83 冬を閉ざす脅威7043
今日もまた紙戸から差し込む朝日が俺を覚醒させる。深い海から引き揚げられた意識は明瞭さを取り戻した。
床に敷かれていた寝具から起き上がった俺は、ぐっと両腕を伸ばした。昨日の連戦によってあそこまで疲れていたのに、もう両腕に重さは僅かたりともない。改めて加護の凄さを実感する。
エリアは朝日から逃げるように、また布の中に潜り込んでいった。無意識とは恐ろしいものだ。ファイドルは俺よりも更に早起きなのか、今回も既に彼の姿は部屋になかった。代わりに庭先から重々しい素振りの音が響いている。
俺はエリアが眠ったままであるのを確認すると、手短に着替える。普段着から、いつもの戦闘着へ。剣帯を腰に巻いて、麻のシャツに重ねてチェストアーマー、その上から小火龍の革製コートを身に纏っていく。昨日は普段着での行動でよかったが、今日はそうもいかない。夕方頃から白狐族の族長カザヌキと面会する予定なのだ。正装以外だと失礼だろう。最後に枕元へ置いていた宵闇の剣を、鞘ごと剣帯に差し入れて金具で固定する。
ブーツ以外の準備が終わった俺は、紙戸を開いて隙間から外へ出る。
「おう、起きてきたか。今日は約束の時間までどうするつもりだ?」
ちょうど素振りを終えたところらしいファイドルが、張り出した木の板に腰掛けて問うてくる。俺はその隣へ座ってから答えた。
「特に考えていないが、……ひとつだけあるな。狐面の少女、スズナを探す」
「ほう?」
「昨夜の礼を言いたいだけなんだが、どこにいるかわからないからな。適当に村を歩くよ」
感謝を伝えたいのは本当だ。だが、実際には彼女と交流して多少だけでも心を開いてくれるといいな、という楽観的見解が根底にあった。俺の予想では、スズナは意外にも族長カザヌキの次に大切な人物なのかもしれない。族長と特別な関係であるようだし、この村へ出入りする時に必要な存在なのだから、彼女が頷かなければ村の外と中で往来ができないだろう。だから、彼女からの信頼を得ることは重要なことに感じた。
けれども、やはり彼女が持つ心の殻は圧倒的な硬さだ。昨夜、食事を配膳しに来てから戻っていくまで、スズナと視線が合うことはなかった。それは俺が人族だからか、それとも村にとっての余所者だったからかさえ判断できない。どちらにせよ、俺たちは彼女の信頼を得なければ、何もできないのだ。
ファイドルは肩に掛けていた布で汗を拭い、鼻で笑った。
「思っていたよりも考えていたようだ。小僧、知っているだろうが時間は有限だ。エリア嬢ちゃんはまだ寝ているが、お前は先にひとりで行け」
「ああ、そうするよ」
力強く頷いて、俺は立ち上がる。エリアが寝ている部屋を横切らないように、庭先に張られた板を経由して、遠回りするように建物の入口を目指す。ここは村を訪れた商人や旅人が滞在するための施設であるが、外観で感じた印象よりも広いようだ。境界となる廊下から内側に入ると、床下から響く軋みの音が僅かに変わる。俺はその性質から無意識に足音を殺そうとする癖があるが、白狐族の建築物ではどれほど注意しても鳴ってしまう。稀にひときわ大きな音が耳を打つとぎょっとするが、侵入者への対策としてはいいのかもしれない。
「……ん?」
一段高くなったところへ腰掛けながら両足にブーツを履いていると、横開き戸の先に人の気配を感じた。息遣いは届いていないが、敵意の尖りはなかった。俺は手早く紐を括り終えて、戸に手を掛けた。木が擦れる音と共に、薄闇が裂けた。
「お、リオウか」
「ああ。今から出るところか? お前に用事があるんだが」
「出ようと思っていたが、特に予定はない。どうしたんだ?」
「それがな……」
リオウはそこで言葉を詰まらす。わざわざここまで来たが、言うべきかどうか悩んでいるといった様子だった。何かに躊躇っているのか、眉間には深く皴が寄っている。
「どうしたんだ?」
「……本当はヨソモンに頼むことじゃねえんだ。でもなあ、ヨソモンに頼むしか解決方法は残されていねぇんだ。詳しいことは――歩きながらにしよう。返事はそれからでいい」
彼は背を向けて、冷たい風に逆らうようにして歩き始めた。俺は後手で木戸を閉めると、無言で進むリオウの隣に並ぶ。彼は導き手スズナとはまた違った雪上の歩き方であるみたいで、一歩一歩踏みしめる足取りはしっかりとしている。どこかに向かっているのか、それとも行く当ては決めていないのかわからないが、現時点で彼の足先は村の中心へ向いていた。
彼は鋭い息をひとつ吐いてから、前を見据えたまま話始める。
「ここ最近のことなんだが、村の外に魔物が現れてな」
「魔物?」
「ああ。だが、魔物と表現するのも正しいか判断できない姿の魔物だ。まるで光を拒絶するような漆黒でありながら、輪郭は煙のように霞んでいて実体を捉えられない四足歩行の獣だ。カザヌキ様はその魔物をカゲクイと名付けた」
俺は眉を顰めた。魔物の突然変異はまれにだが起こりえることだ。少し前のことになるのだが、俺とエリアが異種族の緩衝地フロゥグディからコズネスへ向かう道中に、毒のブレスを吐き出すホーンウルフと遭遇したものだ。ホーンウルフは個体としてあまり強くはないが、環境への適応力に優れているため、魔物使いの使役獣に選ばれやすいと同時に突然変異の事例も多い。そして、そのような突然変異した魔物というのは、必ず元となる魔物と外見があまり変わらないのが常である。
しかし、カゲクイというらしいその魔物は、その聞いた特徴では俺の知るあらゆる魔物と合致しなかった。そもそも霞んでいて実体を捉えられない魔物、ってなんのことなんだ。
「そいつは結界に阻まれていて、村の中には入ってくることができないようだ。しかし、俺たちが村の外へ一歩でも出てみようものなら、どこからともなく現れて襲い掛かってくる。さらにな、カゲクイは付けた名前の通り、俺たちの影を喰ってくるんだ」
「影を喰う……? なんだそれ」
「説明が難しいんだが、奴に影を触られてしまうと動きが操られるそうだ。まるで操り人形のように、自分の行動に歯止めが利かず仲間へ刃を向けてしまう。とにかく危険な魔物で、村人が怖がって外に出ることができないんだ。それをなんとかして欲しい、っていうのが俺の頼みだ」
「いや、それは、まあいいんだが……」
俺にとってその要請を受けるのは当然だった。それは信用どうこうの以前で、困っている人がいれば手助けをしたいという自然の感情だった。特に内容が俺の専門分野だとすればなおさらだ。
「そもそも村の外に出る必要はあったのか? だって、白狐族は他種族との交流を断っているんだろ? 村人たちはわざわざ村の外に出なくてもいいはずだ」
純粋な疑問を言葉にすると、リオウはどこか呆れたような咎めるような目線で俺を見た。
「お前……、流石の俺たちでも外に出ないで生活は無理だぞ。狩猟もしないといけない上に、川魚は外でしか獲れない。だから定期的に外へ出る」
「そうだったんだな。わかった、引き受けよう」
本当は族長カザヌキに会うまでに、導き手スズナに接触したかったのだが、こればかりは仕方なかった。俺が承諾の意を示すと、リオウは口角を上げた。
「助かる。ま、お前ならそう言ってくれると信じていたが、安心した。俺たちじゃあいつは倒せねぇからな。――そろそろ着くぞ」
その言葉に、俺は周囲を見渡したが、どこが目的地なのかわからない。既に村の中心は通り過ぎ、雪牙隊だとかいう衛兵部隊の修練場も通り過ぎ、周囲の建築物が徐々になくなっていき、最終的に俺たち二人は森の小道を歩いていた。どこに向かっているのだろうか、まさかこの先に謎の魔物カゲクイの寝床でもあるのだろうか。
そんなことを考えながら歩いていると、周囲の木々が広がった空間が現れ、十名ほどの青年たちが現れる。数は昨日よりも少ないが、赤い布を羽織っているので雪牙隊の隊員たちだ。彼らは俺の、いや隣に立つリオウの姿を見ると一斉に動き出して整列した。その動作には寸分の乱れもなく、彼らは部隊の中でも精鋭であることが窺える。
修練場では全員が木刀だったが、今は本物のカタナという武器を左腰に差している。チェストプレートやグローブなどの重厚な装備もしていて、どうやら今からカゲクイの討伐に向かうつもりなのだろう。
「――隊長、隊員十名の準備はできています。いつでも出発可能です」
「わかった」
「ところで、そちらのエイジ殿は……」
「ああ。協力してくれるそうだ」
リオウが頷くと、若者たちは明るい顔で拳を握りしめた。その様子から、謎の魔物により深刻な被害が出ていること、そして余所者だとしても俺に多少なりとも期待していることが感じられた。それが少し面映ゆくも感じたが、多少なりとも彼らからの信頼を得ることができた自分が誇らしくもあった。二刻通して刃を交え続けたことは当然で、飯の時間に彼らと雑談したことも、俺という存在が知られる要因になったのかもしれない。
「じゃ、出発だ。スズナ、頼む」
「……はい」
リオウの声に反応して歩み出てきたのは、ひとりの少女だ。左手に葡萄のような鈴を持ち、顔には特徴的な狐の面を掛けている少女、スズナだ。彼女の登場は想定外のことだったが、村の出入りに導き手という存在が必要ならば、ここにスズナが現れてもおかしくなかった。それに俺はもともと彼女と言葉を交わしたいと考えていたので、これは思いもよらなかった幸運だ。
スズナは無口で俺たちに背を向けると、ゆらりとした足取りで村から離れる方向へ先導し始めた。その後ろに俺とリオウが続き、さらに後ろに雪牙隊の精鋭部隊が続く。雪を踏む音はひとつひとつが小さくても、これだけの数が集まると、遠くで霧雨が降っているようにも聞こえた。道はここだけ木を切り倒しているらしく、二人で並んで歩くことができる程度に広い。
まだカゲクイと名付けられた魔物は出現しないと思うが、俺はどこから結界を抜けた村の外なのか判別できないのである。それに先導しているスズナは俺たちと違って非戦闘員だ、もし何かあれば近くにいる俺が助けなければいけない。一歩一歩にも気を引き締めて進むしかなかった。
誰もが黙って進んでいると、リオウは沈黙を切り裂いた。
「今のうちに作戦を伝える。村の外に出たらすぐにカゲクイは現れるだろう。前に現れるか、はたまた後ろなのか不明だが、俺たち雪牙隊が抑えつけている間にエイジは奴を倒してほしい。討伐隊を組んだ今回、もし取り逃がしてしまえばあいつも絶対に疑い深くなるだろう。絶対に倒してくれ」
「構わないが、俺が倒すのか? 外聞的にも俺はサポートだけに務めて、実際に討伐するのはリオウの方がいいんじゃないか? 実力も申し分ないし……」
「そんなに話が簡単じゃねえんだ。よくわからない理屈だが、カゲクイは俺たち白狐族の動きを隅々まで知っているようだ。抜刀剣術は全て予想されて避けられるし、刀の弱点まで把握している。あいつは俺たちの剣術じゃ太刀打ちできない、ってのが最終的な結論だったんだよ。どちらにせよ放置するわけにはいかないから、こうして討伐隊を計画していたところに、幸いにもヨソモンが村に来たってわけだ」
「そこで俺にお鉢が回ってきたわけか」
「そういうこった。あいつは俺たちの剣術じゃ太刀打ちできないからな。ヨソモンじゃなけりゃ絶対に倒せねえ。ま、エイジの剣技が通用すると決まったわけじゃないが」
そう言いながら、リオウは愉快に笑った。
聞くと聞くほど不思議な魔物だ。実体が朧げで、他人の影で動きを操り、白狐族の剣術を知っている。そのような魔物は遭遇したことがないし、もちろん聞いたこともない。突然変異した魔物だろうことは確実だろうが、どこか人為的なようにも感じた。思い返せば、村の外側と中側の境界でカゲクイという魔物がどこからともなく現れるのならば、エリアたちとここにやってきた際に遭遇しなかった根拠もわからない。
そんなことを考えていると、しゃらん、とスズナがおもむろに鈴を鳴らした。
儚い音が澄み渡り、そして世界が切り替わる。早朝の空気は、寂しさを孕んだ夕闇に。光は遠く、森の奥は何も見通せない暗闇になる。
村の外と中を移動するという例の奇術だ。しかし、俺たちが村へ入る時には大きな紅色の門を通ったのに、今回はそんなものはどこにも見当たらず、スズナの行動は唐突だった。まさかあの門は出る時だと必要ないということなのだろうか。
俺だけがそのように思い巡らしていたが、リオウを含めた討伐隊の精鋭たちは揺らぎもなく毅然と進む。この奇術に慣れているからというより、気持ちをこの後の戦いに備えさせているからなのかもしれない。
しゃらん。二度目の鈴が響いて、ぱっと景色が移り変わる。今度は完全な暗闇、真夜中のようだ。月は出ているみたいだが、木々に隠れて足元まで光は届かない。急な変遷に全員が立ち止まった。
三秒ほど経過すると、俺はぼんやりと足元が見えるようになった。万能な加護は暗視効果まで俺に与えている、照明がなくても行動は可能だった。しかし、俺のようにはいかない生身の彼らは、いそいそと収納魔法から道具を取り出したようで、ぼうっと淡い光が隊員の手元にそれぞれ現れた。
「……なんだそれ」
俺が呟くと、リオウが俺の眼前にそれを掲げながら言う。
「光の護符って奴だ。ヨソモンには珍しいかもな」
ひらひらと風に靡くそれは紙製のようで、よくよく見てみると「灯せ」だとか「照らせ」のような文字が書かれている。神聖文字ではないため、俺でも簡単に読むことができるけれど、ときおり奇妙な形に曲がっていたり、複数の文字を組み合わして造られたひとつの文字が書かれていたりする。理屈的には魔法陣と同じなのだろう。紙や布に刻まれた文字や図形が、吸収した魔力で術式を発動する。面白いものだ、違う文化圏になれば同じ技術でも全く異なる形に発展している。
スズナだけは護符ではなく、部屋に置かれていた木の骨組みに紙が貼られたような照明を持っていた。彼女は明るくなった足元で歩みを再開させる。何かの儀式をしているかのように、俺たちは漆黒の海を縫い歩いた。それは孤独の旅で、見通せない深海から何者かがこちらを覗き込んでいるのではないかと少し本能的な恐怖もあった。
暫くそこから歩いていると、若者たちが腰のカタナに右手を添え始めた。いつでも抜刀できるように。俺はまだ知覚できていないが、彼らは俺よりも先に敵影を察知したのだろうかと思っていると、隣で歩くリオウが名前を呼んだ。
「エイジ。戦う準備をしろ。村の外と中を繋ぐ鈴の音は三度。つまり、次に響いた瞬間から俺たちはいつ襲われてもおかしくない」
俺は頷いて、すらりと宵闇の剣を引き出す。闇夜に溶け込む漆黒の刃を片手に前へと進む。若者たちが僅かに前傾姿勢なのは、即座に反応するためか。緊張感は次第に高まり、俺たちは沈黙の中で歩き続けた。
やがて、先導していたスズナがぴたりと立ち止まった。ゆっくりと左手の鈴を掲げ、そして振り下ろす。――しゃらん。
空間が捻じれて、時間が捻じれて、現れたのは朝日が昇り始める直前、空という一面のキャンバスが一方向を起点にして綺麗なグラデーションを織りなす時間帯、暁だ。夜の代名詞である暗闇が逃げ出す頃で、暗くもなく明るくもなく中途半端といったところだった。
「……いるな」
「ああ、いる」
俺とリオウは頷き合った。これまで半信半疑だったが、景色が切り替わった瞬間に正体不明の気配が感覚を刺激した。どろどろとした不愉快な存在感。だが、俺は気配察知が得意だというのに、それがどの方向から流れてきているのか把握できない。水中で溺れているかのように、薄い存在感が空気自体へ混ざっているかのようだった。
俺たちは油断なく周囲を警戒する。雪牙隊の若者たちも同様だ。腰を落としていた。非戦闘員であるスズナは何人かの護衛たちに囲まれて護衛されていた。
確かに正体不明の何かがいる。なのにその存在を掴もうとすると指の隙間から零れ落ちてしまう。極限まで神経を尖らすが、朝日から逃げ出そうとしている暗闇から影を看破することはできない。時間だけがじりじりと消耗し、リオウの顔には焦りがゆっくりと染み出し始めた。
冷えた風が一度だけ梢を渡り、俺たちの頬を撫でていく。まるでその感触は最初の獲物を選んでいるかのような気持ち悪さを秘めていて、来た、と直感が告げる。
「――!」
声にならない悲鳴と、重いものが倒れるような音。
俺は誰よりも早く動き出していた。向かうはこの行列の最後方。選択を間違えたのかもしれない、相手は前からのみ現れるものだと考えてしまった。俺とリオウという実力者が二人いるなら、片方を後方に配置するべきだった。
その後悔を断ち切るように、動乱の間へ割り込んで、今まさに振るわれた黒い刃のようなものを宵闇の剣で迎撃する。ぎゃり、と金属音だが金属ではない歪な軋みと共にそれは弾かれた。
「お前がカゲクイ……」
その名前を呟くと、そいつは肩を震わせて笑った、ような気がした。




