79 温泉9670
かぽーん、と間の抜けたような音が響く。
音の出所は、ちょうど大きな岩で死角になっている場所に仕掛けられた、竹で組まれた奇妙な装置だった。青竹の一方に水が流れ込み、やがてその重みに耐えられなくなった竹が勢いよく傾いて、地面に当たって痛快な音を発生させる。水が全て零れ落ちると竹はまた元の位置に戻り、再び水を溜め――一定の間隔で同じ動作を繰り返していた。
この広い浴場へ入ってきたばかりの俺は、その聞き慣れない音が何者かの襲撃かと身構えて、思わず宵闇の剣を収納魔法から取り出して、ファイドルに笑われてしまった。音の発生源である竹の装置を発見して、ようやく俺は警戒を解いて風呂に浸かることができた。
かぽーん、とまた澄んだ音が鼓膜を震わす。
「面白い音だろう? 鹿威しって奴だ。今ではその音を楽しむための装飾程度にしか扱われてないが、もとは田畑を荒らそうとする鹿などの鳥獣を追い払うための装置だったらしいな」
「へえ。鹿を脅かすから、鹿威しなのか。面白いな」
俺は音の余韻を楽しみながら、身体を湯に預けていく。優しい熱が全身を包み、冷え切った手足の芯まで温めていく。肩まで沈み込むと、暫く俺を苦しませていた緊張がようやく和らいでいくような気がした。
かぽーん、とまた音が響き、湯面に小さな波紋が揺れる。雪に包まれた静かな夜だからこそ、その趣深い音はひときわ鮮やかに響いた。
俺が静かにくつろいでいると、湯面から立ちのぼる白い靄の奥でファイドルが呆れたような声を出した。
「しかしまあ、奇妙な縁だな。小僧と三度も裸の付き合いをすることになるとは、俺も予想していなかった。ここまでくると重要な話を切り出そうにも特別感が全くないな」
「同感だ」
彼の呆れ声に釣られて俺も溜息が付いてしまった。彼と風呂を共にするのは、これで三度目だ。最初は鍛冶の街コズネスで、二度目は地霊族の村で。一度でも裸の付き合いをすれば胸襟開ける相手だというが、三度目ともなるファイドルと俺の関係はいったいどのようなものになったのだろう。歳の差は二十を越えているから親友、でもないし、戦友といったところか。微妙に違う気もするが。
「そういや小僧。左腕の傷は治ったのか? ちょいと見せてみろ」
「ああ、そうだったな」
忘れていたわけではない。加護を失った状態でホーンウルフと交戦して、結果こっぴどくやられて左腕全域に重度の火傷を負ったのは苦い記憶だ。それから十日ほど、定期的に包帯を巻き直していたのだから、その怪我を忘れていたというわけではなかった。
しかし、応急処置や塗り薬などの治療、そして最初に包帯を巻いてくれたのはファイドルであり、それから彼とこの話をするのはこれが初めてであるのだった。最近はそれぞれの役目で忙しく、話をする機会があまりなかったのである。
俺は腰を上げてよく場の縁に座り、湿った包帯を解いていく。ほとんど毎日新しいものに替えてきたため、布は清潔そのものだった。
最後の一巻きを外すして俺の素肌が現れると、ファイドルが感嘆したように呻いた。
「凄いな。あんなに黒焦げだったのに、もう綺麗な肌じゃないか。まだ三週間弱しか経ってないだろ? ……いや、地下世界だと時間経過が違うとかで、さらに一週間短けえのか。どちらにせよ、やっぱり常人じゃねえ回復速度だな」
「そうか? まあ、加護のおかげだな」
冒険者にとって喉から手が出るほど渇望される治癒魔法は、転移魔法と同じく古の大戦とやらで失われた魔法のひとつだ。怪我や病気の回復は、もちろん補填魔法など補助してくれる魔法もあるにはあるが、ほとんど各々の身体に備わる自然治癒力に委ねられる。だからこそ、火傷のような大きな損傷は、それだけでも命取りになりかねない。……普通ならば。
俺が普通ではないのは、もっぱら加護のおかげだ。今は与えてくれている相手が女神から原初の魔王ヴェルゼに代わっているが、それによって得られる恩恵は身体能力の強化、五感と気配察知力の強化、最大魔力量の上昇など主に戦闘面で多岐に渡り、加えて高威力な特殊剣技が使えたりと至り尽くせりである。なかでも身体の丈夫さと自然治癒力に関しては驚くレベルにあり、風邪などの病に罹ることは絶対になく、小さな切り傷だと下手すれば数刻で跡形もなく消えるのだ。
ということで、黒焦げになっていたはずの左腕全域の皮膚は滑らかに再生しており、赤みも痕も残っていない。あの時の脳が焼き切れるような激痛が幻だったかのように、俺の左腕は元通りになっていた。もう包帯は必要なさそうだな、と判断して収納魔法に落としながら、俺はファイドルに向き直った。
「今更だが、改めてありがとう。ファイドル、あんたがいなければ俺はあの瞬間で死んでいたし、それに秘伝の塗り薬とやらも使ってくれて。こうして傷ひとつないのは、その効果もあるかもしれないな。本当に助かった」
「なんだ、水臭い。礼を言われるほどのもんじゃねえよ」
そこでファイドルは気恥ずかしさを誤魔化すように、小さく咳払いをした。
「しかし、それでも妙だな。加護のおかげだと言えばそれまでだが、明らかに小僧の回復力は常軌を逸してる。戦闘系の加護は同じだとすると、人族の小僧よりも身体が丈夫な地霊族である俺の方が、本来なら一段と治癒力に長けているはずなんだがな。この様子だと小僧の回復力の方が優れているようだ。それも尋常じゃない差で」
「……そうなのか?」
あまり実感はなかった。周囲に比較する対象がいなかったため、全て加護のおかげだと割り切っていたのだが。同じ加護持ちであるファイドルが妙だと言うのなら、本当に何か妙なのだろう。
「ああ。もしかすると加護うんぬんの問題ではなく、小僧の性質が何か特殊なのかもしれないな。思い返したら、地霊族秘伝の塗り薬も普通だと人族には合わず逆に猛毒になるぐらいなのに、小僧には効いたからな」
猛毒になるかもしれないものを俺に使ったのか、と思ったが、それも仕方がなかったことだろう。彼ら地霊族は魔法の適性が全くなく、簡単な補填魔法でさえ使えないのだから、緊急の際は塗り薬しか頼れるものはないのだ。俺が重症なのを見て、その地霊族秘伝の塗り薬を咄嗟に使ってくれたことに感謝することはあれ、文句を付けることは絶対にない。
とにかく、ファイドルによると俺の性質がもともと他人とは違うかもしれないらしい。気にしたことなかったな。故郷が滅ぼされた八年前までは、普通の村の子供として普通に生活してきたため、そんなこと考えたこともなかった。確かに加護を持つ前も風邪や熱に罹った覚えがないなとは思うが、それぐらいだ。
とはいえ、それを気にしたところで何かが変わるわけではなかった。ファイドルもこの件に関して特段感じることがあるわけではないようで、そこで会話が自然に途切れた。
ひらひらと夜空から落ちてくる粉雪が水面に触れて、静かに消えていく。かぽーん、と間の抜けた音が時の流れを感じさせた。
少しの間そうしていただろうか。俺が下半身浴しながら左手を握ったり開いたりしていると、ファイドルが苦笑した。
「そわそわしているようだな。そんなにエリア嬢ちゃんが心配か?」
突拍子もない名前に不意を突かれて、開閉を繰り返していた俺の掌がぴたりと止まった。
「そうか? ……いや、そうだな」
改めて自分を客観視して、彼の指摘が正しいと悟る。俺はどうやらそわそわしていたらしい。自覚もしていなかった内心を簡単に見抜かれるぐらいに、俺の態度はわかりやすかったようだ。
「やはりあの黒ローブの男を警戒しているのか?」
「……ああ」
言い当てられて複雑だが、素直に頷いた。
黒ローブの男。十日ほど前、エリアが元老院に拘束されてあわや処刑されそうになった事件の元凶となる存在。それどころか魔王の騎士クルーガの呪い問題、ひいては白狐族族長カザヌキが苦悩していた八年前の内戦の発端となった先代魔王暗殺でさえも、その男が関与している可能性が高い。
魔王城の中庭で会戦した際に、一手届かず取り逃がしてしまったのが悔やまれる。
エリアの協力もあって氷結魔法で確保できたと思ったのだが、何らかの手段で黒ローブの男は必中の攻撃から逃れたらしい。
あれから男の接触はなかったのだが、しかし、それからというものの何者かの視線をどこからか頻繁に感じていた。敵意はないが、こちらを探るような気味が悪い視線で、明らかに状況からしてエリアを狙っているのは確実だった。
だからこそ、魔王城に滞在していた一週間、俺は常にエリアの側で彼女を護衛していたのだ。睡眠時間はもちろんのこと、入浴中の時間でさえ扉を一枚挟んでいつ襲撃があってもいいように備えていた。
彼女は心配のしすぎだところころ笑っているが、俺としては敵対勢力があるとわかっていて安心できる要素が全くない。もう俺がいない瞬間に不測の事態があれば、俺は激しい自責の念に駆られるだろう。そんなわけで、ずっと彼女の護衛として常に周囲を警戒していたわけだが――
「だが、今は緊張を解いてリラックスしたらどうなんだ? 小僧だけじゃねえ、俺も警戒していたから断言できるが、俺たちの跡を付けている奴はいねえ。さすがにこの村へ入ってくることはねえだろ。だから安心しろや」
「……わかっている。わかってるんだ」
魔王城を出てから四日間の道中、何度も背後を振り返って敵影がないと確認したり、単独行動で一人離れて他人の痕跡がないのか捜索したりもしていた。そのおかげで、ここまで何者かに尾行されている心配はなかった。
そのため、エリアはこの村にいる間だけ俺の護衛は必要ないと言い出し、それに納得した俺はこうしてファイドルと風呂を共にしているわけだ。確かにこのタイミングは久しぶりにリラックスできる時間のはずだった。
「けれどもやはり気持ちが逸ってしまう」
ファイドルに指摘されるまで自覚はしていなかった。だが、自覚してしまうと胸の奥で燻っていた焦燥感は首をもたげて、徐々に強く存在感を主張してくる。
始めて鹿威しの音を聞いた時、思わず宵闇の剣を抜刀してしまったのは、その危機感の裏返しなのかもしれない。俺の知らない場所でエリアが危殆に瀕しているのではないかと。杞憂ならばいいが、その不安は着実に俺を蝕んでいた。
おかしなことだ。俺はエリアが出会ってから、まだ二ヶ月も経っていない。別行動していた時間だって長かったはずなのにも関わらず、気付けば俺の日常は彼女がいることを前提に形作られていた。
ファイドルはそんな俺の様子を見て、やれやれと肩を竦めた。
「小僧も本当に頭が固いな。仕方がない。エリア嬢ちゃんが心配なんだろ、小僧は先に戻れ」
ファイドルは呆れ半分といった様子だが、残り半分に気遣いの色が滲んでいた。胸の奥に残っていたわだかまりが、少しだけ和らいだ。
エリアもこの温泉に隣接する女湯へ行っていたはずだが、気配はもう感じられない。俺とファイドルが会話をしている間に、一足先に宿へ戻ったのだろう。ファイドルもそう考えて俺に提案してくれていた。
「……いいのか?」
「ああ。俺はまだ暫く温泉を楽しんでから戻る。ここは俺にとって忘れられない場所だからな」
「助かる」
俺は感謝を述べると、立ち上がり踵を返して更衣場へと向かう。
雪がひらひら舞う外気はことさらに寒いが、俺は風邪を引こうにも引けない体質だ。とはいえ、極度の低温が得意なわけではないので、珍しく熱素を混ぜて温かくした風素で身体を乾かす。ふと、魔法が使えないファイドルは不便だなと思ったが、彼は普通にタオルを使って拭くのだろう。
脱衣場で手短に服を着る。あの小火龍の皮で作成された戦闘衣ではなく、普段使いとして利用するためにわざわざ用意したものだ。四年間の旅では野営がほとんどだったので戦闘衣そのままで寝ることが普通だったが、着替えを用意しろとのエリアの勧めに従った。生地が柔らかく、身体を護ってくれなさそうな頼りなさが心細い。
脱衣場から出て、この村で暫く滞在する寝床へ歩みを進める。雪はまだしんしんと降り続き、足元の積雪を淡く白く染めている。温泉は村の外れにあったため、灯りは空高くで見下ろしている月の光しかないが、足元が問題なく見えるぐらいには明るく全てを銀色に照らしていた。
月明りに導かれて道に迷うことはなかったが、静寂の中にひっそりと佇む建物の影が見えてきた時は、自然と足取りが速くなった。
近付くにつれて屋根の上に積もった雪がぼんやりと光を反射し、趣きある光景を形作っていた。入口の木戸は年月を経ているが、古びた様子が逆に温もりを与えている。突き出た屋根の下まで到着すると、俺は身体に付着していた雪を風素で吹き飛ばしてから、ゆっくりと扉を押し開けた。
段差になっている場所で靴を脱いだ。床板の冷たさが直接に伝わってやはり慣れない。並べて置いてある一対の小柄なブーツを見るに、思っていた通りエリアは既に帰っていたらしい。
俺たちが滞在する場所としてあてがわれたこの建物は、元々は来客が宿泊するために用意されていたものだという。そうなると外の世界と関係を断っていたこの八年間は放置されていたはずだが、誰かがこまめに掃除をして管理していたのか、埃ひとつない。いつかここに迎える客人を期待していたのだろうか。
廊下を進んで、仕切られた紙戸の前で俺は立ち止まった。その向こうにエリアの気配を感じ、ほっと息を吐いた。やはり杞憂だったが、こればかりは仕方がないのだ。俺は肩の力を抜きながら、紙戸を横に滑らし開く。
暗い部屋の反対側にいたエリアが振り向く。
「やっと戻ってきたか。遅いのではないか、エイジ」
「エリアが早すぎるんじゃないのか? ちゃんと浸かったのか?」
彼女はころころと笑った。
「髪まできちんと洗っておるぐらいじゃ。まあ、魔王城でも毎日風呂には使っておったからの、ここまで来てあえて長湯する必要はないであろう」
「確かにな」
同意を示しながら、俺はエリアの元へと向かう。部屋の外へ続くように伸びた木の板の上に、彼女は腰を掛けていた。見慣れない造りで、室内とも外とも断定できない場所だ。普通に足を下ろしても地面に届くことはない高さであるため、冷たい雪に触れる心配は必要ない。部屋から庭を眺めるための場所なのだろうか、面白い文化だなと思いながら、俺はエリアの隣に座った。
明るい月明りが彼女の横顔を明らかにする。濡れた髪が艶やかで、いかにも温泉帰りらしく頬に赤みが差していた。服装は見慣れないものだ。色はエリアの好みらしい深い藍色であるが、それはカザヌキが来ていた豪奢な伝統衣装を思い出させながらも、余分な飾りを削ぎ落としたような落ち着きがあった。
「似合うな」
俺は感性が乏しいようで気の利いた言葉は出なかったが、エリアは満更でもないように微笑んだ。
「ふふ、そうであろう。妾に合わせて用意されたようじゃからの。エイジのものもあるぞ、着替えてみるか?」
エリアは部屋の片隅に置かれている、畳まれた黒い布を指し示した。残念ながら、俺には着替えるつもりはなかった。今の服装でさえ頼りなさを感じているのに、知らない文化の服装は流石に受け入れがたい。逆にエリアやファイドルが白狐族の文化に慣れている様子が俺を驚かせるほどだ。遥か昔に滞在したことがあるからなのはわかるが、いくらなんでも慣れ過ぎである。
「悪いが……遠慮する」
言葉を濁した俺に、エリアは少し唇を尖らせた。
「そうか。妾としては並んで座って眺める景色も、衣の調和があればなお映えると思ったのじゃが」
「……俺に似合うとは限らないだろ」
即答すると、エリアはそんな俺の発言を予想していたのか苦笑した。
「相変わらずじゃのう。まあよい、気が向いた時にでも試してみるとよかろう」
「そうだな。一度ぐらいは着てみてもいいかもしれない」
そこでどちらからともなく言葉の往来を留め、俺とエリアは揃って庭に視線を向けた。
月明りが差し込む舞台に、白い雪がさらさらと降り続けていた。風はほとんどなく、雪片は躍ることなく落ちるだけである。静けさの中、遠くの森で枝が重みに耐えかねて折れる音がかすかに響いた。冬は既に到来している。このまま一週間や二週間も滞在していると、降り積もった雪で道が閉ざされて、次の目的地へ向かうことができなくなるかもしれない。あまり悠長なことはできなさそうだった。
ただ、今だけは穏やかにこの時を過ごしたかった。
俺がただ無言でその光景を眺めていると、やがて隣に座るエリアがぽつりと呟いた。
「……信用を得るのは、難しいものじゃな」
それはただ単に事実を述べているというよりも、経験に基づいた言葉なのだろう。どこか得も言われぬ深みがあった。
彼女は瞳を閉じて、過去を回想しながら独白する。
「八年前、父親が暗殺され妾は幼くして魔王の座を継がねばならぬかった。もちろん当時の妾もそれなりの実力者であったと自負しておるが、幼き妾を侮る者は多かった。魔王に相応しくない、と何度言われたことか。彼らから実力を認められ、信用を得るのは難しかった」
そこでエリアは一拍置いた。
月の光を映した横顔は、どこか遠いところを見詰めていて、触れることさえ躊躇わせる儚さがあった。
「のう、エイジ。そなたはどのように村の民から信用を得る算段じゃ? 彼らは八年間も硬い殻に籠もっておった。信用を得るのは一筋縄ではいかぬであろうよ」
「それは……」
何も考えていなかったわけではなかった。だが、彼女からすると何も考えていないのと同義だった。俺は四年間の旅で培った経験があったとしても、生来から交渉というものが苦手だ。だから、カザヌキに「まずは村の者たちの信を得てください」と言われ、俺は地道に真摯に一人ずつ向き合って信頼を得るつもりだったが、それはいま考えることを放棄しているようなものである。
とはいえ、剣を振るうことや戦場で立つことはできても、エリアと違って人の心を掴む手管など俺にはない。どうすればよいのか答えを持ち合わせていなかった。
俺がなんと答えるべきか考えていると、エリアはおもむろにこちらを見た。
「確かに今回ばかりは時間を掛けて真摯に向き合うのが最善であろう。しかし、カザヌキ殿から定められた期限は二日後、のんびりできぬであろう。ゆえに妾が少し手解きをしてやってもよい」
「いいのか? なら、頼む。俺にできることがあるなら、どんなことでも学ぶ」
言葉に偽りはなかった。勝つためではなく、信を得るために、俺は彼女の力を借りたいと心から思った。エリアは大仰に頷くと、三本指を立てた。
「何か物事を成し遂げたい時、大切なのはいくつか段階に分けることじゃ。今回で言えば、信頼を得る必要がある白狐族の民は三つに分けることができる。さて、何であろうか」
エリアの瞳は、月光に照らされながらも揺るぎなく俺を射抜いていた。問いかけというより、試されているような感覚に背筋が伸びる。俺は高速で思考を巡らせるが、これだと思う答えは見付からなかった。
「族長カザヌキ、村の有力者……後はすまん、わからない」
「いい線ではあるがの。答えは子供、若者、長老じゃ。順番に考えていこうぞ。子供は自分で判断する力が乏しく、周りに流されやすい。ゆえに一度でも一緒に遊べば心を開いてくれるかもしれぬが、大人がそなたを嫌えば、その影響を受けてしまう。長老は全員が八年前の内戦を生き延びた者どもで、性質は保守的、裏切られた傷もまだ癒えてはおらぬ。彼らの信を得るのは難しかろう。だが若者は違う。内戦を知らぬ者も多く、また長く外の世界を断ってきた現状に不満を抱いておる。もし彼らがそなたを受け入れれば、自然と子供らも後に続こうぞ」
エリアの説明は簡潔で筋が通っていた。三つに分けて整理したことで現状が掴みやすくなり、課題も浮き彫りになる
「なるほど。つまり、効率的に信用を得たければ、まずは若者から取っ掛かればいいということだな」
「そうゆうことじゃの。しかし、効率ばかりを求めれば、手を抜こうとする気配は必ず相手に伝わる。ゆえに最初そなたが考えていたように、真摯に向き合う姿勢も忘れてはならぬ。大切なのは、誠意を持って真摯に向き合うことと、効率を意識して行動することの両立じゃ。どちらかに偏れば相手に伝わらぬが、両方を組み合わせれば自然と民の信頼は得られるであろう」
「ふむ、難しいが意識してみるよ」
俺が頷くと、エリアは柔らかく微笑んだ。その笑顔に、今までの緊張が少しだけ和らぐ。
「よかろう。さて……もう遅い時間じゃ。そろそろ休むとしよう」
「そうだな」
庭に突き出た木の板から揃って立ち上がり、部屋に戻る。外と中を隔てるための仕切りをエリアが閉めると、あんなに明るかった月光は僅かに残る程度になった。既に温泉で温まっていた身体は外気で冷まされていたが、加護で強化された身体は風邪を知らない。エリアも同じく寒がっている様子はないので、部屋の空気を暖める必要はないだろう。
部屋の中央に広げられている布の塊が寝具らしい。三対あったそのひとつにエリアが腰を下ろしたので、俺はその隣に座って上掛け布の中に身体を潜り込ませる。俺にとって、床に直接身体を横たえるのはこれが初めての体験だった。薄い布の上に身体を預ける感覚は頼りなく、背中や腰に違和感が残る。
ファイドルはまだ帰ってきていないようだ。彼の寝床はがらんどうである。ファイドルは先ほどの温泉を忘れられない場所と形容していたが、それは彼の親友だったという先代の白狐族族長と何か関係があるのだろうか。かなり遅いので少し心配になったが、俺を越える実力者なので問題はないだろう。心配しなくても帰ってくるはずだ。
慣れない寝心地の硬さに俺が身体を横に向けると、ちょうどエリアもこっちを向いていたようで、視線が交わった。
「……寝心地はどうじゃ」
エリアが静かに問う。
「慣れないな。こうして寝るのは初めてで」
俺が答えると、エリアはくすくすと笑った。そもそも同じ部屋でファイドルも含め三人で寝るのは少し奇妙な話だが、野営やらなんやらで寝床を共にしている回数は多いので、今更な話だった。
それでも寝転んだ状態で向かい合うのは面映ゆいので、俺は身体を仰向けにする。しんと静まり返った世界に、外の雪が微かに屋根に当たる音だけがかすかに響いた。被った布の中で体温が蓄積されていき、やがて心地よい温度となる。エリアはまだ寝ていないようなので、俺は小さな声で言った。
「明日からは、少しずつ若者たちと接してみるつもりだ」
「うむ。それでよい。焦らず、だが確実にな」
俺とエリアはそこから少し言葉を交わしていた。転移魔法のこと、騎士団のこと、積雪量のこと。話したいことは多くあるし、話さなければならないことも多くある。しかし、次第に眠気が足元から這い上がってくる。俺はやはり寝なくても活動し続けることができる特別な体質なのだが、女神から加護を奪われてから常に移り変わる状況に翻弄されていたため、この時が初めて完全に緊張を解くことができる瞬間なのだ。信頼どうこうの話はあっても、黒ローブの脅威がないだけで意識を手放す理由になる。
「……おやすみ、エイジ」
隣から聞こえた声に、おやすみと返したことを最後に、俺は眠りへ落ちていく。
現実は遥か彼方へ遠ざかり、とりとめのない思考は夢となる。
かぽーん、とどこかで間抜けた音が響いたような気がした。




