1話 トリップ・イン・ストーリーランド
カリカリカリカリ、そんな音と、ぺらり、ぺらり、という音しかこの空間には響いていない。僕と彼女が立てている音はその両方で、つまり、片手で参考書をめくりながら、もう片方の手でノートをまとめたり、問題集を解いていたりするのだ。
同じ机にいる他の学生たちも、僕達と同様にただ無心、あるいは一心不乱に、ペンを走らせている。市立図書館なのに、本を読んでいる者より勉強している者の方が多いなんて、あるいはこれが若者の活字離れなのかもな、なんて思ってみる。
来宮市立図書館の読書スペースには、大きな机が四台、それぞれに六脚の椅子が置かれ、十六時の段階でその半分は埋まってしまっており、そしてそこに座る全員が学生、勉強中である。これでは読書スペースというより勉強スペースだ。しかしそれを図書館側も容認しているので、別に悪いことなんかではないのである。
「木村。集中、途切れてる。」
「………はいはい。」
彼女は僕の事なんかちらりとも見ていないのに、そんなことを言う。確かに集中は途切れていたけれど。
兎昇雨季子は幼稚園から高校までずっと一緒に育ってきた、所謂幼馴染である。陶器ほどではないけれど、触れば汚れてしまうあの白い建物くらいの肌をしていて、手すら触ったことが無い。別にあの壁のように、汚くなるから触らないというわけではなくて、男子が女子に触ることなんて、小学生の、出席番号で組まれるペアが、偶々女子だった時のみ。移動するときに、強制的に手を繋がされて歩かされるあの頃が、僕はとっても嫌だった。
兎昇は鼻にかけた黒縁眼鏡をくいと上げて、目の前に垂れ下がる、顔の横の長い黒髪を耳に掛ける。彼女の所作にはところどころ、育ちの良さが垣間見える。ペンの持ち方は正しいし、姿勢も背筋がピンと立ってて、体と机との距離がちゃんと拳一個分なのだ。ローマの彫刻みたいな美しさが、そこにはある。
「木村。また、集中途切れてる。」
「……なんだかな。」
僕はふう、と溜息を吐いて、立ち上がった。彼女は依然として、手元の参考書とノートに目を落としている。
「どこ行くの?トイレ?」
「ちょっと休憩。気分転換に図書館を探索してくる。」
勉強道具を机に広げたままにして、ふらふらと本棚の間に歩いていく僕に、兎昇は目もくれず、ただ呆れたように、口から乾いた息を漏らした。
図書館特有の匂いが好きだ。エレベーターの中のあの匂いも好きだ。でも街中を歩く人が付けている香水の匂いはすごく嫌い、そんな人間が僕である。
本の匂いを嗅ぎながら、目に付くタイトルのものを本棚から取り出して、一ページ目だけ読む。書き出しで大抵、その作家の作家性というものは把握できるので、自分の好みでないものは、すぐに棚の中へ戻す。
一ページだけ読む、棚に戻す。一ページだけ読む、棚に戻す。一ページだけ読む、タイトルをスマホにメモする、棚に戻す。メモをするのは、テストが終わった後に迫る夏休みで、読みたい本の目星をつけるためである。そんな作業をあても無く続けていたら、いつの間にか自分のいる場所が分からなくなった。
「……あれ、何処から来たんだっけ。」
僕はかなりの方向音痴で、まっすぐ進んでいるつもりでも、いつの間にか明後日の方向に進んでしまっているような奴なのだ。しかし、そんな僕でも今いる位置のおかしさには気付く。
普段等間隔で、まっすぐ並べてある本棚が、床に散らばったシャープペンシルの芯みたいにとっ散らかっている。斜めに床に突き刺さるように立っているものもあれば、奇跡的なバランスで三台が積み上がっているものもある。横向きに倒されて重ねられて、まるで本のような本棚もある。ふと床を見ると、木のタイルの配列も、なんだかぐちゃぐちゃになっている。
これじゃあ迷っても仕方ないな、なんて思うけど、いやそれ以前に異常事態だろう。市の図書館にこんな雑多に散らされたところがあるなんて知らなかった。というか絶対、あるわけない。
ぐい、と自分の頬をつねってみた。痛い。でもこれは夢ではないという根拠たり得ない。僕が普段いる世界すら、誰かの夢の中かもしれない、なんて仮説があるくらいなのだから。
とりあえず引き返すために振り返ると、僕の元来た道は、いつの間にか本棚によって塞がれていた。おかしい、そう思って左を見る、右を見る。どちらの方向も、僕を囲い込むように本棚が立っている。
なんなんだ、と思いつつぐるりと周囲を見ると、一ヶ所だけ、塞がれていない通路の様なところがあった。こうなったらきっとここからしか抜けられないだろう、と僕は、その通路を進むことにした。
通路を抜けると、先程と同じように本棚によって塞がれた空間に出た。見上げた天井の窓からは太陽の光が差し込んでいるけれど、そこまで登る勇気は流石に無い。うん、完全に閉じ込められた。
うなだれながら天井から視点を下ろす。そんな僕の視界に、なんだか台座の様なものが入った。
「……なんだこれ…書見台?」
マイン〇ラフトでしか確認したことが無い存在、だけれどなんとなくそれっぽいと思う。本を読むために作られたデザインをしている。でもわざわざ立って、書見台を使って本を読むかと問われたら、間違いなく「いいえ」と答えるだろうな。
しかしこの空間にぽつりと置かれていることが異常である。ファンタジーとかゲームとかなら、こういう意味深なオブジェクトが何かしら鍵になっているはずなので、僕はそれに近づいた。
すると、書見台の本を置く部分に、カタカナで文字が彫られていた。
『ココニ、アナタノ、スキナモノガタリヲ、オキナサイ。スレバ、ビブリオトラベルヘ、イザナイマショウ。』
読みにくい。でも内容は理解できた。
「ビブリオトラベル……まあ、なんとなく何が起こるかは分かるけどな…」
きっと本の世界に入るという事だろう。実際に入れるかどうかはさておきだけど。でももし本当なら、それはかなり興味深い。テスト期間で溜まった疲れを発散するのにちょうどいい。
僕は周囲の本棚を観察した。純文学、ファンタジー、児童書、ミステリー、等々、ジャンルによって、入っている棚が違うようだ。僕は何を思ったか、児童書の棚から『浦島太郎』を取り出してみた。そして、そのまま書見台にそれを置いた。
「………まあ、知ってたけどさ。」
少し待ってみても、何も起こらない。そもそも本の中の世界に入るなんてこと、出来るはずがないのだ。でもしかし、何かが起こりそうな予感がしていたからこそ、なんだか残念だ。
振り向いて、先程の空間に戻ろうと歩み始めた。そんな僕の耳に、背後から、何かが削れるような音がした。踵を返して、置かれている浦島太郎をどかし、書見台の上を見た。すると、なんと書かれている文字が変わっている。
『エ?ショケンダイノツカイカタ、シラナイ?ショケンダイダケニ、ショケンダッタノ?』
「おいおい、随分煽りのレベルがたけぇな。」
呟きながら、再び僕は浦島太郎を文字の上に置いた。
「知ってるさ、こうして台の上に置いて、開いて読むんだろ?」
と、表紙をめくった次の瞬間、周囲の本棚が一斉に、外側に倒れた。まるですべてが張りぼてだったかのように、薄っぺらな本棚の壁は、砂の中に埋もれていった。………砂?
そう、辺りを見回すと、そこは砂浜で、波の打ち寄せる海岸線だった。ざざん、ざざんと、太陽光の光を反射する海が、砂の色を変えている。
「え、あ、あれ!?砂浜!?」
咄嗟に自分の服装を見る。手には細長い竹と、それに吊るされた白い糸、つまり釣竿が握られていて、腰には、吊った魚を入れるためだろう、壺が付けられている。服装は、上半身は青い着物のようで、下半身は藁で作られた短い腰蓑である。これらすべてを確認して、そして目の前に広がる光景を統括して、一つの結論が出た。
「本当に本の中に入るなんて……」
僕はただただ開いた口がふさがらないまま、亀をいじめる子供たちの方を眺めていた。