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リメイク中作品 ver5  作者: 沿海
4章 疑いを知ることなかれ
85/99

85 白い世界に黒い花8988

 リオウが鞘に手を伸ばして、腰を低く構える。古代流派剣術オルドモデルでも現代流派剣術モダンモデルでもない別系統の剣技、九之尾式抜刀剣術の構えだ。冷たい風が吹いた直後、澄んだ音と共にカタナを鞘から引き出した。

 抜刀剣術の強みはその速さにある。発動に毎回わざわざ左腰の鞘へ納刀しなければいけないという制約はあるが、それを退けるぐらいに速いという利点がある。だからこそ、俺でも初見だとリオウの攻撃を見切ることはできないし、まして避けることはもっと無理だ。彼との立ち合いで圧倒できたのは、白狐族のソラカゼが仲間だったことで事前に技を知り得ていたからだ。ゆえに、そんなアドバンテージを持たないカゲクイは、雪牙隊衛士長リオウの発動する抜刀剣術を回避できない、――そのはずだった。

「――捌、明鏡止水ィッ!」

 攻撃の予兆は俺さえ全く感じられなかった。気付けば既に動いていた、そんな一撃だった。

 それなのにも関わらず、カゲクイは紙一重の距離でその刃を避け、そこから僅かな動きで黒く鋭い腕を滑らす。リオウはカゲクイが回避すると予知していたのか、流れるように湾曲した刀身を斜めに構え、衝撃を完璧に受け流した。まるで互いの動きを知り尽くしているような、ありえないほど細部まで噛み合った攻防だ。そこから続く攻撃の応酬も、抜刀剣術と二刀の黒い両腕が高速で目まぐるしく入り乱れ、両者とも相手の攻撃を最善手で捌き切っている現状では、簡単には決着が付きそうになかった。

 俺が二者が繰り広げる剣戟の中心地まで辿り着き、ついにリオウへ加勢しようとした時のことだった。俺の耳朶を貫いた彼の言葉は、それこそ予想外だった。

「お前、今の技……参の乾坤一擲だろ?」

 寸分だけ俺へ話し掛けたのかと思った。が、言葉の矛先は衝撃なことに、俺ではなく眼前の黒い怪物カゲクイだった。参の乾坤一擲、とは俺も聞いたことがない技名だが、流れからすると九之尾式抜刀剣術のひとつだろう。それをなぜカゲクイに尋ねるのか。

 しかし、それ以上に衝撃的だったのは、その言葉を受けたカゲクイの動きが止まり、武器となる両腕を地に下ろしたことだった。まるで対話を求めるように。

「……リオウ、どうなってるんだ?」

 俺が聞くと、リオウは横目に俺を見ながら応える。

「ああ、エイジ。あいつはただの魔物なんかじゃない。……俺たち、白狐族の仲間だ!」

 気が狂ったのか、とも考えたが、彼の顔はいたって真剣だった。

「詳しく説明しろ」

「あいつは俺の動きを知っている。俺もあいつの動きがわかる。以前から考えていたんだが、確信が持てた。カゲクイは白狐族の仲間で違いはない。ただ問題は、どうしてそんな姿になっているのか。それに最近行方不明になった村人もいないはずなんだが……」

 白い息が、冷たく細い糸になってほどける。黒い巨躯は両腕を下げたまま、こちらを向く――顔があるのかどうかもわからない無の正面で、風だけが鳴った。俺は考え込んでいるリオウに代わって、カゲクイにその名前を訊ねた。

「名を――言えるか?」

 鞘口に左手を置いた姿勢のまま低く問うたが、カゲクイは何も言わない。それは当然か、顔がないなら喉も声帯もないだろう。どうすべきかと考えていると、とん、とリオウが踵で半拍を刻む。九之尾式抜刀剣術を発動する前にいつもしている癖だ。。黒い影も、それに呼応するように地を擦り、同じ半拍を刻んだ。俺の背筋が、ひやりと冷えた。

 その場に掠れた声が渡る。俺でもリオウでもない、不気味なざらざらとした声。

「……ソトト、カカワルナ」

 ひとつではなかった。幾つもの声帯が薄く重なって、同じ言葉の輪郭だけを寄せ集めたみたいな、均しきれない和音。周囲の温度が一気に冷え込み、僅かばかり暗くなったように感じた。

「外と関わるな、か……。リオウ、奴は俺やエリアといった来訪者を歓迎していないということか?」

「いや、違う。予想だが、あいつは八年前の……」

 リオウが言葉を濁すと、影がゆらりと揺れた。輪郭の霧が、一瞬だけ濃く見える。溢れ出る内面の激情が不気味な声となる。

「――ハチネンマエ! ソトニ、ウラギラレタ! カエレ、ソトニカエレ!」

 重なった声が、ところどころ千切れながら続く。雪の匂いと、鉄錆の幻臭が鼻を刺した気がした。リオウがその正体を推測する。

「やはりな。八年前に亡くなった仲間たちの残留思念、といったところか」

 俺も同じ考えだった。あの光で濃くされた影の芯に見えた、あの実体――ただの闇ではない。縒り合わせられた、誰かの尾の端緒。八年前の内戦で雪に沈んだ仲間たちの、残り火。意思の強さが世界の理に作用する世界だ、いまさら死者の残影が現れてもあまり驚きはしない。だが、奴が現世で生きる誰かではないのならば、もう躊躇う理由はなかった。俺は鞘から宵闇の剣を引き出す。――だが、リオウが俺を押し留めた。

「エイジ、やめてくれ。話が通る」

 リオウが言う。俺は首を振った。

「だが、今は敵だ。敵の言葉に耳を貸すな」

「内戦で亡くなった仲間たちの言葉だ。現世に残る俺たちが受け止めないで、誰が――」

「とはいえ、外に出ようとしていた村人を襲っていたのは事実なんだろ?」

「それはそうだが……」

 頭上にあるリオウの両耳がしゅんと垂れ下がった。

 黒い巨躯が、ふいにゆっくり右前脚――いや、右の黒腕を挙げた。カタナのように湾曲した刃の辺が、俺たちを映さないまま冬陽を鈍く弾く。応えるようにリオウは鞘に滑らせた親指を軽く押し上げ、納刀角を変える。カゲクイが身体を震わせる。

「スベテ、ウバワレタ。ハチネンマエ。ソトトカカワルナ。リオウ、ソトトカカワルナ」

「俺の名前を知っているのか……?」

 反応したリオウが身動ぎする。その顔があるべき場所の影を見通そうとするが、感情なんて温かいものはなく、冷たい闇夜が広がっているだけだ。陽が稜線から出てこようとしている。世界を満たす光が多くなるにつれて、カゲクイの身体がより深い影色に移りゆく。このままだと影本来の性質を取り戻し、凶暴化するのも時間の問題だ。

「待て、エイジ」

「待つ時間は、奴を強くするだけだ。奴だって過去に苦しまないで倒される方がずっといいはずだ」

 宵闇の剣を構えようとすると、リオウの右手が俺の手首を押し下げた。視線が交差し、無言でしかし意志でやりとりが行われる。リオウが何か言おうと口を開いた。刹那、黒い影が揺り起きられたように震え、空気が裂ける。

「――リオウ!」

 闇から削り出したような黒い触手が、再び空を泳いだ。さっきよりも太く、速い。雪牙隊へ向かう分散が数条、俺たち二人を狙った黒い帯は雨のように降り注いだ。思考より先に、身体が動く。

「九之尾の壱――」

 リオウが鞘から閃光を抜く。その技名が聞こえた。危急存亡、というらしい。抜き付けの斜線が触手を絡め取りながら一回転する。光源を出していないから攻撃は通らないが、勢いを衰えさせた。俺も迫る大量の触手に対処するが、光の護符を使う暇はなかった。決着を付けるのは簡単だ、後方で控える精鋭たちに強い光源を頼めばいい。それだけだった。しかし、リオウの納得がない今、その方法は使いたくない。

 カゲクイの本体はこの短時間でより強力になっていたのか、影の触手を出しながらでも、静かにこちらへ歩を進めてきた。歩幅、呼気、間。リオウと同じ、あの半拍が刻まれている。カタナを持っていなくても、魂に刻まれた癖は抜けないのだろう。

「リオウ、やはり――」

「駄目だ、まだ聞いている」

「聞いている間に、俺もリオウもやられるぞ」

 言葉が、怒鳴りになる前に途切れた。黒い腕が、すれ違いざまに雪を払った。飛んできた細雪が俺の視界を塞ぐ、目潰しだ。しかし、気配察知が得意な俺は直感で剣を振り、その動線を奪う。続けるように剣技を発動した。これも古代流派剣術オルドモデルでも現代流派剣術モダンモデルでもない特殊な剣技、今は加護交換の影響で漆黒に染まってしっまった元勇者専用剣技、黒いスターダスト・レイン。

「――レインッ!」

 影色の稲妻が刃を押す。一撃、二撃、三撃、と前の動きが後ろの動きに繋がり、次々と攻撃が舞う。対人戦だと使いどころが限られてしまう多連撃技だが、触手やらカゲクイ本体が密集しているため、避けられる心配はなかった。

 七連撃目、右上からの振り下ろし。八連撃目、対称的に左上からの斬り下げ。そして続く最後の九連撃目で、黒い流星を打ち出した。巡り舞う触手の間を突き抜けて、本体へ一直線に進む。剣尖に収束した高密度エネルギーを、カゲクイは両腕を重ねて防御した。剣技の加速とカゲクイの質量がせめぎ合うが、ついぞ貫くことはできず、宵闇の剣から雷光が消滅する。

 斬撃と刺突が組み合わされた、複雑かつ高威力の九連撃技。強いが、そのポテンシャルに比例した後隙が発生してしまう。相手に捌き切られたら終わりで、だからこそこれまでは正念場でしか使わなかった。だが、今は違う。隣に頼れる人物がいた。

 カゲクイが黒い腕を滑らかに引いて、逆風が唸りを上げる。長い後隙を曝すばかりだった俺の前へ、リオウが躍り出る。澄んだ金属音が、真冬の空へ刃渡りを走らせる。

「――不惜身命」

 多量の星屑を纏ったカタナが、黒腕と接触する。世界に激震を齎す轟音と共に、カゲクイは吹き飛ばされた。確かな質量を持つ巨躯なのに、身体が大きく弾かれて雪の上を転がった。様子から考えるに、その不惜身命という技はスターダスト・スパイクと同じように溜めれば溜めるほど威力が増大する系統の抜刀剣術なのだろう。俺の九連撃技で稼いだ時間を活用して溜められた一撃は、流石のカゲクイでも受け耐えることはできなかったのだ。周囲に漂っていた影の触手も従って引き剝がされて、本体の方へ戻っていく。

「……ナカマ。ソトト、マゼルナ。ヨゴレル」

 身体をぎちぎちと立て直しながら、影がぼそりと零した。俺とリオウが同時に固まる。全て八年前の内戦を主張する言葉だ。俺は理解した。カゲクイの目的は、外の人物を中に入れないことではなく、中の村人を外に出さないことなのだ。自分が境界を支配する脅威となることで、村人たちを外の世界と関われないようにするため。しかし、それは考えての行動ではないだろう。後悔や憎しみという負の感情が集まって、無意識的にそうしているのだろう。だからこそ言葉が通じないし、会話は成立しない。

 しかし、リオウは違った。

「……やっぱりだ」

 リオウの横顔に、迷いと怒りが交互に走った。鞘に刀を吸わせる音が、短く響く。踵、半拍。雪の上で、黒も同じ拍を刻む。完璧な鏡合わせ。それで仲間だと確信し合っているようだった。

「リオウ」

「エイジ。俺は――あれを斬りたくはない。言葉が届くなら、届かせたい。八年前に置いてきたものを、もう一度拾えるなら」

「拾うんじゃない。あれは残留思念が音になっているだけだ。彼らが考えて発している本当の声じゃない。このままじゃ全滅だ、もっと強くなる前に現世から奴を解放するんだ。縒りを断てば、苦しまないで済む」

「それが本当に救いか?」

 俺は言葉を詰まらせた。それは俺にもわからない。何が正解なのかわからない。だが、ここで放置を選んでしまうと、全滅は免れなかった。黒い陰の奥で、声が重なる。

「――アノヒ、スベテヲウバワレタ。ソトト、カカワルナ。ワザワイ、センソウ」

 これじゃ同じ言葉を繰り返しているだけだ。だが、リオウは揺れ動き定まろうとしない。俺たちの周囲では精鋭たちの準備が終わったらしい、俺の合図を黙って待っている。そしてその俺はリオウの決断を待っていた。とはいえ、期限は迫っている。差し込む陽の光は次第に増えていた。まだいまなら、全ての影を覆い尽くせる。

「……リオウ、選べ」

 俺は宵闇の剣を僅かに引き、腕の筋の張りを解く。どのような結論だとしても、彼は雪牙隊の衛士長だ。ただの協力者である俺は、彼の結論に従ってサポートするのが役目だ。リオウは目を閉じ、一息だけ吐いた。そして、刃が鞘から、音もなく消えた。納刀。選んだのは、対話だ。

 次の瞬間、黒が俺に向けて走った。リオウの選択を、待ってはくれない。

「――トライラッシュ!」

 三度閃く灰色の星。かの騎士団総長であるオリバーが伝授してくれた古代流派剣術オルドモデルアルベルト流の三連撃技で、カゲクイの攻撃を捌く。ここからは俺だけでこいつを足止めしなくてはならない。リオウが言葉を拾う時間を、俺が斬って稼ぐ。黒い触手が唸り、白い雪片が舞い上がる。リオウはその傍を駆け回りながら、怪物が呟く言葉を理解しようとする。高速でやり取りされる剣戟の只中で、俺たちは互いに違う正しさを抱えたまま、戦闘を再開した。

 リオウの声が、雪上の半拍に乗る。

「聞け。俺はリオウだ。九之尾の名に誓って、お前たちを忘れていない。八年前――」

「……ソトト、カカワルナ」

 ざらり、と空気の手触りが変わった。幾枚もの声帯が薄く重なった和音が、終端を欠いたまま世界に滲む。黒い腕が撓み、俺の正中線へと滑り込んでくる。高速の一騎打ち戦闘では隙が大きい多連撃技は不利だ。アッガス流ストームエッジなど連撃数が少ない現代流派剣術モダンモデルや、単発技か二連撃技しか存在しない古代流派剣術オルドモデルを効率的に組み合わせて、俺は湾曲した鋭い刃に対処する。

 最初と比べてカゲクイは格段に強くなっていた。日の出と共に差し込む光の量が増えたからだ。とはいえ、俺はまだ余裕を持って打ち合えていた。それは奴の正体が内戦で亡くなった白狐族たちの残留思念だとわかったからだろう。剣技特有の鮮やかな光は纏っていないが、カゲクイの攻撃は全て抜刀剣術に通じるものがあった。踏み込みも、手首の捻りも全て今まで見てきたものだ。理屈さえわかってしまえば、両腕という二刀流が相手になっても問題ない。ただ、いつまでこの余裕が持つのか……。

 俺が戦う傍で、リオウは必死にカゲクイへ話し掛ける。

「外の世界は確かに怖い。だが、外に出なければ、俺たちも生きていけないんだ」

「――カエレ。ソトト、カカワルナ。ニクイ、ウラギラレタ」

 返ってくるのは、同じ輪郭の言葉だけ。けれど少しずつ重なりが濃くなっている。東の尾根の上、淡い陽が雪面を撫でるたび、影の黒が濃さを増した。白銀がきらめく度に、逆説的に闇が輪郭を得る。触手の芯が、さっきよりも硬い。互いの刃が重なった衝撃が胸骨を叩くたび、肺が薄く折り畳まれていくようだ。

 強くなっている。このまま強化されていけば、限界はすぐだろう。

 宵闇の剣に花びらを集める。抜刀剣術と似ていて違う、蜂蜜のような鮮やかな山吹色が漆黒の剣を染める。現代流派剣術モダンモデルグレンセル流、フォールリリィ。鋭利な三枚の花びらを重ねるように連ね、黒腕の軌道を押し留める――はずだった。

 重い。押し返す手首の腱が悲鳴を上げ、剣身に乗る圧はさっきの倍はある。陽の角度が変わるたび、触手の束は数を増やし、実体を得た芯でこちらの剣筋を噛み、離さない。明滅で制御できたときと違い、自然光は俺の都合など聞いてくれない。ただ強まるばかりだ。

「リオウ――!」

「わかってる――八年前、俺はまだ子供だった。けれど、その苦しみの一部くらいは――」

「マタ、ウバワレル。ソトト、カカワルナ」

 同じ言葉。けれど、そのウバワレルという音程だけが一瞬、低く沈んだ。怒りというより、嘆きに似た沈み。リオウの耳が微かに揺れた。彼の視線が揺らぎ、半拍。リオウの踵が雪を刻む。黒も同じ半拍を返す。完璧な鏡写し。会話ではなく、反射。リオウはなお食い下がり、黒い巨躯の正面へ斜めに歩を寄せる。俺はその側面を守るが、黒の攻めは明らかに厚くなっていく。陽が上がる。影が増す。押される。

 肩越しに飛んできた太い帯を弾く。鍔元まで押し込まれて肘が痺れ、足裏が雪面を抉って二歩、三歩。踵が沈み、脛の外側に鈍い痛みが走った。間合いが狭まる。呼吸が浅い。

 護符を使えば斬りやすい。だが光を足せば、さらに奴は活性化する。俺が明滅の主導権を握れない今、ただ火に油を注ぐだけだ。俺の背に黒い影が滑り、反射で身を捻る。間に合わない。宵闇の鍔に、黒刃が火花を噛ませた。腕が痺れるほどの重い衝突。

 剣と腕が正面で噛み合った。力の押し合い。鍔迫り合い。黒腕の縁が、俺の頬を掠めて冷たい線を残す。浅い。だが、確実に押されている。体幹に溜まった疲労が、一打ごとに漏れていく。周囲を囲む雪牙隊の息遣いが遠い。準備は整っているはずだ。だが、俺はまだ合図を出せない。出した瞬間、リオウの選んだ対話は完全に終わる。

「……リオウ!」

「もう少しだけだ」

 彼は黒の真正面で、鞘に触れたまま目を細める。名を探している目だ。八年前の雪、炎、叫び。俺には見えない景色が、彼の眼裏で連なる。

 その短い沈黙を、陽が埋めた。稜線から、白が世界へ溢れる。影が一段、濃くなる。重心が沈む。黒い腕が弾け、俺の胴を断とうと横一文字に走った。

 間に合わない――そう思った刹那、脳裏をひやりとした何かが横切った。身体が勝手に動いた。腰を落とし、肋を掠める寸前で刃と刃を噛ませ、滑らせ、雪へ流す。代わりに右肩が抜けかけた。肩甲骨の裏で熱が爆ぜ、視界に白い星が散る。足が二歩、三歩と持っていかれる。

 押されている。確実に。

 雪の匂いの中、鉄の幻臭が濃くなる。リオウの声が、もう一度だけ雪面に落ちた。

「……頼む。俺に、名を」

「――ソトト、カカワルナ」

 同じ言葉。風だけが、答えるように吹いた。黒い触手が、陽を背にして形を増やす。白と黒の境界が世界を埋めていく。俺は宵闇の剣を握り直し、たった一拍、歯を食いしばって耐える。次の拍で倒れる前に。次の拍で、選ぶために。彼に選ばせるために。

「ぐっ!」

 一本の鋭い触手がついに避けきれず脇腹を削り、苦悶の声が漏れる。逃げようとするが、反応が遅すぎた。別の触手が雪へくっきりと映る俺の影へ潜り込んで同化する。瞬間、身体の内側に見えない糸が張り巡らされたような感覚。握力が、俺のものではない強さに上書きされる。両手も、両足も、呼吸や心拍さえ操られていく。影から伸びた細い冷気が脛骨を撫で、膝がカクンと沈む。戻そうとすると、今度は肩が勝手に跳ねた。指先も自分の意志で動かせなくなってくる。託すしかない、彼の選択に。何とか唇を震わせて、その言葉だけ。

「……リオウ、選べ」

 同じ言葉を聞いた彼は振り向いて、ぎょっとした顔をした。漂う触手の中心地で影に飲まれて、操り人形となっていく俺を見たのだ。リオウは声にならない声で絶叫して、こちらに手を伸ばす。だが、距離は開いている。何も握らない掌では何も掴むことはない。

 絶望、逡巡。彼はまた選ばなくてはならなかった。辛いと思う。全ての責任をひとりで負わなくてはならなかった。だが、選ばなければならない。八年前を取るか、いまこの瞬間を取るのか。

 果たして――

 彼はカタナを鞘から引き抜いた。

 俺は最後の気力を振り絞って、あらんかぎりの力でその三文字を叫ぶ。

「今だ――!」

 周囲を囲んでいた雪牙隊の精鋭たちが反応する。光の護符という道具に頼らず、即座に詠唱を完成させ、重ねるようにして叫んだ。リオウも続けて叫ぶ。

「――遍く照らせ、光の風ッ!」

「伍、唯我独尊ッ!」

 視界が全て光で埋め尽くされる。加護を持っていても、瞼を開けるのが苦しいような光量。まるで光の海に溺れているかのようだった。カゲクイは全方向からの光によって、漆黒という概念そのものとして現れる。霧のような表面が泡立ち、膨れ上がる。全身が実体を持った。

 飛び込んだリオウは、カタナを前へ突き出した。唯我独尊、長距離の刺突系抜刀剣術といったところか。飛翔するその切っ先は俺を支配していた触手に直撃して、繋がりそのものを消滅させる。身体に自由が戻る。

 動かせるようになったその足で、そのまま俺は踏み込んだ。

「――はああァッ!」

 俺とカゲクイの間には何も障害物がなかった。操りに成功したと慢心したのだろう。正面はがらあきだ。発動したのは最上級連撃技、黒いスターダスト・レイン。一歩の踏み込みは超人的な加速力となり、握る黒い雷光を左下から斬り上げた。防御もできない不可避の剣技。例え光によって凶暴化していても、これで押し切れば同じことだ。

 雷の奔流が渦巻く。上段の斬り下ろし、下段の切り替えし。次々と最大威力の剣技が撃ち込まれる。身体の捻りも、手首の撓りも、足裏全体での踏み込みも、あらゆる技術を結集させた稲妻は、一撃ごとに周囲の雪を撒き上がらせ、カゲクイが纏っている影も削り取っていく。奴は謎のぬるりとした動きで逃げようとするが、それすらも許さない速度で懐に入り込んで、七連撃、八連撃。

 そして――最後の一撃があらゆる防御を突破して、胸があるべき場所に突き刺さった。

 沈黙。

 剣技後の硬直で俺は動けなかった。カゲクイはそんな俺を攻撃しようとはしなかった。宵闇の剣が突き刺さった場所から、どろりとしたような黒い血が白い雪に流れる。

「――アアァ、ソトト……」

 カゲクイの身体が伸ばした剣から滑り落ち、後方へどさりと倒れ込んだ。同じ言葉を繰り返すだけの掠れた声はやがて途切れ、その身体は四肢の末端から消滅し始めた。黒い塵となるように削れ、空気へ融けていく。魔物の魔石を砕いて倒した時と同じ現象だ。つまり、カゲクイを倒しきれたのだ。

 終わった、と俺が安堵している横で、リオウは静かに横たわる巨躯に近寄り、膝を下ろす。

「俺は、もう八年前に縛られず、今を生きていく」

 その言葉を聞いたのかわからない。しかし、カゲクイは涙が流れるように黒い血を滴らせながら、朝日が昇りきった世界へ消えていった。八年前に執着した残留思念は、あっけない最期だった。


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