76 約束の地へ4123
一歩を踏みしめる度に、きゅっ、きゅっ、と乾いた音が白一色の世界に小さく響く。
森は沈黙していた。枝に積もった雪はまるで時間の重さを纏っているように、音もなく静止している。ときおり木々の高みで、凍えた枝がぱきりと軋み、静かな世界に微かな緊張を走らせる。
誰もいないはずの森。けれど、歩いているとふと誰かに見られているような錯覚に陥る。木々の間、雪の影、霜に閉ざされた地面の下。目には見えない何かが、この世界をじっと見守っている——そんな気配。
雪とは不思議なものだ。毎年のように降り積もるくせに、いまだにその上をうまく歩けたためしがない。どれだけ慎重に足を下ろしても、下に隠れた木の根や凍った石が不意に躓きを誘い、あっという間に膝を打つ羽目になる。しかも一歩ごとに無駄な力が入って、体力ばかりが削られていく。一歩一歩が慎重になるからこそ、同じ時間でも進む距離は平地と比べて微々たるもので、忍耐力も試される。白一色となった世界では同じ景色ばかりが続き、方向感覚さえ失って、どこを歩いたかさえわからなくなる。
だからこそ、疑念はふとした拍子に声となった。
「……本当に、この先にあるんだろうな? 白狐族の村とやらが」
声に出してみて、初めて自分が思っていたよりも疲れていたことに気付いた。寒さで乾いた喉が、妙にざらついた音を立てた。
ただそれはいい話題となったらしい。冬の世界で沈黙は寂しいものだ。俺の後ろから新たな声が静寂を打ち破る。
「俺もそれを聞きたかったところだ。エリア嬢ちゃん、本当にこの先なのか?」
彼はファイドル。地霊族の族長で、訳あって俺たちの旅に同行することとなった。
ファイドルは依然として歩みを止めないまま続ける。
「八年前の内戦で他種族との交流に辟易した白狐族は、文字通り忽然と村ごと姿を消した。噂によると、別の土地で新たな村を作ったのではという話だ。実際に以前の村があった場所にはもう何もねえ、既に俺がこの目で何度も確かめてる。だが、俺たちがいま向かっている方向は、その村があった方向だ。本当にあるのか?」
当時の白狐族と関わりがあったらしいファイドルが、怪訝な声で尋ねる。
難しい話だ。八年前、エリアの父親でもある十一代目氷結の魔王クラディオが何者かに暗殺されて、魔界全土で犯人探しが始まった。最初はこの地霊族族長ファイドルが疑われて、その潔白が証明されると共に疑いは白狐族へと移り変わった。怒り狂った魔界の民衆が白狐族の村へ攻め入り、半年にも及ぶ内戦に彼らは巻き込まれたらしい。その後、外界との関わりを断って誰も知らないどこかの山奥で生活しているという。
誰も知らない、それは今は亡き白狐族前族長と友好があったファイドルでさえ知らないらしい。
しかし、俺の隣で懸命に一歩一歩を踏み出していたエリアが、少しだけ足を止めて答えた。
「この先に必ずある」
霹靂の魔王エリアはそう断言する。
防寒用のフードの隙間から覗いたその横顔には、うっすらと疲労の色が滲んでいた。
けれど、その瞳の奥に宿る光は、微塵も揺らいでいなかった。
「白狐族は既存の魔法形態に囚われない術を扱うと、そなたらも知っておるじゃろ?」
「ああ」
俺は頷いた。噂によると、白狐族は若返りだとか錬金だとか天気操作だとか、奇妙な魔法を使えるとして有名だ。とはいえ、それらの大部分は彼らの実態を誰も正確に知らないからこそ流れる信憑性のないものだ。
しかし、俺は彼らと実際に会ったことはないが、その奇術の一端を既に見たことがあった。
エリアが人界へ向かう際、紅玉の瞳や尖った耳など魔族だと証明してしまう身体的特徴を誤魔化すために、彼女は俺が知らない奇妙な魔法を使った。まるで人族のような顔に変化することができるそれは、白狐族から教えてもらったという。
「白狐族は他種族との関係に嫌気が差した。しかし、村ごと他の土地へ移るのは労力がいる。そこで彼らは自慢の奇術で村そのものを包み、外部からの観測をできぬようにしたのじゃ」
「……どういうことだ?」
「そこへ訪れようとする者は、まず森で迷う。目印は役に立たず、地図も狂い、歩いても歩いても同じ景色が繰り返される。どこかを曲がれば、最初の場所に戻っている……そんな幻のような森になるのじゃ」
エリアの声音に緊張も感じられた。彼女は歩みを再開しながら、言葉を連ねた。
「仮に運良く迷いを抜けられたとしても——その先に待っているのは、朽ち果てた村だけ。崩れた家屋、風にさらされた祠、もう誰も住んでいない捨てられた集落。それを見て、大方は諦めて引き返す。そこが外から見た村の限界なのじゃ」
「限界……?」
「本物の村はその先にあろう。けれど、外からの目には決して映らぬよう、すべてが幻で覆われているの。白狐族の奇術は、見る者の心をも惑わせる。本当の村へ行くには、決められた特別な手順を踏まなければならぬのである」
森に吹く風が、どこか遠くで木の枝を揺らした。音がする方を見やっても、白い森はただ静かにそこにあるだけだった。
少し前まではエリアの話を眉唾物だと突っぱねていたかもしれないが、あの秘逃禁書庫みたいな摩訶不思議な場所を経験してきた今の俺は、素直に信じられるのも当然だった。
「なるほどな……。つまり、エリアはその特別な手順というものを知っているんだな?」
「残念じゃが、流石の妾でも教えてもらっておらぬ」
「無理じゃないか……!」
思わず突っ込んでしまった。だが、エリアはふるふると首を振った。
「妾も内戦後に一度も訪れておらぬからの、正式な手順は知らぬ。しかし、その手順を知る者と合流する場所だけは教えてもらっておる」
「それはいったいどこなんだ?」
俺が尋ねると、エリアは完全に立ち止まって地面を指した。そして、にやりと小さく笑う。
「ここじゃ、待っていればそのうち現れよう」
俺たちは動くのをやめた。森の中央、どこにもありそうな白い空間の中で。
会話はそれで自然と途切れ、誰からともなく黙り込む。
本当にここで合っているのか、そんな疑問の声が喉元までせり上がっていたが、すんでのところで堪えた。エリアは確信しているように両目を閉じて静かに待っていたのだから。ファイドルも同じような居心地の悪さを感じているようで、背中の大剣を触ったり離したりしていた。
魔王城を出てから、もう四日は経っている。元老院で雇っているという御者が操る馬車で二日揺られ、そこからさらに道なき雪山を一日歩き詰めた。昨夜は用意していたテントで野営を行い、今日も早朝から進み続けていてそろそろ陽が落ちる時間帯である。それでもまだ、人の営みを物語る痕跡ひとつ見付からなかった。
入念な準備のおかげで装備に不安はない。買い込んだ水や保存食は収納魔法に収めてあるし、テントなどの野営道具も揃っている。戦力的にも、俺はさておきエリアとファイドルという実力者がいる以上、外敵に怯える必要もない。むしろ過剰といえるほどだ。だからこそ余計に、目的地が見えないという事実だけが胸をじわじわと締め付けていた。
そんな中でただ一人、エリアだけが岩のように落ち着いていた。風に揺れる白髪すら静かで、雪を払う仕草すら見せない。その泰然とした姿は、俺たちの疑念を和らげるどころか、かえって際立たせているように思えた。
風も止み、雪も降らず、ただ時間だけが、まるで凍った氷の中を這うように緩慢に過ぎていく。吐く息が白く漂い、それさえも音を立てない。足元からは微かに冷気が滲み上がり、太ももを越えて背中にまで染み込んできた。
暫くして。ふと、背筋にぴたりと冷たいものが這い上がる。視線、どこか遠くから。
それは魔王城で感じていた正体不明の視線と同じようでいて、やはり少し異なる。敵意はなく、ただこちらを観察している試しているかのような感触。まさに俺たちが信頼に足る人物なのか値踏みしているかのような。
木々の隙間を見回しても、雪の影を覗き込んでも、姿らしいものは見つからない。ただ、その気配だけが確かに存在していた。そして――
しゃらん、と。
鈴の音が、どこからともなく風に乗って届いた。
それは一度きり、耳の奥をくすぐるように細く、美しく響いて、すぐに消えた。
しかし次の瞬間、世界が——変わっていた。
「なっ、何が起こった!?」
俺とファイドルが弾かれたように剣を鞘から抜き出して、咄嗟に油断なく構えた。
気付けば、あんなに高く昇っていた陽は落ち、辺りは薄闇に沈んでいた。さっきまで灰白に染まっていた森は、藍色の帳に包まれ、どこまでも続いていた雪面は月光に照らされ、仄かに輝いている。空には丸い月がかかっていた。まるで時間が飛び越えたかのように、夜になっていた。
俺はエリアの隣へ移動し、ファイドルも視線を素早く走らせている。
すると、月光の射す闇の向こうから、ゆっくりと何かが姿を現した。
「……子供?」
白銀の髪を短く刈り込んだ、背の低い少女。
顔には狐の面、のようなものを付けていて顔は判別できない。感情の読めない白磁の面は、月の光を浴びて鈍く光っている。
彼女は奇妙な衣を纏っていた。長く流れる袖、腰に結ばれた帯。どこか歴史や伝統を感じさせる衣装だが、俺にはそれが何の服装なのかわからなかった。
雪の上であるのに慣れているのか、足取りは滑るように静かだ。右手には暗闇を照らす淡い灯り、左手には葡萄のように纏まった鈴を携えていた。どちらも俺には見慣れぬもので、やはり何を意味するのかわからない。
ただひとつ、理解できたのは――
少女の頭上で、ぴくりと動く白い狐の耳。
彼女が、白狐族。
その姿に、エリアが得意げに言った。
「ほらの、間違ってなかったじゃろ?」
狐面の少女は足を止め、エリアに向けてわずかに首を傾けた。
面越しに表情は読めない。けれど、どこか懐かしさを含んだ声音で、静かに言葉を紡いだ。
「大変お待ちしておりました、十二代目霹靂の魔王エリアさま」




