60 魔王の墓7358
意識は引き裂かれ、身体の境界が曖昧になる――そのまま、一瞬、何もかもが消えた。
そして、急に。
まるで遠く離れた場所から自分の身体が落ちてきたかのように、重力が支配を取り戻す。足裏にずしりと重心が戻り、膝に軋みを感じた瞬間、転移が終わったことを悟る。
古の大戦で失われたという伝説の魔法、転移魔法を経験するのはこれで二度目だ。しかし、まだこの景色が移り変わる感覚には慣れていない。いや、なれるものではないのかもしれない。以前は驚きの方が勝ったが、今は身体が自分を取り戻すような違和感が不快だった。
浮遊感と眩い光が収まると、俺たちは別の場所にいた。
先ほどまでの食堂ではなく、そこは完全な暗闇だった。少しの光源さえない暗闇。
何も見えない。空気の流れすら止まったかのような静けさ。ここがどこかを判断する材料は、わずかな足元の感覚と、皮膚に触れる冷気だけだ。加護を失った今の俺には、かつてのように暗視することもできない。ただ、重ねた掌から伝わる体温で、エリアとファイドルの無事はわかった。
何かを口にしようとしたとき、エリアの声が小さく響いた。
「すっ、すまぬ、忘れておった。光素召喚――」
彼女の手から放たれた光が、宙に漂い、やがて天井の照明や壁に掛かった燭台へと吸い込まれていく。ゆっくりと、暖かな光が部屋を満たしていった。
なるほど、そこはまさしく執務室だった。
豪奢で重厚な一人用の大机が中央に置かれ、壁面のほとんどは本棚に覆われている。外界と繋がる唯一の窓は厚い緞帳に覆われ、書類の積まれた棚や文具のひとつひとつに至るまで、管理された静謐さと威厳が漂っていた。
「出迎えは……ないんだな」
俺がぼそっと呟くと、耳聡いエリアが小さく笑う。
「当然であろう」
そう言いながら、エリアは掌に握っていた転移魔法の遺物に視線を落としていた。二度も失われた魔法を再現したそれは、どうやら使用回数に達したようで、粉々に砕け散っていた。もしかしたら帰りも楽できるかもしれないと淡い期待もあったが、これで片道分は自分の足で移動しなければいけないことが確定した。
エリアはどこか哀しそうに眉を顰めたが、収納魔法に落としてから言葉を繋げる。
「転移で戻るなど、誰にも告げてはおらぬからの。それに……この部屋に入れるのは妾ただ一人。鍵は妾が持っておる。それゆえ、魔王代理に選ばれた者は別の部屋で執務をしておろう」
「そうか鍵を……そうだ、『鍵』だ。エリア、あの『鍵』は結局どこのものなんだ?」
その問いにエリアは答えず、静かに窓辺へと歩いていく。分厚い緞帳を払って窓を開けると、冷たい夜風と共に、白い粉雪がふわりと吹き込んだ。
どこか遠くで、風が木立を揺らすような音がする。開いた窓の向こうは、ぼんやりとした闇。見下ろしてみると、降り積もった雪が月明りを反射していたが、外に何があるのかまだ判然としない。
地霊族の村ではまだ昼だったはずだ。しかし、ここは夜の帳が訪れていた。時間も、場所も、転移によって飛び越えたのだと、今さらながら実感する。
「この下は魔王城の中庭となっておる。目的地はそこじゃ。――風素召喚・落下相殺・構造強化・全開放」
エリアが素早く詠唱した。風素で滑空する術式だ。
「詠唱なんかして、どうするつもりなんだ?」
「エイジは人族ゆえ、誰にも見付かってはいけぬであろう? 城内を通らずに、ここから行けば警備にも見付からぬじゃろう」
エリアはそう言い残すと、止める間もなく、窓から身を投げ出した。
慌てて俺が覗き込むと、見事な滑空術で地に降り立ったエリアが、ここだと主張するように大きく両手を振っている。他に手段はない。窓から行くしかないようだ。
「ファイドルはどうするんだ? 魔法、使えないだろ?」
俺が尋ねると、彼は鼻を鳴らした。
「はっ、小僧に心配されるほど落ちぶれてねえよ」
言いながら、無造作に窓枠から飛び降りた。魔法もなしにどうするつもりだろうと見ていると、器用なことに着地と同時の前転でごろりと受け身を取っていた。確かにそれで衝撃を受け流せるかもしれないが、とはいえ、ここから地面までかなりの距離だ。地霊族であり、なおかつ加護を持っていて身体が丈夫なファイドルにしか難しい技術だろう。
特別なことは何もなく、俺はエリアと同じ術式を詠唱し、二人の後を追う。もちろん、その際に蝋燭の火を消すことも忘れない。ふわふわと二人の元へ落下しながら、周囲を見渡す。
魔王城の中庭、は想像していたよりも広かった。
半径は五百メルとぐらいか。見える範囲はすべて花壇で埋め尽くされており、整然と並んだ石畳の小道がその間を緩やかに蛇行していた。
目に入る花の種類は多彩だった。ヴァイシアといった馴染みのある花もあれば、見たことのない形状や色合いの花もある。葉や花弁の縁が薄く発光しているようにすら見え、降りしきる雪を柔らかく反射していた。混ざり合った花々の香りは強すぎず、むしろほのかに漂う程度で、訪れる者の鼻先を優しく撫でていく。甘い匂いにまじって、どこか冷たい空気の清廉さも感じられる。
楽園があるならこれだと断言できるほど素晴らしい様相だった。
ただ、時間帯だけが惜しい。
本来であれば色とりどりの花々が咲き乱れ、視界を鮮やかに染めていたはずだ。しかし今は夜。明かりは月の光と、雪に染まる白だけ。花の輪郭は見えるが、その美しさのすべてを味わうには暗すぎた。
それでも幻想的な静けさがあり、息を吸うたびに身体の芯が澄んでいくようだった。
しかし、冬なのにヴァイシアの花を見るなんて。
「これは……どういう原理なんだ?」
「どう、とは?」
「ヴァイシアは深い森でありかつ日光が当たる場所にしか生息しない。しかも、春だけしか咲かない花だ。なのに、なんでここにあるんだ」
ヴァイシアの花が咲くには、ここは寒すぎる。
よくよく見れば、ちらほら季節外れだったり生息地域が異なる花が幾輪もあった。砂漠地帯でしか生息しないはずのオアシスリリィ、高くそびえる山脈の頂にしか生息しないシルフィアグラス、新月の暗闇でしか咲かないというクレハローザ。ここまでくるといくらなんでも偶然ではないだろう。
エリアは俺とファイドルを先導しながら、得意げな口調で言った。
「そのことかの。簡単に説明すれば、妾にもわからぬ」
「……は?」
得意げな口調だったのに想定外の返答で、俺は間延びした声しか出せなかった。
「解明されておらぬのだ。なんでも、それぞれの花の周囲だけそれぞれの花が好む気温になっており、雪や雨の影響を受けないらしいのじゃが、その原理はわかっておらぬ。伝説では二代目聡明の魔王アンネローゼが造ったとされておる。彼女は有り余る才覚で現代にも伝わる数々の遺物を残したが、その最も異色なものがこの庭園じゃ」
「へえ」
興味深い話に俺は聞き入った。エリアは歴代魔王の話をするのが好きなのだろうか。活き活きとした声音で続きを話す。風に乗って舞い落ちる雪が彼女の髪に触れ、白く染めた。
「そう、この魔王城は本来ならばありえない現象が多く観察できる。例えば、いま向かっている場所もそうじゃ。迷路のように入り組んだ通路を、間違いなく正しい道順の通り進まなければ辿り着かぬ。風素で飛び越えようとしても、いつの間にか迷ってしまう。まるで幻覚を見せる魔法が掛けられているようにな」
「……そんなことありえるのか?」
「聡明の魔王アンネローゼは本当に多才じゃったらしいからの。失われた古代の魔法も彼女なら全て扱えたとか、あらゆる分野に精通しており知らないことはなかったとの伝説もある」
そこでエリアは、ふと足を止める。雪を踏みしめる音が止み、沈黙が中庭に落ちる。そして、どこか懐かしそうに微笑みながら付け加えた。
「実のところ、この正しい道順を知る者は、妾と――ここの庭師だけじゃ。ずっと昔、妾がここへ連れてこられた頃にな、父に一度だけこの庭の最深部を見せてもらったことがある。そのときの道順を、今も忘れてはおらぬ」
エリアのその横顔は、どこか誇らしげで、そして少しだけ寂しそうにも見えた。その言葉を最後に、彼女は黙った。
エリアは俺とファイドルを引き連れながら、歩みを進める。
中庭――というにはあまりにも広すぎるこの空間は、エリアが迷路と表現したように、ただ広いだけではないようだ。花壇と小道が何層にも交差し、分岐に次ぐ分岐、回廊めいた植え込み、視線を遮る樹木の列、そして足元を導く石畳までもが、どれもこれも同じような景色ばかりで区別がつかない。まるで城郭都市のコズネスを彷彿とさせる。
この道、さっきも通った気が……。気付けば自分がどんな道を歩いてきたのかわからなくなっていた。必死に道順を記憶しようとしていたが、曲がった回数を数えても、目印になるものがなさすぎる。咲いている花はどこも似たような色彩で、甘い香りが空間を均質に包み込み、方向感覚さえ鈍らせてくる。
それでも、エリアは迷いなく、まっすぐに歩き続けていた。先導する彼女の背中は自信に満ちており、時おり振り返ることはあっても、道を確認する素振りすらない。これではもし次回があるならば、また彼女に頼らざるを得なかった。
一刻にも感じられる移動だったが、冷静に考えれば五分もかかっていなかっただろう。だが、それでも妙に長く感じられる時間だった。
それにしても、おかしい。俺は違和感に気付いた。エリアの話では数が少なくても警備がいるはずだった。しかし、この広い中庭にそれらしい姿は一度も見ていない。見張り台もないし、何より――暗すぎる。街灯は一本も立っておらず、照らすのは頭上の月明かりだけ。これではもし侵入者があっても、まず気付けないだろう。俺たちは普通の声で会話していたし、雪の上に足跡まで残している。だというのに、エリアはそれを一切気にする様子がない。
つまり、問題がないと断言できる何かがあるのだろう。あるいは、何者も侵入できない構造なのか。だとすれば、実際にあるのかわからない複雑な道順と幻覚のような仕掛けこそが、この中庭そのものの防衛手段なのかもしれない。
ようやく、開けた場所へと抜け出したとき、俺は無意識に息を吐いた。
「ここじゃの」
「ここは……」
「中庭の中心にこんな場所があるなんて、俺でも知らなかった」
石畳の一本道。左右にそれぞれ五六体の石像が立っていて、間の通路を抜けたその先に、人界で例えるなら地下墓地の入口みたいなものがあった。
「ここは歴代魔王の墓場じゃ。奥から順に初代、二代目と続き、その石像はそれぞれの姿形を表していると伝えられておる。一部には――名前は記されず、像も建てられぬままの者もおる。まあそれは特別な事情があった例外じゃが……それぞれの遺体は綺麗な形で石像の下に埋葬されておる。ゆえに、ここはれっきとした墓じゃ」
「なるほど」
俺は頷きながら、一番近い石像へ近づく。
青年の石像だ。色がないため外見だけの判断になるが、これといった身体的特徴がないことから魔人族だろう。オリバーのような整った美形の顔で、どこか遠くを眺めている。風に靡いて躍動感のあるコートはいかにも魔王らしい服装で、石像でありながらも生前の強さを彷彿とさせる。
石像の台座に書かれた説明は、これが「十一代目氷結の魔王クラディオ」であるらしい。つまり……
「これが、エリアの父親なのか……」
「そうじゃの、民に慕われた立派な父親じゃった。……まあ、妾もそうなのじゃがな。もし妾が死ねば、父親の石像へ向かい合うように妾の墓が建てられるであろう」
「おい、やめろ。不吉だぞ」
俺とエリアがそんな会話を繰り広げていると、友の墓には興味がないといった様子のファイドルが、石像に挟まれた一本道の最も奥側で声を上げた。
「おい! ここか、エリア嬢ちゃん」
「うぬ、すぐ行く」
エリアと俺は十一代目魔王の石像から目線を外して、雪に足を取られないようにファイドルの元へ走り寄る。
ファイドルが見ていたのは、地下墓地の入口のようなところ。だが、そこは格子状の扉で来る者を阻んでいた。注釈するなら、その格子の材質はまるで透明感がある金属のようなもので、月明かりしかないのに、それ以上の明るさの煌めきを周囲に放っている。俺でもわかる。あの鍵はここのものだ。
俺は指先でその格子扉に触れる。ひんやりとした硬い感触。次に、格子と格子の間に手を入れてみようとすると、見えない壁がそこにあるかのような反発感だけを残し、指先さえ間を通すことができない。不思議な抵抗力を持つ障壁があるみたいだ。
「この格子の先が、そうか?」
「うむ。この先には何があるのか、妾も知らぬ。幼い頃から気になっていた妾は様々な方法でこじ開けようと試したが、全力で放った八重魔法でさえ傷も付かぬ。内側からの魔法も試したことがある。扉越しに魔法の構築をしようとしたら、魔力が霧散するという謎の現象が起こるばかり。その障壁は光だけ通すのではないかと仮定し、光素を使っても不可能。開ける手段はないと諦めていたところで、ファイドルの『鍵』じゃ」
エリアが全力で放った八重魔法でさえ傷が付かないなんて、どれほど頑丈なんだ。炎龍の鱗を貫いた俺のスターダスト・スパイクでも、同じ結果にしかならないだろう。なのに、それをたった一本の鍵で開けることができるのか。
そんな俺の考えとは裏腹に、エリアはいたって気軽に鍵穴へそれを差し込むと、開いて当然といった様子で回す。
がちゃり、とした乾いた音と共に格子扉が僅かに開く。
「……開いた」
その先に現れたのは、深い深い階段だった。底は見えない。
光源もないのだから、ぽっかりと地中に開いた底知れぬ穴みたいな印象を与える。
ファイドルの話だと、この階段の先に過去死んだ歴代魔王がいて、加護を貰える可能性があるらしい。
逸る気持ちのままに俺が一歩を踏み出そうとすると、エリアが呼び止めた。
「少し待ってくれぬか。これが……ずっと気になっておったのじゃ」
エリアが屈んで、何かを拾い上げた。小さな手帳、だろうか。赤い革表紙の古い手帳で、表面には何も書かれていない。なるほど。格子扉の向こうにこれが置いていて、外からは見えても取ることはできなかった、ということだろう。
「……父親の文字じゃな」
ぱらりと手帳を開いたエリアが、そう呟く。
俺とファイドルは黙って、耳を傾けた。
「うぬ、少し文字が霞んでいて読みにくいが、なんとか……『愛しの我が娘へ』『これを読んでいるということは、何か困ったことになっているのだろう』『この手帳が何か一助になってくれれば幸いだ』……なるほど、あの氷結魔法について書いておるのか」
その手記を見詰めるエリアの眼差しは冷静そのものだった。それは、感情の高ぶりではなく、静かな使命感と責任だった。
氷結魔法。それはエリアの父クラディオが使ったとされる創造魔法のことだ。この世界には熱素、風素、水素、泥素、光素と様々な魔素が存在しているが、ものを凍らせるどころか冷やすことができる魔素は誰も知らない。そんな既存の魔法体系から逸脱した、氷結の魔王という肩書きの由来ともなった魔法である。
エリアの視線が頁の上で移動する。父クラディオが残した文字という記憶を読み込んでいるようだ。
「……氷結魔法は温度を下げる魔法。『温度とは物質が持つ小さな小さな粒と粒の摩擦のことだ』――よくわからぬ。粒同士の摩擦が多いと温度が高く、摩擦がなければ温度が低い。なるほど? 『熱素は一般的に粒と粒を擦り合わせるものだが、実は逆の現象も起こせる』つまり、温度を下げることもできるということかの。理論上は『絶対零度』という温度まで……なるほど! これなら妾にも氷結魔法を再現できる!」
ぱあっとエリアは顔を輝かせた。
しかし、俺の顔を見た瞬間、萎れるように気落ちした。
「……エイジ」
どうすればいいのか悩んでいる様子だった。彼女と過ごした日々はあまり長くもないが、何を躊躇っているのかは簡単に理解できた。エリアとしては父親が残した手記を読み解きたいのだろう。しかし、最初はこの先へ進む俺に同行するつもりだった。どちらを優先するべきなのか悩んでいたのだ。
俺は少し黙り、そして軽く首を振る。
「行け。……それはエリアの父親が遺してくれたものなんだろ? お前がそれを読みたいと思うのは当然だ」
「エイジ……」
「俺のことは気にするな。必ず目的を果たし、騎士としてあるべき力を得て戻ってくる。だから、信じて待っていて欲しい。それにエリアが父親の創造魔法を使えるようになったら、俺にとってもありがたいしな」
彼女を落ち込ませないように、俺はできる限り明るく伝える。
アガサはしばらく俺と視線を交差させて、やがて、くしゃっと顔を綻ばせた。
「うぬ、感謝する。……そうじゃ、もしかすれば必要になるかもしれぬ。持っておれ」
エリアは俺に何かを投げて渡した。見ると、格子扉を開けた鍵だ。七色の神々しい光が降り積もった純白の雪を彩る。
「では、気を付けての。ファイドルも、エイジをよろしく頼む」
それだけ言うと、彼女は嬉しそうに踵を返し――雪に足を取られながら、魔王城の方へ駆けていった。
その小さな背を、俺はただ黙って見送るしかなかった。夜風が、白い吐息を吹き飛ばしていく。名残惜しさが胸に渦巻いたが、今はそれに蓋をするしかない。
「じゃ、行くか」
俺は階段の前に立ち、深呼吸をゆっくりと終えた。そして、奈落へ向かう階段に最初の一歩目を踏み出した。




