように宵闇の剣を切り払って打ち落としながら後退。
張り詰めた意識を緩めた、その狭間。雪気の流れが後頭部を撫でた。俺は踵で後ろへ踏み込んで宵闇の刃背を押し上げる。重い衝撃で剣と剣が嚙み合い、押し込まれながらやっと俺は振り返った。
「オレのことも忘れんなよォ!」
ネヴァスが嗤いながら転移する。右、左、いや後ろか。骨断ち包丁が低く滑り込み、膝下を刈る軌道。俺が刃で起こすと、肩越しにソラカゼの刀がすっと差し出て、そのまま包丁の鋒を外へ撥ねた。なるほど、ネヴァスはソラカゼと戦っている途中でこちらに茶々を入れたわけだ。間髪入れず、レジスの直剣がソラカゼの背中へ振るわれた。俺は刃を差し入れて跳ね上げる。
交代、ああ、と短い言葉を交わして、二人は線と点で入れ替わる。呼吸を外せば即死だ。
俺が右に出てレジスを正面に押さえ、ソラカゼが左のネヴァスと絡む。だが、それも一呼吸だけの話だ。レジスが反動を利用して離れると、その空白へネヴァスが出現する。鍔で噛む。押し返す。いやらしい動きだ。視線で追えば遅れる。音で追い、風の筋で選ぶ。雪がきしむ位置、布の裾が鳴る高さ、呼気の湿り。その全てから敵が考えていることを把握しなければならない。
「面白ェ、止まんねえなァ!」
ネヴァスが嗤い、口の形だけで転移の言葉を作る。唇は無音。だが喉の奥で濁り音を擦らせ、最低限の音で鍵を回した。右後ろで光る。包丁が舞い、レジスの直剣と交差する形で俺の側頭部へ入る。同時に来るふたつの致死。俺は宵闇で直剣を受け、包丁は――ソラカゼの鞘が鳴って逸れる。鞘打ち。短い衝突音が霧をさざめかせた。
ソラカゼと肩が触れた。一瞬の重みで位置を交換する。俺がレジスに食らいつき、ソラカゼがネヴァスを追う。だが、次の瞬間にはまた配置が崩される。レジスがわざと踏み込みを深くし、俺の受けを肩越しに押し上げる。視界が白で満ち、またもや懐へ入られる。が、右脚で古代流派体術燕刈りを発動し、防ぐように立てられた勇者専用長剣もろとも蹴り飛ばす。向かう場所はソラカゼの舞台。彼は咄嗟に俺の意図を汲み取り、剣戟の途中だったネヴァスの包丁を鍔で受けて、絡め取るようにして俺の方へと投げた。俺は受け継ぎ、刃の腹で角度だけ殺す。その間にソラカゼは体を反転、レジスの線に割り込んで火花を散らす。
入れ替わり、入れ替わり、入れ替わり――。超高速で位置がずれていく。言葉を何も交わさずに俺たちは即興で対応していく。互いの位置を常に把握しながら戦う。これは四年間の旅を共にした俺とソラカゼだからこそできることだ。ゆえにこそ、ネヴァスとレジスの異質さが浮かび上がる。
アスカラン地下牢獄からレジスが解放された時期から考えても、二人が行動を共にできた時間は長くても二週間。ここまで完璧な連携ができるようになるには満足な期間とはいえない。それにレジスは魔族全体を、ひいてはネヴァスを侮っている様子がある。普通は足並みを揃えるなんて到底不可能だろう。それなのに、噛み合った攻撃の嵐が俺とソラカゼを苦しめていた。
なぜ、と頭の片隅で考えながら剣戟を繰り続ける。俺とソラカゼの渡しとなる合図は極小だ。足の半幅のズレか、鞘が奏でる澄んだ薄い歌、そして交わす目配り。四年間で培われた声のない合図。だが、ネヴァスは合わせてくる。背に隠した合図の直後、必ず最短の角度で割り込んでくる。視線は遮っている。音も殺している。なのに、なぜだ。
レジスの剣が正面から爆ぜ、俺は受けの三段を刻む。二段目を落とし込む瞬間、――右が割れた。最も俺の防御が手薄になるタイミングに合わせて、ネヴァスが来る。鍔で噛み、角度を殺す。俺は後退しながら、肺の奥で息を止めた。呼気の湿りを消す。ネヴァスがさらに包丁を斬り上げて、俺はすぐさま迎撃する。加護を持たないはずなのに、その一撃が重すぎる。膂力を振り絞って跳ね返し、追撃しようと俺は踏み込む。が、ネヴァスの姿が搔き消えた。――刹那、その姿に隠れていた向こう側から現代流派剣術アッガス流の輝きを灯したレジスが飛び込んでくる。
「っ……!?」
俺も咄嗟に同じアッガス流のストームエッジで合わせる。面対称の動きが歩幅一歩分の距離で繰り広げられる。新緑の三連撃が弾け、だが、俺は判断のミスを悟った。レジスが選んでいたのは、最初の動きは同じでも最後に追加の連撃がある、サイクロンエッジ。反転後の威力が乗った一撃を、俺はチェストプレートで受けざるを得なかった。
硝子が割れるように、硬い重金属で造られた防具は粉々に砕け散った。急所となる胸元が露になってしまったが、致命傷だったその一撃を防いでくれただけでもありがたい。
それにしても、やはり違和感がある。ネヴァスは今回もレジスの動きに合わせていた。後方からレジスが飛び込んでくるのを把握して転移していたのだが、あの角度ではレジスの動きを見ることができなかったはずだ。彼が読んでいるのは、俺たちの身体ではない。場の流れなのか。……場の流れ?
そこで、はっとした。戦場は奴の霧に覆われている。レジスは自分が動きたいように動いている。ネヴァスはそんなレジスに合わせている。奴は俺たちの動きすら読んでいる。――なるほど、そういうことか。
胸骨の奥で、噛み合わなかった歯車がひとつ、音を立てた。秘密は、濃霧。視界を奪うための膜じゃない。術者の感覚器だ。霧が張った領域そのものが目であり耳であり、触覚になっている。圧の偏り、温度の歪み、音の波――それらが一枚の膜で繋がり、ネヴァスへ纏めて届く。だから、俺たちの合図は遮っても、場の変化そのものが筒抜けになる。
レジスの動きに迷いがない理由も、そこで腑に落ちた。奴は理解している。自分の純速度で盤面を押し、霧に映った全体像をネヴァスが後方から調律する。前衛と術者の視界の共有。二人の連携は短時間でも成立する。
俺は確信を固めるため、俺は実験をする。収納魔法から短剣を取り出して、手首を返しながら投げる。正面から一直線に迫るそれをレジスは悠々と横に跳んで避けたが、本当の狙いはその向こうに見えるネヴァスの背中だ。彼はソラカゼと激闘を繰り広げていて、俺たちを見ていない。完全に意識外からの一撃を――奴は避けた。やはり。見ているし聞いているし触れている。全部、この霧を通して。
俺は短く息を吐き、ソラカゼにだけ届く低さで囁く。
「戦場を変える。ソラカゼ、ネヴァスの相手を頼めるか」
「問題ない。だが、俺ひとりでは倒せそうにない。早く戻ってこい」
ソラカゼの瞳が一瞬だけ細くなり、すぐに戻る。俺は俺が気付いた仕掛けを伝えなかった。この濃霧全体がネヴァスの感覚器だとすると、声にするだけで奴にも気付いたことが筒抜けになるからだ。ソラカゼは詳しいことはわからなくても、何か俺が躊躇ったことを理解したのか快く送り出した。――仲間に疑いを知ることなかれ、だったか。いい言葉だ。俺は俺のやるべきことをしよう。
彼と視線を一度だけ交わしてから、俺は風魔法の準備を始めた。このネヴァスが作り上げた濃霧はどういうわけか吹き飛ばすことができない。だが、それは魔法で完全に干渉できないわけではなく、一時的に薄くすることはできる。それで十分だった。
俺は踵を縁石の角に掛け、息を一度殺してから、肺に風の形を描く。
「――全開放」
風は面ではない。線で行く。掌から肩甲骨、腰骨へと通した一本の軸が、庭へ向けて白を押し分ける。真っ白な海に、針で貫いたような細い回廊が生じた。雪片が左右に割れ、凍える粒子が糸のように踊る。俺はその道に靴先を滑り込ませ、低く走る。
「逃がすかよォ!」
霧のどこからともなくネヴァスの声。だが即座に――
「陸・死屍累々ッ!」
鞘、鳴る。
鳴る。鳴る。
転移、その言葉が潰れた。ソラカゼの鞘打ちは連続の高音で声の鍵を潰し続ける。喉を打つような音が続き、ネヴァスの「転移」の最低限の濁りが、金の糸に絡め取られて切れた。ソラカゼの拘束連撃技に対処するのに全力で、声が出せないのだ。代わりに背中へ迫るのは、雷のような踏み込み。
レジスだ。神速の勢いで希望の剣を携えて迫っているのが気配でわかる。俺は跳ぶ勢いそのまま振り返り、レジスと向き合った。彼は問う。
「逃げるのが選びか、後輩」
「戦場を選ぶだけだ」
挑発は短く、声音を低く。レジスは笑う。いい顔だ。正面から追ってきてくれる。
「ならば、乗ってやろう」
レジスは弓を引き絞るように構えた。純白の閃光に目が眩む。予想できていたことだ。彼も同じ女神に選ばれた勇者だというのなら、同じく使えるはず。――勇者専用剣技、スターダスト・スパイク。
打ち出された剣尖が、防ぐために構えた宵闇の腹を叩く。かつてないほどの衝撃が身体を襲い、俺はそのまま風の回廊を吹き飛ばされた。霧の膜が厚みを増して押し返してくるが、上回る速度で道を切り拓きながら俺は進んだ。そして、落下の気配に合わせて風を細く一筋、足元へ突き立てる。白い粉が舞い、音が吸われる。
外だ――はっきりわかった。空気の重さが変わる。霧の縁、膜の向こう側。雪の冷たさは同じなのに、耳の奥で世界の響きが違う。遠く、尾根の上の風の唸りが素直に届いた。
振り向く。白い幕の裂け目から、レジスが飛び出す。迷いも淀みもない。速い。ネヴァスは――来ない。来られない。ソラカゼの鞘の歌が、いまだ霧の内側で鍵を潰しているのだろう。霧の手は、ここまでだ。
周囲を選ぶ。屋根も梁もない、凍り締めた広場。埋もれた古道の黒が薄く蛇行している。雪は硬く、足の裏で鳴く。ここなら、隠れる影も落ちる梁もない。
「ここだ」
俺は宵闇を正眼に置く。肩の高さで刃を寝かせ、風の線を一つだけ残す。レジスは一度だけ靴底を鳴らし、笑って見せた。
「あの摩訶不思議な仕掛けを看破したのは、素直に称賛しよう。だが、霧がないから俺を倒せるなんて、そんな単純な話はどこにもない。俺はお前よりもずっと強いぞ」
「知ってるさ。それでもレジス、俺はお前を倒す」
レジスは肩を竦めるだけで何も答えなかった。代わりに、前へ構えられる希望の剣。俺も合わせて静かに宵闇の剣を突き出し、そしてどちらからともなく揃って踏み込んだ。
俺はソラカゼを、そしてエリアを信じている。だから、ただ今は眼前の敵を倒すことだけを考える。
別々の戦場で、それぞれの戦いが始まった。




