64 『主人公』4627
敵を殺すほど強くなる加護。
それはまさに俺が望んでもいないものであった。
咄嗟に何か言おうとする俺の出鼻を挫くように、ヴェルゼは冷静な言葉で俺を押しとどめた。
「もちろん、君の真摯な想いは以前より見させてもらっていた。誰かの犠牲の上に立つ平和を望まぬことも、よく理解している。その想いは尊重すべきものだ。だが、いずれは理想だけでは立ち行かぬ時が来る。彼女は――本気で魔族を滅ぼすつもりらしい。誰も殺さずに済むなどと甘く考えぬことだ。君たちは、多くの敵に囲まれているのだからな」
「…………」
何も言えなかった。
かつての俺は勇者として大勢の魔族を殺してきた。不思議なほどに狭窄した視野で殺してきた魔族の数は、百とか二百とかで収まる範囲ではないだろう。心の奥底では、こんな戦争なんて嫌だ、と叫んでいても、整世教会の命令には抗えなかった。
だからだろうか。あの日、あの教会で出会った魔王エリアの説得に耳を傾け、彼女の旅に同行すると決めた。これ以上誰も殺さないために。これ以上誰も死なない世界のために。
残念ながら、彼女の騎士だったクルーガを斬ってしまうことがあったが、その後は絶対に誰も斬るまい死なせまいと命に刻んだ。先日のコズネスで起こった地霊族との争いでも、誰も死なせないためにエリアやオリバーたちと協力して奮闘したのだ。結果は報われて、誰も死なず平和に同盟が結ばれた。
そんな俺が誰かを殺すなんて、ありえない。この剣はもう誰かを傷付けるためのものではなく、誰かを救い助けるためのものなのだ。
であるからこそ、そんな加護を与えられてもどうしようもなかった。
しかし同時に、俺はヴェルゼの言葉が正論だと理解していた。
俺たちには敵が多い。コズネスの襲撃だって誰かの陰謀である可能性がある。その誰か、は話し合いや交渉が通じる相手なのだろうか。あの話が全く通じなさそうだった女神も、今後は裏切り者である俺を殺そうとするかもしれない。
理性ではそう理解しているゆえに、俺は何も言えなかった。
ヴェルゼは続ける。
「言うまでもなく、誰も死なない未来が最も望ましい。だが、あくまでそれは君の願望に過ぎない。誰かを救うための剣が、誰も救えぬなどということがあってはならない。……その加護は、現実に介入できぬ私からのささやかなお守り、その程度の認識で構わない。それを踏まえて、誰も殺さない選択をするのは君の自由だ」
上手いものだ。ヴェルゼは俺の譲歩を上手いこと引き出していた。
しかし、ヴェルゼが俺たちを心配しているのは嘘じゃない。彼は本当に俺たちの未来を案じていた。
もっと力があれば、加護を失った時に何度そう考えたものかわからない。一時の感情に身を任して断るのは簡単だった。だが、いつかそのせいで失敗を犯したとき、俺はその選択を後悔することになるだろう。
だからこそ、俺は渋々ながらも納得を見せた。
「……仕方がないか。だが、話し合いが通用するのならば、最後まで俺は俺なりの方法を諦めない。それでもいいか?」
「当然だ」
終わったとばかりにやれやれとヴェルゼは肩を竦めた。
不本意な結果でもあったが、当初の目標は達成できた。その感謝は本物だった。
「助かった、ヴェルゼ」
「礼は無用だ。主人公を支えるのが、私の役割だ。さて、エイジ――君は、これからどう動くつもりだ? 役目を果たしたゆえ外界へ戻るのもよし、答えを探してここへ留まるのもよし。どう動くとしても、最大限助けることを約束しよう」
その問いは、加護の取得という目標を達成した俺の、次なる行動を聞いているのだろう。
元々は再び加護を得るなりエリアとファイドルのもとへ帰るつもりだったのだが、しかし、本当にそれでよいのだろうか。相手は最も古い魔王、つまりエリアの祖先であるし、ここは歴代魔王が護ってきた秘密の空間だ。外では知ることができないはずの情報が得られそうな機会はまたとあるかわからない。
「しばらくここに留まっていいか?」
俺は、そう口にした。
ヴェルゼは驚きもせず、微笑を浮かべたまま頷いた。
「もちろんだ。君のような来訪者は珍しい。時間が許す限り、ここ秘逃禁書庫にいくらでもいて構わない。知を求めるならば、応えよう。……もっとも、全てに応じられるとは限らないがな。それより、君こそ問題はないのか。ここは地上と時の流れが異なる。ここでの一刻が地上での一日になることもあり、逆に地上での一刻がここでの一日になることもある。急ぐべき理由があるのなら、長居は勧めぬ。だが、滞在するというなら歓迎しよう」
「用事はない」
俺が頷くと、彼は立ち上がった。
「紹介すべき魔王がいる。来い」
彼は飲みかけのティーカップをそのままに、浮遊する本棚の間へと導くように歩き出した。どこにも道なんて繋がっていなかったが、ヴェルゼが歩く場所に本棚が出現し、彼が一歩歩くごとに新しい床が形成されていく。俺はその端から少し身を乗り出して、下を覗き込んでみた。そこはどこまでも本棚が続く奈落で、もし落ちてしまえばひとたまりもなかった。落下しないように細心の注意を払って、俺は彼の背中を追い掛けた。
奥へ奥へと進んでいると、ふと空気が変わった。やがて柔らかな暖かみを帯び、静かな華やかさが満ちてきた。やがて俺たちの眼下に開けた広場のような場所が現れた。
そこは無数の花々が咲き誇る秘密の庭園のようだった。空気は甘く、蜜のような濃厚な花の香りで満たされている。風はなくとも、花びらはゆるやかに揺れているかのようにふわりと漂い、色とりどりの花々が宙に浮かぶ小さな光の粒に溶け込んでいた。
頭上では知らない楽器が幾つも浮遊し、それぞれが微かな音色を奏でていた。木製のリュート、銀色の笛、琥珀色に輝く琴。さらに奇妙な形の管楽器や太鼓のようなものもあり、彼らは単独で、しかし見事な調和を奏でている。どこからか優しく響いてくる旋律は、空間を満たし、まるでこの場所自体が生きているかのように呼吸しているかのようだった。
広場の中央には、柔らかな光のスポットライトに包まれた女性がいた。彼女は長く艶やかな銀色の髪を持ち、深い青のローブを身に纏っている。彼女の手には大きな分厚い本があり、そのページは静かにめくられていた。彼女は声を発することなく、ただひたすらに文字を追い、読み進めている。
光は彼女の輪郭を際立たせ、周囲から降り注ぐ多方向の光線が彼女を中心に放射状に広がっている。まるで神秘的な神殿の聖域のように、まわりの空間を凛とした神聖さで満たしていた。光は柔らかく、しかし明瞭に彼女の表情や仕草を浮かび上がらせ、その静かな動作さえも神聖な儀式の一部であるかのように見えた。
「っ……」
俺は息を呑み、思わず立ち止まった。ここはただの図書館ではなく、時間と空間の狭間にある秘密の聖域。その中央に佇む彼女は、この場所の主か、あるいはこの空間のすべてを司る魔王の一人に違いなかった。
ヴェルゼは俺の肩に軽く手を置き、低く囁いた。
「彼女は二代目聡明の魔王アンネローゼ。来訪者との問答を好む風変わりな魔王で、ここに来た旅人は必ず彼女に紹介している。……ただ、全くもって掴みどころのない性格が特徴で、会話も一筋縄ではいかないが、有意義な対話になるはずだ」
その名前は何度もエリアとの会話で挙がった名前だ。あらゆる事象に対しての知見に富んでいて、政治の手腕も見事だったという。魔族を最初に纏めたのは俺の隣にいる原初の魔王ヴェルゼであるが、今のような自由共存といった仕組みの基礎を築いたのは彼女であるらしい。
アンネローゼは軽やかに奏でられる旋律に耳を傾けながら、静かに本を読んでいた。
ヴェルゼは本棚をぴょんぴょんと踏み台にして、その広場に降りていく。俺は踏み込んで大きく飛ぶと、その中央に着地した。
聡明の魔王アンネローゼは俺たちに気付いたのか、しかし、分厚い本から目を離さずに、ふわりと笑った。たったそれだけで俺はヴェルゼが彼女を掴みどころのない性格だと表現したわけが理解できた。
「来訪とは、まるで風が通り過ぎるようなもの。掴もうとしても、指の間からすり抜けていく。風はね、いつもここにあるけど、掴めないもの。掴めたら、困るのよ、誰も」
彼女はぱたぱたとページをめくりながら、まるで違うことを考えているかのように続ける。
「――時間? それは不思議なもの。過ぎるもの、残るもの、消えるもの。時間はね、光の影を捕まえるようなものよ。影はあるけど、光は掴めない。だからここではゆっくりでいいの。ゆっくりしないと、光が逃げちゃうから」
彼女はふわふわと視線を彷徨わせ、断片的な言葉を紡ぎ出す。
何を言っているのかわからない。何か意味があるのだろうと直感的には思うのだが、残念ながら俺の理解力が低いのか、アンネローゼが伝えんとしていることを俺は全く理解できなかった。それともヴェルゼもそのような片鱗を見せていたことだし、まさか魔王とは常人では理解できない変人の代名詞なだけか。
紡がれる意味の理解を俺が諦めかけていると、唐突に聡明の魔王アンネローゼが話し掛けてきた。
「……本は、好き?」
「本?」
その問いは柔らかでありながら、言葉の奥底に小さな迷い石のような重みを含んでいた。彼女は続ける。
「本とはね、文字のありか。文字とは、時を超えて記される、歴史の種子。頁を紐解けば、それはただの記録ではなく、過去という地層に繋がる扉となる。誰かが綴った言葉は、記憶となって、人の歩みを支えてきた。だからこそ、古来より人は知の断片を本へと閉じ込めた。綴られた文字が、やがて歴史という名の川に流れ込むことを、無意識に知っていたのかもね。けれど、もしすべての本が塵となり、言葉が跡形もなく消え去ったなら……歴史もまた、失われるのかしらか。誰が何を為したのか、誰の声がこの世にあったのか、すべてが無に還るのだとしたら――」
そこで彼女はぱたりと本を閉じて、その背表紙に指先を滑らせながら、視線を虚空へと投げた。
「――私は罪に生きるのかしら。もう誰も覚えていない歴史だとしても」
彼女の言葉が宙に残響する中、俺は一瞬だけ視線を落とした。どう返せばいいのかわからなかった。思慮深いようで、底の見えない問いだった。喉元に言葉がせり上がってくるが、うまく形にならない。形而上学的な質問はまともな教育を受けてきたことがない俺にとって、理解自体が難しいものだった。
アンネローゼは悩む俺のことなど気にも留めていないといった様子で、額にかかる銀の髪を指先で掻き上げた。
俺は軽く息を吐いた。難しく考える必要はない。胸の内に沈んでいた想いを、そのまま少しずつ言葉に変換していく。
「あまり本を読まないからわからないが……、罪かどうかなんて、残されたものがどう生きるか次第じゃないか? むしろ過去がないというのは、案外自由なのかもしれないな。まっさらな頁に新たな文章を紡ぐことができるということだろ?」
俺が答えると、彼女は顔を上げた。
「――貴方、面白いね。まるで夕闇に混じる宵闇のよう」
聡明の魔王アンネローゼの瞳が俺を射抜いた。それは初めて彼女が俺の存在を認識した瞬間のようだった。




