88 その行方5385
温かい雰囲気は、同時にカザヌキとエリアが居住まいを正したことで厳粛なものになる。見事なものだ。こうも一瞬で高位に立つ独特の存在感を纏うとは。第一声はそれまで場の推移を見定めていたエリアからだった。
「ならば、同盟の件は承諾と捉えてもよいかの?」
凜とした声音が、香煙の層を一枚ずつ貫いていく。
「その通りです、魔王エリア様。白狐族は信の重みを大切にする民。言は少なく、意は明確に。まずは主旨から」
カザヌキは扇を半ばまで開き、その影を膝前に落とす。白い尾がひとりでに起き上がり、ゆらりゆらりと妖艶に舞う。二日前とは似付かない不敵な態度だが、これがカザヌキ本来の姿なのだろう。
「主旨は前に述べたものと変わらぬ。妾たちの最終目標は、魔族と人族の戦争を終わらせ、世界平和を実現させること。じゃが、味方は少なく声を上げるのも難しいばかり。もちろん内戦の傷が癒えておらぬ白狐族に求めることは少ない。閉ざしてきた外交の一部を段階的に開くこと、進行中の戦争に対する不可侵、そして――不測の事態が起こった時、妾たちに優先して助力することじゃ」
「なるほど。では、互いの齟齬がないよう、それぞれの内容はいま明確にしましょう」
エリアはしっかりと頷いた。ありがたいことだ。俺は長らく戦ってばかりあったため、このような交渉には慣れていない。もうこの場に俺は直接の言葉を持たない。持ってしまえば余計な角が立つばかりで、エリアに任せるのが最善である。
彼女と出会ってから四週間以上。今までエリアに対して、やはり魔王らしいなと思うことは何度もあったが、今の彼女は俺でも見たことがないほど真面目な顔だった。対峙するカザヌキも扇の影で表情を半ば覆いながらも、紅の瞳に一切の揺らぎがない。二日前に見た「拒むための静けさ」は、いま「受け入れるための厳しさ」に置き換わっている。
俺は沈黙のままに体勢だけを正して、二人の交渉が成功することを祈った。
「まず、白狐族には徐々に外の世界との交流を取り戻してもらいたい。言うまでもなく最初から自由な通行を認めてしまえば、混乱も起きることじゃろう。ゆえに当面は元老院からの使節、そして地霊族からの行商人のみに限って認めてもらいたい。そこから慣れに応じて、段階的に制限を引き上げればよいと妾は考えておる」
「それですと拒む理由はありませんね。混乱を抑える配慮、恩に着ます」
もっともな提案だ。これまで八年間も閉ざしていた村を解放しても、新しい関係性を構築するのは難しいだろう。だからこそ、必要不可欠な元老院との連絡のみならず、多少なりとも繋がりがある地霊族を相手に選ぶわけだ。ファイドルは以前の族長ソラユキと交友があったようだし、この場にいるから決定も簡単である。ファイドルは何も言わないし、既にエリアとの間で協議していたのだろう。
「次に、魔族と人族が行っている戦争への不可侵。これはそのままじゃ。人族から何か直接的な被害を受けぬ限り、一戦を交えるのは控えていただきたい。補足になるが、人界にはアルベルト騎士団と整世教会という二つの大きな組織がある。騎士団は『戦火から民を護る』という指針のため、条件付きで妾たちに協力してもよいとの確約がある。反対に教会は、信仰されている女神が魔族を強く憎んでおるゆえに、かなり好戦的じゃ。とはいえ、近年の教会は表舞台に出てきていないため、戦争は下火になっておる。こちらから手を出さなければ争いに発展することはないであろう」
「杞憂ですね。私たち白狐族は元より人族との関わりが少なかった種族。良い面も悪い面も。そのため、こちらから干渉することはないでしょう。そして最後の件ですが……」
「うぬ、非常時に手を借りたい。無論、非常時とは妾でも想定できないようなことが起こった時。例を挙げることは不可能じゃが、もしもがあれば状況が許す限り助力してもらいたい。支援の範囲はその際の判断に委ねよう」
「当然です。私たち白狐族は魔王エリア様に受けた恩を忘れていません。言われずとも、率先して最大限の助力をしましょう」
カザヌキが扇を伏せて、続けてエリアも小さく頷いた。同意の言葉は出ない。だが、場は次の段へと音もなく移る。
ほっと、俺は息を吐いた。肩のこわばりが指先へ降り、そこで静かに解けていく。問題なく話が纏まったようだ。これで心配することはもうない。もしここで談判が失敗すると、季節的な問題もあって、春になるまで動くことができなくなっていた。この様子ならば、数日以内に出立できるだろう。俺もリオウなどの交流を通じてもう少し滞在したいと思っているが、いかんせん積雪量が増える前に南下しなければ冬季中ずっと山に閉じ込められる。そうなる前に、道を確かにしておくべきだ。
俺は魔界の中央にある群雄都市ドロッセルに向かわなければいけない。そしてエリアは騎士団の本部があるというルベルク共和国首都ヴァルナへ向かわなければいけない。俺の目的地はあまり距離が離れていないため年内に辿り着けるかもしれないが、エリアの目的地はずっと離れた人界の地だ。予定外を繰り返していて顔向けできないが、直接交渉したオリバーのためにも早いところ行動する必要がある。何を考えているかわからない整世教会も、いつまでも水面下にいるはずはない。白狐族の村に滞在している余裕は、俺たちになかった。
エリアとカザヌキが繰り広げる会談を眼前にして、意識は別のところへ向けていたからだろうか。澄んだ音が香の筋を横切った気がした。
――しゃらん。
俺は思わず声を割り込ませていた。
「なあ、いま鈴の音がしなかったか?」
俺が言うと、三者三様の怪訝な眼差しで俺を見た。
「鈴の音……ですか? 私は聞こえませんでしたが。スズナでしょうか?」
「妾も聞こえておらぬ。ファイドルはどうじゃ?」
「俺も知らねぇな。小僧、お前の気のせいじゃないか」
んんん、と俺は顔を顰めた。カザヌキとエリアはまだしも、俺と同等の加護を所持しているファイドルですら否定するのだから、俺の聞き間違いなのかもしれない。まあ、微かに聞こえたような気がしただけだから、ただの幻聴かもしくは似たような音をそう判別してしまっただけか。事前にスズナの話題が出ていたから、そう聞こえてしまっただけだろう。
そうして自分自身で折り合いを付けようとしていると。
――しゃらん。
今度こそ俺は確信する。張り詰めた聴覚でやっと把握できるぐらいだが、確かに鈴の音だ。間違えるはずがない。
「やっぱりスズナだ」
俺の言葉に、三人の視線が短く交わる。最初に口を開いたのはエリアだった。
「妾には相変わらず聞こえぬの。しかし、そなたが断言するのであれば、導き手で違いなかろう。どうじゃ、エイジ。そなたが様子を見てきては」
カザヌキが彼女を横目に見て、短く頷く。白い耳が僅かに傾き、扇の影が膝前に深く落ちる。
「そうですね。誰かが確認するべきでしょうが、私は白狐族を預かる身。この場から離れることができません。エイジ殿、お願いできますでしょうか」
俺は悩んだ。俺もこの会談の行く末を見届けたいが、いまこの場で俺が最も出る幕がなかった。それにスズナとは言葉を交わしたいと考えていたのだ。これはいい機会かもしれない。
「わかった、行ってくる」
剣帯の角度を調整しながら立ち上がると、エリアがふと思い出したように告げた。
「そうじゃ、エイジ。必要になるかもしれぬから、これを持って行け」
「ん?」
彼女が収納魔法から取り出して俺へ手渡したのは、一振りの剣だった。
アダマントで造られた宵闇の剣よりもずっと軽く、そして色も対照的で白光りしているが、太さも長さもデザインも宵闇の剣に揃えて造られた剣。俺が加護を失って、重い剣を満足に触れなくなってしまった時に、気遣った親友のイザラが鋳ってくれたものだ。銘は白百合の剣。
結局その時は受け取りを拒否してしまって、どうなったのか知らなかったのだが、エリアが預かっていたらしい。
しかし、なぜいまこれを俺に。そう思ってエリアを見ると、彼女はにやりと意味深に笑う。
「全てそなたに任せる。……ああ、それと」
「それと?」
「石は割れる。割れれば使えぬ。覚えておけ」
「なんだそれ?」
「まあよい。時間は限られておる。導き手を迎えにゆけ」
意味がわからない。が、喉まで出てきた疑問は飲み込む。
その笑みに、答えは要らないのだと悟る。エリアがこうして言葉少なく何かを行う時は、いつも必ず重要な意図が隠されていた。もう直接それを伝えられなくても、全幅の信頼を寄せることができるほど、俺はエリアと同じ時を歩んできた。
視線を交差させ、俺は白百合の剣を収納魔法に落とす。ファイドルを見ると、早く行けと言わんばかりに、彼も黙ったまま鼻で外を指し示した。俺は礼を一つだけ置いて、紙戸へ手を掛けた。
戸が滑る音と同時に、冷気が細く流れ込む。走りはしないが、なるべく足早に廊下を移動する。ブーツを履いて、俺はしっかりと紐を結んだ。防雪対策で蜜蝋を表面に塗り込んでいるため、水はあまり滲み込むことはないが、緩めに締めてしまうと雪に足を取られてしまう。
外へ出ると、戸口に立っていた雪牙隊の隊員が俺を見た。
「エイジ殿? どうかしましたか?」
「いや、特に何かあるわけじゃない。少し外の空気を吸おうかと」
「了解しました。行ってらっしゃいませ」
彼は視線を戻し、元の直立不動になる。態度が変わらないということは、やはり鈴の音は聞こえていなかったようだ。俺ですら微かにしか認識できなかったのだから、加護を持っていない彼は仕方がないだろう。
俺は隊員に見送られて、邸宅の敷地内から出る。白い息が宙で割れて、すぐ夜に溶けた。雪を踏めば、細い音が足裏から立ち上がる。耳を澄ませば、遠いところで樹々が軋み、風が尾根を渡る気配がある。
鈴の音が聞こえた方向にはあまり自信なかったが、たぶん村の中心から届いたと思う。目抜き通りへ向かって、俺は踏み固められた一本の細道を進んだ。斜めに落ちた満月の光が連なる屋根を遍く照らす。庇から垂れている細い氷柱が篝火の温かい光を反射して煌めいている。ブーツの底で雪が鳴る。蜜蝋を含んだ革はきしまず、音はさらさらと砂を踏むように細かった。村人の往来は少ないが、目抜き通りへ近付くにつれて隊員たちが慌ただしく走り回っていた。右手はいつでもカタナを抜けるように無手で、左手に松明を持っている。俺と同じくスズナを探しているのだろう。カゲクイの討伐後に話していた宴会は中止されたのかもしれない。
走り抜けていた隊のひとりが、俺に気付いて足を止めた。松明の灯が一瞬だけ顔を照らし、すぐ影に沈む。短く一礼して、低い声。
「エイジ殿もスズナさんを探しているのですか?」
「ああ。いまさっき鈴の音が聞こえたような気がして」
「その通りです。先ほどこの周辺で鈴が鳴ったため、隊員総出で捜索に当たっているのですが……残念ながらまだ見付かっていません。隊長によると、重なっている外の世界にいるのではないかと」
やはり幻聴ではなかった。しかし、外の世界か。確かリオウの説明では、この一帯は荒廃した村がある外の世界と、俺たちが今いる中の世界が重なっているとかそんな感じだったはずだ。そして、その境界を渡るために導き手の奇術が必要だとか。
いまスズナが外の世界に位置しているならば、移動手段を持たない俺たちはどうやっても探し出すことはできない。そして彼女に何かあれば、全員が外への道を断たれてしまう。雪牙隊の隊員が懸念しているのはそういうことだろう。青年は俺の目を見て頼む。
「エイジ殿も彼女を見付けたらすぐにお知らせくだ――」
その言葉は最後まで続かなかった。すぐそばで澄んだ音が鳴り響いたから。
――しゃらん。
揃って弾かれたように振り向く。
数メルほど前方。
誰もいなかったはずのその場所に、人影が現れていた。
俺の半分にしか満たない背丈の少女。狐の面を被り、赤い瞳だけが燦然と輝いている。きっちりとした伝統衣装を着こみ、腰には太い帯を巻いて結んでいて、右手には葡萄のような鈴を持っていた。
導き手、スズナ。
周囲にいた隊員は急に現れた彼女に驚き、動きを止めていた。誰も何も反応できなかった。スズナはそんな彼らをものともせず、いとも自然に歩み出す。その先には俺がいる。彼女はゆっくりとした足取りで、俺へと近付いてくる。わからない。その行動の意味が理解できない。
足取りは雪を嫌うように軽く、踏み跡すら浅い。鈴の房が揺れるたび、音は不思議と遠くへ散らず、胸の奥にまっすぐ届いた。面の奥の赤い瞳は、通りの灯りも松明の橙も映さない。映しているのは、こちらの姿だけだと直感した。
ついに目と鼻の距離にまで、彼女は俺に接近した。隣で釘付けになっていた青年が息を飲んだ。スズナは俺の眼前で止まる。そして――
「――っ!」
間一髪だった。
突き出されたその手を、俺は咄嗟に掴んでいた。
握られていたのは、月光に煌めく短刀。
殺意は全く感じられなかった。




