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リメイク中作品 ver5  作者: 沿海
3章 憎しみは真理にあらず
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65 二代目聡明の魔王アンネローゼ6520

 アンネローゼは微笑の名残をその頬に残したまま、本の背表紙をそっと撫でるように指先でなぞった。そして、静かに言葉を落とした。

「貴方のように、ページをまっさらだと思える人って、案外少ないのよ。みんな、文字でいっぱいにしなくちゃって焦るの。埋めなければ、価値がないと思ってる。でも――白紙には、無限が宿るわ」

 そのまま彼女はしばらく黙った。花々の優しい香りを含んだ空気がが、言葉の余韻をふわりと運んでいく。楽器たちは変わらず、気まぐれに旋律を紡ぎ続けていた。ときおり音を外すのも、一種の趣を残していた。

 やがて彼女は、ふと視線をこちらに戻す。

「……だから、少しだけご褒美。来訪者にはね、私はいつも一つだけ、何でも答えることにしているの。知りたいことがあるのなら、聞いて。たった一つ、選びなさい。世界の真実でも、愛の行方でも、明日の天気でも。選ぶのは貴方。そして、二度と選び直すことはできないわ。前の来訪者も楽しい御方だったわね。ふふ、万物を凍らせる方法だなんて、アイスクリームでも食べたいのかしら?」

 俺は返事をせず、ただその言葉の意味を反芻する。

 何でも一つだけ答える――その重みはすぐに理解できた。エリアは二代目聡明の魔王アンネローゼについてこう言及していた。あらゆる分野に精通しており、知らないことはなかったと。彼女は俺のどのような質問に対しても、必ず答えてくれるというのだろう。だが、それを言っている彼女の軽やかすぎる声音が、まるでその重さを霧のように拡散してしまっていた。選び取るべき唯一の問いのはずなのに、まるで茶目っ気たっぷりな遊戯のようだ。 

 それにしても――あいすくりぃむ?

 知らない単語に俺の気が取られるが、万物を凍らせる、その発言には心当たりがあった。エリアの父親であり十一代目氷結の魔王だったクラディオという人物が使ったと聞く創造魔法オリジナルクラフト、それは万物を凍らせる魔法だったという。ここに来たことで習得したのだというファイドルの仮説が事実だと断定されたようなものだった。

 ということは、地上には存在しないものでもいいのか。例えば古の大戦で失われたという魔法。飛翔魔法に回復魔法、転移魔法といった噂に聞くだけでも万能すぎる数々の魔法。それらは非情に夢がある話だが、エリアやアガサと比べたら魔法にあまり適性がない俺だと、いま教えられても習得できないだろうことは簡単に想像できる。

 そうなるならば、単純な知識を求めるのはどうだろうか。例えば、そもそも女神の正体は何者なのか、とか気になることは多い。さらに、コズネスへの襲撃を裏で画策していたのは誰なのか、とか頭を悩ませている内容でも可能なのかもしれない。

 俺は沈黙したまま考え込んでいた。

 アンネローゼの言葉は、一見すると冗談めいているが、そこには計り知れない重みがある。世界のあらゆる真実を知る機会なんて、普通は一生に一度もない。それが、いま、目の前にある。

 けれど、考えれば考えるほど、頭の中は絡まっていった。

 何を訊くべきだ?

 過去か、未来か、この旅の目的か、それとも自分自身の存在意義か?

 無数の問いが渦を巻き、やがて答えそのものが見えなくなっていく。

 そして、ふと浮かんだ――あの言葉。

「……じゃあ」

 思わず口が動いていた。

「あいすくりぃむって、なんなんだ?」

 アンネローゼはぱちりと瞬きをした。

 掴みどころのない顔が崩れ、わかりやすい驚きがそこにあった。

 ああ、昔の魔王だとしても見た目通りの少女なんだなあ、と。

 そんな感想を不敬にも浮かばせていると、彼女の唇がふわりと綻ぶ。

「……まあ、驚いたわ」

 その笑顔は驚きと喜びが入り混じったような、どこか無垢なものだった。

 長い年月、膨大な問いに接してきた聡明の魔王は、けれどこの瞬間だけは少女のような表情を見せた。

「そんな質問をした人、初めてよ。だって他の来訪者は皆、もっと意味のあることを知りたがった。世界の運命とか、死者の声とか……。でもあなたは、あいすくりぃむ」

 彼女の言葉が本当の意味で俺に伝わる。

 彼女はくすくすと笑いながら、指先で空をなぞる。

 すると、空間の片隅に白い陶器の皿が現れ、その上に淡く光る球体が乗った。

「これがアイスクリーム。冷たくて、甘くて、溶けやすい。舌の上で消えてしまう儚い食べ物。……でもね、たった一口で、誰かの心を救うこともある。ときには、戦う理由になることも」

 アンネローゼはどこからともなく取り出したスプーンで一匙それを救うと、小さな口に含んだ。

 ああ、と悲痛めいた慟哭のような声が俺の喉から飛び出た。

 んー美味しいわ、と言葉通り本当に美味しそうに、うっとりした表情でアンネローゼは感想を零す。そんなに美味しいのだろうか。一口だけでもいいから食べてみたい、そう俺は切望したのだが。無常かな、あいすくりぃむとやらは元々がそこまで大きくないせいで、アンネローゼの二匙目で全て彼女の口内へ消えていった。

 未練がましく俺が銀髪の魔王をじっと見詰めていると、彼女はくすりと笑った。

「残念だけど、貴方たち生きている者はここで何も食べることができないわ。魂が引っ張られてしまうもの。もし貴方が死んだ後に魂がここへ辿り着いたのならば、その時はご馳走してあげようかしら。でも、そうね……何も得るものがなければ、貴方が可哀想だわ。仕方ないわね。ふふ、ここからは私の独り言。いつか必要になる時もきっとあるかもしれないわね?」

 アンネローゼは、淡く光る指先をそっと空に向けた。何もない虚空に、静かな震えが走る。

 すると空の天蓋から、本棚が降りてきた。

 それらはまるで重力の束縛を受けていないかのように、くるくると円を描いて回転しながら、彼女の頭上にゆっくりと集まってくる。本棚には古めかしい革装丁のもの、金の箔押しが施されたもの、風にさらされたような紙の束――ありとあらゆる「記憶のかたち」がぎっしりと詰まっていた。

 アンネローゼは迷いなく腕を一点に伸ばした。本棚の中央から一冊の本がするりと抜け出し、吸い寄せられるように彼女の元へと飛翔する。深緑の表紙に金文字で題が刻まれた分厚い本。題名は読むことができない。

 彼女はそれをそっと開くと、ぱらぱらとページを繰り、ある一点で指を止めた。まるでそこに導かれることが最初から決まっていたかのように。

「ノアフィラ・ソラレニア著『目撃譚』第十二章五節より……『かくして大戦は終結し、決別した者たちは別の人生を歩むこととなった。私の姉妹らもそれぞれ別の終焉を選ぶことになり、もう二度と会うことはできぬであろう。姉妹らと益体もないことで些細な喧嘩をして言い争うことがもうないと思うと、それが酷く寂しかった。それも全て忌々しき奴ら、天使と名乗る奴らのせいだ。私の右足を奪い、愛する姉の命も奪った。憎しみは未だ心の奥底で燻り続けているが、長い余生をこの村で過ごす内に、いつか全てを忘れてしまうかもしれない。そんな恐怖がこの本を書き始めた理由の一端でもあった。』……詳しい内容はどうでもいいわ。天使、それが貴方の前に今後立ち塞がるかもしれない障害よ」

 アンネローゼは本を閉じた。その音は、まるで何かを封じるかのように、静かに、重く響いた。その音がまるで空間の膜を破ったかのように、周囲の空気が少しだけ色を変える。どこか金属的な冷気が流れ込むような、鋭い静けさだった。

 用済みとなった本棚たちは、再びふわりと回転しながら、上空へと舞い戻っていく。ページを閉じた本も、その手から離れ、風のように消えていった。

 彼女の視線が、本ではなく、こちらにゆっくりと向けられる。しかし、やはり何故かその焦点は俺へと定まっていない。

 その銀の瞳の奥で、淡い光が揺れた――それは記憶の光か、それとも哀しみの残滓か。

「ねえ、エイジ。世界はね、黙っている石ころの中にも戦争を隠すことができるのよ。誰も拾わなければ、それはただの石。けれど――うっかりつまずけば、足の骨が折れるわ。この本には、ほんの少しだけ歴史の残骸が挟まっていたの。だから、こうして地下空間に閉じ込められている。紙に焼き付けられたのは、希望じゃないわ。焦げた羽音と、剥がれ落ちた名前よ」

 アンネローゼが指を一本だけ立てた。空間に突如現れた透明な輪が、彼女の指を中心にしてくるくると回る。そこには何の魔力も、光も宿っていないのに、見ているだけで喉が渇く。視界の端が滲む。

「天使……その響き、どうかしら。ほら、甘くて、真っ白くて、アイスクリームのような救いの象徴みたいでしょ? でもね、あれはね――神様が作った七つの歯車。それぞれ違う方向に回るの。一つは命を飲み込み、一つは時間を断ち切る。一つは心を燃やし尽くし、一つは記憶を切り裂く……本当はもっと別の本質があったはずなのに、でも、今はたったひとつの目的のために動き出しているの。壊すっていう目的のために。貴方は、歯車の音が聞こえる? まだ遠くで、まだ霞の中。でも近いわ。思ったより、ずっと近くにいる」

 彼女の瞳がふっと細められる。銀のまつ毛の向こうに、何かの記憶が揺れているようだった。

「私は昔、それを全部焼き払ったはずだったの。でもね、灰っていうのは困るわ。風が吹けば、また舞い上がる。記録を消せても、意志は消せない。誰かがあの地獄をまた始めようとしているの。新しい羽根、新しい名前、でも同じ終わり」

 そこでやっとアンネローゼの瞳が俺の姿をはっきりと映した。しかし、そこに優しさや親しみやすさは微塵もなく、警告するような冷徹な声音だった。

「気を付けて、エイジ。彼らは翼であなたを抱きしめにくる。でもそれは、別れの抱擁。優しくて、温かくて、そしてとっても冷たい、永遠のさよならよ。……これは、私の独り言。風が忘れてくれるかもしれないし、貴方が覚えてくれるかもしれない。どちらでもいいわ。どちらでも、いいのよ」

 そこで、彼女の背後の虚空に、ばさばさと羽ばたくような音が響いた。見ると、純白の鳥が七羽ほど花畑から飛び出し、どこまでも続く悠久の空へと舞い上がっていく。不吉なものではないはずなのに、その姿に俺は得も言われぬ不安できゅっと心臓を締め付けられた。

 七羽の白い鳥が天蓋へと消えていった後も、俺の心臓はゆっくりとした速さで震え続けていた。冷たい汗が首筋を伝う。あの鳥が――いや、あの言葉が、ひどく胸に引っかかっていた。

「……今の、どういう意味なんだ」

 思いがけず、口が勝手に動いていた。問いを声にしてから、自分でも滑稽だと思う。既に自分で唯一の問いをあいすくりぃむとやらで使い潰したばかりなのに。

 アンネローゼは返事をしなかった。ただ、ふわりと足元の花を見下ろし、小さく笑みを浮かべる。

「この花、今はまだ蕾だけど……夜明けになると一斉に咲くの。ぱっと。何の前触れもなく、誰に祝われることもなく。でも、そういうのって……ちょっと素敵じゃない? だから、私は水をあげるの。誰にも祝われることのない花を、私だけが忘れずに祝われるように」

 まるで会話の続きかと思っていた声は、よくよく聞けばまるで関係のない世間話だった。しかも、それが何かの比喩かと思いきや、どうやら本当にただの花の話らしい。

「……俺が聞きたいのは、花の話じゃない」

「ええ、知ってるわ」

 俺の声には、わずかな苛立ちが滲んでいたのかもしれない。だが、聡明の魔王アンネローゼはまるで風の通り道を邪魔しない花のように、それを受け流す。

「でもね、答えっていうのは、用意された箱の中に収めてあるわけじゃないのよ。探しても見付からない時ってあるの。……だから、作るの。貴方自身の問いの形に合わせて、あなた自身の答えを」

 彼女はまたどこからともなく本を取り出すと、最初に読んでいたものだったのか、指先が途中の頁を捲った。まるで、もう話すことは終わったと言うかのように。

「質問の続きは風が持っていったわ。返してほしいなら、探してみて。貴方との会話、とても楽しかったわ。栞が同じ頁に挟まれていたなら、風に乗っていらっしゃい。……私はここで、それまで貴方が紡ぐ物語の続きを読んでる」

 彼女はもうこちらを見ていなかった。視線は再び本へと戻り、その銀の睫毛の下で、静かな沈黙が降りてくる。白く細い指がページの端を滑り、音もなく紙が捲られていく。

 何も、それ以上は言えなかった。抗う理由もなければ、望みもない。ただ、風に置き去りにされたような気持ちで、俺はその場に立ち尽くした。

 やがて。

「終わったか」

 俺の背後から響いた低い声が、心地よくも現実的な重みをもって場に割り込んできた。

 振り返ると、背の高い男――初代原初の魔王ヴェルゼが立っていた。装飾を排した純白の衣装と、闇そのものを現したような漆黒の瞳。

 存在を保つのに気配が断たれているとかだったか、加護を取り戻した今の俺ですら、話し掛けられるまで彼の存在に気付けなかった。俺は内心の動揺を悟られぬように、ぶっきらぼうな口調で答える。

「……ああ、終わった。何もわからなかったけどな」

 俺が肩を竦めると、ヴェルゼは鼻で笑った。

「そうだな。あの彼女問いには答えるが、導くことはしない。以前来たクラディオって奴も、それに苦労していた。だが、謎が増えただけだったのならば――聡明の魔王アンネローゼに会う意味はあっただろう」

「……皮肉のつもりか?」

「半分はな。しかし、もう半分は本気だ。さて……次に会わせるのは、戦闘に特化した魔王だ。特殊な形状の武器を使った戦闘に長け、私と拮抗するほどの実力を持つ。……とはいえ、彼もまた独特な喋り方をする奴で、正直なところ私もあまり得意な相手ではない」

「魔王ってのは変人が多いのか?」

 ちょっとした疑問に、ヴェルゼはにやりと笑った。

「魔王という存在は、例外なく狂っている。アンネローゼだけが特別というわけではない。魔王に選ばれる者は全員が狂っているからこそ、魔王たりうるのであろう」

 冗談めかした言葉に、俺はいくら初代原初の魔王ヴェルゼが相手でも気分が悪くなったのは当然だった。

「それは聞き捨てならないな。その言葉はエリアと彼女の父親クラディオを侮辱している」

 慣れ親しんだ十二代目霹靂の魔王エリアにそのような変人の兆候は見られないし、十一代目氷結の魔王クラディオもエリアから話を聞く限り、見事な政治的手腕で魔界を収め、父親としても素晴らしい存在だったはずだ。決めつけるような言い方に俺はヴェルゼを睨んだ。

「……すまない。軽率な発言だった。氷結の魔王はその本質に辿り着く前に命を落とした。しかし、霹靂の魔王はまだ狂気に至っていないだけだろう」

「――ッ!」

 俺が激昂して何かを言うよりも、ヴェルゼの言葉が早かった。

「狂気というのは、理性の喪失ではない。世界と折り合いをつけるために、自ら歪んでいく意志のことだ。魔王だけでなく、あの女神だろうと、さらに言えば勇者である君でさえそういうものである。絶え間ない波乱の中で、己を変えずに立ち続ける方が……遥かに難しい」

 俺は言葉を飲み込んだ。

 ヴェルゼの顔にはもう、皮肉はなかった。淡々と、それでもどこか過去を思い返すような眼差しだった。

 言い返すことはできない。俺も魔族を殺したくないのに殺さなければならないという矛盾に囚われて、エリアに連れ出されるまで狂気に飲み込まれていたのだから。ヴェルゼの言葉にある一定の説得力をどうしても認めなければならなかった。

「霹靂の魔王エリアもいつか本当の意味で魔王になる瞬間が必ず来る。その時、彼女がどんな本質を選ぶのか……私も見届けたいと思っている」

 そんな未来が来るとは思いたくなかったが、同時に、エリアの背負うものの重さを思えば、それが杞憂ではないことも俺は理解していたのだった。


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