41 VS, ファイドル(2)9797
「ぐっ……」
口内から噴き出した血は俺の身体を濡らすかと思われたが、服に朱が差す間もなく、俺は木ノ葉の如く吹き飛ばされていた。
上下感覚がわからなくなるほど搔き乱され、たぶん背中から地に落ちた。瞬間、全身に灼熱感が駆け抜け、激しい痛みで視界が真っ白に染まる。
無意識に血の混じった胃液を嘔吐し、そして呼吸をしようとして、しかし、できなかった。肺に酷い痛みを感じる。息を吸おうとすると、背骨に杭を打ち込まれたかのような、抑えようもない激痛で涙が溢れる。
――だが、何も問題はない。
やはり加護は万能だ。
内臓にいくらかの損傷を感じるが、放置していても数刻で治るだろう。
これがもし体術ではなく剣術だったら、こうはいかない。チェストプレートはどこまでいってもお飾りなもので、ファイドルが本気の古代流派剣術を振り抜けば、まるでバターの如く一刀両断されていたところだ。武器を扱わない体術であったからこそ、命を取り留めた。
いや、違う。そもそもファイドルに俺を殺すつもりはない。最初の一合で俺が不利なのは明らかなのに戦いが長引いたのは、どこかファイドルに手加減している節、戦いを楽しんでいる節があるからだ。それはこうして地に伏して無防備な俺へ追撃が来ないことからもわかる。
ここは戦場だ。戦場とは本来、傷を癒す時間なんて存在しない。だが、ファイドルは俺が立ち上がるのを待っている。俺の存在を、歯牙にも掛けないと思っているのだろう。実際そうだ。俺から闘いを挑んで、見事に返り討ちに合っている。
それでも、元々の目的は、ファイドルを足止めすることだ。彼が俺に構っているのなら、俺の勝利である。まだ戦いは終わっていない。
剣を支えにふらふらと俺が立ち上がると、呑気に待っていたファイドルがおもむろに声を掛けてきた。
「なあ、エイジ。小僧は魔王の居場所を知っているのか?」
「……知っている」
一般的に争いが起きる原因は、土地や資源の奪い合い、民族や宗教の違いによる軋轢といったものだ。しかし、今回のコズネスと地霊族の争いはそのどれともと異なる。エリアから届いた手紙によると、経緯は複雑だ。
まず、眼前のファイドルという男は数年前とある容疑を掛けられて、当時それを晴らしたのが魔王に即位したばかりのエリアだった。そのため、ファイドルたち地霊族はエリアに恩義がある。しかし、ファイドルは地霊族を纏める族長だったので、魔王城から遠く離れた地霊族の集落で過ごすことが多く、エリアと会うことはそれからなかった。時が経ったある日、ファイドルの部下から『魔王がコズネスに囚われている』といった噂が報告される。一見すると突拍子もない話だったが、同期に魔王城から魔王失踪の伝達が届き、一定の信憑性を得てしまった。その噂の真偽を確かめるべく、そしてそれが真実だった場合はかつての恩に報いるべく、囚われし魔王を解放するために進軍が決定された。らしい。
いやいや、馬鹿だろ。詳しいことは知らないが、そんな根も葉もない噂を信じるなんて馬鹿なやつがすることだろう。……魔王エリアはコズネスにいたのは事実だから、根も葉もある噂になるのか。ややこしい。
加えて、ここまで実際に進軍してきたということは、彼らと接触したはずのエリアは魔王本人だと信じられなかったらしい。
「確かに、魔王エリアはいまこの街にいる。だが、あんたはその情報源も不確かな噂を信じたのか?」
「信じるわけないだろう。だが、部下の圧力が強くてな。……先代魔王のクラディオは本当に素晴らしい方だった。そして、俺たち地霊族はあいつに、あいつの娘に多大なる恩義がある。感情的になった部下を黙らすことは不可能だっただけだ」
「なら、ファイドルたちに魔王エリアを名乗る少女が接触したはずだろ? そいつが本物だとは考えなかったのか?」
「あの小娘か? 似ていても、あいつは魔王じゃねえ。俺は魔王に一度だけしか会ったことがないが、違うのはわかる。エイジにはわからんと思うが、魔王ってのはもっと――」
そこで言葉を途切れさせたファイドルに、助け舟を出す。
今のエリアには面影もないが、教会で対峙した際の十二代目霹靂の魔王は俺も知っている。
「魔力の渦、だろ?」
「そうそう、凄まじい魔力が滲み出ていた。実力ってのは隠そうとしても隠せねえ、能ある鷹じゃねえんだ。それがあの嬢ちゃんには感じられなかった。……それに、あの嬢ちゃんは常に白狐族の仮面をかぶったままで、一度たりとも顔を見せなかったからな」
何してんだ、エリアは。
魔王だと信じられたいのなら、自分の顔を見せるべきではないか。少なくとも一度は顔を見せている相手だし、思い当たる節があったかもしれないのに、あのお面で顔を隠すなんて。
いや、あの聡明なエリアのすることである。何か理由があったに違いない。
「――まあ、いい。俺の目的は魔王がコズネスにいるという噂の真偽を確かめること。そしてそれが真実なら魔王の身柄を奪還することだ。それが達成できるのなら、小僧ら人族と戦闘をする必要がない。俺らは本心から誰も傷付けたくねえと思っているからな」
「だが、地霊族は軍を起こした」
「それだけ俺たちにとって魔王が大切な存在だったってだけだ。だから、小僧。おとなしく魔王の身柄を引き渡してくれないか? そうすれば、俺たちは危害を加えることなく帰る」
真摯に頼むファイドルに対し、俺は握る宵闇の剣を掲げることで答える。
「断る。その要求は飲めない。だから、エリアに会いたいのなら俺を倒してみろ」
「はっ、いい顔だ。俺がお前よりも強いことを知ったのに折れねえその志。俺は諦めねえ奴が好きなんだよ」
ファイドルはそこまで言うと、ここが戦場だったのを思い出したのか、鉈のように太い剣を俺に向けて構えた。その先端を天へ掲げるように伸ばし、腰をずしっと落とした。流れるような、しかし、堂々としたその動きは、やはり伝統の重みを感じさせる。
対して俺は、現代流派剣術アッガス流の標準的な構えを取った。全身を自然体に落とし込み、剣は正中線から気持ちばかり左へ傾ける。攻撃にも、防御にも、反撃にも転用できる構えだ。古代流派剣術はファイドルに劣るし、スターダスト・シリーズは強力すぎるがゆえの多大なる隙があるため、アッガス流が最適解だ。
内臓の痺れるような痛みは無視して、俺は前へと飛び込む。
「お……おおおっ!」
慣性に従い後方へ倒れた剣が薄緑色に輝く。たった一歩の踏み込みが剣技により増幅され、疾風の如くファイドルに肉薄する。
反対に、ファイドルが掲げていた剣は燃え盛る炎のような紅色の燐光を纏い、俺の剣を迎え撃つかのように振り下ろされる。だが、あそこまで真っ直ぐと上げられていた剣だ。簡単にその軌跡が予想できた。
俺は僅かな動きで回避するために、身体を傾けた。予測の通りに、その真紅の剣は先ほどまで俺のいた場所に振り下ろされ――
次の瞬間、予期せぬことが起こった。
恐ろしい速度で迫る剣尖が、ブレた。俺の見間違えではない。確かに、その剣が陽炎のように霞んでいる。まるで波打つかのようなそれは、もはや予測できない。
「古代流派剣術、影炎」
知らない剣技の名前が、ファイドルによって呟かれた。
仕方ない。
俺はすぐさま、剣技を切り替えた。
現代流派剣術アッガス流三連撃剣技ストームエッジ。
本当はこの上位技である四連撃剣技サイクロンエッジを発動するつもりだったのだが、ファイドルの剣筋が不確定な今、それを受け止めることを優先した。
「ぜやッ!」
一撃目は同じ軌道を描くため、切り替えは自然に成功した。右斜め上から打ち出されたペールグリーンの暴風が、迫りくる憤怒の暴力と衝突する。鮮やかな火花を散り乱し、その威力を削いだが、依然としてファイドルの剣は迫ってくる。
一呼吸する間もなく、線対称のように、左上から二撃目を放つ。それもまた弾き返されたが、すかさず剣が不可視の力に引っ張られ、再度、加速する。右からの水平斬りが今度こそファイドルの剣技を押し止める。流れからするとそのまま幾度目かの鍔迫り合いになるが、彼の武器は剣術だけではなく、体術もある。鍔迫り合いの最中に膝蹴りが来ないとも限らないため、俺は押し込まれる腕力を利用しながら、深く後退する。
対峙する距離は心の余裕。どっと今更ながらに心拍数が急上昇する。
まさか、既に極めたと思っていた古代流派剣術に、俺の知らない剣技があるなんて。
あの時、剣技を切り替えていなかったら。今度こそ、その刃は俺の身体を斬り裂さく所か、文字通り一刀両断していただろう。やはりファイドルは俺より強い。普通に戦えば絶対に勝てない。
こうやって斬り結んだことで、再び俺は自身の実力不足を認めた。現代流派剣術は完全なアドバンテージにはなり得ない。すぐさま対応されてしまう。俺の実力が足りない。全てがファイドルと比べて劣っている。知識も、経験も、勘も、実力も、反射速度も、身体能力も。俺が彼に上回っているのは、発動に隙が発生する勇者専用剣技を除けば、魔法が使えるということだけだ。
とはいえ、既に増強魔法が二重で掛かっている。別の魔法を使う余裕なんてないし、放棄して再詠唱するような時間をファイドルがくれることはないだろう。だが、魔法は俺に許された道具である。地霊族であるファイドルは魔法が使えない。たぶん、詳しいことも知らないはずだ。だからこそ、どんな魔法を使っても、僅かなりともその思考を遅らせることができるだろう。が、やはり別の魔法を使う余裕なんてない。俺の限界は二重魔法なのだ。
そこまで考えを巡らせて。
「――ん?」
邪道とも言えるある方法を思い付いた。
魔法でありながら、詠唱を必要とせず、魔力が残っている限りあらゆる場面で発動できる特殊な魔法があるではないか、と。
思い立ったが吉日。
発動したのは、古代流派剣術で最も単純な剣技である紅弦。威力は高いが動きが読みやすい。初撃が同じ動きの噴炎もあるとはいえ、ファイドルはこれが紅弦だと即座に判別したようだ。
「……ここにきて力比べか?」
ファイドルはそう呆れたように言うが。
何か狙いがあるのか、面白い。
と言外に、左右反転する鏡の如く俺と同じ紅弦を発動した。二本の深紅に染まった剣が引き合うように、紅色の尾を引きながら重なる――このまま衝突すれば、俺が力負けして吹き飛ばされて負けるだけだ。
交差する瞬間に、魔法でありながら特殊な魔法、収納魔法を使用した。
「な!?」
別次元に収納したのは、握っていた宵闇の剣。これならば二重魔法までという俺の限界を超えることができる。迫りくる衝撃に備えていたファイドルは踏ん張り効かずたたらを踏み、よろけるような紅弦を俺は最小限の動きで避ける。俺の左半身すれすれの場所を大剣が通過し、地面へめり込んだ。
ここからだ。
流れるように頭上で掲げていた右手へ宵闇の剣を亜空間から取り出し、無防備のファイドルへ振り下ろす。剣技の輝きは既に消えているが、それでもアダマント製宵闇の剣自体の重さと、俺の腕力による振り下ろしである。致命傷には届かないにしても、その身体へ初めての攻撃が届かんとした。漆黒の輝きがファイドルの首筋へと迫る。
「嘘だろ……」
だが、驚きの声を上げたのは俺だった。
宵闇の剣を止めたのは、顎の力だった。上下の歯でガキリと剣を喰い止める、噛み止めたのは流石に想定外だった。器用すぎる芸当だ。押し込もうと腕に体重を乗せるが、びくとも動かない。普段から何を食べればここまで咬合力が鍛えられるんだよ。
内心で毒突きながら俺が悪戦苦闘していると、ファイドルは地面へめり込んでいた大剣を持ち上げて不安定な体勢のまま斬りかかってくる。
「くっ!」
咄嗟に俺は剣を収納魔法に再度落としてから左手へ取り出して、こちらも不安定な格好で何とか防ぐ。それにしても比ぶべくもない筋力だ。防ぐことは早々に断念して、勢いのまま吹き飛ばされることで仕切り直しを図る。
「やるな、小僧」
「……そちらもな」
互いに相手を褒め合う。しかし、素直には喜べない。
先ほどの一撃は俺が考えた一回限りの攻撃方法である。同じ技はもう通用しないだろう。だからこそ、ここで決めたかった。魔法はこれで封じられたと思って構わない。
エリアの騎士だったクルーガから着想を得て、アガサとの模擬戦で披露した簡易魔法陣を使った戦闘方法もあるにはあるが、残念ながら手持ちが全くなかった。模擬戦で出し惜しみなく使いきってしまったし、製作者であるエリアは地霊族の潜入任務へ出掛けてしまい、アガサは魔力移動魔法とかいう創造魔法の開発で忙しかった。自分で作れよ、と思われるかもしれないが、俺はそこまで魔法に精通しておらず、ましてや魔法陣なんて理解できるはずがなかった。
というわけで、魔法は封じられてしまった。
もう万が一でも俺に勝ち目はないだろう。
全てにおいてファイドルは俺と隔絶した実力の持ち主なのだから。
だが、俺に任された使命は時間稼ぎだ。
考えれば、ファイドルにわざわざ俺と戦う必要はない。一人だけ戦場を突き抜けて、本来の目的のためにコズネスへ向かえばいいだけだ。それなのに、こうしてここに留まるのは、少なくとも俺との戦闘に楽しみを見出しているからだろう。
奴に俺の知らない剣技があるなら、俺にも奴の知らない剣技があるのは道理。俺にはこの数年間で学んだ何種類もの現代流派剣術がある。勝機はそこにある。奴の興味を引き続けることで、エリアとアガサの準備が完了できるまで時間を稼ぐ。
ただし、時間を稼ぐからと言って、手を抜いていいわけではない。ファイドルが俺よりも強いのは事実であり、手抜きを許してくれそうにもない。
闘いに負けても、任された勝負には負けたくない。
「――はっ!」
俺は渾身の力で宵闇の剣を打ち込んだ。ファイドルが弾く。迫る古代流派剣術。黄色に煌めく俺の剣技。劈くような金属音。赤、青、黄、緑、様々な色が幾重にも混じり合う。培ってきた経験をここで全て出し切る。
サイクロンエッジ。旋緋。フォール・リリィ。噴炎。スターダスト・スパイク。紅車。フォール・キャメリア。
俺は咆えた。ファイドルも咆えた。
色とりどりの眩い閃光が辺りを染め上げる。命が燃え盛り、この一瞬へ賭ける。相手の攻撃を見てから反応しても遅い。感覚で、しかし、ある一種の直感を頼りに剣を振るう。避けて、弾いて、逸らして。一息する間に、数手の攻防が入り混じる。互いに互いの行動を先読みするために、互いに互いの目線を辿る。
ニードルベアと戦った時も、炎龍と戦った時も、クルーガと戦った時も、アガサと戦った時も感じたことがない、この高揚感。加護を得てから初めて出会う好敵手。虚空を裂き、世界を震わせ、白熱した思考で剣を振るった。
もはや、先ほど受けた内臓の痛みなんて、気にしてなかった。逆にファイドルと剣を打ち合う度に身体へ巡る痛みが、心地よくも感じられた。
互角。初めて互いの力量が完全に伯仲していた。
「ッッ!」
――伯仲していたら、どれほどよかったか。勝てない。俺はほぼ全ての剣技を使った。だが、一度としてファイドルの防御を、その鉄壁の防御を超えることはできていない。負ける。連日の悪夢で疲弊していたようで、戦いが長引くごとに動きが遅れていく。馬鹿にできない疲労感。だが、相対するファイドルは一度としてその涼しい顔を崩さずに、俺の剣技を正確に捌く。
あの時と一緒だ。闘技場でオリバーと戦った時。
あの時のオリバーと自分が重なる。
このままだと疲労で負ける。
だから、どこかで仕掛けなければいけない。
それなら、どのタイミングで?
「……ッ! スターダスト・レイン!」
「急いたな、小僧」
静かな言葉で我に返った。
しかし、もう遅い。例外を除き、発動してしまった剣技は途中で止めることはできない。
俺がスターダスト・レインを今まで使っていなかったのは、この剣技は扱いが難しいからだ。高威力ゆえに、隙が大きすぎる。特に発動後の硬直は一瞬とは呼べないような長さだ。だから、この剣技はこの剣技で勝たなければ絶対に負ける、つまり、勝つと確信している時にしか使えない。
なのに、俺は――
「せやあっ!」
スターダスト・レイン、最強の九連撃奥義。
迫りくる光の渦を前に、ファイドルは逃げずに正面から対処する。勇者の加護で得られし恩恵は彼に届かない。迎撃。叩き落され、滑り逸らされ。
そして。
九連撃目。
「……小僧、よい闘いだった」
最後の突きも掠らず。俺の身体がどうしても動かなくなるその瞬間に、ファイドルは間髪入れず、あの横蹴りを放つ。二度目になる古代流派体術、燕刈り。
弾き飛ばされる。放物線を描き、地面へしたたかに打ち付けられた。
「がッ!」
痛みに頭が真っ白に染まる。
一度目の蹴りの時、チェストプレートは落とした食器のように抵抗なく砕けた。だから俺はあれが何の衝撃も吸収しなかったと考えたが、あれは間違いだ。同じように蹴られたのに、衝撃が全く違う。
激痛。
痛い、痛い、痛い痛い、痛いいたいいたい痛いいたいいたい――!
身体が動かない。息が吸えない。声が出ない。指すら曲げられない。
内臓の損傷どころではない。肋骨が折れている。というより、強化された体術は岩を砕き鉄を断つというが、明らかに腹部に外傷ができている。深さはわからないが、流れ出る血の感覚からして深刻だろう。
痛みにのた打ち回ることも身体を動かせないのだから無理である。
気が付くと、倒れた俺の隣にファイドルが立っていた。
「本当によくやった、小僧。あと一年、いやあと半年もあれば、俺と互角に渡り合えたかもしれん。惜しい」
「…………」
何も言えない。
「本当は約束通りに魔王の居場所を教えてほしいところだが、俺もこんな戦場にいるとは思わん。…………しかし、小僧のような強者と戦えて、よかった。加護を持つというのは、孤独だからな」
血を失い過ぎたか、意識が遠ざかる。
血が流れ出るたびに僅かずつ身体が温度をなくし、痛みを感じなくなる。
俺に課せられた使命は時間稼ぎ。ファイドルと戦闘を始めて、それなりに時間は経過しているはずだ。そろそろエリアとアガサの準備が終わっていてもおかしくない。使命は果たした。だからもう、休もう。
遠ざかる意識に身を任せ、暗闇に落ちていく。
手前で、ファイドルの声が耳朶を震わす。
「――おい、小僧。敵の前で諦めるのか?」
諦める?
ああ、諦めるしかない。俺は満身創痍で、例え万全だったとしても勝てる相手ではない。俺の範疇を超えた相手だったのだ。だから諦めるのは当然で、仕方ない。これからはあの二人に任せるしかないだろう。とにかく眠いんだ。休ましてくれ。少し休んだら戻るからさ。
「俺は諦める奴が嫌いだ。……昔、俺の親友が根も葉もない疑いを掛けられた。奴は潔白だったが、全種族から責められた。あいつは疑いの視線に耐え切れず、自分の無実を証明することを諦め、そして自殺した。簡単にあいつは自分の人生を諦めた。俺は諦める奴が嫌いだ。……もう一度だけ問おう、小僧。敵の前で諦めるのか?」
知らない。
諦めて何が悪い。
俺が非力なのはわかっただろうよ。なのに、まだ何を俺に期待するんだ。
こっちは眠いんだ。さっきからうるさいな、とりあえず寝かしてくれ。
ああ、思考が纏まらない。何も考えられない。
「小僧には期待したんだがな、お前もあいつと同じで諦めるのか。……諦める奴が辿る末路は同じだ。ただ死、あるのみ」
視界の端で、屈強な男が大剣を振り上げるのが見えた。
何をしているのだろう。ああ、そうか。あの剣は、俺の首を断ち切るための剣だ。
その事実を認識した直後、右手が動いた。まるでその刃を止めるかのように、右手を掲げた。
しかし、その動作はやけにゆっくりで、ファイドルなら物ともせず、この首を跳ねるだろう。
視界が暗くなってきた。遂に、本当の限界が来たのだ。意識が深淵に飲み込まれていく。全てが、全てが暗闇に落ちていく。
――刹那、脳裏をひやりとした何かが横切った。
覚醒する。
まだ死ねない。何を諦めようとしている。
「――はッ!」
剣はいつのまにか取り落としていた。だが、剣がないなら身体が武器だ。
倒れ込んだ姿勢から両手を地につき、その屈伸運動で脚部からファイドルに向かって跳び上がる。
体術は俺もいくらか使える。使えるが、剣での戦いを得意とする俺は、好んで体術なんて使わなかっただけで。少しも使えないというわけではない。
両足がゆらりと彼岸花の如き可憐な燐光を纏って、しかし、蛇の如く凶悪にファイドルの首を両側から絡め込む。その衝撃のまま彼を地に押し倒し、足と身体と地面で固定。
「うおっ!」
古代流派体術、蛇固め。
使える状況からして、相手が完全に油断している瞬間しか使えないとかいう、最も扱いにくい体術である。だが、この一瞬だけでいい。俺にチャンスを。せめてエリアとアガサの準備が終わるまで、こいつをここで絶対に喰い止める。
とはいっても、ファイドルは素直に抵抗しないわけではない。
「くおお、おおおォォッ!」
迸る闘気。力任せに俺の束縛を解こうとしてくる。例え締め技が一度さえ決まれば攻撃者が圧倒的有利になるとしても、俺とファイドルは種族的な力量差に加えて、そもそもの体格が異なるのだ。その筋力だけで体術により発生した束縛力に抗おうとしている。
服上からでもわかるほど筋肉が膨張し、額には幾筋もの血管が露出し、力強い鼓動が響く。僅かな油断も許されない。少しでも気を抜いてしまえば、体術が強制終了し、ファイドルに振りほどかれてしまう。それは彼も同じだ。先ほどまでの余裕な表情はどこに消えたか。絶対に負けないと唸り声を上げる。
「――くおおおォッ!」
「――はあああァッ!」
互いの咆哮が戦場に渡る。
負けられない戦い。負けられない勝負。懸命の力比べ。気合と気合の勝負だ。ファイドルは魔王を助けるという目的のために、ひいては人族で格下である俺を相手に負けられない。周囲には地霊族の民が多く俺たちの闘いを見ているのだ。そんな前でむざむざと負けるなんて、族長としての矜持が許さないだろう。反対に俺だって負けてられない。ファイドルをここで相手取るのは、オリバーにアングリフに、そしてエリアに頼まれたのだ。俺はエリアの騎士だったクルーガと約束した。彼女の騎士を継ぐ、と。ならば、エリアに頼まれたことぐらいを達成できなければ、今は亡きクルーガに顔を合わせられない。
互いに互いの想いと想いをぶつけ合う。
「……っ!」
結果的に、その力比べに勝利したのはどちらでもなかった。
濃密な魔力の奔流が戦場を満たし、俺とファイドルの注意を引く。
視界が暗くなっていた。それは血を失い過ぎただけではなく、別の要因が絡んでいるからだ。
宙に浮かぶのは、怪しげな色して輝く巨大な魔法陣。
俺は無意識に笑っていた。
笑わずには、いられなかった。
「なっ、何が起こっている!? 教えろ、小僧!」
「教えなくても、これからわかるさ」
「何を!?」
「……すまないがこの勝負、俺たちの勝ちだ」
俺のかすれた声で弾かれるようにファイドルが見上げた瞬間、世界が闇に包まれた。
ここからは魔王の独壇場だ。




