5話 ビブリオトラベル
待て待て待て待て。
「…どういうこと?」
亀を足蹴にしている少年達を眺めながら、一人呟く。
浦島太郎の物語の分岐点と言えば、玉手箱を開ける/開けないくらいしか思いつかない。
「…いや、」
分岐点は幾らでもあった。亀を助ける/助けないとか、そもそも何もしないとか、それらは皆間違った方向へ進む選択肢だったけれど、もしかするとあの、竜宮城での三日間の後に、いくつか分岐があるかもしれない。まるでノベルゲームをやってる気分だ。
「おいお前達!亀を虐めるんじゃない!」
一旦はその場面まで行くしかない。だから僕は、亀を助け、亀と別れ、数日後に再開し、竜宮城まで連れて行ってもらった。
『そうして、浦島太郎は三日程、竜宮城で過ごしました。』
さて、ここからが問題だ。
竜宮城の前では乙姫と亀が待機している。ここでとれる選択肢と言えば、根本的に考えて、帰る/帰らないの二択だろう。もしくは玉手箱を受け取る/受け取らないの二択。これまで帰っていたけれど、帰らない選択肢は多分除外して考えて良い。なぜならあのガイドとやらが、黄泉戸喫に言及していたからだ。
異界のものを食べると帰られなくなってしまうよ、との助言がされたという事は、帰ることは正しい選択なのだろう。だとするなら、玉手箱を受け取らない選択を取るのが、今できる最善手だ。
「せめてこの、玉手箱をお受け取り下さい。」
「いえいえ、申し訳ないです。受け取れませんよ。」
心にもないことを言う。本当は帰りたいだけなのに。物語の世界に入るまでは、物語の世界に入ってみたいなとか思っていたけれど、入ってみたら入ってみたらで、強制的にナレーションが聞こえてシナリオに従わされる、黄泉戸喫で何を食べることも出来ない。帰る心配ばかりして、心から楽しめない。
乙姫は溜息を吐きながら、差し出した玉手箱を亀の甲羅の上に置いた。
「料理にも手を付けない、玉手箱も受け取らない。浦島太郎さん、あなたはとっても、疑い深いのですね。私の事が信じられないのですか?」
彼女は今にも消え入りそうな声で、目から雫を垂らしながら言う。流石の僕も、これには少し動揺してしまった。
「私はただ、あなたに感謝を伝えたいだけですのに、いったいどうしてですか?私が何か、気に障ることをしてしまったのでしょうか?私が全て悪いのでしょうか?いえ、そうですね。私がきっと悪いのですね。」
「え、いや、そんなことは…」
むしろ僕が、物語の登場人物としての役割を果たしていない方が問題だろう。物語の住民からしたら悪役だろう。
「私はいつからこんなにも醜くなってしまったのでしょう。こんな私では、誰も愛してくれません。誰も助けてくれません。誰も、私の声なんて、聞こえることが無いのです。叫びも、嘆きも、その全て、誰に届くことも無いのです。」
彼女は相変わらず悲嘆にくれている。僕は、どうにも掛ける言葉が見つからない。これは、誰が悪いというわけではないのだから。仲間の亀が助けられて、お礼をしたいと申し出てきた乙姫も、物語の世界から出ようと四苦八苦している僕も、相手の目線に立てばその善悪が変わるかもしれないけれど、少なくとも僕は誰も悪いとは思えない。
乙姫は、傍らに生えていた、鋭い珊瑚を手に取った。その瞬間、彼女が次に何をするのか、理解した僕は、彼女に向かって駆け出した。
「せめてその醜い私の命だけは、天に償わせてください。」
「待って!」
ぐさり。彼女は珊瑚を自分の胸に突き刺した。僕の伸ばした手は、彼女には届かなかった。
『こうして、乙姫は死んで、一人残された浦島太郎は、自分のしてしまったことを後悔し続けるのでした。』
そうして、浜辺。
いつも通り戻された。いつも通り砂浜に波は打ち付けていて、いつも通り少年達は亀を虐めている。僕は膝を付いて、釣竿をその手から落とした。
「いや、もう無理だ。」
試行の度に精神が削れていくような感覚。
「絶対でれねぇわ。」
積み重なった百年以上の記憶。
「諦めた。」
目の前で、自分が原因で発生した凄惨な死。
それは、十六歳の少年の精神には、間違いなく悪影響だった。
『マッタク、セワガヤケルナ。』
唐突に、その声が聞こえた。僕はキョロキョロと辺りを見回したけれど、声の主はいなかった。しかしちゃんと、頭にその声が届いている。
『イツマデカカルンダヨ。イイカゲン、クリアシテルコロダト、オモッタゾ。』
「なんだよ……誰だよお前……」
『ガイドニキマッテルダロ。ミチビクモノダ。オマエ、ロトウニ、マヨッテルミタイダカラナ。チョットダケ、ジョゲンヲシニキタ。』
『ジョウシキテキニ、イキルガヨシ。オマエハ、ウラシマジャナイ。』
声は、それで十分みたいに、僕がこの後呼びかけても全く反応を示さなくなった。
常識的に生きる。
それがどういう意味を孕んだ言葉なのか、一応、それなりには分かるけれど、でも、そんな単純な答えなんて、物語に転がっているとは思えない。創作は、非日常であるべきで、主人公は突飛な思考をする、現実世界に居たら間違いなく気狂いと言われてしまうような奴でないといけない。常識人が常識的な行動をするだけの物語に、いったい何の意味があるのか。
いや、意味が無い助言なんてするわけがない。だったら理由なんて考える必要性は投げ捨て、大人しくこの声に従うべきだ。
僕はまたいつも通り、亀を虐めている子供達を追い払った。
『数日後、浦島太郎はいつも通り、釣りをしていました。』
「浦島太郎さん、お久しぶりです。先日は助けていただきありがとうございました。このことを姫様に報告したら、ぜひ直接会ってお礼を言いたいと。ですので、よろしければ、竜宮城へお連れします。」
常識的。常識的に生きるという事は、それはきっと、この物語の常識じゃないんだろう。だって、それではただの浦島太郎だから。あの声が言っていた常識的というのはつまり、僕の常識、現代社会の常識で生きるという事なのだろう。
だったら―――
「いやいやそんな、お礼なんて大丈夫ですよ。」
こうやって、亀の誘いに乗らないことが正解だ。まず現代社会では亀は喋らない。海の底へは何の装備も無しに行けない。竜宮城なんて、存在しない。黄泉戸喫があるのなら、そもそもその場に行かないのが単純明快な答えである。
僕は釣り具を持ち、亀に背を向けて、そのまま歩き出した。
『それからしばらくして、浦島太郎の家に来客がありました。』
コンコン、という音と共に、意識が宿る感覚がした。きっと今回が正解なんだろう。僕はただ、ほとんど無意識のままに扉へと向かって、そして開けた。
そこに居たのは、とても容姿の整った男だった。
「どなたですか?」
「ええ、私は先日あなたに助けていただいた亀ですよ。」
と、聞き覚えのあるダンディな声で彼は言った。確かに、これは亀のようだ。着物を着て、腰には刀の様なものを下げているから、侍かと思ったが。
亀は、扉の向こうで何かを持ち上げて、こちらに差し出した。それは、大きな箱だった。
「故郷の竜宮城からお宝を持ってきました。これはほんのお礼です。」
その台詞と同時に、箱が開く。中には、金色に光を反射する見るからに高そうな腕輪とか王冠とかが入っていた。
「ああ、少し、喉が渇きましてね。水をくれませんか?」
「もちろんだとも。」
言って、井戸から汲んで来た水を湯呑に入れて差し出した。
亀は湯呑を手に取った。
こうして―――
『こうして浦島太郎と亀は、共に良き友人として、末永く関係を続けたのでした。』
『めでたしめでたし。』
×××
がばり、と顔を上げた衝撃で、机に脚を打った。僕は辺りを見回した。目の前には呆れた顔の兎昇がいて、横にはこちらを顰め面でちらりと見る男子学生がいた。つまり、浦島太郎の世界から図書館へ戻って来たという事だ。いや、そもそも永い永い夢だったのかもしれない。
涎が出ていたので口を制服の袖で拭って、体を伸ばした。
「兎昇、僕はどれだけ寝てたのかな。」
「数えているわけないでしょ。」
溜息を吐きながら、彼女は左腕に付けた腕時計をちらりと確認した。
「十五分くらい?」
「……へえ。僕としては、何百年にも感じられたよ。」
「…馬鹿な譫言なんて言ってないで、さっさと勉強の続き、しなさいよ。」
「……はいはい。」
眼をこすり、もう一度伸びをして、机の上に投げ出されたままになっているシャープペンを手に取った。テストまでもう残り時間が無い。
×××
木村洋一の去ったあの空間で、ぽつり孤立した書見台は、文字を刻み始めた。
『ハジメハ、コノテイドデイイ。』
それは誰の元へも届かない、ただの独り言。あるいは、これこそ譫言なのかもしれない。
『サア、キムラクン、ミセテモラオウ。キミノリョコウキ、いや、ビブリオトラベルヲ。』
その文字はしばらくして消えて、書見台にはまた、最初の頃と同じ文字が刻まれた。
『ココニ、アナタノスキナモノガタリヲ、オキナサイ。スレバ、ビブリオトラベルヘ、イザナイマショウ。』