3話 アンチ・ロールプレイング
あの浜から竜宮城までは本当に一瞬だった。海の中に入って、少しの息苦しさも感じることなく、色鮮やかな魚と海藻に目を奪われていたら、すぐにそれらしい場所についた。
竜宮城は、沖縄の首里城の様な建築物で、しかし建物の正面にでかでかと「竜宮城」なんて書かれているものだから、造った人のセンスが少し心配になった。
竜宮城の前で亀から降ろされると、城の中から紫色の着物と、上から天女の羽衣を掛けた、見目麗しい女性が出てきた。まあ、見目麗しいなんて言っても、昔の日本での見目麗しいだから、まあ、見返り美人図みたいな顔を想像しておけばそれで間違いは無い。
「あなたがイヤ太郎さんですね。」
イヤ太郎って誰だよ。間違って伝わってんじゃねぇか。
「……いや、浦島太郎ですね。」
「そうでしたか、これは失礼を。私、乙姫と申します。この度は亀を助けていただいて、誠にありがとうございます。」
乙姫は僕に向かって深く頭を下げた。そして、竜宮城の中へ案内された。
「ここが一番広い部屋となっています。」
旅館の宴会場の様な部屋だった。床は畳で、壁は襖、奥には芸をするための舞台がある。舞台の両袖には丁寧に育てられたのだろう、松の盆栽が置かれている。海中に松があるのに違和感を覚えるけれど、今更そんなツッコミで揚げ足を取るつもりは無い。そもそもどうして僕は息が出来てるんだ、という話になって終わらなくなる。そもそもどうして亀が喋るんだよ。ほら、こんなふうに。
また思考の中にいると、乙姫がそのしなやかな手をパンと叩いた。すると、舞台袖からエビやらウツボやらヒトデやらが、楽器を持って現れ、そして一斉に演奏を始めた。どこかで聞いたことがあるような、地元の祭りで良く流れている曲の様な、あるいは正月番組のオープニングのあの音みたいな、とにかく古風な曲だ。
また、襖が開いて、エビやらヒトデやらクマノミやらが、お盆に乗った料理を運んできた。
僕はいつの間に用意されていた席に腰かけ、その料理達を見た。米と味噌汁までは分かるが、伊勢海老の生け作りとか、鰤の煮物とか、あん肝とか、魚介ばかりが食卓に並んでいるのは少し怖い。この料理を運んでくるとき、あのエビはどんな気持ちだったんだ。自分の仲間が生きたままひん剥かれているんだぞ。エビの方を見たけれど、あの顔は何も思っていない顔だ。というか全員、特に何も思っていないみたいだった。動物の顔からでも、感情や少しの思考くらい読み取れる。
「さ、お召し上がりください。」
隣に座った乙姫がこちらに微笑みかけた。可愛いとかそんな感情は湧かない。悪口にならない様にすると、雅だと思う。とても雅だ。
ところでこんな話を聞いたことがある。黄泉戸喫と言って、黄泉の食べ物を食べるとその世界から帰れなくなる、という話。ここは一応黄泉ではないわけなのだけど、人間からしたら未知の存在に違いは無い。そもそもここは現実ではなく本の世界、最悪の場合、この中から帰られなくなる。食べないに越したことはきっとないだろう。
運ばれた料理に一切手を付けない僕を見て、乙姫は、しかし、少しも不満そうな顔を見せなかった。
「お食べにならないのですか?警戒心がお強いようですね。」
乙姫はお盆を運んできた家来達を一瞥した。見ただけだったのに、それで指示を理解したらしく、彼らは僕の前のお盆を下げてしまった。
「私はただ、お礼を言いたかっただけなのです。浦島さんの嫌がることは、決して強制致しません。」
彼女はそれだけ言って、僕の横から立ち上がった。そしてまた微笑みかける。
「しばらくここでゆっくりしていってください。」
彼女はそれだけ言って、宴会場の襖から出て行ってしまった。僕は、ただその場に座ったまま、魚達の演奏をぼんやりと眺めるだけだった。
『そうして、浦島太郎は三日程、竜宮城で過ごしました。』
「だから何なんだこのナレーションは…」
唐突に頭に響いてくる声に文句を漏らすと、僕の周囲にいた魚達が一斉に動揺する。
「ああ、違う。特に意味は無い独り言みたいなものだからさ。」
急いで誤魔化したけ。あの声の言う通り、確かに三日間過ごした記憶がある。具体的に何をしたのかは、また覚えていない。本の中の世界特有の事なのか。
困惑している最中の僕に、一匹のカクレクマノミが話しかけてきた。
「あの、浦島太郎さん、子供は見なかったか?人間に捕まったんだ。どこに行ったか見当が付いたりしないか?」
「シドニー、ワラビー通り42のP・シャーマンってやつが何か知ってるかもしれないな。」
なんて話している場合じゃない。そろそろ帰らないと。思い、立ち上がると、クマノミが僕の顔の前に迫って来た。
「ちょっと待って!なんだそのシド……なんとかってやつは!」
「お友達のナンヨウハギに覚えてもらいな。多分、覚えてると思うから。」
「あたし覚えてる!シドニー、ワラビー通り42、P・シャーマン!」
と、足元のナンヨウハギが言ったのを見て、僕は歩き始めた。目指すべきはシドニー…じゃなくて、出口だ。
竜宮城から出てくると、まるで僕の動きを把握していたみたいに、乙姫と亀が待機していた。乙姫の腕に抱かれている黒い箱は、まあ間違いなくアレだろう。
「私はあなたが地上に帰るのを止めません。料理も満足していただけませんでした。せめて、この玉手箱だけでも受け取っていただけないでしょうか?」
玉手箱、開くと老化してしまう箱。こんなものをお礼に渡すなんて、世も末である。
「これは、中に何が入っているんだ?」
「中には、■■■■が入っています。しかし、絶対に、開けてはいけませんよ。」
「…え、何が入ってるって?」
「■■■■です。」
聞き取れない。まあ、なんとなく分かっていたけれど。
いくら浦島太郎の世界と言っても、あの書見台に置いたのは絵本であって、原本ではない。本物の浦島太郎の物語でないのだから、玉手箱の中身が明かされなくても仕方ない。この行為は限りなく低い可能性で得しようとしていた、所謂海老で鯛を釣るようなものなので、それが出来なくても一々意気消沈はしない。
玉手箱を受け取り、また亀の背に跨った。
「では、浦島太郎さん、地上でもお元気で。」
「乙姫さん、ありがとうございました。」
特にお世話になった記憶は無いけれど、自然と言葉が口を滑り出た。
そうして、僕は亀の背に乗って、あの浜辺に帰された。
「では浦島太郎さん、お元気で。」
亀は言って、何とかヒレをバタつかせて、方向転換は出来た。しかし相変わらず、海へ戻るのが遅い。
「……手伝おうか?」
「ああ、ありがとうございます。」
また亀の体を持ち上げて、海の中に帰してやった。そうして浜辺に一人になった。手には豪華な箱が一つ。
さて、ここで浦島太郎は村に帰って、そこで変わり果てた姿を目にして、自分がとても長い時間竜宮城に居たという事を理解するのだけど、僕にはそれが瞬時に理解できた。
海岸沿いを、軽自動車が通っていたからだ。
「…やっぱり浦島太郎なんだな。」
という事は、この箱を開けたら老化してしまうのだろう。だがしかし、こうして一つの物語を終わらせてやれば、きっとこの物語の世界から出ることが出来る。楽しむとかそういう事は全くしなかったけれど、まあ、勉強の気分転換くらいにはなっただろう。それにしては体感時間が長すぎるが。
ふう、と一息吐いて、覚悟を決めた僕は、いざ玉手箱を開いた。すると、箱の中から白い煙がぶわっと出てきて、たちまち体がそれに包まれる。
やがて煙が晴れたとき、僕の視界に細くなった腕と、顎から垂れ下がった白いひげが目に入った。ちゃんと、物語通りの展開を歩むことが出来たらしい。
『乙姫との約束を破ってしまった浦島太郎は、よぼよぼのお爺さんになってしまったとさ。』
「………あれ。」
気付くと、僕は砂浜に立っていた。玉手箱は無くなっているし、腕は細くないしひげも生えていない。視界には、太陽の光を乱反射する水面と、亀をいじめている子供達がいた。
まるで、物語の最初の場面に戻されたようだった。
『アア、イイワスレテイタコトガ、アッタ。』
と、僕としては久しぶりな、ガイドの声が頭に響く。
『モノガタリノ、ケツマツヲカエナケレバ、コノセカイカラハ、デラレナイヨ。』
それはきっと、最初に言うべきことだっただろう。