はじめまして、こんにちは。私の前世(キズ)
「ああ、お嬢様!」
その声にぼんやりとした意識が引き戻された。
——お嬢様?
「ウルリケ! ああ、良かった」
誰かに強く抱きしめられて周囲を見渡す。
少しずつ少しずつ自分自身の中に記憶が浸透していくのが解った。
——そうだ、私はウルリケ。それなのにたった今、死んだかのような記憶がある。
ウルリケ、と自分自身の名前を反芻しながら複雑に絡まった縄のような記憶を辿っていく。
——あれは前世なのか?
脳裏に鮮明に、そして生々しく昨日まで生きていた女の記憶が蔓延る。
それはまるで一人称視点の演劇のようで、違和感を感じながら抱きしめてきた人を見つめた。
「……ダッド、痛い」
「ああ、ごめんごめん」
くしゃくしゃのやつれた顔いっぱいに心配した、と表現する父をじっと見つめる。
オレンジ色の蓬髪が普段よりもくしゃくしゃで、キラキラと輝いていた薄桃色の瞳は涙が滲んでくすんでいた。
——ダッド、ダッド……。
呼び慣れていた筈なのになんだか口がくすぐったくて、唇を撫でる。
「私の事は解りますか」
「侍医のシュタイン」
侯爵家お抱えの女医に手を握られ、ウルリケは首を傾げる。どうしてこんなに心配されているのか思い至らなかった。
「あなたのお名前は?」
「ウルリケ。ウルリケ・クレシェンド・ティファ・ビナー」
その名前を口にして、一筋の雷が落ちたかのように頭のモヤとなっていた記憶が晴れた。そうして不自然な——否、不可解な一致に気付く。
——前世、なのだと思おう。神様も全ての魂には繋がりがあると言っていた。この脳に浮かぶ記憶が私の前世なら、この私自身を描いた物語が前世の世界にはあった。私以外にダッドも兄様も……。
呆然としていると父に頬を撫でられて、銀の縁取りと貝殻の装飾が付いた陶器のコップを差し出された。
「水だけど飲めるかい?」
こくりと頷いて手に取って口にすれば冷たい水が喉を潤す。そのお陰でより一層夢ではないのだと実感出来た。
ウルリケは父とシュタインを交互に見つめて、コップを父に返す。
「何があった?」
「第一王子殿下の剣術の稽古を見に行った際に木剣がお嬢様の額に飛んできてしまい、二週間程寝込まれていたんですよ」
そう言われて途切れる前の最後の記憶を辿る。
確かにダメだと言われていたにも関わらず、勝手に飛び出して鍛錬場まで行ったのを覚えていた。
「ごめんなさい」
「良いんだよ。私もウルリケの傍を離れてごめんね」
「でもダッドはお仕事だっただろ」
「それでも一緒に連れて行くべきだった」
ウルリケは父から視線を外し、ゆっくりと周囲を見渡した。
——記憶なのか何かがぐちゃぐちゃになって、気持ち悪い。
「ウルリケ?」
「ひとりになりたい」
「解った。何かあったらデリアとズザナを呼ぶんだよ」
後ろで控えていた双子の侍女を見つめて頷く。そうしてウルリケを残して寝室から誰もいなくなり、大きく息を吐きだしてサイドテーブルに置いてある鏡を見つめた。
母譲りの深海のような青い髪と緑の瞳を手でなぞる。
「ああ、やっぱり見たことある」
一人称視点の演劇のような記憶を一つ一つ手繰り寄せていく。
「私はあっちで十九歳だった。感情は未だ判らないけど」
ゆっくりと自分自身を組み立てようとするが頭に激痛が走り、名前も容姿も思い出せなかった。
仕方がないのでウルリケは忘れられないくらい頭に張り付く物語を整理していく。
「あっちではこの世界は少女漫画の中だった。あの人は産んだ人。でも記憶では一度もお母さんって呼んでないから、違うのかな」
彼女が狂うくらいに愛していた少女漫画の登場人物がウルリケだった。
何度もその話をされ、アニメ化してからは毎日そのアニメが一日中家で流れていたこと、彼女がその物語の主人公になりきって遊んだり、衣装を作るのを手伝う為に資料集を読み込まされたことを一つ一つ思い出していく。
「確か題名が愛さえあれば怖くない! というやつだったか」
平民生まれの主人公が聖女と判定されて、男爵家に引き取られたところから始まる恋愛物だった。
その後主人公は直ぐ王国学院に入学し、第一王子と仲を深めていきながら当て馬が出てきたり、ちょっとしたハプニングが起きたり……そして必ず二人の恋路の邪魔をするのは第一王子の婚約者、ウルリケ・クレシェンド・ティファ・ビナー。詰まり自分自身だった。第一章は学院での生活とウルリケを処刑して大団円、そして第二章に移行していく。
そこまで引っ張り出して大きく溜息を吐いた。
「馬鹿げているな。私が悪役令嬢か……」
ウルリケは約七年の記憶——といっても全て憶えているわけではないが生活して沁みついている間隔を思い起こす。
——でもそう考えると私はとてもワガママだったんだな。
あれを買いたい。これは気分じゃないから食べたくない。この人嫌いだからいらない。飽きたからこれを捨てて。今すぐやって、一秒たりとも待ちたくない。そういうことをして良くて、そういうワガママや癇癪が簡単に許された。
前世から考えれば特別、それも異常なぐらいにおかしいことだと気付く。
ウルリケは両腕の距離しか世界を知らなくて、知る気もなくて、父はそれを咎めることはせず、そして周りもその世界を広げることをしなかった。それが当たり前だった。
それは無知でいることに意味があって、何処にも行かせず手元に置いておくための愛だった。
世界に羽ばたかせないための愛だった。
七年生きただけの小さな脳みそでは解らなかっただろう。
「私がずっと家に居られるように、家が一番居心地が良いのだと思って外に出て行かないようにするために」
ウルリケは父と肖像画でしか見たことのない母の顔を思い浮かべた。
——私が産まれた時に母は亡くなってしまって、私は母にとても良く似ているってデリアとズザナが言ってたな。
長い黒髪と猫耳とふわふわの尻尾が生えたデリアと、長い白髪と猫耳とふわふわの尻尾が生えたズザナは毛色だけしか違いがないくらいに良く似た双子で、母の侍女長だった。
今ではウルリケの侍女長を努めてくれており、勉強を嫌がるウルリケに時々少しずつ家庭教師をしてくれている。
「そういえば前世では人間以外の種族もいないし、魔法もなかったんだよな」
当たり前のように根付いている感覚、常識の違いは少し不思議で、けれども違和感はなく受け入れることは出来た。
——それは多分私があっちで生きていたからなんだろうな。
感情の共有を出来てはいないがハッキリとアレは自分だったのだと、ウルリケの胸を叩く。
「きっと心を受け入れてしまえば、私は耐えられないだろうしな」
甘やかされて生きてきた。
苦痛を知らず、他人を慮ることもしなかった。
記憶だけでも吐き気を催すような前世の感情まで呑んでしまえば、ウルリケは崩れてしまうだろう。何となく察していた。
「でも私の中に十九年分の重みがあるからか、今迄だったらわめいて騒いでいたのに気持ちが落ち着いている」
些細なことでもウルリケは癇癪を起した。どんなに小さなことでも納得出来なかったら、暴れていた。
ウルリケのその感覚がまるで毒でも抜かれたかのように、すっと軽くなっている。
何故だろうか、思い起こして何度も瞬きをする。そうする度に浮かぶ情景がパズルのように一つ一つ組み合わさっていく。
——ああ、そうか。前世の私はそうしたことが一度もなかったんだ。だから妙に満足しているんだ。だから気持ちが軽いんだ。
我慢して生きていた記憶が丁度良いところに収まってくれたのだろう。ウルリケは頷いてベットに横になる。
「ご都合主義のハッピーエンドがある世界か……」
前世の自分がこの世界を良くそう言っていた。ウルリケはそれを反芻しながら額に手を置く。
——確かにそうかもな。兄様も、ダッドもあんな私を無条件に溺愛していた。怖いくらいに。
父に良く似ているが瞳だけは母に似た五つ年上のランハートと、父の模造かと思えるくらいに良く似ている二つ年上のコニーのことを思い出して、体を起こす。
「いった……」
ずきりと頭が痛み、思わず蹲る。
「そっか。確か木剣が飛んできてたと言っていたな」
シュタインの言葉を思い出して、ウルリケは枕を壁に投げつけたくなるような苛立ちを深呼吸してやり過ごす。
——落ち着こう。私の行動はいけないことなんだから。
コンコン
静かなノックにウルリケは首を傾げる。
「ちょっとだけ顔を見たくて、入っても良いかい?」
軽やかだがやや少し低いその声に目を輝かせた。
「ランハート兄様!」
ウルリケは慌てて寝室から出て、廊下に繋がる扉がある部屋に向かう。
少し重い扉を開ければ、向日葵のような笑みを浮かべたコニーに抱きしめられそうになる——が既の所でランハートに首根っこを掴まれ阻止されていた。
「コニー! 起きたばっかりなんだから無理させちゃいけないよ」
「別に良いだろぉ」
コニーを引っぺがして床にほかしたランハートに軽々と抱き上げられ、ソファまで移送される。いつものことだったが頭二つ分の身長差が今日は妙に新鮮だった。
それからウルリケは外の太陽を見つめて、何となく時間を推察した。
——多分、お昼を過ぎてから二時間とか三時間くらいかな。
「今日は二人ともお休みの日?」
王国学院に通う二人は休みの日ではない限り、この時間は家にいることはなかった。
ウルリケはソファに体を沈ませて、隣にあったクッションを抱き寄せる。
「ウルリケが目を覚ましたって聞いたから少し早く帰らせてもらったんだ。コニーは置いて行こうかと思ったんだけど……後が大変だから仕方なくね」
「酷ぇ」
不満気なコニーを気にせず、二人の目を交互に見つめる。
仲の良い二人の兄。一番に妹を気に掛けてきて、何でもしてくれた。
——でも二人とも私の所為で全てを失う。
漫画の中の結末が脳裏に浮かび、慌ててそれを振り払う。
それが必ず起こる未来だと思いたくなかった。目を向けたくなかった。
「ごめんなさい」
咄嗟に出た言葉にコニーもランハートも息を呑んで不安そうに首を傾げる。
「な、何で謝るんだよ」
「ワガママだったなって」
「んー、ウルリケはワガママでも良いと思うよ。我が家は地盤も固いし、君のワガママだけじゃ傾かないから」
にこりと微笑むランハートに頭を撫でられて、ウルリケは両手を握りしめる。
「私、反省した。ワガママだったから痛い思いしたし、心配させちゃった」
「そうだねぇ。父さんは今頃溜めていた仕事に追われているだろうし、僕も残念ながらテストの対策が出来ていない」
「おい」
「でも、ウルリケ。それは皆がウルリケを大切にしているからだよ。ワガママを言わないのが正解じゃない。それに君は未だ七歳だ、何でもして良いんだよ」
そう言われてしまうと甘えたくなる、とウルリケは更に強く手を握り締める。
——でも私の行動はいけないことだった。ワガママじゃ、ダメなんだ。
「あ、そうだ。なぁ……ウルリケ。適性儀式に出られるか?」
「適性儀式」
「そうそう。ウルリケの魔力がどの属性と相性が良いか調べるんだよ。毎年やっているだろう?」
——そうだ。その年に八歳になる貴族の子はみんなオクトに適性儀式を受けて、本格的な魔法の勉強を始めるんだった。
魔力があるのは貴族だけ、そしてそれ故に平民は魔法を学ぶことも出来ない。
ウルリケの脳裏に浮かんできた資料集の一文に思わず俯く。
「いつ……」
「一週間後、もし未だ体調が悪いなら来年にしようか」
「行く」
「なら新しいドレスを——」
「コニー、一度部屋を出よう。ウルリケ、デリアとズザナを呼ぶからもう寝なさい」
頭を撫でてランハートはコニーを引きずって出ていく。
——そんなにひどい顔、してたかな。
「まぁまぁまぁ、今日はもうベッドに戻った方が良いわね」
「暖かいハーブティーとお水ならどちらが良いかしら?」
兄達と入れ違いで入ってきたデリアとズザナの顔を見て、ウルリケはひゅっと息を呑む。
——私の罪を庇って最初に二人が処刑されるところから私の断罪が始まった。その綺麗な髪が……。
「う……あ……」
走馬灯のように漫画やアニメのシーンが鮮明に浮かぶ。目を背けようとしていたものが現実味を帯びて襲い掛かってきた。
ずっと一緒に傍に居てくれた父やデリアとズザナが残酷に凄惨に死んでいく姿が瞼の裏に焼き付いていく。
興味がなかった。自分の行動がどういう結果をもたらすのか知る気もなかった。
——私が変わらなきゃ、みんないなくなっちゃうんだ。
言いようのない恐怖と悍ましさにウルリケは声を上げて泣いた。
泣き止みたくても溢れてこぼれて、赤子のように喚く。
「大丈夫よ」
「隣にいるわ」
二人に抱きしめられて唇を噛む。
目を閉じたくなくても、涙で瞼が重くなっていった。




