86 帰還5848
リオウは立ち上がって膝元に付いた雪を払うと、こちらに向き直った。
「迷惑を掛けてしまったな、エイジ。申し訳ない」
「わかっているのならいい。この貸しは大きいぞ」
「ああ、本当に……」
しみじみといった様子でリオウは頷く。俺たちが疲れた顔をしていると、周囲を取り囲んでいた隊員たちが集まってくる。遭遇後の一閃でカゲクイに腹を斬られた隊員も、さすがリオウの選んだ精鋭らしく、包帯が巻かれた腹部を抱えながら並んだ。リオウは彼らを見渡してから、力強い声で言った。
「エイジ、今回は世話になった。代わりというわけじゃないが、お前はもうヨソモンじゃねえ、ウチモンだ。お前に、そして魔王さんに何かあれば絶対に助ける。村の年寄り連中が反対したとしても、俺たち雪牙隊は金輪際ずっとお前らの味方だ」
「本当か、助かる」
へへ、と彼は気恥ずかしさを誤魔化すように、鼻元を指先で拭った。隊員たちの顔をひとりひとり見ていくと、皆が無言で頷き返してきた。だからこそ、リオウの声は迷いなく響いた。胸の奥がじんと熱くなり、冷たい風さえ心地よく思える。
変わったものだ。昨日、初めて修練場で会った時は、疑念が纏った冷たい視線だったのに今はどうだ。憧れを含んだような、温かい視線になっていた。俺はエリアのように他人の心を掌握するなんてできないが、俺は俺の方法で彼らの信頼を勝ち取ることができた。それだけが嬉しかった。
ぱん、と乾いた音が響く。リオウが手を叩いたのだ。
「よし、帰るか。帰って討伐記念の宴会でもしよう」
「そうですね、隊長。外の脅威もなくなりましたし、被害を被っていた村人たちも呼びましょう」
どうやら宴会をするつもりらしい。明るい顔で隊員たちは、やれどの酒を買おうや、やれ誰を呼ぼうなどで盛り上がっている。当然か、俺とリオウが協力してやっと倒せるぐらいの脅威だったのだ。雪牙隊の隊員にも気分転換が必要なはずだ。村の外に出ることができなかった村人たちの不満も強いだろうし、彼らにもう安全だと伝える必要もある。俺が彼らを一歩引いた位置で見ていると、リオウが親しげに俺の名前を呼んだ。彼の両耳は楽しそうにぴょんぴょんと跳ねている。
「エイジ、お前ももちろん来るよな?」
リオウは俺の参加を確信しているようだった。それは一番の功績者を招待したいという気持ちからでもあり、ウチモン、その言葉が表していた。だが、俺はゆっくり首を振った。
「すまない。残念だが、この夜にカザヌキさんと会う予定なんだ」
「そうなのか? それじゃあ、仕方ないか。俺らも族長さんとの予定をどうこうできないからな」
「助かるよ」
「もちろんお前がカゲクイの討伐者だってことは、ちゃんと全員に伝えて回ってやるよ。その勇姿もな」
彼はにやりと笑った。断ってもあまり気遣かわなくてもいいように、という彼の優しさだった。当たり前だが俺も彼らが開く宴会に出たいが、白狐族族長カザヌキとの会談は二日前の時点で決まっていたことだし、政治的な意味合い的にもそちらを優先しなければいけない。ここでカザヌキからの信用を得られるかどうかで、俺たちの今後が変わってくる。
冗談めかした空気がしばらく漂ったあと、リオウは一度だけ大きく息を吸い込み、声を張った。
「じゃ、俺たちの村へ帰るぞ! どちらにせよ宴は後だ。まずは全員で無事に帰らないとな。スズナ、帰りも頼む」
「…………はい」
隊員に隠れていた少女が、おもむろに歩み出てきた。白狐族の村へ入るために必要な存在、導き手のスズナだ。顔が隠れているが、しかし、どこか物憂げな雰囲気を纏っているように感じる。カゲクイと俺たちの戦いに何か思うことがあったのか。早いうちに彼女と言葉を交わした方がよさそうだ、ひとりきりになったタイミングを見計らって話し掛けてみよう。
彼女はここまで来た時のように、俺たちの前を先導して歩み始めた。その背中に付いて、俺たちも進む。緊張感が解けた身体は、今になって疲労を思い出し始めていたが、それでも足取りは不思議と軽かった。雪原を踏みしめる音が、整然とした行進のリズムを刻んでいく。先ほどまで耳を打っていた戦闘音はなく、代わりに往路とは違って行列のそこかしこで談笑が始まる。やれ、酒樽は二つ用意しようだの、やれ、あの婆様に歌わせようだの。戦いの後とは思えぬ明るさに包まれている。
だが、俺が気になっているのは専らスズナのことだけだった。小さく揺れながら前へ進むその背中を、俺は悟られぬように見詰める。雪の音に耳を澄ますような歩き方、何か考えていることは明らかだ。彼女と二人で話をするなら、その前に彼女のことを知っていた方がいいかもしれない。そもそもスズナは導き手とはいうが、導き手とは何か知らなかった。
そんなわけで、俺は隣のリオウに言葉を掛けた。
「なあ、少しいいか。いまさらだが、導き手ってどんな存在なんだ?」
「ん? そうだな、村の外から来たのなら知らないな。簡単に説明すると、村の中と外を繋ぐことができる唯一の存在だ。俺も詳しくは知らないが、鈴を三度鳴らすあの行為が奇術の儀式になるらしい」
「それなら、導き手がいなければ村へ入れないのか?」
「そうだ。何の手引きもなければ、村があるはずの場所へ向かっても、荒廃して打ち捨てられた集落の跡しか残っていない。だから八年前の内戦から俺たちの村は誰にも見付からなかった。つまり、同じ場所に二つの空間が重なっていて、導き手の奇術はその間の橋渡しになっているわけだ」
「面白いな」
ファイドルも同じことを言っていた。何度も確かめたが、その場所には何も残っておらず、噂では別の土地で新たな村を作ったのではという話があると。
だが、その導き手が扱う奇術というのは、聞けば聞くほど摩訶不思議なものだ。俺はこの村を訪れて、少ないが様々な奇術を体験してきた。例えば黒い魔力の糸を紡ぐもの、例えば光を生み出す紙に刻まれた護符。そのどちらも多少は異なるものの、俺が知る魔法と似ている。多分だが根底にある概念は共有していて、それがどう発展したかで変わっているのだろう。だからこそ、白狐族に伝わる奇術は俺たちの魔法でも再現できるはずだった。
ゆえに、導き手の奇術はその異質さが際立つ。その本質は、空間を捻じ曲げて別の空間と繋げることだ。つまり、魔力的な光とか水とかそういったものとは関係なく、空間そのものに作用しているのだ。明らかに世界の理に反してるのではないかと思う。それをスズナがひとりで創り出したというのなら、八重魔法を編み出したエリアさえ越えてしまうのではないか。そんな考えもあって、俺は質問した。
「その奇術ってスズナの創造魔法なのか?」
「オリジナル……? いや、彼女が創ったものじゃない。内戦で疲弊した俺たちを見かねて、天上の世界にいる明滅の魔王アラマサが与えたって聞いているな。本当は族長のカザヌキさんに与えられる予定だったらしいが、本人はスズナの方が適任だって主張して譲ったらしい。いいよなあ、二人は伝説の存在に会ったわけだぜ。俺の夢の中にも出てきてくれねえかな」
俺は既に地下世界で彼と会ったことがあるわけだが、それを言っても話が拗れるだけで、その部分には触れず話を先へ進めた。
「へえ。ということは、内戦の前には導き手なんていなくて、奇術がなくても村の外と中を自由に行き来できたわけか」
「そういうことだ」
納得できる情報だ。地下世界で会ったあの四代目明滅の魔王アラマサがスズナに与えたというのなら、それは神様たちの魔法なわけだから、世界の理に反していてもおかしくない。そもそも秘逃禁書庫という地下空間そのものが外界と時間的にも空間的にも隔絶しているのだから、その対象が白狐族の村になっただけと理解すれば簡単だ。しかし、記憶にある彼の様子だと抜刀剣術ばかり極めていて魔法には疎そうな印象だったが、隣人に原初の魔王ヴェルゼも聡明の魔王アンネローゼもいるわけだから、協力を要請すればなんとでもなるのか。
「なるほどな……」
俺は小さく頷いて、先導するスズナの背中を見やった。彼女の頭上で白い獣耳がぴんっと立っている。自分の話題が気になって、文字通りに聞き耳を立てているみたいだ。白い仮面の奥で、彼女は何を思っているのだろう。族長カザヌキは外と中を繋ぐ存在はスズナが適任だと主張したらしい。その理由に俺はまだ心当たりなかったが、そこに彼女を知る鍵があるように感じた。
それにしても、俺たちが歩いている雪の絨毯には、点々と刻まれたスズナの小さな足跡しかない。この短い時間に雪は降っていないので、来る時と違う道を進んでいるわけだ。まさか道を間違えたのではないかと思ったが、そんな懸念は視界の先に赤い門が現れたことで払しょくされた。太い二本の支柱に、二本の板が横に渡されている。やはり村の外へ出る時には必要ないが、入る時には必要となるらしい。これも儀式とやらに不可欠なのか、それなら進む道も違ってくるだろう。
「凱旋だな、堂々と帰ろう」
リオウが力強く言うと、隊員たちは清々しい晴れやかな顔で頷いた。堂々たる佇まいで、カタナの鞘をぴしっと立てる。全員が最初の門を越えた時、スズナが左手に握っている葡萄のような鈴を掲げて鳴らした。――しゃらん、とカゲクイの歪な和音とはかけ離れた、澄んだ爽やかな和音が渡る。鈴が雪を震わせ、世界が僅かに軋んだ。
反射した白い光で視界が埋め尽くされる。ちょうど陽が真上に位置する時間帯だ。強敵だったカゲクイを見事倒した俺たちへの祝福なのか、冬の世界に温かい風が混じっている。神聖な様子を壊したくないのか、リオウも隊員たちもそして俺も黙ったまま、次の門を潜る。しゃらん。
鈴が鳴り、雪明かりがひとつ息を変えた。
闇に覆われる。しかし、天高くには三日月も数え切れない量の星々も浮かんでいて、光の護符を取り出すほど足元の暗さには困らない。スズナだけが右手に淡い灯りを持ち、その行く先を照らしていた。理屈から考えると、この場所は外の世界と中の世界の境界ということだ。意識してみると、空気の流れも不自然に変わっているのが実感できる。
ふと、誰かの吐息が頬をかすめた気がした。列から離れていないのに、奇妙な気配が割り込んだような。思わず肩を竦めた。
「どうした、エイジ」
「……いや。いま、すぐ脇を」
「獣だろうな。耳が冴えすぎてんだろ。カゲクイの後だ、仕方ねえ」
そうか、と答える。遠くで獣の鋭い雄叫びが聞こえた気がした。そういえば、動物は村へ入ることができるのか、やはり導き手の奇術がなければいけないのか。少し興味があったが、言葉にはしなかった。スズナの術式は便利な側面もあれば、村人が境界を往来する時には彼女本人が欠かせないという不便な面もある。このような遠征でもなければ、一度に動くことができる村人は少数であるはずだ。彼女の手間も多そうだし、不便ではないのだろうか。
しゃらん、と。
赤い門を潜り抜けて、最後の鈴が聞こえた時、白銀の森を抜けた向こうに、村の灯がぼんやりと浮かび上がった。帰ってきたのだ。実際には短い時間だったが、精神的には少し長く戦っていたようにも感じる。いや、感じるだけじゃない。事実、そうかもしれなかった。
「……は?」
白狐族の村は、地平線近くで沈み掛かっている陽の光で、薄紅色に染まっていた。カゲクイと戦った暁とは違う、立派な夕焼けだ。いくつかの家屋からは紙の戸を通して、優しい灯りが漏れている。どういうことだ、俺たちが出発したのは早朝だったはずなのに、もう夕方なのか。俺が呆気に取られていると、リオウが俺の肩を叩いた。
「すまん。言ってなかったな。村の外と中はどうやら時間が歪んでいるみたいなんだ。外が早い時もあれば、中が早い時もある。とはいえ、その差は長くても十刻程度だから、エイジの用事には間に合うだろう。夜なんだろ、族長さんと会う予定は」
「ああ……」
呆然と頷くが、これも当然か。導き手の奇術が秘逃禁書庫という地下空間を模したものであるならば、同じように時間軸が歪んでいてもおかしくない。俺はあそこで数刻も過ごしていなかったのに、外へ出ると七日も経っていたと聞いて驚いたものだ。それと同じことだった。
納得はできるが、どこか釈然としない。約束していた期限まで一気に時間が短くなったのだ。本当はこの後にまだ何かできるかもと考えていたのだが、それすらも余裕がなくなった。とりあえず村まで帰ってきたのだから、考えていたようにスズナと言葉を交わしたかった。
そう望んで彼女を探したのだが、しかし、俺が視線を離していたこの一瞬で、彼女の姿は跡形もなく消えていた。意識を最大限まで広げてみるが、残念ながら彼女の気配は感じられなかった。いつも微弱な気配だから俺が気付かなかっただけかと疑いもしたが、どうやらそうではないらしい。既にひとりカザヌキの元へ向かったのだろうか。まさか俺とリオウが繰り広げていた彼女についての話題で恥ずかしくなったのか、そこまではわからない。
調子を狂わせられてばかりだった。
これからの予定を組み立てていると、リオウが言った。
「俺も隊員のひとりをカザヌキさんへ報告に向かわせる。エイジ、本当に今日は世話になった。お前たちも最後に感謝を述べろ」
「――ありがとうございました!」
「お、おう」
乱れぬ動きで揃って彼らは礼をした。確かに多少は俺の貢献もあっただろうが、ここまで畏まられると少し大袈裟だと思う。同じ実力を持つ者がいたとして同じ状況に陥れば、必ず協力するだろう。まあ、彼らの態度が軟化したのは喜ばしい。
「じゃあな。俺は用事があるから先に戻らせてもらう」
そう残して踵を返す。スズナがここにいない以上、約束の時間まで余裕がないので、怠けることはできない。そのままカザヌキの元へ向かうわけにもいかないし、エリアやファイドルとも合流しなくてはいけなかった。そのため、まずは来客のためにあるあの宿泊用の建物に向かう。ついでに少しでもいいから露天風呂で汗も流したかった。ついにこの時がやってきたのだ。二日間の成果を判断される時が。俺は気を引き締めて、帰路を急いだのだった。




