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リメイク中作品 ver5  作者: 沿海
4章 疑いを知ることなかれ
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82 疑念は確信に変わり10082

 かつての旅でもここまで連戦し続けたことはあっただろうか。雪牙隊という部隊に所属している若者は多く、彼らと一戦ずつ交えるだけでも骨が折れる。しかも、盗み学んだ技術を披露したいと再戦しにくる隊員も中にはいて、疲労は極限まで蓄積されていた。

 ちょうど昼になった時、リオウがここまでと言っていなければ、俺は限界を迎えていただろう。

 有難いことに彼らの昼飯に同席させてもらうことができ、外ではこの八年でどんなことが起こったのかなどの雑談を交えながら、オニギリという食べ物をご馳走になった。優しい甘みがする米に、漬けた梅を忍ばせただけのものだが、質素なのにとても美味しく、どこか懐かしい味も感じさせた。彼らにとって異郷の人物は珍しいのだろう、午後の稽古はそっちのけで話に花が咲いて、夕方になるのはあっという間だった。衛士長のリオウが率先して俺に絡んでいたので、何も問題ないはずだ。

 季節的な問題で、昼の時間は驚くほど短くなっている。夕焼けが雪を赤く染める頃、若者たちに見送られながら、俺は修練場を辞した。足取りは重い。踏み固められたはずの道でも、膝裏に疲労がからみつく。ブーツの底がみしりと鳴った。

 目抜き通りに出ると、人々の往来は少なくなっていた。住人と顔が合うと、ぎょっとして視線を逸らされる。やはり痛々しいどこか警戒するような眼差しは変わっていない。しかし、修練場で交流した若者たちは、俺に対しての態度が朝と比べるとかなり軟化したように感じる。族長カザヌキから提示された期限は明日。時間はあまり残されていないが、焦っても仕方がない。実直に一歩ずつ進めば、きっと往来している彼らも挨拶を交わせるぐらいにはなるはずだ。

 そんなことを考えながら歩いていると、聞き馴染みのある声が耳朶を打った。

「――こうじゃ。こことここを交差させて完成である」

 聞き間違えることはない。エリアの声だ。

 しかし、なぜ村の中心でエリアがいるんだ。

 ちょうど隣にある白い塀の向こうから声は聞こえていた。飛び越えるなんて無礼なことはせずに、正面まで迂回する。立派な邸宅で、門は俺を誘うかのように開いていた。一度だけ静かに息を整えてから、敷地の中へと入った。エリアの声は建物の片側、庭へ張り出した屋根の下から聞こえる。屋内と庭のあいだに細い板が張られていて腰を下ろすことができる、俺たちが宿泊している建物にもあった造りだ。

「そうではない。ここをこっちに移動させると、ほれ、形になろう?」

 建物の角をひとつ回った俺が見たのは、手元で何かをしているエリアと、彼女に群がる子供たちだ。はしゃぎながら彼らは一心不乱に指先を動かしている。

 よくよく目を凝らすと、彼女と子供たちの手には黒い糸のようなものが絡まっていた。エリアはそれを器用に操り、指先をしならせ、交差させ、広げて――細い糸が模様のような形になると、子供たちが歓声を上げる。そして、教えて教えてと彼女の膝に寄り集まっていた。どうやら子供と遊んでいるようだ。

 俺が近付くと、最初にエリアが気付いた。

「エイジか。用事は終わったのかの」

「ああ。……エリアは何をしているんだ?」

「影あやとりという白狐族の伝統的な遊びじゃ。子供らが教えてくれての」

 へえ、と俺が頷くと、俺の裾を子供のひとりがくいくいと引っ張る。

「おにいちゃん、だあれ」

「俺は……」

 答えようとして口籠る。俺を表す言葉としては、元七代目勇者だとか魔王の騎士だとか多くあるのだが、どれも無垢な子供に説明するには難しい言葉だ。俺が何と答えようか迷っていると、エリアが優しく返した。

「彼はの、魔族を脅かしていた勇者じゃった者。であるが、今はちと反省しておるようで、妾の騎士を任している」

「騎士さんなの? 騎士さん、騎士さん!」

「おにいちゃんも影あやとりやってみよ!」

「……じゃあ、少しだけやってみようかな」

 わー、と俺の元にも子供たちが殺到する。無垢だ、無垢すぎて逆に心配だ。大人たちは元勇者という俺の経歴、いやそれよりも人族だということに警戒して近寄ろうとすることはないが、子供たちにとっては俺の瞳が何色だろうと関係がないらしい。

「では、まずは影の糸を作る工程からじゃな。妾に続いてこう唱えよ。――闇はほどけて糸となり、影は絡まり形となる。結べ、結べ、影の糸」

 次の瞬間、エリアの手元に黒い糸が現れ、驚きを禁じ得なかった。まさかエリアの『闇はほどけて』なんとかが魔法の詠唱、ということなのだろうか。起句や主句などに分かれていないどころか、そもそも神聖語での詠唱ではなかったが、周囲の魔力が揺らいでいるため魔法では間違いないようだ。これが白狐族に伝わるという奇術、俺が知っている魔法とは全く似て非なるものだ。

「……ええと、なんだ。闇はほどけて糸となり、影は絡まり形となる。結べ、結べ、影の糸?」

 恐る恐る小さな声で唱えると、宙にゆらりと細い黒色の糸が出現した。風でどこかに飛んでいきそうで、慌てて俺は指で絡め取る。純粋な魔力で形成されているから、つるつるすべすべで不思議な感触だ。しかも朧げに霞んでいて実態を持たず、名前の通り影のような色が抜け落ちた漆黒色だ。隣で実演するエリアを真似て、俺は糸の両端を繋げて括りひとつの輪にすると、両手の人差し指と薬指を通して持つ。

「まずは中指を通し、手を捻りながら――」

 エリアの説明に従いながら、指先で影色の糸を操ってみる。やり直す。だが、さっきよりもひどく絡まる。糸は指の間でぐしゃぐしゃになり、ついには完全に結び目と化した。

 エリアが横で喉を鳴らすように笑った。

「お主、剣の扱いはあれほど器用でありながら、糸一本となると途端にこの様か」

 子供たちが無様な俺の姿に笑いを堪えているが、頭の上で元気そうにぴくぴくと動いている獣耳は正直だった。俺は観念して糸を差し出した。

「……降参だ。これは俺の領分じゃない」

 ひとりの少女が嬉々として糸を受け取り、手際よく指を動かす。さっき俺が失敗した形を、あっさりと星に仕立ててみせた。五つの頂点を結んだ、五芒星という奴だ。敗北感というよりも、素直に俺は少女を褒める。白耳のある小さな頭をくしゃくしゃと撫でると、嬉しそうに、尾がぱたぱたと揺れている。

「凄いな」

「えへへ……。でも、おねえちゃんはもっと凄いよ。初めてなのに、わたしたちより上手くなっちゃった。わたしの方がずっとセンパイなのに」

 釣られて俺がエリアを見ると、彼女は片目を瞑ってにやりと笑うと、器用に指先を動かした。くい、と軽くひねっただけで形が変わり、花弁を重ねた花輪になったかと思えば、次の瞬間には蝶のようにひらひらと羽ばたく形に変わった。影で形作られた蝶が、ふわりと宙に浮かんで見える。まるで生きているかのように羽を震わせる幻影は、遊びというより芸術の域に達していた。

 まだまだ、とエリアはより高速で影糸を舞い踊らせる。空中で漂う糸を指先で引っ掛けて変形させている。なるほど、魔力であるからこそ実際の糸よりもずっと軽く、空中でふわふわと浮かせたまま形作ることもできるのか。そして挙句の果てに作った模様を切り離し、風素で遠くへ飛ばしたり光素で輝かせたりしていた。なんだそれ、技術が高すぎて理解できない域だ。

 子供たちから学んだばかりの遊びを僅かで習得して、そのレベルを超えて、新たな技を編み出す。魔王と呼ばれるだけあるな、と改めて彼女のありえないほど高い実力を認識できた。未だに彼女は魔力を身体能力に変換するべきではなかったのではないか、と俺は思ってしまう。

「ほら、こんなものかの」

「おねえちゃん凄い! お星さまキラキラ!」

「わあ、蝶が飛んでる。ほんとの蝶みたい!」

 子供たちが歓声を上げて跳ね回る。雪明かりを反射した糸の影が庭先に揺れて、まるで石を投げ込んだ水面のようだ。

「であろう。何事も極めたければ精進あるのみ。――しかし、今日はここまでじゃ。もうすぐ本物の影が全てを覆い尽くす時間じゃ、親御さんも心配するであろう」

 その言葉に、子供たちが名残惜しそうに互いの顔を見合わせる。耳と尾がしゅんと下がるが、やがて従順に頷いた。糸の残滓は夜風にほどけ、闇へ溶けていった。彼らはそれぞれ駆け出し、それぞれの帰るべき場所へと戻っていく。おにいちゃんまたね、と振り返りざまに手を振る子供たちへ、俺は苦笑しながら手を上げて応えた。

 静けさが戻った庭先で、エリアは小さく伸びをする。

「妾らも戻るかの。ここを借りたままでは悪いからの」

「そうだな。……そもそも、この建物って誰のものなんだ?」

 俺の何気ない質問は、想定外の言葉で返される。

「亡くなった前族長ソラユキであるの。正当な後継者であるその息子は仇討ちで出奔したままゆえに、譲ることも取り壊すこともできぬようじゃ。それで子供たちの遊び場として開放しておるというわけじゃ」

「…………」

 なるほど、とその一言も俺は応えることができなかった。急に黙り込んだ俺にエリアは怪訝な顔をする。だが、俺にはその渦巻く感情を形容する言葉が見付からなかった。

 とはいえ、ひとりで思い悩んでいても事態は好転しないし、彼女に話すことで何かが変わるかもしれなかった。

「……なあ、エリア。突然なんだが、俺の仲間について話していいか?」

「うぬ、そなたが悩んでおったのはそれか。長くなりそうじゃな、歩みながらにしようぞ」

 エリアは軽やかに腰を上げ、裾を払うと俺に視線を寄越した。俺も立ち上がり、雪を踏みしめて彼女の隣に並ぶ。庭から玄関へ続く石畳には、つい先ほどまで無邪気に笑っていた子供たちの小さな足跡が、星のように刻まれていた。

 どこから話せばいいか、と悩んだが、彼女のことだから順序が多少前後しても理解してくれるだろう。俺は深く息を吸い、吐き出してから言葉を紡ぐ。

「俺には二人の仲間がいた。弓兵のエニセイと……カタナ使いのソラカゼ」

 そこで言葉を切って、胸の奥に渦巻く思いを押し出すように続ける。

「名前が同じなのは偶然じゃない。俺は、仲間のソラカゼは白狐族前族長の息子ソラカゼと同じ人物ではないかと考えているんだ……!」

 これは疑念ではない。確信だ。

 思い返すと、いくつも奇妙な点がある。彼は俺が一度も見たことがなかったカタナという異形の武器を当然のように扱い、人界には存在しない謎の抜刀剣術を振るった。歴史を感じさせる伝統衣装に、珍しい白い髪だってそうだ。

 まるで地霊族のように、魔法が少しも使えなかったというのも不可解だ。だが、今にして思えば理由は明白だ。エリアが人族に姿を変えていたように、ソラカゼもまた変化の魔法を絶えず維持していたのだろう。頭上の白い耳も、紅玉のような瞳も隠してしまえば、外見はただの人族にしか見えない。彼が「魔法は使えない」と繰り返していたのは、魔力と意識の大半をその偽装に注いでいたからに違いない。

 女神でさえ、彼が魔族であることに気付いていたとしても、黙って見逃していたのだろう。なぜなら、彼は魔族でありながら魔族に対して激しい憎悪があったのだから。実際にソラカゼは勇者の仲間として、多くの魔族を討ち、村を滅ぼしてきた。女神にとっては、いかに魔族が憎い存在であろうと、彼が他の魔族を討つ間は「敵を減らす味方」でしかなかった。

 そう考えれば全て辻褄が合う。状況を繋ぎ合わせれば答えはひとつだ。

 彼は――白狐族の前族長ソラユキの息子、ソラカゼに他ならない。

 彼の父親ソラユキが冤罪事件で病に伏して亡くなり、その仇を討つために出奔した。全ての真犯人かもしれない黒ローブの男について、彼が知っていたのかはわからない。とはいえ、少なくとも復讐のために彼は俺の仲間として多くの村を滅ぼし、多くの魔族を殺した。

 そこで俺は、唇を噛んだ。胸の奥から込み上げてくる感情に、心の整理が追い付かない。

 俺自身にとっても、魔族は故郷を滅ぼした憎悪の対象だった。敵を斬ることに躊躇いはなかった。これは人族と魔族の戦争なのだから。だが、ソラカゼは違う。彼自身が魔族であり、他の魔族を殺すというのは、同胞を手に掛けるということ。

 その事実を、魔族を統べる立場のエリアがどう受け止めるのか。だから、朝の時点でその疑念はあっても、話すことを躊躇った。

 けれど、今はもう隠しておけなかった。思わず俺は立ち止まってしまい、声を震わせながら吐き出した。

「ソラカゼはずっと同胞を斬り続けていた……! なあ、エリア。どうすればいい、いったい俺はどうすればいいんだ……」

 俺の声は終着点を失って彷徨い、どこまでも果てしない思考の坩堝へ落ちていく。吐いた息だけが白く形になって、すぐに砕けた。

 そんな俺に対して、振り返ったエリアはあっけらかんと肩を竦めた。

「既に手は打っておる」

「……手?」

「何をそれほど深刻そうに。そもそも妾を誰じゃと思っておる。エイジの仲間が白狐族先代の後継者――そなたに指摘されなくとも、それぐらい既に気付いておるわ」

 その発言は、俺にとって晴天の霹靂ほど思いがけないものだった。

「なっ、……いつからなんだ?」

「ほら、騎士団の闘技場から帰る道すがら、そなたが仲間について少し話しておったじゃろ? その折にカタナという異形の武器を使う剣士がいるとかどうとか。その瞬間に大体察したわ。心配せずとも手は打っておる。妾の騎士として堂々としておればよい」

 嘘だろ、と絶句する。彼女が言及しているのは、コズネス攻防戦より更に二週間も前のこと。アルベルト騎士団総長のオリバーと交渉を行ったその帰りの話だ。俺ですら疑念さえ持っていなかったことを、まさかそんな以前からエリアは気付いていたなんて。

 しかも、既に手を打っているだって? そこまでいくと先見の明どころじゃない。もはや未来を見透かしていたかのようだ。冬の寒さではない冷たさが背筋を撫でた。

「……その、どんな手を打っているんだ?」

 恐る恐る問い返した俺に、エリアは迷うことなく即答した。

「言えぬ」

 それだけ。余計な説明も、言い訳もなく、あまりにあっさりとした一言だった。

 以前の俺ならばここで声を荒げていたかもしれない。だが、ぐっと堪えて聞き返した。

「……どうしてなんだ? 理由を聞いてもいいか?」

「どこで誰が聞き耳を立てておるかわからぬからの。じゃが、その時が来れば自ずと理由は知れよう。今はただ妾を信じよ」

 エリアは微笑みながら、いつもの調子で言った。まるで深刻な話をしているとは思えない軽さだ。だが、その赤い瞳は冗談を含んでいなかった。

 彼女がこう言うのならば、俺の知らないところで何かが起こっていて、まだそれを俺が知ってはいけないのだろう。それで素直に納得できるほど、俺はエリアを信頼していた。

 だから、この話は終わりだ。胸の中に渦巻いていた影の糸をぱっと解けさせて、俺はエリアの隣に並び立つ。

「信じるよ。帰ろう」

 俺とエリアは揃って帰路へ戻った。思い悩みながら歩いていたことで気付かなかったのだが、宿泊用の建物はもう近くにあった。昼間にも雪がはらりと降ったらしい。ぎゅっぎゅっと白い絨毯を踏みしめて来客用の建物を目指す。

 コートに付着していた雪を払い落とし、建物の中へ入る。温かい。エリアがほっと息を吐いた。入口の一段下がった狭い空間でブーツを脱いでから、俺とエリアは奥の部屋に向かう。

 この建物は広すぎる。かつては多くの旅人や商人を迎えていたのだろうが、今は三人しか客人がいないため、余った部屋ばかりが目立つ寂しい空間だ。薄暗い廊下は建物の孤独を主張していた。

 そんな中で、俺たちが借りている部屋だけは闇を斬り裂くように明るかった。四隅には、紙と木枠で囲っただけの素朴な照明が置かれ、柔らかな光を放っている。部屋を二等分するように片側には、あの頼りない寝具が整えられて三つ床にそのまま敷かれていた。残りのもう片側には、先に戻っていたらしいファイドルがくつろいでいる。彼は魔法が使えないし、寝具をきちんと整えるような性格でもない。おそらく、誰かが先に部屋へ入り、灯りをともして寝具を整えてくれたのだろう。防犯の面では感心しないが、盗まれるほどの物は何もないので問題はないし、逆に就寝の準備をしてくれているのは有難いことだった。

 ファイドルは肩の力を抜き、ゆったりとした様子で俺たちを見上げる。

「よう、帰ってきたか。俺もちょうど戻ったところだ」

 むわりと湯の匂いが鼻を撫でる。彼は俺たちが帰ってくる直前に、どうやら風呂へ行っていたらしく、身体から湯気を立ち昇らせていた。髪はしっとりと濡れ、肌は火照っている。

「で、どうだったんだ。カザヌキの嬢ちゃんに出された課題は問題ないか?」

「手応えはあるんだが、どうにもな……。本当にこれで正しいのか、って疑問が常に聞こえるぐらいだ」

「頑張れよ、小僧」

 あっさりした声。湯上がりの髪からまだ細い蒸気が立ち、首の手拭いが僅かに揺れた。

「他人事だな」

「そりゃそうだろ。俺はお前らの同盟相手ではあるが、その旗を持つ盟主は小僧らだ。お前ら自身が相手と交渉し、少しずつ味方にしていくことに意味がある。もしそれで通用しないのならば、お前らの限界はその程度ってことだ。こうやって同行しているだけでも有難く思え」

 それはその通りだ。ファイドルが魔王エリアに恩義があったとしても、俺たちの交渉を助ける義理なんてない。納得できるからこそ、俺は何も反論しなかった。

 それにしても、胡坐でくつろいでいるファイドルの身体から、温泉の匂いに混じって爽やかな草の香りも感じる。どうやら露天の風呂に薬草が入っていたのだろう。若者たちとの連戦でかなり疲れている俺は、今日ぐらいは長風呂にしてもいいかもしれないと思った。

 俺が鼻をひくつかせていると、薄い紙戸の向こう側から声が聞こえた。小鳥が囀るような凛とした声だ。

「失礼いたします。お食事をお持ちしました」

 俺とファイドルは揃って目を見開いた。敵がいないからこそ警戒を解いていたとしても、ここまで近付かれても気付かなかったなんて滅多にないことだ。

 紙戸が静かに開かれて、狐面を顔に付けた少女が入ってくる。俺たちをこの村まで案内した導き手――確かスズナという名前だった少女だ。彼女は寝具が敷かれていない部屋の片側に小さな机のようなものを三つ運び入れた。膝の高さほどしかなく、まるで子供が使うような机を、彼女は向かい合うように並べた。唖然としている俺をよそに、狐面の少女は無駄のない動きで、その上に木の盆を置いた。

 エリアがまず動いた。ファイドルも続いて動く。俺は二人を真似するように、敷物を小さな机の前へ据えてそこに座った。見ると、木の盆には五つの器が乗せられていて、湯気と共に広がる美味しそうな香りが鼻孔を刺激した。腹がぐうっと鳴るが、俺はひとり首を傾げる。

「ええと、これはなんだ?」

 俺が訳もわからず尋ねると、スズナは白い両耳をぴこぴこと動かしながら、右手で料理を指し示した。

「では、右から順に。冬野菜と茸類の天麩羅、里芋と蒟蒻の煮物、根菜の漬物です。温かいうちにどうぞ」

「いや、そうじゃなくて……」

「一汁三菜は初めてでしょうか。こちらは味噌という大豆を発酵させた伝統調味料のスープです」

「そうでもなくて……」

「ああ、こちらですね。これは箸という食事をするための道具です。不慣れかと思います。もしご入用ならフォークやスプーンをお持ちいたしますので、お気軽にお呼び出しください」

 俺が抱いていた疑問はいっさい解消されないまま、スズナは膝を擦りながら後ろへ下がり、紙戸が外から静かに閉められた。狐面に隠れて視線を読むことはできないが、最後まで俺を見なかった気がする。まだ信頼は得られていない事実が態度に現れていた。とはいえ、対応は丁寧なもので礼を欠いてはおらず、あやふやな位置だった。

 それよりも、と俺が思考を戻して巡らせていると、ファイドルが苦笑した。

「小僧が気になっているのは、なぜ食事が提供されたのかだろ?」

「……ああ」

 確かに、今夜の夕飯を考えていなかったのは俺の落ち度だ。昨夜はいろいろあって最終的に何も食べず就寝して、今日の昼はリオウたち村の若者からオニギリをご馳走になった。そして今夜は、どうしてか俺は何もしていないのに、こうして食事が眼前に並んでいる。

 ファイドルは肩を竦めた。

「俺らは客人だろうが。信用がどうとかの以前として、客人にぞんざいな対応をしてしまえばそれこそ村の信用に関わる話だ。俺とエリア嬢ちゃんもそれぞれ出先で飯を振る舞ってもらったからな」

「そうだったのか?」

「細かいことは気にするな。相手の善意に感謝して、さっさと食え」

「……わかった。ありがたくいただこう」

 そうは言うが、俺にとってそれは不慣れな食事だ。スズナが説明していた食事をするためのハシという道具、二本の細く短い棒のようなもので、様々な文化圏を回ったことがある俺でも初めて見るものだ。しかし、エリアとファイドルは当然のように右手でそれを掴むと、器用な動作で漬物を挟んで掴んだりしている。二人は以前に白狐族と関わりがあったから知見があるとわかっていても、少しだけ疎外感があった。

 俺はしばし二人の様子を観察してから、ハシの扱いに挑戦してみた。エリアは何も言わないが、まるで俺に手本を見せるようにゆっくりと動かしてくれていたから、理屈を理解するのは簡単だった。複雑な動きに見えるが、なにも二本の棒を同時に動かしているわけではないようだ。柄のない短い双剣、と脳裏で置き換える。一本は鞘のように支え、もう一本だけを刃として動かす。そう意識して、俺はハシをしっかりと握る。木肌は乾いてつるりとしているが、滑るほどではない。親指と薬指で下の一本を固定し、人差し指と中指で上の一本を押し引きする。

「……こうか?」

「うぬ、よいではないか」

 エリアが目を細めて笑った。

 まだまだ不格好だが、初めての挑戦でも問題なく動かせた。影あやとりは無様な姿を見せてしまったが、このハシだと問題ないようだ。どうやら俺は剣のように棒状の扱いには長けているらしい。俺はテンプラと呼ばれた黄色いふわふわしたものを最初の標的に選んだ。

 ゆっくり、ゆっくり。呼吸を止めて、ハシの上側だけをゆっくりと触れさせる。二本の影が重なり、金色の物体を掴んだ。ふうっと溜息が出るが、残念ながら難しいのはここからだ。落とさないように指先へ力を込めていく。ぷるぷると震えながら時間を掛けてなんとか口元まで運んで、ひとくち齧ってみた。

 さくり、と歯が通ってから、その後に柔らかい感触。どうやら種類は揚げ物のようで、食材の周りにふわふわとした衣があるようだ。衣が唇で小さく割れて、粉雪みたいな欠片が舌に散った。油の香りは重くなく、遅れて茸の匂いが立つ。噛むと、音は軽いのに中はしっとりしていて、苦味の手前で小さな甘みがひそんでいる。中身は茸類のようだ。にんにくと炒められたものをいつも食べているが、テンプラだとその苦みが衣の甘さを引き立てて、より美味しく感じた。更に添えられている塩を少し付けてみると、そこにしょっぱさが合わさって、派手ではないのに複雑な味が楽しめる。

 美味しい。とても美味しかった。だが、問題があった。

 ハシの扱いが上手くないせいで、ひとくちが途方もなく遅い。ファイドルは既に半分もの量の米を胃袋に掻き込んでいた。対する俺は、テンプラをひとかけ運ぶのに、いちいち呼吸を整えねばならない始末だ。焦ると、ハシの先が器の縁をこつりと鳴らす。その小さな音がやけに大きく部屋に響いて、俺の緊張を助長させた。

 少しずつしか進まない。

 フォークやスプーンと違って、二本の棒で掴めるのは、ほんの小さな欠片ばかりだ。強く挟み過ぎれば砕け、緩めれば滑っていくだろう。さっきのスズナの態度が、ふいに脳裏に浮かんだ。狐面の白が、紙戸の影に溶けていくあの背中。礼は行き届いているのに、最後まで俺の方を見ようとしなかった気配。面の奥でどんな表情をしていたのか、想像すら届かない距離。あれが、この村の俺への視線の温度だ。信頼を得るのは簡単に見えて難しい。けれど、難しく見えて簡単であったりもするのだろう。だが、どちらにしても少しずつしか進まないし、俺たちにとってスズナは村の中で身近にいる存在だが、彼女の殻はアダマントのように硬そうでもあった。

 俺はこの後に待ち構えている長い道のりを想像して、とびきり大きな溜息を吐いたのだった。


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