67 VS, 四代目明滅の魔王アラマサ8267
「では、始めようか」
アラマサが腰の鞘に右手を添えた。
たったそれだけで、俺は自分の首が落ちる光景を想像せざるを得なかった。
首筋にひやりと冷たい風が走るような錯覚。戦場で幾度も死線をくぐってきた俺ですら、その未来の映像から目を逸らすことができなかった。
「ッ!」
息を飲む。額から汗が滴り落ちた。
アラマサはまだ鞘から武器を抜いてさえいなかった。構えすら見せず、ただ静かに佇んでいる。それなのに、俺は身体の震えを抑えられない。呼吸が浅くなる。心拍が耳元で爆音のように鳴っていた。
既に原初の魔王ヴェルゼから俺は新たな加護を与えられている。以前のように群れのホーンウルフに追い詰められるような体たらくはもうないはずだった。身体の奥底から湧き上がる力を実感しているし、使えなくなっていた勇者専用剣技が復活していると感覚的に確信していた。つまり、まだ感覚的には馴染んでいなくても、今の俺はベストコンディションであるはずだった。
それなのに、怖気と恐怖が背筋を撫でていた。
――少しでも動いたら死ぬ。
直感が死ぬと強く訴えていた。アラマサに殺気は感じ取れない。あくまでも穏やかに、静かに、まるで無風の湖面のような気配でそこに立っている。だが、俺が瞬きするよりも早く俺の首を確実に断ち切っている光景が、どうしても脳裏から離れない。今まで幾度となく強敵と対峙したことがあるが、流石に死の想像しかできない相手はこれが初めてだった。
ファイドルが言っていた。歴代魔王の中で近距離の戦闘力が最も高い者は明滅の魔王アラマサだと。瞬きするよりも速く相手の間合いへ入り込むその様子が、明滅する光のようだったことから、その二つ名が付いたという。
それが事実ならば、眼前に立つ本人は俺が反応するよりも早く俺を斬っていてもおかしくない。もちろん無抵抗で攻撃されるわけにはいかない。狙いを悟られないように、剣技が発動する一歩手前のぎりぎりで剣を構える。微細な気配の変化も見逃さぬよう、全神経を指先にまで行き渡らせる。
魔王がにぃっと笑った。
「抜刀剣術九之尾の壱――」
アラマサが姿勢を低く下げた。
空気が重たく、鋭く変質する。
――攻撃が来る!
「五風十雨」
「朱閃ッ!」
次の瞬間には眩しい火花が視界を遮っていた。十五メルほどあった距離は消え失せ、同時に振り抜かれた両者の武器が鮮烈な火花を散らしながら虚空で激しく交差していた。完全にアラマサが剣を抜いた場面を目で追えていなかった。にも関わらず、感覚的に発動した古代流派剣術最速の剣技である朱閃がそれを防いだのだ。
もし失敗していれば、彼が使った剣技はあっさりと俺の首まで届いていたことだろう。彼に俺を殺すつもりはない。だからといって手加減しているわけでもないようで、運悪く俺が死ぬ可能性は大いにあり、アラマサはそれが当然だと思っているみたいだ。冗談じゃない。
「面白い。反応できたか」
楽しそうに明滅の魔王アラマサは言う。俺は交差する武器越しに伝わる驚異的な腕力に耐えながら答える。
「偶然だ。――いや、その剣技、どこかで……」
言いかけて、ふと考えた。何かが記憶の奥底に引っかかったのだ。今の構え。今の間合い。今の重心移動。どこかで見たことがある気がする。だが、思い出せない。俺は一度もアラマサと戦ったことはないし、彼の戦いを見たこともなかったはずだ。彼はそもそも遥か昔に死んだ過去の人物、ここで会うまでエリアとの会話の中でしか名前を聞いたことがなかった人物だ。ならば、この既視感のようなものはどのように説明する?
しかし、その思考は唐突に遮られた。
「次々見せるぞ。抜刀剣術九之尾の漆――」
しまった。俺の知らない剣技が来る。どうする。先ほどとと同じように朱閃で対応するのが最善だろうか。いや、その軌道が予測不可能ないま、タイミングを見誤れば今度こそ防御に間に合わない可能性も。
それならば――、と俺は前へ一気に飛び出していた。
「――噴炎!」
空中で剣技を発動する。古代流派剣術特有の炎が剣に伝播し、空気を焦がしながらさらに加速する。
相手の攻撃にタイミングを合わせようとするから反応できなくなるのだ。彼が行動を起こすよりも早くこちらが攻撃すれば、アラマサが俺にタイミングを合わせなければいけなくなる。
俺よりも一歩遅れてアラマサは剣技を発動させた。
鞘から月光のような薄い燐光を纏っている刀身が引き抜かれ、俺の攻撃を防ぐために前へと振るわれる。だが、対応にワンテンポ遅れてしまったことで十分な加速ではなかった。
俺は噴炎の一撃目でアラマサの武器を大きく弾き、後退を余儀なくさせる。
古代流派剣術噴炎は二連撃である。振り下ろされた宵闇の剣が地面すれすれの場所で急減速し、反転。時間が巻き戻るかのように、同じ軌道を下から上へ辿り昇る。姿勢を崩したアラマサには避けようがない攻撃だった。
しかし――
「因果応報」
俺の耳にアラマサの小さな呟きが届いた時、予想していなかったことが起こった。弾いたはずの彼の武器が、先ほどまでとは比べ物にならない激しい光を放った。奇妙な旋回と加速で再び前へ振るわれ、宵闇の剣と激突する。ありえない衝撃が右腕から全身へ巡り走った。神経が焼き切れそうなほどの激痛が一瞬で広がる。
まさか――、その言葉は言葉にならない。俺は何が起こったのか瞬時に理解していた。アラマサが選んだ剣技はカウンター技だったのだ。相手の攻撃を一度受け止めて、吸収した威力をそのまま利用して二撃目で返す。もちろん俺が剣技を発動してからそのような真似はできないので、恐ろしいことにアラマサは俺が飛び出して先制攻撃することすらも先読みしていたということだ。
明滅の魔王アラマサとはこれほどのものなのか、と心の中で呟く。これが神域に足を踏み入れた魔王の領域、言葉にならない感嘆と畏怖を抱いた。
相手にならなかった。
俺は即座に剣を引き、勢いのまま後方へ跳躍する。空中で身を翻しながら、地を蹴ってさらに後退。着地と同時に態勢を低くして警戒を解かず、アラマサとの間に再び距離を確保した。
二十メル。いや、二十五メルか。ここまで離れていれば、いかに速さに優れた剣技だろうが反応もできずに受けてしまうなんてことはないだろう。
アラマサは、追ってこない。
こちらをじっと見据えたまま、その場に静かに佇んでいる。表情には相変わらず、余裕とそして僅かな興味の色が浮かんでいた。剣を構えたまま睨み返す俺に、彼は僅かに口元を緩めた。
「やはり面白い。ここまで強い奴は遠い過去にも少なかった」
低く、けれどよく通る声だった。音そのものに威圧感があるわけではない。だが、その声には不思議と心の奥底まで響いてくる力があった。
「……それは光栄だな。たった二合の打ち合いだけで、俺は実力不足を実感したところだが」
皮肉めいた俺の言葉に、アラマサはゆっくりと頭を横に振った。
「余輩が強いだけだ。あの時代でも私に敵う者はおらず、更に、ここに囚われてからの悠久も余輩は刀を振り続けていたゆえに。落ち込むことはない。それに貴様が余輩の剣術に既視感があるように、余輩も貴様の剣技を全て知っている。貴様が勇者となってからここへ来るまで、ずっと観察していたからな。勝てる見込みなどなかろうよ」
アラマサはそこで言葉を区切ると、目を細めて見た。その視線の鋭さに、ぞくりとした。
「貴様は強い。だが、己よりも強い者を知らなさすぎるゆえに、限界を越えることができない。どうだ? 試してみないか。未来を、可能性を、刃が行き着く場所を。続きを望むなら、構えろ。余輩の刃はまだ、試されていない段階にある」
再び、鞘に手を添える動き。そこには殺気も気配もない。ただ、淡々と戦うことが前提であるという、静謐な意志だけが存在していた。
先ほどの発言を額面通りに受け取っていいのならば、アラマサは俺に限界の剣技を見せてくれるということだろうか。その真意はわからない。
額から流れ落ちる汗を、手の甲で拭った。息はまだ乱れていない。心臓も落ち着きを取り戻しつつある。なのに、指先が冷たいのは、必死に抑え込んでいる恐怖のせいだろう。
「……なら、見せてもらうさ。俺が知らない上の世界を」
そう言って、俺は剣をゆっくりと振り下ろし、再び構える。体を低く、重心を後ろへ引く。目線をわずかに下げて、相手の動きを捉えやすくする――いつもの構え。だが、心はいつも以上に静かだった。
アラマサが目を閉じて、深い息を吸った。その動作に、一切の隙がなかった。視界を閉ざすという完全な無防備が、むしろ次なる攻撃の前触れであるかのように見える。まるで、獲物を仕留めるために弓を引き絞る瞬間のように――静かで、美しく、そして致命的だった。
本能が危機感を伝えていた。まさかアラマサは二十五メル離れた場所から攻撃するつもりなのか。俺が使う剣技の中で最長射程を誇ったスターダスト・スパイクでさえ、溜めがなければその距離を貫くことができなかった。それなのに、アラマサは剣技の予備動作をしていた。
まずい。そう思って、俺は後方へ跳んでさらに距離を取る。
「瞠目せよ。師より受け継ぎし、余輩の奥義。九之尾の玖――」
風が鳴いた。
地面を這うように、低く、鋭く。
次の瞬間、空気の密度が変わった――そう感じた。実際に何かが起きたわけではない。だが、すべての感覚が告げていた。来る、と。
アラマサの鞘の中で、刀がわずかに鳴った。金属同士が擦れる微かな音。だがそれは、まるで天地の境が裂けるような緊張を孕んでいた。
そして――
「天涯孤独」
視界がぶれる。気配が消える。
まるで幻影に包まれたように、彼の姿が掴めない。
時空が捻じれる。殺気も予兆もなかった。
何が起こったのかわからなかった。眼前からアラマサの姿が消えていた。
「こちらだ」
後方から聞こえた声を頼りに振り向くと、俺の背後に彼は武器を鞘に納めた状態で座っていた。
その時、俺は小さな痛みを感じて、首元を触ると――
「嘘だろ……」
掌に血が付いた。首元の皮を一筋、いつの間にか斬られていた。まさか今の一瞬で俺の肌を斬るだけでなく、背後まで移動していたというのか。もちろん小さな傷は数分もすれば勝手に塞がるのだが、これはアラマサが俺の首を簡単に斬ることができたという証だ。
「九之尾の玖・天涯孤独。全ての認識を越えて、時空すらも捻じ曲げて、あらゆる相手に届かせる一閃。どうだ? 知らない上の世界を実感できたか?」
「ありがとう、ございました……」
規格外すぎる。俺は感謝の言葉を述べるだけで、動くこともできなかった。アラマサは遠い目をして言う。
「余輩の師が生涯を終える前に生み出した技だ。余輩はついぞ生前に習得できず、魂がここへ流れ着いて初めてこの領域に足を踏み入れた。……しかしながら、この技を持ってさえ、原初の魔王ヴェルゼ殿には勝てる見込みが想像できない」
「……そうなのか?」
「ああ。普段のヴェルゼ殿は存在を保つために気配を断っているが、……負けず嫌いなのだろうな。戦いの場になると意地でも全力を解き放つ。余輩の師でも勝てるかどうか。なにせ玖番の天涯孤独はヴェルゼ殿が扱う古代流派式戦技術を真似て生み出されたとされるゆえな」
古代流派式戦技術、また知らない種類の武術が出てきた。古代流派剣術にも似た語感だが、別物なのだろうか。剣術とも体術とも言っていないことからも考えると、戦い方そのものを指しているのか、剣術にも体術にも応用できる変幻自在の技術なのか。
どちらにせよ、時空すらも捻じ曲げるという剣技を上回るというならば、是非とも見てみたいし教えてもらいたい。無念にもアラマサが使っていた剣技は特殊な形状の武器でなければ発動できないものらしく、天涯孤独とかいう技も俺には再現できないだろう。対して、その古代流派式戦技術なるものならば、俺は更なる高みへ届くかもしれない。タイミングがあればヴェルゼに訊ねてみよう、と俺は決心した。
ともあれ、アラマサにもう戦うつもりがないのならば、気になっていた疑問を解消しようと思い立つ。
既に目的は達成されていた。俺の狙いはことごとく阻止されてしまったが、以前の能力が戻っていることは確認できた。機会がなくて勇者専用剣技は試せていないのは心残りではあるけれども、問題なく発動できるとどこか感覚的に理解していた。
「ところで、アラマサさん。その武器、見せてくれないか?」
「いいぞ。疑念があるのだろう? 心ゆくまで見てくれて構わない」
「……いいのか?」
意外にも明滅の魔王アラマサは躊躇うことなく、俺に異形の武器を鞘ごと手渡した。その不用心さに俺が驚いたのは、武人とは自分の武器をあまり人に渡さないものだからだ。生命線に直結するものでもあるし、もし相手が一度それを収納魔法に落としてしまえば、本人以外は取り出せなくなってしまう。信用している相手、あるいは交渉する場面でもなければ、そのように躊躇いなく渡すことはできない。
まあいいや、悪いことでもないんだし……と俺は鞘から武器を静かに引き出す。そこで俺は初めてそれの全容を見ることができた。
片手剣のような武器としては珍しい片刃で、俺が使う宵闇の剣と比べても重く長い。細い刀身はどのように造ったのか綺麗に湾曲していて、刃には波打ったような模様がある。やはり、と俺は呟いた。
「やはり……カタナなのか」
刀身を鞘に収めてアラマサに返すと、彼は頷く。
「ああ、これは貴様が知っている刀で間違いない。世間の剣技は発動できぬ代わりに、余輩の師が白狐族に広めた刀剣術を扱うことができる」
これで疑問は氷解した。
カタナ、それは以前の俺が共に旅をしていた仲間の一人、ソラカゼが使っていた武器だ。長い白髪を背中側で結わえた青年で、彼もまたカタナと呼ばれる異形の武器を使っていた。思い返せば、彼も鞘に入れた状態からカタナを振り抜くという、抜刀剣術らしきものを扱っていた。一度として技名を聞いた覚えは一度もないが、もし同じ剣技ならばアラマサの抜刀剣術を既視感から防ぐことができた理由も説明できる。
とはいえ、アラマサによるとカタナ、ひいては抜刀剣術は白狐族に伝わるものだという。だが、俺の旅仲間だったソラカゼは人族だ。なぜ魔界の極一部にしか伝わらない剣技を知っている。白狐族と何らかの関わりがあるのか。だが、彼は俺と同じかそれ以上に魔族を心の底から憎んでいたが、魔族を虐殺することに忌避感と深い後悔があった俺とは異なり、ソラカゼは執念に縛られているかのように自ら進んで魔族の住む村を滅ぼしていた。
そんな彼が白狐族から秘伝の剣技を教えてもらっていたなんて不自然だ。
「……アラマサ。あんた、白狐族とソラカゼの繋がりについて、何か知らないか?」
俺の問いに、アラマサはしばし黙していた。鋭く細められた瞳が、過去を振り返るかのようにゆっくりと宙を見やった。やがて重い哀しそうな声で口を開いた。
「余輩が言えることは何もない。だが、彼は深い絶望と間違った使命感に支配されている。もしできることならば、彼を救ってやってほしい。それが余輩の望みで、貴様に伝えたかったことだ」
彼を、救え――だと?
その真意を測りかねた。ソラカゼは俺よりも遥かに多くの魔族を殺してきた奴だ。
彼もかつて故郷を魔族に滅ぼされてしまった、と聞いている俺はまだ仕方ないことだと納得できるが、アラマサは魔族であり魔王そのものである。やはり何かソラカゼと白狐族には俺が知らない謎の関係があるのだろうか。
俺の意識が思考の奥底に落ちようとした時、彼が現れた。
ふっ、と空間が揺らいだと思うと、すぐそばにヴェルゼの姿があった。
気配がない。それなのに、あまりにも当然のようにそこにいる。気配を断つというよりも、彼の存在そのものが空間に溶け込んでいる――そう錯覚させられる異質な感覚。
彼は俺を見据えると、静かに言う。
「地上へ戻れ」
想定外の言葉に、理解が遅れてしまった。
「……地上に? 戻れって、どういう意味だ?」
この地下世界は、俺にとって失われた力を取り戻し、新たな何かを見つけるための場所だった。まだ多くの謎が残っているし、まだ学びたいものは多くある。それなのに、ヴェルゼは地上への帰還を促した。
「文字通りの意味だ。地上で何者かの不穏な動きが確認された。恐らく――君たちが追っていた存在だ。魔王の騎士に呪いとやらを与え、コズネスを地霊族に攻めさせようとした何者か……。いま戻らねば、後悔することになるかもしれんぞ」
「……どこで何が起きている?」
「特定には至っていない。だが、魔王城周辺で暗躍している者がいることだけは確かだ」
ぞくり、と背筋を冷たいものが走った。
何者か、が本当に実在しているとすれば、その狙いは確実だ。十二代目霹靂の魔王エリア、彼女の身柄だろう。しかし、事件があった鍛冶の街コズネスからここ魔王城までは二万キロルも離れている。俺たちは古代遺物の転移魔法で移動したが、それがなければ二年は掛かる距離だ。だから、その何者かがどれほど速く移動しても、俺がこの地下世界にいる間にエリアが危険に晒されることはない、と安心していたのだ。
別の誰かが現れたのか。エリアが狙いではないのか。ファイドルが忠告していたように、相手は組織的な行動をしているのかもしれない。真相はわからないが、とにかく外の世界できな臭い動きがあるのは確からしい。
俺は拳を握りしめた。
「……アラマサ。すまない、途中で戻ることになって」
そう告げると、アラマサは小さく笑った。
「構わぬ、余輩の目的は果たしている。貴様の剣がどこまで届くのか余輩も興味が湧いた。憎しみの連鎖を断ち切ることができるのか。また会おう」
彼はそれだけを俺に伝えると、踵を返して歩き去っていく。道場の引き戸から外に消える。
その姿を最後まで見届けたヴェルゼは、俺に何かを投げて渡した。受け取ったそれは彼に預けていた、ここへ入るのに必要なあの鍵だ。忘れずに返してくれたらしい。
「新たな術式を刻んでおいた。簡単な次元貫通魔法だ。それを使えば、上の庭園を経由せずとも、どこからだろうがここ秘逃禁書庫との往来が可能となる」
「使い方は?」
「空中に鍵穴があると想像しろ。そこへ差し込んで捩じる、それだけだ」
俺は受け取った鍵を見下ろす。冷たい金属の感触の奥に、微かに脈打つ魔力の気配があった。
瞳を閉じた。
以前の俺ならば、何を馬鹿な、と信じることはなかっただろうが、世界の理にイメージが少なからず干渉することを学び、この物理法則すらまともじゃない空間に訪れて、否定することはできなかった。
意識を集中し、想像する。深い闇の中に、ぽつりと浮かぶ鍵穴を。
それは初めは曖昧だったが、徐々に像を結び、確かな形として――空間の前に現れた。
――カチリ。
鍵を差し込む音がした瞬間、空間が音もなく裂けた。
瞼を開くと、そこには扉があった。だがそれは木でも鉄でも石でもない。まるで夜空に浮かぶ裂け目を無理矢理に枠で押さえつけたような、不安定で、それでいて圧倒的な存在感を放つ境界の門。開け放つと向こう側には来た時に通った数千段は続くだろう階段が、暗闇の中へと延びていた。
暗闇に続く階段の先に一歩を踏み出そうとしたとき、背後から声が届いた。
「挑戦者よ」
動き出そうとする足を俺は止めた。
「忘れるな。敵は多い。しかし、見極めるべきは敵か味方かではなく、何がこの世界の真理であるかだ。道を選んだ以上は振り返らず進め。そこに救いがあると信じて。……行け、時間はまだ残されている」
その言葉とともに、俺の背を、風が押した。
気づけば足が一歩、二歩と階段を昇っていた。振り返りはしなかった。闇の階段はどこまでも続いている。




