77 白狐族の村5466
「大変お待ちしておりました、十二代目霹靂の魔王エリアさま」
少女が深々と頭を下げた。表情こそ隠れて見えないが、かなり丁寧な態度だ。
「そちらのお二方は、同行者でしょうか?」
小鳥のように細い声でそう尋ねると、狐面の少女はおもむろにこちらを向いた。まずはファイドルを、そして次に俺をじっと見詰める。面の奥にある赤い瞳に俺の姿が映り込んだ。
まるで泣いているようにも見える怪しげな狐の面は、見ていると吸い込まれそうな感覚がする。思わず視線を逸らしたくなるが、その衝動をぐっと堪える。
何も言わないまま、雪のように白い静寂が数秒、間を支配した。
やがて、少女はほんの僅かに面を傾け、口を開いた。
「一方は地霊族の……そして、もう一方は……」
そこで俺の背丈の半分ほどしかない少女は言い淀んだ。かすかに口元が震えるばかりで続かない。だが、彼女が何を言おうとしていたのか、不思議と俺には理解できた。
人族――本来ならば敵。
やはりここでも元勇者という肩書きが足を引っ張るのか。元老院を相手にした時もそうだった。俺が多くの魔族を殺してきた七代目勇者だったということで、いらぬ疑念を抱かせてしまう。過去を消すことはできないと覚悟していたけれど、こうして再び同じ状況になることで、その重さを再認識した。
その言葉を出すことに、少女は心の葛藤を見せたようだった。けれど、すぐに言葉を飲み込み、わずかに俯く。
「……いえ、わたしがとやかく言うべきではありません」
ぽつりと、そう呟くように言った後、少女は短く息を吸い込み、姿勢を正した。
「村までご案内します。……付いて来てください」
言い終えると同時に、狐面の少女は踵を返し、雪の中を滑るように歩き出した。
俺たちは自然とその背に続いた。
少女の歩みは小さいが、驚くほど一定で迷いがなかった。白銀の髪が足元の灯りに淡く照らされ、闇の中で浮かび上がっている。左手に携えた鈴はまだ音を立てず、静かに揺れるだけだった。
足元を照らすのは月明りだけ。加護が復活したおかげで暗視には問題ないが、一歩を踏み出すのがより慎重になったのは当然だ。
「なあ、彼女は誰なんだ?」
俺は小声で隣を歩くエリアに聞いた。密かに他人の話をするのは礼儀知らずなことだが、こればかりは仕方がない。エリアは目線を少女に向けたまま答える。
「彼女は導き手。白狐族の村へ案内できる唯一の人物らしいの」
「なるほどな」
俺は頷く。ファイドルは黙って俺たちの後方を歩いていた。いまだに彼がいつも何を考えているのかわからないものだ。
森の奥へと進むにつれて、周囲の空気がどこか変わっていくのを感じた。冷たいのに、冷たさだけではない。肌に触れる感覚そのものが、ほんの少しずつ重たく、濃密になっていく。
やがて、雪をかぶった木々の間に、朱色に染まった奇妙な構造物が見えてきた。
「なんだ、あれは……?」
思わず呟いた俺の声に、ファイドルも目を細めた。
それは、森の中にぽつんと立っていた。
赤黒く風化した二本の柱と、横に渡された木の板。それだけの構造物なのに、なぜか圧倒されるような気配があった。門のようでいて、扉も柵もない。ただそこをくぐるだけの形。まるで目に見えない結界の縁にでも立たされたかのような感覚がする。
少女は何も言わず、そのまま門をくぐった。
俺とエリアは顔を見合わせて、それからその背中を追って、続いて門をくぐる。
その刹那。少女が左手をゆっくりと持ち上げ——しゃらん、と。
眼前で、初めて鈴が鳴らされる。
それは最初のときと同じように、細く、美しく、耳の奥をくすぐるように響いた。だが今回はそれが長く尾を引く。余韻が空気を震わせ、景色を滲ませるように漂っていた。
同時にやはり、俺の視界がふっと、薄い幕を通したように歪んだ。先ほどまで星空が広がっていたはずの空は、紺碧一色で塗り潰され、白い雪が陽光を眩しいくらいに反射していた。
「……どういうことだ?」
時の流れそのものが切り替わったかのような感覚。
背後を振り返ると、もうそこには赤い門がなかった。ただの雪景色が広がるばかり。まるで、くぐったその瞬間に後ろの世界が断ち切られたかのようだった。
少女は振り返らない。黙ったまま歩みを進める。
その先にはまたもや赤い門があった。
彼女に続いてそれをくぐろうとする瞬間、――しゃらん、と再び音が鳴る。今度は短く、鋭い音。
今度は、風が吹いた。音もなく積もっていた雪がふわりと宙を舞い、ひとひら、またひとひら、静かに落ちてくる。その動きさえも緩慢で、まるでこの森だけが別の時を刻んでいるようだった。
明るかった周囲は暗闇に包まれ、しかし、空の彼方では赤い光が差し込んでいる。時間帯は夜明け前か。
ここまでくると、もう俺は理解できていた。眼前で主導している少女が鈴を鳴らすたびに、時間が切り替わっているようだ。しかも、彼女は赤い門を通過する時に鳴らしている。これは何かの儀式なのか。これこそ白狐族の村へ入るための手順なのか。わからないが、俺たちは白髪の少女に続くより他はなかった。
やがて三つ目の赤い門が見えてくる頃には、これが最後の門だろうとどこかで直感していた。少女はその前で立ち止まり、静かにひと呼吸置くと、ふたたび鈴を鳴らした。
しゃらん。
その音は今まででいちばん短く、けれど、深く温かかった。
音の終わりと共に、目の前の空気が震え、景色がめくれるように歪む。
風が吹いた。どこからか枯れ葉が舞い上がり、冬の森には似つかわしくない温もりの残り香が、鼻先をかすめていく。空は夕焼け色に染まり、木々の輪郭が赤く縁取られた。
雪の向こうに、淡い灯りの点る集落が、静かに現れた。
それは、誰にも見付けられぬはずの村。
雪に包まれ、幻に覆われた、まるで絵巻から切り出したような光景。白く雪を被った屋根、そしてぼんやりと霞む灯り、そしてそこまで続く細い小道。夕焼けが静かに等しく全てを赤く染め上げていた。
「これが、白狐族の村か……」
零れ出た独り言に、隣に立つエリアがこくりと頷いた。その表情がどこか懐かしげで寂しげに見えたのは気のせいなのか。
「これは凄いな……」
そう呟いたのはファイドルだ。
村に足を踏み入れると、眼前に全く知らない街並みが広がる。石畳の道も、煉瓦造りの家も、尖塔のある教会もない。かわりに、足元には黒く湿った土が踏み固められている。
視線を上げてまず目に入ったのは、どの建物も木と紙と藁でできているということだ。雨風に弱そうな素材のはずなのに、不思議と統一感があり、村全体に独特の落ち着いた気配を与えている。屋根は緩やかに反り返った形状で、黒ずんだ藁か、何かの植物で編まれているらしい。煙突がない。煉瓦の壁もない。扉の代わりに垂れ下がる布。窓はなく、代わりに薄い紙のようなものが木枠に貼られていた。風が吹くと、その紙の表面がふるりと揺れる。透ける光が柔らかく、けれど明確な中と外の境界を形作っている。
その全てが俺にとっては見慣れぬ文化であり、もっぱらその伝統的な建築様式ばかりに俺は気を取られていたが、どうやらファイドルの着眼点は違うところにあったようだ。
「内戦が終わった直後は見るも無残な様子に荒れ果てていたが、八年もあれば復興どころか発展までしているようだ。……しかし、妙に静かくないか?」
ファイドルの言う通り、村の大通りはその規模に対して異様に静かだった。というより、そもそも誰も通行人が歩いておらず、店も軒並み閉まっているようだった。
その疑問を解消したのは、意外にもそれまで黙っていた少女である。
「来訪者を恐れているのです。八年前の、あの出来事を……まだ捨てきれずにいるのです」
その言葉にはっと俺は気付かされた。
この村はただ隠れていたのではない——恐れて、閉ざしていたのだ。俺たちのような存在を、再び迎えることを。閉ざされている戸の隙間からこちらに向けられる冷たい目線をひしひしと感じる。
導き手である少女の背に従って、俺たちは村の奥へと進んでいく。
村の中央、ひときわ大きな古木の根元に建てられた木造の建物が見えてきた。建物の前で少女が静かに足を止め、振り返らずに言った。
「……お入りください。カザヌキ様がお待ちです」
カザヌキ様、とは話の流れから察するに、たぶん白狐族を取りまとめる人物なのだろう。
建物は村の中でもひときわ大きく、太い柱と複雑な木組みで支えられた堂々たる佇まいをしていた。屋根の傾斜はより深く、その下には縁側のような木の床が延びている。入口には風に揺れる布が垂れ下がっていて、内側の様子は見えない。
狐面の少女は何の躊躇もなくその布を手で押しのけ、中へと入っていく。俺とエリア、そしてファイドルがその後に続こうとしたとき、入口のすぐ内側でスズナがくるりと振り返った。
「お履き物は、こちらでお脱ぎください」
その予想外な言葉に、俺は聞き返していた。
「……靴を、脱ぐのか?」
エリアとファイドルは当然のように腰を屈めて、足元の靴を外している。俺も慌てて彼らの真似をするが、何とも落ち着かない気分だった。
これまでの旅路で、屋内に入るたびに靴を脱ぐような文化に出会ったことはなかった。石造りの床を靴のまま歩くのが当たり前で、室内でも靴音が鳴るのが普通だった。だがここでは、玄関のような段差があり、その先にはまるで家族がくつろぐ私室のような、柔らかな木の床が広がっていた。
思い返すと、秘逃禁書庫で四代目明滅の魔王アラマサと戦った道場とやらで、彼は確か靴を脱いでいたはずだ。あの場所とこの場所も似通った建築様式で、どうやらこれが白狐族の伝統みたいである。
靴を脱いで踏み込んだ瞬間、その木の床はひやりとしていて、それでいてどこか心地よい。冬の冷気が残っているはずなのに、妙に静かな温もりが足裏からじわじわと伝わってくるようだった。
靴を脱いで建物に上がるのは、とても奇妙な感覚で落ち着かない。俺がそわそわしていると、エリアが横目で俺を見てくすりと笑った。
「白狐族にとって家は清められた場所。外の塵や邪気を持ち込まぬために、こうして靴を脱ぐのが習わしなのじゃ」
「へえ……」
そう返しつつも、どこか妙な居心地の悪さを感じていた。剥き出しの足で人の家に上がることが、逆に相手に失礼な気がしてならなかったからだ。
少女は何も言わず、前を静かに歩いていく。彼女の歩みに合わせて、俺たちも音を立てぬように続いた。足音が響かないのは、床に施された材が柔らかく、音を吸うようにできているからかもしれない。
紙製の戸みたいなもので仕切られた廊下を抜けて、やがて彼女はとある部屋の前で立ち止まった。
そこもまた紙戸で仕切られており、山水と雲が黒一色でありながら見事なグラデーションで描かれていた。部屋の奥からはほのかに人の気配がある。話し声も物音もない。ただ、その向こうに確かに誰かが待っている気配だけが感じられた。
少女は静かに膝をつき、指先で紙戸の縁にそっと触れる。まるで空気をも乱さぬように、彼女はゆっくりとた紙戸を横に滑らせていった。
しゅう、と小さく紙と木が擦れる音。
開かれた紙戸の向こうに、その人は座していた。
白銀の髪を結い上げ、濃紺の伝統衣装に身を包んだ女性。
薄紅の唇はわずかに微笑みを浮かべていたが、その瞳だけは射抜くように鋭い。頭上の狐耳もぴんと張り詰めるように立っている。
膝の上に置かれた扇が、時折ふわりと揺れるたび、そこから何か異様な気配が立ち上る気がした。
少女が囁く。
「……どうぞ、お入りください」
その言葉にエリアとファイドルが進んだ。俺は息をひとつ整えてから続く。床の材質は木の板ではなく、藁を編んだようなふかふかとしたものだ。表現しがたい触が足の裏に伝わるたび、何か別の文化へと踏み込む感覚に包まれた。その女性と向かうように置かれていた敷物の上に、静かに俺たちは腰を下ろした。椅子を使わない文化はなれず、不思議とそわそわしてしまう。
狐面の少女は外で控えるらしい。俺たち三人が揃って座ると、彼女は外から紙戸を閉めた。
「ようこそ、おいでなさいました。大変お久しぶりですね――魔王エリア様、そして地霊族族長ファイドル殿」
「急な来訪になり申し訳ない、族長カザヌキ殿」
「おう、久しぶりだなカザヌキの嬢ちゃん。あんたが族長になっていたんだな、知っていれば何か手土産でも用意したんだが」
「いえいえ、構いませんよ。貴方たちお二方には村の者も大変感謝しておりますので、いつでも歓迎させていただきます」
カザヌキ、とエリアに呼ばれた女性は、微笑を絶やさぬまま、ふと視線をこちらへと移した。その眼差しはどこまでも鋭く、確実に俺の内側を覗き込もうとしているような気配を纏っていた。その目線の意味は、完全に部外者である者がなぜ村へ入っているのかを問うものか、それとも俺が人族であることを責めるものなのか。瞳の色で俺が人族であるのは一目でわかり、誤魔化しようがないものだ。
「その者は、いったい何者でしょうか? 魔族ですらないようですが、魔王エリア様」
言葉の裏に隠された圧は、俺へ重く圧し掛かってきた。




